過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

Profile

September30

Author:September30

Visitors Counter

Search form

焼き芋


B070802rau3-blog.jpg

Painting by Jack Rau



このところブログ仲間のサイトへの訪問をつい怠けてしまって、2週間ぶりであちこち開いてみた。
その中で、新潟の山奥に引っ越して美しい奥方と二人で仙人仙女のようなクールな生活を営むあの川越さんのブログを見ていたら、自分の畑から採れるサツマイモをストーブで焼き芋にしたという記事があった。

焼き芋かあ。懐かしい…
昔東京に住んでいた頃は、屋台を引いて売りに来るホカホカの石焼き芋を時々食べたことなどを思い出していたが、最後に食べたのはいつだろう? アメリカに来てから食べたことなんて無いんじゃないか、と考えてみたら、そうでもない。 最近でもレストランでたまに食べていたことに気がつく。
つまり、昔からレストランでステーキを食べると定番でそれについてくるのが馬鹿でかい皮付きのジャガイモの丸焼きで、それをナイフで切った中にバターをたっぷりと入れて塩を降って食べるのがアメリカなんだけど、いつの頃からかサツマイモが姿を現すようになって、料理を注文する時にウェイトレスが、どちらにするかと訊いてくる。 僕は必ずと言っていいほどサツマイモの方を選ぶ。 あの新鮮な赤い色はジャガイモの無粋な無色とは段違いに美しいし、そのまま何も付けないで食べても口の中でとろけるように甘くて美味しい。 それにたぶん、日本で食べた焼き芋のへの郷愁のようなものが無意識のうちに湧いているにちがいなかった。 


焼き芋のことを考えていてふっと思い出したことがある。
あれは小学校の2年生か3年生の時だった。
学校の学芸会で劇をやった。 それは農家に住む子供の兄弟の話で、もう筋もはっきりとは覚えていないが、その兄の少年の役を僕がやらされた。 なんでも兄弟喧嘩をしてこっぴどく弟をやっつけた結果、その弟が外に飛び出したまま長い時間戻って来ない。 夕方になってあたりがそろそろ暗くなるのに家に帰って来ない。 心配になった兄が近所をあれこれと探しに行くと、森の中の岩陰で膝を抱えてむくれている弟を見つける。 兄はその日母親がおやつにと作ってくれたふかし芋を包にして持っていて、腹が減っただろうとその包を差し出すと、それを見た弟は 「なんだ、ふかし芋か」 と昼間の怒りがまだ残っている声で言うとそっぽを向いたが、そのうち空腹には勝てずそっと手を伸ばして芋を食べ始める。 そのうちに少しづつ機嫌が直ってきた弟と黙って肩を並べて帰路につくところで幕。 というような筋であったように思う。

ところが劇の進行中に予期しないことが起こった。
「なんだ、ふかし芋か」 という台詞を言うはずの弟が
「なんだ、焼き芋か」 と言ったのである。
それを聞いた僕は急に可笑しくなってしまいそのあとに続く 「いいから食べろ」 という台詞がどうしても出てこない。 言おうとするとククククククと胸の中に笑いが沸き起こり、あげくの果てに声に出して笑ってしまった。 自分の失敗に気づいた弟もプッと吹き出したあとはもうだめで、二人してゲラゲラと笑い始めてしまったのである。
観客は何が起こったのかまったくわからずぽかんとしているは、あとで先生には叱られるは、で散々の劇となった。

この弟の役をやったのがつい先日いなくなってしまったコータローだった。
こんど墓参りの時に焼き芋を供えてやろう。
 

***





ブログランキング→にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ
スポンサーサイト

タイの国王が亡くなられたこと

077e7d290b1a34c6756036025bb2b905-new.jpg



タイのプミポン国王死去のニュースをテレビで見た.。
一瞬のうちに僕の思いは50数年前のあの夜へ翔(と)んでいた。

昔々、赤坂の迎賓館で催されたタイ国王夫妻のレセプションで、大学生の僕らのジャズオーケストラが演奏をしたことがあって、その頃まだ30代半ばだった若い国王が気軽に僕らに混じってサックスを吹いた、あの夜のことである。
おそらく厳選されただろう100人以上もの招待客はそのほとんどが在日タイ人で、日本人の招待客といえば駐タイの日本大使ほか数人しかいなかった。 そんな特別なレセプションで、大学バンドをやっていた日本人の僕ら十数人がジャズを演奏することになったのにはちょっとした経緯(いきさつ)があって、長くなるけどそこから話を始めよう。


高校を卒業したあと、僕は大学受験に失敗してしまった。
東京外語大一本と決めていて(たぶん自信満々だったから)、他のどこも受験しなかった僕はその結果として東京で浪人生活を送ることになる。 山陰の田舎からいきなりポッと東京に出てきて、めくるめく大都会の生活に浮き沈みしながら溺れそうになっている僕を心配して、いろいろと面倒を見てくれたのが郷里の先輩であった I さんだった。 その I さんとはほかでもない、今のペッシェクルードさんのことである。
そのペッシェクルードさんが、青山や上智や東大の学生6人で組んでいたジャズコンボに僕を誘ってくれてそこで僕はピアノを弾くことになるのだが、そこでクラリネットを吹いていたのが東大の留学生だったタイ人のブンサム・ウンパコーンだった。 1年後に僕が早稲田に入ったあとは、大学のジャズオーケストラに入部した僕がこのコンボを自然と抜けてしまい、そのあとバンド自体がいつまで続きいつ解散してしまったのかは記憶が定かではない。 確かなのはこのブンサムとペッシェクルードさんの交友はそれ以後もずっと長く続いていたということだ。

僕が2年生のとき、そのブンサムがペッシェクルードさんを通して僕に連絡を取ってきた。 タイ国王夫妻の来日があるのでそのレセプションで僕らの大学バンド、ハイソサエティ・オーケストラ(ハイソと呼ばれていた)に演奏してほしいと言ってきたのだ。 あとでわかったのは、ブンサムから相談を受けたペッシェクルードさんが僕が在籍するハイソを強く推薦してくれたらしい。
このブンサム・ウンパコーンのことをちょっと書いておくと、あの頃の日本に留学生としてきていたタイの若者たちは、例外なく上流階級や富裕な家庭の子女が多く、ブンサムもその例にもれず、ウンパコーン家といえば名家で代々タイ政府や皇室関係の仕事をしている。 このブンサムも後年になって国務大臣だか長官だかの要職についたと聞いている。 ひょうきんでいつもニコニコしていたブンサムの丸顔が今も目にある。

こういうわけで、ブンサム → ペッシェクルード → 僕 → ハイソ、のリンクを通してハイソとタイ留学生間に絆(きずな)が生まれ、今回の国王夫妻のレセプションのあとも、毎年ホテルオークラで催される彼らの盛大な新年パーティにはハイソが招待されることになる。



さて話をあの迎賓館でのパーティに戻そう。

タイ国王夫妻が会場の入口に姿を現したとたんに、参列者の全員が床にひれ伏して、前に伸ばした両腕のあいだに頭を埋める。 そのまま突っ立って無遠慮に国王夫妻を眺めているのは僕ら日本人だけである。 その時僕は、お二人の顔や動作から滲み出る常人には無い独特の雰囲気 (それがたぶん王室の気品とか尊厳と呼ばれるものなのだろう) に強く打たれたのを覚えている。

そのあとどんな順序で何があったのかは僕の記憶からまったく落ちているが、忘れられないのは最後にバンドの演奏になった時のこと。
国王がアルト・サックスを抱えてステージの真ん中に席を取り、譜面が渡される。 周りでハイソのメンバー達があれこれと演奏上の打ち合わせをする中で日本語の判らない国王が謹厳な顔つきでじっと座っているのを見て、バンドのマネージャーをやっていた4年生のUさんがグランドピアノの前の僕のそばへ来ると
「おい、サマオー(王様のこと) はかわいそうにツンボ桟敷じゃないかよ。 お前行って説明してやれよ」 と日本語のわかるタイ人が聞いたら卒倒しそうな言い方をするので。 少しだけ英語ができた僕がそこへ行って譜面の説明をするのを、国王はニコリともしないで頷いていた。 気難しい人というよりも、感情をあまり外に表さない人なのだろう、と僕は思った。

演奏が始まるとあとはダンスとなった。
最初にフロアに出てきて踊り始めたのはシリキット王妃と日本大使で、そのあとに正装した幾組かの男女が続く。 僕の眼は優雅にワルツを踊る王妃の姿を自然と追っていたが、こちら向きになった王妃と眼が合ったとき、彼女がはっきりと僕に微笑を送ったのに驚いた。 それから何度か眼が合い、眼が合うたびに王妃が優しく微笑(ほほえ)むのを見て、すぐそばでボンゴを叩いていた同級生のSが、「おい、シリキット王妃、お前の方ばかり見てるぜ」 とからかった。
曲が終わった時に王妃は、相手の身体から腕を解くと振り返って真っすぐにピアノに向かって歩いてくる。 あわてて椅子から立ち上がってそれを迎える僕に向かって、王妃が英語で言った。
「あなたのピアノ、とても素敵でした」。
僕は慌てて 「ありがとうございます」 と答えて頭を下げる。


その対面シーンが報道陣に写真を撮られ、某女性週刊誌のグラビアに大きく載ったものを僕は長いあいだ大切に持っていたが、これも後年アメリカに渡った時に日本に残したままいつの間にか失ってしまった。
形のあるものはいつか失われることがあっても、心に残るものは誰もどんなにしても取り去ることができない。 永遠に自分のものとして残っている。

プミポン国王の生前の写真を見ると昔の面影が紛れもなくそのまま残っているのに比べて、50数年ぶりに対面したシリキット王妃は見分けがつかないほど変わっていた。 昔の清楚さや優しさが消えて、強靭なたくましさのようなものがそこに見えるのは、長いあいだ病臥していた夫のことや、その間の王室家族の統制、しかも自身の病気などを乗り越えて、タイ国の母として君臨してきた結果なのかもしれない。
しかし、あの迎賓館の夜の、プミポン国王の若々しい謹厳な顔とシリキット王妃の笑顔と言葉を、僕は忘れることはないだろう。

(終)



7b07a05d330f78eeb7ffc99b8991d830.jpg






ブログランキング→にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

鯉たち、いつかまた大空に泳げ…

T160718-03-blog.jpg



物置にぎゅうぎゅうに詰まっていたものを一つづつ取り出していくと、最後に鯉のぼりと兜(かぶと)が出てきた。
両方ともうちの子供たちが小学生の頃に、日本の叔母が送ってくれたものである。
鯉のぼりは黒の真鯉の全長が3メートルもある大きなもので、アルミ製の支柱やロープなどが一式になっていて、突端に付ける矢車も別箱に入れられて送られてきた。
あれは僕らがボストンからオハイオへ越してきたばかりで、最初に借りた一軒家の庭に、毎年5月になるとこの鯉のぼりを立てたのを思い出す。 2階建ての家の屋根よりも高いところで矢車がカラカラと音を立てて回り、青空に悠々と泳ぐ鯉たちはいやでも近所の人目をひき、アメリカ人が街道筋に車を停めて写真を撮ったり、日本人が家族連れでわざわざ見に来てくれたものだ。 地域の新聞に写真入りの記事が載ったこともあった。

子供が成長してしまうともうその習慣も終わりになって(長女は今年35歳になる!)、長いあいだ物置に眠っていたこの鯉のぼりは、さてどうしたものだろうと考える。 小さな子供を持つ日本人家族に差し上げたいのはやまやまだけど、そんな家族はもう僕の周りにはいない。 そこで思いついたのが日本人補習校にでも寄付しようということだった。 そこで友人でもあり補習校の創始者でもあるH氏に電話をしたら、喜んで受領したい、子供たちがとても喜ぶだろうと言ってくれた。 それじゃあついでに兜もいっしょに、ということになった。

この兜も、ミニチュアなどではなくて実物大の立派なもので、端午の節句に息子の太郎へと叔母がかなりの金をはたいたにちがいないが、実を言うとそれを飾る場所がなくて困ってしまった。 それで黒いうるし塗りの箱から数回取り出しただけでそのままお蔵入りになってしまったので、日本の叔母には申し訳ないと思っていたのだ。 これで学校のたくさんの子どもたちに見られると思うとようやく罪悪感から解き放されてほっとする。
鯉のぼりも兜も、ちゃんとした行く先が決まりいつまでも大事に保管されるのは嬉しいことだった。


この叔母が兜を太郎に送ってくれたように、娘のマヤにと送ってくれたのは大小2セットの雛壇で、これは両方とも可愛いミニチュアでわが家のリビングルームの棚に1年中飾られてきた。 新しいアパートでどうなるかは、女房次第ということになる。

そういえば叔母はつい先月、元気に88回目の誕生日を迎えた。



ブログランキング→にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

自分の中の日本 (3)

T11japan295-blog5.jpg

祈祷








T11japan547-blog2.jpg



* 2011年に東京国立博物館で撮影した絵だが作者の名前を書いたメモを失くしてしまった。 インターネットでさんざん時間をかけて検索したけれど何も出てこない。
ご存じの方がいればどうか教えて欲しい。








T99japan035-blog.jpg

城下町








IMG105-blog5.jpg

煙草の煙








T06yonago136-blog2.jpg

庭下駄








T11japan115-blog5.jpg

洞窟








T06yonago115-blog2.jpg

夜明け








T13ryoko065-blog.jpg

ロビー



*****







ブログランキング→にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

自分の中の日本 (2)

T08japan226-blog.jpg

砂丘








T08japan242-blog2.jpg

水車








T08japan245-blog.jpg

モミジ








T11japan498-blognew4.jpg

疎水








T08store20-blog3.jpg

古本屋








T11japan141-blog2.jpg










T11japan350-blognew2.jpg

蕎麦屋








T99japan034-blog.jpg






*****






ブログランキング→にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

自分の中の日本

T08japan154-blog2.jpg










T08japan118-blog2.jpg










T06yonago134-blog2.jpg










T08japan077-blog3.jpg

ちまき








T08japan195-blog4.jpg

吊し柿








T08japan297-blog.jpg

石楠花








T08japan053-blog.jpg

和食






ブログランキング→にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

性に目覚める頃 4

150617f

裸身
Cincinnati Art Museum 2007




若い叔母

『性に目覚める頃』 なるタイトルで僕の少年時代を語る時に、どうしてもこの叔母のことを抜かすわけにはいかない。

僕の父方の一族には数人の叔母がいて、農家を実家とするこの叔母たちはそれぞれ近在の農家へと嫁いでいたが、いつもモンペ姿で田畑で働く陽に焼けた肌のこの叔母たちは、歳もずっと上で子供の僕から見ると 「お百姓のオバサン」 という感じしかなかった。
それに比べると、少家族の母方には僕が叔母と呼ぶ人は一人しかいなかった。
20代半ばの若い叔母だった。
東京の学校を出たあと郷里に帰って来て高校の体育の教師をしていたこの叔母は、僕が覚えている限り髪をボーイッシュに断髪にして、動作はいつもシャキシャキとしたひとだった。 すぐ近くに住んでいたので、しょっちゅうわが家にやって来た。 ひとりっ子の僕はいつも2階の自分の部屋で一人で遊んでいたが、叔母の声が階下に聞こえると何をやっていてもおっぽり出して階段を駆け下りた。 細い身体に背筋を真っすぐに伸ばしたこの叔母が、若々しく華やかなワンピースを着て元気よく姿を現すと、薄暗い陰気なわが家がとたんに明るくなる。 僕は嬉しさのあまりウキウキとして叔母にまつわりついたのは、いつもお土産に持ってきてくれるキャンデーだけが理由ではなかった。 叔母と一緒にいることでとにかく有頂天になってしまう自分だった。

子供の僕にとってこの叔母は憧憬と賞賛の的だったが、叔母にとっても僕はたった一人の甥っ子だったから、ことさら可愛がってくれた。 ある一線でピシャリと甘えを拒絶する母と違って、叔母は僕が甘えれば甘えるほど喜んでくれたのは、子供に厳しい母を見ていて叔母なりに可哀想に思ったのかもしれない。
体育の教師だった叔母は、畳の上でいろいろな体操を教えてくれたものだ。 スカートを思い切りたくしあげて白い脚を腿の上まで露わにする度に、僕はドキッとして見ない振りをしたが、そんな子供の好奇心など全く気にしないかのように、その柔らかい体を折り曲げていろいろな多角的な格好をして見せてくれた。
その頃の叔母はうちのすぐ近所に小さな台所付きの6畳一間のアパートを借りていて一人暮らしだったから、小学生の僕は母に勧められて週末の夜などよく泊まりに行ったものだった。 叔母と僕は6畳の間に布団を2枚並べて寝た。 寝間着に着替えた僕がいつも叔母より先に布団に潜り込んで、台所の後片付けなどを済ませた叔母が寝床へ来る時には、もうぐっすりと眠り込んでしまうのが常だった。

ある夜、ふと目が覚めたことがあった。
薄 暗く灯りを落とした電灯の下で叔母が着替えをしている。 僕のすぐ目の前で着ていたものをくるくると脱ぎとって白い下着1枚になった叔母の裸身がそこにあった。 向こう向きのままで何か溶液のようなものを丹念に全身に塗っている。 それはいつか美術図鑑で見たことのあるギリシャの彫像を思い出させる美しい光景だった。 腕を上に伸ばしたり脚を広 げたりするたびに、淡い光の中の素晴らしい肢体が次々と形を変えていく。 僕がいつものようにすでに眠っていることを疑わずに、叔母は前かがみになるとあっと息を呑むような大胆なポーズをとった。 僕は身体が震えて喉がからからに乾いていた。 見てはならないものを見てしまったという罪悪感よりも、あれほど好きで憧れているひとの裸を見てしまった興奮の方がはるかに大きかった。

そのことがあってから、叔母の家へ泊まりに行く楽しみがさらに大きく膨らんだ。 しかしその度に毎回叔母の裸身を見ることができたわけではなかった。 大抵の場合、僕は叔母が床へ来るのを待っている間に、襲ってくる眠気に勝てずいつの間にか眠ってしまったからだった。 今日こそは、と必死にがんばっていてもだめだった。

忘れられないことが起こったのはその頃である。
あれは秋か冬か、ちょうど今のような寒い季節だったに違いない。 いつものように叔母と布団を並べて寝ていた僕は、朝になって目を覚ました時に寒くてごそごそと身体を動かしていたらしい。 それを聞きつけた叔母が 「どうしたの?」 と声をかけてきた。
「うー、寒いー」 と言って身体を縮める僕に、「こっちにおいで」 と叔母が誘った。
その時とっさに、 「ううん、いい」 と答えてしまったのは、恥ずかしさからだけではなく、何となくいけないことをしようとしているような危険な誘惑の匂いを子供心に感じ取ったからに違いない。 そして断ってしまったことに、僕は後悔をした。 2度と手に入らないものを逃してしまったような大きな失望だった。 しばらくしてから僕は勇気を出して言った。 「やっぱり寒い…  行っていい?」
「うん、おいで。 暖かくしてあげる」

僕は自分の布団を抜け出すと、叔母のそばへもぐりこんでいった。


(続)








ブログランキング→にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

ケネディのこと

ST-441-10-62-blog.jpg

オーバルオフィスのケネディ親子


アメリカでは来年の大統領選挙を控えて、すでに激烈な選挙戦がくり広げられている。
数多くの候補者の演説に、オバマやブッシュを始めニクソン、レーガンなど過去の大統領がよく引用される中で、僕にとっては何といっても1番馴染み深いのはケネディの名だった。
それには幾つかの理由がある。


1963年11月22日の午後1時半、といっても日本時間にすると23日の早朝になるが、ケネディが暗殺された日は僕には忘れられない。
というのはその頃の僕は、大学へあまり顔を出さないで横浜の米軍キャンプで毎夜ジャズを演奏していた。 ゲートを抜けて1歩中へ入るとそこはもうアメリカだったから、自国の大統領暗殺というとてつもない大事件へのアメリカ人の反応を目の当たり目撃してしまった。 僕ら日本人にとってもあの臨時ニュースは大きな衝撃だったが、米軍キャンプ内はその比ではなかった。 その日の夕方いつものように車でキャンプに乗り入れると、ゲートでチェックするアメリカ人警備兵の顔つきからしてすでにいつもとは違っていた。僕らの仕事場であった将校クラブには多勢の高官連中が詰めかけていて、沈痛な面持ちでひそやかに顔をつきあわせているその雰囲気には今まで見たことのない異常なものが感じられた。 彼ら職業軍人にとっては大統領は軍隊の最高責任者、いわば自分たちの大ボスであったから、その突然の死、しかも暗殺というセンセーショナルなニュースは、普通のアメリカ市民とは比較にならないほどの大打撃であったに違いない。
その夜のクラブ演奏はもちろんキャンセルされて、僕らはそのまま、頭上に飜える半旗を見ながらゲートへ引き返した。


それから5年後の1968年の春から夏にかけて、僕は沖縄の米軍キャンプに3か月の仕事で出かけていた。
それまでに僕はすでに結婚していて、幾つかのバンドを転々としながらピアノを弾いていたが、米軍キャンプの仕事を取ったのはあの横浜以来だった。
ケネディ大統領の弟、上院議員のロバート・ケネディの暗殺がこの時に起こったのは、何という偶然だろう。
そしてその2年後に僕は日本を捨ててアメリカへと渡ってしまう。


ケネディの3兄弟のうち一人だけ残された最年少のテッド・ケネディも1962年頃からリベラルな上院議員として政界に乗り出していた。 それがロバート・ケネディの暗殺の翌年、1969年には、マーサズ・ヴィニヤードのチャパキデック島でパーティのあと運転を過って運河に落ち、本人は水に沈む車からの脱出に成功して命をとりとめたものの、同乗の若い女性を死なせてしまう。 あの事故がなければ、テッドは間違いなく大統領の候補になっていたはずだった。


そしてさらに、11年後の1979年。
当時のカーター大統領が、ケネディのホームグラウンドであったボストンの郊外に、JFケネディ記念図書館を設立した時に、僕はボストン市内のある写真ラボで暗室技師として働いていた。 日本を離れてからすでに9年のあいだ、僕はボストン内外で写真を生業としてうろうろと生きていたのである。 そして新しくクライエントとなったこの図書館の依頼で、写真のアーカイブの仕事を受け持つことになったために、僕は何百枚ものケネディの写真をプリントすることになった。 その中にはすでに大新聞やライフ誌などに載せられて有名になった写真もあったが、大部分は未公開のものが多かった。 ケネディの少年時代の家族写真、大学時代のクラス写真、成人して政界に足を踏み入れたばかりの頃の写真、ジャクリーンと婚約した頃の写真、そして大統領となったあとの公的私的を含める膨大な数の写真、それらの有名無名の写真家達が撮ったオリジナルのネガに囲まれて、僕は暗室の中で毎日のようにケネディとケネディ一族に対面していた。


僕が制作した数百枚のプリントはそのまま今もケネディ記念図書館のアーカイブに残されているはずだ。 今、インターネットで検索してみると、出てくる画像の中にはあの時僕が制作したプリントがかなりあるようだ。
冒頭の写真もその1枚。 これはケネディが狙撃される前年に撮られた写真である。

父親の手拍子に合わせて2人の子供、キャロラインとジョンがぴょんぴょんと跳ねているのはケネディ家の源流であるアイリッシュのダンスに違いない。 この時キャロラインは5歳の少女だった。 ずっとあとになってこの子がボストン郊外のコンコルド・アカデミーで10代の学生生活を送っている時に、僕はコンコルドの町のフェスティバルで彼女を1度見かけたことがある。 2人のシークレットサービスに挟まれて雑踏の中を歩いていた。
そして周知の通り、2013年以来キャロラインは女性として初めてのアメリカ大使として日本に住んでいる。

そしてキャロラインの3歳年下の弟ジョンは…
39歳の時に自家用機に妻と義姉を乗せて、家族の結婚式へとマーサズ・ヴィニヤードへ飛行中に、海に墜落して全員が死んだ。
1999年のことである。


ケネディの家族とその周囲を流れる危険な死の影のようなもの、病死でも自然死でもない突然の死の訪れ、それも2009年に脳癌という人並み(?)な死に方をしたテッド・ケネディを最後に終止符をうったようだ。 いや、そう思いたい。







ブログランキング→にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

性に目覚める頃 3

tt01-blog3.jpg

結婚式で会った少女、クララ
Apopka, Florida  2015



脇毛

中学生になった頃、僕はぐんぐんと体が成長し始めて1年間で身長が25センチも伸びた。
鼻の下に生えていた産毛が濃くなり、脇の下や下腹部には黒い縮れ毛をうっすらと見るようになる。 男の子同士で見せ合うようなことはなかったが、学校の便所で隣で小便をする子のものを覗いて、感心したり安心したりした。 女の子を見ると自然と胸に視線が行くようになったのは他の男の子たちも同じで、T子のオッパイすげえなあ、などと話し合った。
T子というのは町の畳屋の娘で、幼いころからよく知っていた。 彼女は小学生の時はそうでもなかったのに、中学に入るや急に大人のような体つきに変わっていくのを、男の子たちが見逃すはずはなかった。 T子は僕と同じテニス部に籍を置いていたから、元気よく走る彼女の、丘のような形をした乳房がユサユサと揺れるのを見ていると、僕は妙な気持ちになってしまい練習に身が入らなかった。

体育の時間、2列に向い合って徒手体操をやらされていた時のことだ。
僕の真向かいにT子がいて、そのT子が両腕を上に伸ばした瞬間、半袖の体操服の奥の腋窩に見えたものに、僕は自分の目が信じられず、あっと激しい衝撃を受けていた。そこに見たのは自分のとは比べ物にならないほど豊かな、真っ黒な繁みだった。

そのことがあってから、あの黒い繁みがフラッシュバックとなって長い間僕を悩ませた。 それは、まだろくに脇毛も生えていなかった自分の劣等感のようなものではなく、むしろ女性への純粋な憧憬と賛美であったようだ。
絵でも小説でもなければ妄想でもなく、現実に目の前に生々しい「女」を見てしまったのは、あれが最初だったような気がする。



このT子さんとは、中学を終えて以来1度も会うことはなかったのに、実に50年後に郷里の町で再会することになる。
お互いに結婚して家庭を持ち子供もすでに成人している年代なのに、会うなりいきなりお互いをちゃん付けで呼べるのが、幼馴染みの良い所だ。 二人だけで酒を飲みながら、お互いの50年の空白を埋め合っているうちに、思春期の自分を長い間悩ませたあの脇毛のフラッシュバックを彼女に告白したい、という誘惑に勝つことができなかった。

「そうなのよ」 と、話を聞いた彼女が笑いながら言った。
「自分でも恥ずかしかったから、夏でもノースリーブなんて着ないようにしてたわ。 ふだんは腕を上に上げるなんて絶対しないように気をつけてたけど、体操の時間はそうはいかないでしょ。 剃るなんて思いもよらなかったし、母親は何も教えてくれなかった。 何しろ体だけは早熟で小学生の時にもう生理があったくらいだから。 その時はさすがに母親に相談したけどね。 バストだって他の子達よりよりずーっと大きかったのはほんとに困った。 あの頃はブラジャーなんて大人でもしてる人は少なかったのよ。 そうかあ… 私の脇毛があなたの女性開眼のもとになったなんて嬉しいわ。 なんて言える歳になっちゃったのね。 でもね、告白といえば実は私にもあるな。」 と彼女は悪戯っぽい顔をした。
「あなたとは幼稚園から小学中学を通じてずっと一緒だったじゃない? 家が離れてたから一緒に遊んだなんて無かったけど、素敵だなあ、といつも遠くから憧れてたなんて知らなかったでしょう? つまり初恋の人だったのよ。」

そのT子さんにはつい最近、3人目の孫ができたばかりだ。



(続)



ブログランキング→にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

性に目覚める頃 2

b5aba0c0-blog4.jpg

蛸と海女
葛飾北斎



性の書斎

小学校も上級になると、僕の 「本屋通い」 が始まる。
町には新刊書の本屋が4軒と古本屋が1軒あったが、その頃もっぱら行ったのは古本の 「油屋書店」 だった。 間口の広い大きな古本屋で、その大部分は文学書や実用書、月遅れの娯楽雑誌などが並べられていて、そこを通り抜けて奥の方へ入って行くと、片隅に成人向けの書籍がひっそりと置かれていた。
『夫婦生活』、『あまとりあ』、『奇譚クラブ』 といった怪しげな古雑誌や、『外国ヌード集』、『春画全集』 などの画集や写真集が積んであるその一画が、小学生の僕にとって性を勉強するための書斎となった。 ただし、いつでも好きな時にそこへ入り込めるというわけではなかった。 店主である高齢の親爺が目を光らせている時は書斎へ入ることを諦めて、その辺の棚から白秋や啄木の歌集を取り出して読む振りをした。 それというのは以前、『あまとりあ』 の中の半裸の女性が縛られて脚を大きく広げた多角的な格好で、天井から吊らされた挿絵を、胸をどきどきさせて眺めていた時に、「◯◯君、そういうのを読むのはまだ早いから止しなさい」 と背後からそっとたしなめられたからである。 店主は僕の両親の知り合いでもあった。
幸運なことに、その老人が店に出る時間はごく限られていて、ふだんは若い女性の店員がそこにいた。 彼女なら猥本の立ち読みをする僕を見て見ない振りをしてくれたし (たぶん止めなさと言う勇気がなかったのだろう)、僕は僕で彼女の前で恥ずかしいと思う気持ちがありながら、それよりもはるかに強かった性への好奇心が打ち克ってしまい、それが僕を大胆にした。



『蛸と海女』

油屋書店で見たり読んだりしたものの中で、もっとも衝撃的だった本はというと、性風俗誌の名のもとに出版されていた月刊誌の 『あまとりあ』 だったのにはまったく疑問の余地がない。
それに比べればアンドレ・ド・ディーンズ (この著名な写真家の名は何十年後まで覚えていた) の外国女性のヌード写真集などは、綺麗すぎてつまらなかったし、春画コレクションの、明らかに誇張された性器や不自然な角度で絡み合う体位の描写など、子供心にも現実感が伴わず、ほとんど刺激を感じなかった。
ただ一つの例外が北斎の 『蛸と海女』 で、これを見た時には、ぬめぬめとした蛸の感触には自分にも経験があるだけに、今までにないほどもの凄く興奮した。 ああ、自分が蛸になってあの海女の、柔らかそうなあそこをグイグイと舐めたらきっと海の塩の味がするだろうか、と想像すると、股間がいきなり固くなってズボンの上からでもはっきりわかるくらいに膨らんでいた。
ふと本から目を離して顔を上げると、店番の女性と視線がピッタリと合ってしまった。 彼女は慌てて目を逸らせたが、その顔は赤く染まっていた。 ずっと前から僕のことを見ていたに違いない。 突起したズボンに気付かれたろうか、荒い息づかいまで聴かれてしまったかもしれないと思うと、恥ずかしさのあまり、春画集をそこへ置いて逃げ出すように店を出た。 頭の中で、さっき見た春画の海女の恍惚の顔と、女性店員の顔とが重なったり離れたりした。



『あまとりあ』

今から思うと、この月刊誌はただの猥褻本ではなかった。
洒落た色彩とデザインの表紙をめくると、中はエロチックな絵と文章で埋められていた。 他の同種類の雑誌のように時には汚さや嫌悪を感じさせるようなものはいっさい無くて、そこには僕が想像さえしたことのない美しい世界が広がっていた。 どのページにも性への賛美があり、快楽への誘惑に満ちていただけではなく、芸術の匂いさえ漂っていたと思う。 こんな素晴らしい雑誌を金さえ出せば自分のものにできる大人を、僕はどれだけ羨望したことだろう。

やがて僕は、自分自身の妄想や幻想をノートに書きつけるようになる。
それは一応は物語の体裁をとっていて、その物語の中で僕は美しい音楽教師のD先生にピアノのそばで抱きしめられたままズボンを脱がされたり、級長で美少女のk子が友達の万年筆を盗むところを男教師に見つかり、教室の椅子に縛られて折檻を受けながら小便を漏らしたりした。
そのノートはクラスの男の子たちの間に回されて、自分の手元に帰ってくるまでに何日もかかった。
「すごいよ。 思い出しながらゆうべ何度もしちゃった。 早く次のを読ませてくれよ 」
その言葉に小学5年生の僕は、創作者としての満足と報酬を感じていた。

(続)






ffaa6576-blog3.jpg


d6dc8305-blog.jpg





ブログランキング→にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

性に目覚める頃 1

bostonbw0052-blog3.jpg

New York City, 1971



早熟

早熟な子供だった。
幼い時から異性への関心が強かった。 遊び仲間の女の子の身体に偶然に触れたりすると、それだけでなぜか心が安らぐのが不思議だった。 それは母に抱かれる時のあの甘い感覚に似ていたが、それよりももっと強烈で、時には、行ったことのない世界へ迷いこんでしまったような危険な匂いさえ感じていたようだ、
好きな女の子に対しては意地悪をせずにはいられない。 好きだという感情をそれ以外の方法で表す術を僕は知らなかった。 そしてその子が泣き出す時、僕は歓喜に全身を満たされた。
男の子一人だけの家庭に育てられた僕は、姉や妹の存在をどれだけ渇望したことか。



白い布

小学校1年生の担任が春田先生だった。 町の古いかまぼこ屋の娘で、色が白く体つきのぽっちゃりとした若い女教師だった。 成績の良かった僕は級長を務めさせられていたこともあって、先生と話をする機会がクラスの誰よりもあったが、彼女のことを特に好きだとか憧れたりしていたというわけではない。 
ある時、クラス中の机や椅子を部屋の両側に寄せて中央に大きな空間を作り、みんなでゲームをしたことがあった。 教壇から降りてきた春田先生が、そこにあった子供用の低い椅子に腰掛ける。 僕の目の前である。 先生のスカートが大きく広がり、両足を無防備に広げた時、スカートの中の肉付きの良い二つの太ももと、その奥に潜む真っ白な布がはっきりと見えていた。 それを見てしまった僕はそのまま眼を逸らすことができないでいる。 見てはならないものを見ているんだという罪悪感と恍惚感。 それと、経験したことのない禁じられた世界へ入って行く時の、めくるめくような興奮とで、息が止まり、喉が乾き、くらくらと眩暈(めまい) がしたが、それでも僕は目を離すことができないでいた。 そして僕の内部に急激に膨らんでいくものがあった。 あれは何だったのだろう? 
あれこそ性欲と呼ばれるものだったのだ、と理解したのは、ずっと後年のことである。 長い長い間、あの光景を思い出すたびに僕は興奮した。 いや、現在でさえ、あの小学生の時の驚嘆を鮮明に再体験することができる。



竹登り

小学校の校庭の端には数本の樹が並んでいた。
何の樹だったろう? すぐそばの民家の屋根よりも高くて太い枝を広げていた。 その下は砂場になっていて、そこここに何本もの孟宗竹が垂直に立てられ、その先端は頭上の樹の枝に結び付けられている。 子供たちはそこで竹登りをしたものだ。
すでに身体に筋肉をつけた年長の子供たちは、その竹をぐいぐいと勢いよく上まで登ると、そのまま落ちるような速さで降りてくる。地上に降り立った子供たちが口々に、「あ~ 気持いい~」 と言った。 そして僕に向かって 「お前もやってみ」 と言うのだが、力のない僕には途中までしか登れない。 それからゆっくりと滑り降りてくる僕に彼らは、「そんなんじゃダメだ。 もっと勢い付けて滑れ」 と教える。 「それにもっと上まで登れよ。降りる時長けりゃ長いほど気持ちよくなる」
「気持ちが良くなる」 という意味が僕にはよくわからない。 たぶん、高いところから落ちるように滑り降りるスピード感で爽快な気分になるのだろうと推測したが、僕にはそれほど爽快なこととは思えなかった。

それから数日間、僕は竹登りを練習し続けた。 慣れてくると次第に上まで登れるようになり、降りるときも両脚の間に竹を挟んで滑り降りることができるようになった。 しかし子供たちが言うような爽快感も別になければ、面白くもなんともない。

そんなある日、いつものように竹登りをしていて、上から降りてくる時に両脚の間に何かの感覚を覚えた。
あれっと思いもう一度登ってみる。 今度の感覚は前よりも少し強い。 もう一度登る。 何度か繰り返していると、その下腹部の感覚はどんどん鋭敏になってきて、なんとも言えない妙な気持ちにさせられた。
そして何度目かの時に、それまで膨らみ続けていたそのくすぐったいような快感がいきなり頂点に達した時に、下腹部に卵の殻が破れるような唐突な感じがあって、僕はあやうく掴んでいた竹を離しそうになってしまう。 それはかつて一度も経験したことのない強烈な快感だった。 ようやく地面に降り立ってぼんやりしているうちに、やがて両脚の震えが止まり、雲のかかっていた頭のなかがはっきりしてきた。 こらえにこらえていた小便を出した時のような放出感があったから、手をそこへ入れて触れてみる。 どこも濡れていないのを確かめて僕はようやく安心した。
小学校3年生の時だった。



(続)




ブログランキング→にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

振り返れば何だ?

Scan-130616-0002-blog.jpg

お祖父ちゃんと一緒
Hagerstown, Maryland 1984


古い写真のアルバムを取り出してページをめくるなんて、普通の人なら普段の生活の中でしょっちゅうやる事ではないんじゃないかな。
それが、僕の場合は写真をインターネットで細々と売ったり、写真を載せる私的なブログをやっているという理由で、毎日のようにコンピューターでフォトショップを開いているから、いやでも古い写真が眼に入る事になる。そんな事でもなければとっくに忘れてしまった古い写真に行き当たったりすると、探していたかんじんの写真を忘れてそのまま追憶の世界へと入り込んでしまうことがある。

この写真もそうだ。
息子の太郎がようやく歩き始めたころ、ボストンから家族を連れてメリーランド州に住む義弟の家へ遊びに行った時の写真だった。 同じ時に中西部のデイトンから来ていた妻の両親と落ちあって、皆で数日を過ごした。その時、娘のマヤの誕生祝いをしたことを覚えているからあれは9月だったに違いない。
妻のオヤジさんが孫の太郎と遊んでいるこの写真を僕が好きなのは、長身のオヤジさんの影の中に太郎がすっぽりとはまっていて、二人の影が一つになっているところである。 人の気配がまったく無い広大な風景の中の豆粒のような幼児の存在を、自分の影を孫に重ねて後ろからしっかりと見守るオヤジさんの立ち姿には、屈強な男の持つ頼もしさと優しさが現れている。

このオヤジさんは今はもう無く、自分自身が今ではこの時のオヤジさん以上に歳を取ってしまった。 太郎は今年の5月には32歳になる。
時は確実に移って行く。



孫というものは
否応なしに老いて行かされるあなたへの
神様からのご褒美なんだよ。

-Mary H. Waldrip-




ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

ゲットーに住んで 2/2

bostonbw0010-blognew.jpg

ゲットーのオブジェ
Dorchester, Massachusetts USA


知らない町で新しい生活を始めてみてしばらくすると、いろいろなことがわかってくる。
とくに、ゲットーと呼ばれる一種の封鎖社会の内側に入ってみると、外部の人間にはわからなかったいろいろな事を体験することになった。たとえば黒人間にも一種の階級組織のようなものが存在していて、貧富の差だけではなく肌の色の濃淡による偏見があることを知った。つまり、肌の褐色が薄いほど良しとされる事など、僕はそれまで夢にも考えたことがなかった。
ゲットーは更に幾つかのセクションに分かれていて、それぞれの階級に属する家族が一団となって住んでいたが、セクション間の交流はほとんど見られない。ブレンダの持ち家があった通りはどの家にもきちんとした家族が住んでいて、それは我が家に遊びに来る近所の子供たちのしつけを見るとわかるし、両親たちと話をしてもちゃんとした仕事を持つ知的な人が多かった。
そしてその人達から、ある特定の地域には間違っても足を踏み入れることがないように、と警告を受けた。

アパートから歩いて15分のところに電車の駅があって、そこは僕が毎日仕事の行き帰りに乗り降りする駅でもあった。車を持っていたけれど、車は妻のために家に残しておく必要があった。 (彼女に幼児連れであまりその辺りを歩いてほしくなかったからである)。 駅の周りはどこの町でも同じようにちょっとした繁華街になっていて、そこには見事に黒人ばかりの雑踏があり、雑多な店屋やマーケットやレストランやバーが並んでいた。僕は時々仕事の帰り道にそんなバーに一人で入ってみたことがある。この地域で東洋人を見るのは珍しいのだろう。中に入ったとたんにちょっと居心地が悪くなるくらいの視線が周りから僕に注がれたが、その眼には敵愾心は感じられなく、ただの好奇心だけのようだったので何となくホッとする。それでも恐る恐るバーのスツールに腰掛けて慣れてしまうと、バーテンダーも周囲の客たちも、すぐにフレンドリーになるのはどこのバーも同じである。最近ここに越してきたんだと僕が言うと、そうかそうかと言って周りの黒人たちから僕が飲んでいたスコッチのおかわりが次々と出て来た。

そんな事があったりして、僕は何となくこのゲットーに受け入れられていくような気がしていたが、妻はそうではなかったようだ。白人の彼女はマーケットに買い物に行っても他の客に意地悪されたり、なかには面と向かって 「ホワイティ(Whitey、白んぼ)がこんなところで何してるの?」 などと言われたこともあった。
そんな話を聞いて僕が思ったのは、ゲットーの黒人たちにとって東洋人はOKだけれど、白人はやはり外部の人間なのだろうということだった。妻のためにもここには長くとどまるべきじゃない、と思いながら1年近くも住んでしまったのは、当の妻自身がそれほど気にしなかったことと、何よりもブレンダ夫妻を始めとするアパートの周辺の人達が皆すごく良い人達だったからだった。そこには白人の社会には無い強い連帯感のようなもの、あるいは人情と言っても良いようなものがあるのを僕らは感じていた。

そして1年後に息子の太郎が生まれた時に、僕らの家族はゲットーを抜けだして白人の社会へと戻って行く。
僕の仕事場への通勤に時間がかかりすぎるということもあったけど、その最大の理由というのは、子供たちの将来を考えた時にこの町の学校制度があまりにも貧弱で満足のいくものではなかったからだった。
それ以後この町を訪ねたことは一度もない。

それにしても、息子の太郎は自分がゲットーで生まれたという事実をどこまで自覚しているのだろうか?

(終)




ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

ゲットーに住んで 1/2

Image03010318-blog.jpg

ゲットーのフォルクスワーゲン
Dayton, Ohio 1982


ゲットーとは、19世紀以前のヨーロッパの都市で、迫害されたユダヤ人の強制居住区域がそう呼ばれていたのが、20世紀になってゲットーが消滅したあとでもその名がそのまま残ってしまい、アメリカでは貧困階級の黒人たちが住む地域を指すようになった。俗語として使われるだけだから公式にゲットーという場所があるわけではない。ただ何となく、われわれ一般人が足を踏み入れる地域ではない、という感覚がその言葉の裏には潜んでいるようだ。

そんなゲットーに僕らの家族が1年ほど住んだことがある。
ボストン郊外のMという小さな町だった。それまで住んでいたケンブリッジの1ベッドルームのアパートが、娘のマヤが生まれてくるといかにも手狭(てぜま)になり、せめて2ベッドルームのアパートへ越したいと思っていた。しかもちょうどアパートのリースを更新する時期が迫っていて、それを機会にどこか他へ移ることに決めたのだった。といっても経済的に余裕のなかった僕らにとって、これはと思うアパートはボストンやケンブリッジ界隈ではレントが高すぎてとても手が出なかった。共稼ぎで働いていた僕ら夫婦だったが、子供ができて妻が仕事をやめて家で子育てをすることになり、一家の収入が僕一人の肩にかかってきたからである。グズグズしているうちにリースの期限が迫ってきていて、早急に次に住む場所を探す必要があったので僕はかなり焦ってきていた。

そんな僕を見ていた仕事場の同僚の黒人女性のブレンダが、「うちの2階は2ベッドルームのアパートで人に貸していたのが今ちょうど空いてるんだけど、来る? 地域としてはあなた達には理想的といえないかもしれないけど、とにかくそこへ入ったあとでゆっくりと良いところを探せばいいじゃない?」 と親切に言ってくれたのである。彼女が 「理想的とはいえない」 と言った理由は、それがゲットーと呼ばれる地域で、外からここに移って来たいという白人や日本人はまずいないだろうからだった。
「とにかく一度見にいらっしゃい」 とブレンダが言うので、妻と2歳になる娘を連れて、仕事場からはかなり遠くにあるこのMの町まで行ってみた。

行ってみるとそれは思ったよりもずっと大きなアパートで、家そのものは古いけど大家のブレンダとご主人がきれいに手入れをしてきたらしく、大小2つの寝室、広いリビングルーム、ウォークインのパントリーが付いたキッチンなど、なかなか快適そうな住まいになっていた。 すぐ階下にブレンダの夫婦が住んでいるのは何よりも心強いし、それに家賃がボストンの町中に比べると信じられないくらいに安かった。

僕らはその場でこのアパートを借りることに決めたのだった。

(続) 




ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

古い写真を見ながら

bostonbw0063-blog.jpg

夕やけ小やけで日が暮れて
Somerville, Massachusetts 1988


僕らの家族がボストンでの最後の数年を過ごしたサマ-ヴィルの家の話は前に書いた。
ニューイングランド地方によく見られる、トリプル・デッカーと呼ばれる3階建ての古いアパートで、その1階を僕らは借りて住んでいた。 1階だから裏には小さいながら庭がついていて、まだそのころは幼かった二人の子供たちのために、滑り台や砂場を置くこともできた。
その庭から金網をはさんで隣家の大きな菜園があり、そこにはチューリさんというイタリア人の老夫婦が住んでいた。 老夫婦は自分たちの菜園で採れる見事な野菜類を籠に摘んではわが家に届けてくれた。 それはトマト、バジル、ペッパー、スイスチャート、ズキニ、などで、どこの八百屋で買うものよりもずっと新鮮で美味しかった。 そして、必要な時にはいつでも菜園に入って行って勝手に摘んでいいんだよ、と言ってくれた。 このチューリ夫妻は子供さんが成人して家を出たあとの二人だけの暮らしだったから、僕らの子供をまるで自分たちの孫のように可愛がってくれた。 家の中に子供たちの姿が見えないと思う時は、決まって隣家の菜園で夫妻に遊んでもっらているのが我が家の寝室の窓から見えた。

このチューリさん夫妻と初めて話をしたのは、僕らが引っ越してきたその日に隣の菜園で何かを植えていたチューリ夫妻が近寄ってきて、跨(また)げばすぐ越えられる低い金網の向こうから、イタリア訛りの強い英語で初対面の挨拶をしてきた時である。 老夫婦の眼が妻の眼と合った時に、双方であっと言って立ちすくんだまま言葉が出てこなかった。 次の瞬間に双方でお互いの名を呼びあうと、金網越しにしっかり抱き合っていた。 そばにいた僕は何が起っているのかまったく訳が分からず、ポカンとしてそこに立っていた


話はその時から10年前にさかのぼる。
妻がまだ20代の半ばで、僕と出会う数年前にスカンディナビア半島に旅行をしたことがある。 グループツアーでデンマーク、フィンランド、スェーデン、ノルウェイを廻る二週間の旅だった。 そのグループでたまたま一緒になったのがチューリさん夫妻と娘さんのマリアンの3人連れだったのである。 彼らは たぶんひとりぼっちでツアーに参加していつもまごまごしている妻を見て可哀相だと思ったのだろう、声をかけてくれてそのあとの旅程を4人は文字通り朝から晩までまるで家族のようにいっしょに過ごしたらしい。
その頃の妻はあまり金に余裕のない生活をしていて、その時の旅行もギリギリ最低限の予算で来ていたから 最終地のノルウェイに着くころには資金が尽きてしまい、自由行動になってもツアーに組み込まれている食事以外にはレストランに入る金も、美術館などに行く金も無くなっていたそうだ。 (そのころからすでに、予定とか予算にはまったく気を使わない人だったという証拠がここにもある)。 そしてそれを知ったチューリさん一家が親切にもそのあとの面倒をすべて見てくれた、という話は僕ももう何度か聞かされていた。

アメリカに帰って来たあと、ニューヨークに住むマリアンと妻との間で手紙のやり取りがずっと続いていたそうだ。 それにもかかわらず、サマーヴィルに住む彼女の両親の住所などは、妻はもちろん知らされていなかったのである。

トニーと呼ばれていた御主人は、むかしイタリアのどこかの小都市で長いあいだ警官をしていたそうだ。 痩せ型で背が高く若い頃はさぞ女性に騒がれただろうと思わせるような美男子だった。 僕はよくトニーさんに、何でもいいからイタリア語を喋って欲しい、とお願いして、意味も分からないままにその音楽のような響きを、うっとりとしながら聴いていたものである。
奥さんの方は生涯を教師として終えた人で、御主人よりも英語がずっと達者で料理の好きな人だった。彼女のイタリア料理を、僕らの一家はどれだけご馳走になったことか。

あれだけ長い年月を過ごして、僕らの子供たちにとっては生誕地であるボストンなのに、最後に訪れてからもう15年も経ってしまっている。 その時は、大きく成長した子供たちを見せに、懐かしいサマーヴィルのチューリさん宅へ行った。 トニーさんはその数年前に亡くなり、奥さんがひとりでひっそりと暮らしていた。
荒れた菜園には作物はもう無く、その向こうに、僕らの一家が住んだアパートの裏庭が見えていて、そこには幼児と遊ぶ若い母親の姿があった。 ぼんやりとそれを眺める僕の眼に、その若い母親とあの頃の妻の姿が重なった。
そして見事に手入れの行き届いたチューリ夫妻の菜園でトニーさんがホースで水を撒く、あの水音が耳に響いているような気がした。
そういえば、トニーさんが呉れた赤唐辛子は涙が出るほど辛かったなあ。


関連記事: 『サマーヴィルのころ



ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

長老と若者、あるいは恋のゆくえ

bostonbw0061-blog.jpg

生贄
Franklin, Ohio


毎年夏になると必ず招待されるのが妻の親族が集まる大パーティだ。
100人以上の招待客が全員何らかの形で血縁的につながっているのは、アメリカの大家族では珍しくはないけれど、またどこにでもあるというわけでもなかった。 僕がこの一族にただ一人の日本人として参加してからもう30年以上がたつから、パーティで見るほとんどの顔は見覚えがあるけれど、彼等が僕とどんな関係になるかなんて覚えられるわけがなかった。 何しろ妻の直系の家族を別にすれば、大部分の人達を見るのは1年に1度このパーティだけだったから、名前も思い出せないのが多かった。 ところが相手の方では異人種の僕を忘れるわけがなく、幼い子供たちでさえちゃんと僕の名前を知っている。

この30年の間に、若い世代の人達が次々に結婚して子供ができて一族の主流になっていくのは当然の世の習いだから、それと共に僕の年齢的なランクがどんどん上がっていって、いつの間にか少数派の長老グループに入れられているらしい。 若者たちが僕に話しかける時の敬意のこもった言葉や態度でそれが察せられる。 といっても、僕の上には10年20年以上も歳上の真の長老がまだ10人は健在で、彼等は逆に僕をまるで若者のように扱うからなんとも宙ぶらりんな場所に僕はいるわけだ。

毎年のこのパーティの主役はいつも2頭の豚だった。
庭に設置されたグリルで、串刺しにした豚を電動のモーターでぐるりぐるりとゆっくり回転させながら何時間もかけて焼く。 豚を焼くのも、焼きあがった豚をテーブルに乗せて切り分けるのも、このパーティを取り仕切る男、ジム(僕にとっては妻の従姉妹の亭主)の役目だった。 ところが哀れな生贄となった豚の死体を見ていると、ポークが好きな僕でもいつも食欲が失せてしまい、ほとんど食べられなくなってしまうのが常だった。
生贄(いけにえ)の豚を取り巻くアメリカ人たちの表情は、交通事故の現場を取り巻く野次馬のそれに似ていた。


そういえば数年前のこのパーティで、初めて日本人の女性に紹介されたことがあった。 僕にとっては甥にあたる大学4年生のスティーブのガールフレンドで、名前をアツコさんといい彼とは学校の同級生だそうだった。 二人がアツアツの仲なのは誰の眼にも明らかで、スティーブは彼女をまるでお姫様のように扱っていた。 そのスティーブが僕にそっと告げたのは、近々大学を卒業したら就職が決まりしだいに婚約をして、将来は結婚をしたい、と。
それを聞いて僕は、そうか、この巨大なアメリカ人の一族にもとうとう僕以外の日本人が加わることになるのか、と感慨深かった。

ところがあくる年の同じパーティにスティーブが連れてきたのは、アツコさんではなくアメリカ人の女の子だったのである。 当然ながら 「どうしたんだい?」 と訊く僕を、スティーブは周りに聞こえない場所へひっぱって行くと言った。
「聞いてよ、伯父さん。 アツコには非道い目にあったんだよ。 ボクは去年あのあと卒業してB社に就職したんだけどね。 ほんとはシカゴの一流会社のA社に就職が決まっていたので、アツコと一緒にシカゴへ移って彼女はそこで仕事を探す、ということになってたんだよね。 ところが、アツコがそのままここで大学院に行くと言い出したんだ。
それでボクは仕方なくA社を断ってそれほど魅力のなかった地元のB社に決めたんだ。 彼女とどうしても離ればなれにはなれなかったからだよ。 そしたらさあ、数ヶ月たっていきなりアツコが言い出したのは、他に好きな人ができたから別れましょう、だって。 信じられる? 非道いよ。 日本人の女性ってあんなこと平気でするの?」

「バカ、日本人に関係ないだろ。 女にピンからキリまであるのはどこの国だって同じだよ。 だいたい、お前もケツの青い22や23で婚約だの結婚だのって10年早いっつうんだよ。 振ってくれて良かったとそのうち彼女に感謝するようになるさ。 俺が保証する」。
さらに僕は続けた。
「実は今だから言うけど俺は彼女にあまりいい感じを持たなかったんだ。 彼女、あの時初対面の俺に向かって何と言ったと思う? 長年アメリカに住んでいらした割には英語に訛りがあるんですね、だって・・・
俺もムッときたから、あなたも日本人にしては珍しいくらいのブスですね。 私は女性の容貌には全然うるさくない方なんですけど、あなたとやる時はきっと顔に洗面器をかぶせてやらなきゃダメでしょう。 ほら、そこにいる丸焼きの豚ちゃんの方がずっと可愛いですよ。 と言いたかったけど、まあまあ将来スティーブの嫁さんになる人だから、と思って我慢をしたんだ」。





ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

アメリカ人と日本人

T1406014-16-blog.jpg

二輪車の男
Dayton, Ohio, USA


このところ僕のブログでは 「アメリカ人気質」 のようなものが話題になっている。
日本人の我々から見るとまるで考えられないようなこと、いやたとえ考えてもそれを実行するなど死んでもできないようなことを、アメリカ人は堂々とやってしまう。 既成の概念に囚われない彼らの発想が自由でユニークなのは、もともと既成の概念などというものをアメリカ人は持ち合わせていないからだ。 そのへんが日本人やヨーロッパ人と大きく違うところだろう。

アメリカ人の発想のユニークさを僕が身を持って経験したのは、僕がボストンの音楽学校へ来てからすぐのことだった。 その頃のバークリー音楽院はまだ大学になる前の小さなジャズ学校のようなもので、日本人は数人しかいなかったけど、ヨーロッパから来たミュージシャンが多かった。
それは作曲のクラスだったが、少人数のそのクラスで毎回違うテーマによる作曲の講義があり、そのあとそのテーマに沿って宿題が出された。 宿題の作曲はピアノ曲の形式で書かれる事になっていて、次週のクラスで全員の作曲が発表される。 ピアノ専攻ではない学生の方が多かったから、その彼らのためにピアノを弾いてやるのは、初見に強いと見なされて教授から指名されていた僕の役目だった。

その中にボブという若いアメリカ人のトロンボーン奏者がいた。 彼が作曲したピアノ曲を僕が最初に演奏した時のことを忘れない。 「なんじゃこれは!」 と一瞬あっけにとられてしまったのである。 メロディとは呼べない音の羅列にルールを無視したメチャクチャな和音が付けられていて、小節ごとに拍子や調子が変わるという、なんとも奇妙キテレツな音楽だった。
弾き終わったあとにはクラス中に沈黙が流れ、しばらくして教授が困ったようにしぼり出すように一言 「うーん、これは実に奇妙な音楽だ・・・」 と僕が思ったと同じことを言った時にクラスには失笑が起こった。 当の本人であるボブは恥ずかしそうに頭をかいている。

そしてその後、この場面はクラスで毎週繰り返されることになったのだけど、そのうちに不思議な現象が僕の中で起こった。 僕は彼の作曲を演奏することをいつの間にか心待ちにするようになっていたのだ。 今日はボブがどんな面白いものを見せてくれるのか楽しみにしている自分がいた。 しかしクラス全体がそうだったとは言えない。 教授は相変わらず難しい顔を見せるし、学生たちからの批評はほとんど無く無視をされたようだ。 それにもかかわらず、僕は彼の曲を弾くのが好きになった。
クラスの学生たちの誰のよりも強烈な印象を与える音楽だと僕は思っていたが、それに比べれば日本人の自分が書く作曲など、ソツがなく無難で優等生の作る音楽にしか過ぎないことを僕ははっきりと分かっていたようだ。

学期末試験の数日後にカフェテリアでボブと同じテーブルに座ったことがある。 ボブは 「あの教授、俺にDを付けやがった。 あはは」 と笑っていた。
優等生の僕はもちろんA+をもらっていた。

ボブはその後どうしたのかなあ。




ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

あいつはもう死んじゃってるよ

Image0350-blognew.jpg

Me and My Shadow (1973)
Beacon Hill, Boston, USA


「あいつはもうどこかで死んじゃってるよ」 と言ったのは佐藤だった。
その声の調子には、昔の彼が大学でクラブの部長をしていた時のあの断定的な響きが、25年経った今でもそのまま残っていた。
「そうかなあ・・・」 とテーブルの向こうから異議を唱えたのは中山だったが、その声には何とはなしに自信がなかった。
「そうだよ、あいつは死んじゃってるよ」 と佐藤が続ける。 「だってさ、あいつが世界中どこに居てどんな状況に居たとしても、手を伸ばせばそこに電話があるわけだから、俺達の誰かに20年も連絡を取らないなんて、まるであいつらしくないじゃないか? 20年だぜ?」
その時、それまで黙ってビールを飲んでいた川村が顔を上げると、「あいつは死んでるとは限らんよ」 と言った。
「あいつは日本を捨てたんだ、と俺は思ってる。 アメリカで菜々子さんとあんな結果になって、彼女を含む日本人に嫌気がさしたんじゃないか? 俺だってサンフランシスコに居た時、命がけで惚れた日本人の女に振られた時は日本になんか二度と帰るか、と思った。 もし自分の両親が日本に居なかったら俺はたぶん帰らなかった。 たしかあいつは日本にはもう家族は無かったろう?」 そういう川村はこの歳になってまだ独身を通していた。
「あいつはそのうちひょっこり帰ってくるよ」 と彼は笑いながらビールの瓶を取り上げると自分のグラスに注(つ)いだ。
周りの数人から 「うーん」 というような声があがる。

十人もの男たちが集まっているのはどこかの温泉宿の一部屋らしく、浴衣を着てテーブルを囲んでいる者もいれば、Tシャツのまま縁側の籐椅子に腰掛けている者もいる。それぞれが五十歳に近い年齢という共通点を持ちながら、それまで背負ってきた生活が、薄くなった頭髪や膨らんだ腹に現れていた。 しかし、彼らの声と顔つきだけは昔と間違えようがなかった。



「あいつ」 とは僕のことである

ビデオテープに撮影されたこのシーンを、僕はアメリカの中西部のある都市の、自宅のリビングルームで眺めていた。
当時ビデオカメラに凝っていた二宮が、僕が一度も出席したことのない何回目かの同期会をつぶさに録画して、アメリカの僕へ送ってくれたのは、その同期会から数年経ったあとだった。 その直前に、彼らと僕の音信が復活していたからである。
僕は自分が話題の中心になっているそのビデオを見ながら 「佐藤のやつ、人を勝手に殺しやがって」 と苦笑したり、それほど親しかったとはいえない川村が誰よりも的確に僕のことをわかってくれていた、と驚いたりした。 それはまるで、死んだ自分の通夜に集まってくれた仲間たちを、亡霊となった自分がその場に居て眺めているような、奇妙で不思議な錯覚を僕に与えた。

そしてビデオの中で川村が予言したように、それからしばらくして僕は24年ぶりの日本へ帰って行ったのだった。
(今日のこの文章は、偶然だけど4年前に書いた 『新宿駅東口二幸裏』 のイントロのようなものと言えるかも知れない)。




ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

風の中の母

bostonbw0002-blog.jpg

海からの風
Revere, Massachusetts, USA


子供の頃のはなし。
一週間に一度か二度、母は小学生の僕を連れてバスに乗ると海辺の町までやって来て、そこに湧く温泉につかることを習慣にしていたころがあった。それは肌のあちこちに不思議な発疹が出る僕のための湯治だった。そしてあの温(ぬる)くて少し嫌な臭いのするお湯にたっぷり浸ったあと、母とふたりで海岸まで歩いて海を見ていたことを、きのうのようにはっきりと思い出すことができる。砂浜にあお向けに寝そべると、となりに座る母の膝に頭を乗せて、温泉で火照(ほて)った体に海からの風を気持ちよく感じながら、僕はしばらくの間ついうとうとしてしまう。
それから母と僕は靴を脱いで裸足になると、波打ち際をゆっくりと歩く。母のうしろから、濡れた砂の上に残る母の足跡に自分の足を重ねるゲームを続けながら、眼の前で潮風にひらひらと舞う母のスカートが眩(まぶ)し過ぎて、僕は目をそらさずにはいられない。それは午後の陽ざしの強さのせいではなかった。


***


幾時代かが過ぎて・・・・

先日、古いネガを整理していたらこんな写真が出てきた。自分の子供と子供の母親。
見ているうちに僕はいつのまにか写真の中の子供になって、あの砂浜に母といっしょに佇(たたず)んでいた。
どうも歴史は繰り返すらしい。

この子が眺めているのは大西洋で、僕が見ていたのは日本海だったという違いに、長い旅をして来たことを今さらに感じる。




浜辺の歌
由紀さおり 安田祥子



安田祥子の声が昔の母の声に驚くほど似ている。
夕暮れのひと時、母はピアノを弾きながらこの歌をよく歌った。この歌や 『出船』 や 『早春賦』 などの懐かしい歌を歌う時の母を、僕は子供心に美しいと思った。
声楽家になりたかった母の夢が、戦争、結婚、出産、そして中国からの引き揚げ、で破れてしまったあと、歌いながら母の胸を過(よぎ)っていたものは何だったのだろうか?




ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

夏祭り、サーカス、昆虫採集

IMG170-blog.jpg

カウンティフェアの見世物小屋
Hagerstown, Maryland, USA


夏祭り、、サーカス、昆虫採集、と並べるとそれだけで子供の頃の夏に帰ることができる。
今はまだ5月の半ばというのに夏のことを書いているのは、このところ気温が急上昇して今日など31度にもなったせいだった。

学校が夏休みに入ると毎年僕らの町へ巡回して来るのが木下サーカスだった。錦公園に建てられた巨大なテントの中で、空中ブランコや象、ライオンなどの曲芸を見た。金ピカの衣装に肌を露わにした女性たちの中には自分たちと年が変わらないような可愛い少女もいて、少年たちはうっとりとその少女に恋をした。
しかしなんといっても僕らにとっての圧巻はオートバイの曲芸だった。スチールで編まれた巨大の地球儀のような円球が置いてある。明かりを消した暗闇の中で、オートバイは耳が潰れるような轟音をたてて上へ下へ横へと走り回る。オートバイのヘッドライトが暗闇に描く縦横無尽の軌跡はこの世のものとは思われないほどの迫力があった。そして美しかった。


サーカスの興行が続くあいだは、その周りにはいろいろな店屋が立ち並んだが、その一つが見世物小屋だった。
入り口には、下半身が大蛇で上半身は乳房を露わにした女性の俗悪な絵が掲げてあって、老人がしゃがれた大声で 「親の因果が子に報い、見るも哀れなこの少女・・・」 などと叫んでいる。少年たちは怖物見たさになけなしの小遣いをはたいて中に入ってしまうのだが、そこでどんな奇形の少女を見たのか、まったく記憶に残っていない。覚えているのはそこに並べられた瓶の中のアルコール漬けの胎児などのグロテスクな陳列だった。
出口から外へ出た僕らは、何となく騙されたような気になって、それ以後二度と蛇女を見に行くことはなかった。

こうしてサーカスが町を去って行ってしまったあとの夏休みを、僕が夢中になったのは昆虫採集だった。

死せる蝶たちへのレクイエム




ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

日本語に飢えていた日々

artist-blog.jpg

ストリート アーティスト (1980年代)
Harvard Square, Cambridge, Massachusetts, USA



ボストンの頃、新しく知り合いになった日本女性がいて、「ボストンで何をしてるんですか?」 と訊いたら、
「ハーバードへ行っています」 と何気ない調子で答えてくれたことがあった。 僕は、へえーそれはすごいなあと一瞬尊敬してしまったのだけれど、あとでわかったのはハーバード大学の構内で夜間の成人教室の英語のクラスに通っているのだと知って、なるほどと思ってしまったことがあった。
その辺の町の塾と変わらない誰でも入れる成人教室と言わないでハーバードと言うところに、彼女の無邪気な顕示欲が表れているけれど、それを聞いて無条件に尊敬してしまう僕自身も、それに劣らない俗物だと、反省した。 日本なら、東大の学生食堂で働く人が 「東大へ通っています」 というのと同じようなものかもしれない。 しかしハーバード大学というだけでそれが人に与える印象が強烈なのは、アメリカだけではなくて世界中でそのようだから、東大の比ではないのかも知れない。

その彼女と同じような言い方をすると、実は僕もそのハーバード大学へ通っていた時期があった。

ハーバード大学は確か6つか7つの図書館を持っていて、そのメインの大図書館はアメリカで最古であるだけでなく、私立大学としては世界で最大の蔵書とシステムを持っているそうだ。
僕が頻繁に通ったのはそのメインの図書館ではなくて、ヤンチェンライブラリーと呼ばれる、中国と日本の書物だけを集めたユニークな図書館だった。 ある中国人の篤志家が設立したその図書館は、建物もずっと近代的で古い巨大な石の建物が並ぶこの大学の構内で、見る者に何となく不釣り合いな感じさえ与えた。
ヤンチェンライブラリーの一階はガラス張りの壁を持つ明るくて大きな閲覧室になっていたが、階段を登って二階へ行くと、そこはずっと薄暗く照明を落とした書庫になっていた。 書庫は真ん中の仕切りで二つに分けられていてその両側に中国と日本の文献がそれぞれ隙間なく棚に並んでいた。 嬉しかったのはその大部分が文学書で、科学関係や経済書はずっと数が少なかったことだった。 数種類の文学全集や個人全集が揃っているだけではなく、明治大正昭和を通して出版された個々の小説や詩集が並んでいた。 古い 『アララギ』 や 『文學界』 などの雑誌類もキチンと年代順に整理されている。 そのほとんどが出版社や著者からの謹呈なのは明らかで、コレクターがヨダレを垂らしそうな初版本が無造作に並べられているのには息を呑んでしまった。 これらの貴重な本がハーバード大学には黙っていてもどんどん送られてきたのだろう。 中には、萩原朔太郎の 『青猫』 や夏目漱石の 『草枕』 などの、布で装丁され桐の箱に収められた豪華本などもあったりして、すべての本が新品同様の状態で、誰か手にとった人がかつていたのかしらん、と思われるほどだった。

この図書館はハーバードの学生や関係者だけではなくて、一般にも公開されていて誰でも気軽に入ることができた。 貸出の冊数はたしか一度に5冊までと決められていたが、中国人か日本人であることを証明すれば他の面倒な手続きは一切なかった。
長い間日本語の活字に飢えていた僕にとって、この薄暗くていつ行ってもほとんど人気の無い書庫は、おびただしい宝物に溢れる秘密の洞窟だったのである。

十代の頃文学に溺れてあれほど本を読み漁りながら、二十代では完全に本から離れていた僕が、三十代前に異国の地へ永住して、長い間日本とも日本語とも離れていたあと、再びまたあの美しい日本の言葉に触れることができたのは、実に幸運なことであった、と思っている。



良い本だった、とわかるのは
最後のページを終えた時に
まるで友を失くしたような気がちょっぴりする
そんな時だよ。
Paul Sweeney





ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

思い出はダブルデッカーに乗って (3/3)

boston48-blog.jpg

ボストンの春 (1973年頃)
Government Center, Boston


ボストンの冬は長い。
その長い冬に、ある日突然に訪れるという感じで春がやってくる。 樹々にいきなり花が吹き出して、人々は待ちきれなかったように上着を脱いで外へ出てくる。
そしてその春は短くてすぐに灼熱の夏へと移っていくのだが、そうなる前にクララと僕はいつか会うことがなくなってしまっていた。 お互いに傷つくこともわだかまりもなく、悪い思い出の何も無い別れだったという点では、遠くに住む人との一時は頻繁だった文通がいつしか途絶えてしまうのに似ていた。 二人であれほど多くの時間を共有しながら、僕はついに彼女の奥深くに達することが無かった。 ベッドの中で数えきれない回数で肌を合わせながら、僕らは一つになったことが一度も無かったのだ。

ブラジルはもともと厳格なローマンカトリックの国だ。 若い女性は結婚する時にバージンであることを要求される。 どんなに男友達の多い女性でも最後の線だけは超えない、ということがクララの年代の女性では常識になっているらしかった。 だからこそバージンのままで一度結婚してしまったあと、外で他の男とのセックスを楽しむ女性が少なくないのだ、ということはクララがベッドの中で話してくれたことだった。 あれほど可愛がっていたクララとどうしても交わることができないということが、それほど僕の気にならなかったのは、前に書いたように僕は彼女に恋をしていたわけではなかったからだろう。 それに、クララはそれ以外のやり方で男を満足させる方法を十分に知っていた。 アナルセックスまで許してくれようとしたが、経験のなかった僕はその気になれなかった。 あれは男色家同士のものだ、という小学生程度の知識しかその頃の僕にはなかったのだ。

こうして僕らは別れ話を持ち出すこともないままに、お互いに会うことがなくなってしまった。




映画ならここで 『十年後.....』 という字幕が出るところ。


僕はすでに結婚をして、あるフォトラボの暗室技師として働いていた。 生まれた子供はもう2歳になっていた。 僕はサマーヴィルのアパートから毎朝、ヘッドホーンを耳にしてジャズを聴きながらポータースクェアの地下鉄の駅まで15分ほど歩いて、ボストンの仕事場へ通うのが日課になっていた。

そんなある朝、
ポータースクェアの商店街を歩いていて、衣料品屋の前でドアを開けて出てきた女性とぶつかりそうになって、お互いに顔を見てアッと双方で声が出た。 クララだった。
僕らはすぐ隣りのコーヒーショップへ入って話をした。 昔付き合った女性と十年後にいきなり顔を合わせて、複雑な違和感やぎこちなさを覚えること無しに古い友達同士のように話が弾んだ。 それだけ僕らの関係は淡いものだったのだろう。 そこには懐かしさだけがあった。 
彼女の英語はもう僕よりもずっとうまくなっていた。 数年前にアメリカ人と結婚して、今お腹の中に子供がいるという。 最初見た時になんとなく女らしさが加わってぽっちゃりとしたな、という印象を受けたのはそのせいだったのだろう。 あれこれと昔話の中で、僕と乗ったダブルデッカーのことは、アメリカへ来て最初のデートだったからとても特別な思い出になっていて忘れない、と言ってくれた。

別れる時にクララが笑顔で、"See you!" と言った。
僕は "Take care" と答えて彼女の頬にキスをした。
僕らは電話番号を交換しなかった。 

(終)



ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

思い出はダブルデッカーに乗って (2/3)

boston41-blog.jpg

陽だまり (1972年頃)
Christian Science Mother Church, Boston


クララと僕との交際は、最初からお目付け役のマリアの公認という形で始まった。
僕らはあっというまに仲良しになった。 道を挟んで向かい合ったアパートに住んでいるから、お互いにしょちゅう行き来するようになった。 夜のレストランで働いていた僕は昼間は何もすることがなく朝も遅かったが、そんな僕の部屋へ毎朝クララはそっと入ってくると、まだベッドの中でぐずぐずしている僕の眼の前で無言でクルクルと着ているものを脱ぎ捨てて全裸になって、その薄い褐色の身体を僕の横へ滑りこませてきた。

クララと一緒にいるととにかく楽しくて、鬱々とした毎日を送っていた僕の日常が見違えるように明るくなった。 見ているだけでたまらなく可愛いと思い、この子が喜ぶことならなんでもしてやろうという気にさせられた。
しかし彼女に対する僕の愛情は恋と呼ぶようなものではなかったようだ。 歳を経てからの恋は年齢の差がまったく左右しない、ということはずっと後になって学んだことで、30代の僕にとって12歳の年齢の開きは大きかったに違いない。 ところがクララの方ではそうではなかったようで、姉のマリアが 「あの子はあなたに夢中よ」 と云っていた。

マリアのボーイフレンドというのは不動産屋を経営する初老の男で、マリアにとっては恋人というより小金を持つ 「シュガーダディー」 だったのは明らかだった。 シュガーダディーは巨大なキャデラックのコンバーチブルを運転していて、それに乗せられて僕ら4人は隣州のニューハンプシャーの紅葉を見に行ったり、有名なピア・フォーの豪勢なディナーに連れて行かれたりした。 車の中でクララと僕は、幌を開けたキャデラックの一畳もあるような後部座席に陣取っていたが、どんな時でもクララはいつも僕の手を握ったり身体に触れたがり、姉の眼を盗んでは僕の唇にキスをした。



そんなクララと僕との付き合いが長続きしなかったのは、幾つかの理由が重なったようだ。
クララと知り合った頃、僕はまだ妻が出て行ったあとのアパートに住んでいたが、僕一人には大き過ぎて贅沢だったので、リースの契約が切れる時にずっと離れた場所の小さなロフトへ越してしまったこと。 それとクララが英語の学校へ通い始めると、彼女の周りには同年代の友達が次々にできて、僕と会う機会がしだいに少なくなっていったこと。 
しかし一番大きな理由は、僕らの変則的なセックスだったのではないかと思う。

(続)




ブログランキング
 にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

思い出はダブルデッカーに乗って (1/3)

Scan-130617-0002-blog.jpg

ファニエル・ホール前のダブルデッカー (1975年頃)
Boston, USA


昨年のこと、古いネガをスキャンしていてこの1970年代に撮った写真に遭遇した。
その粒子の荒れた傷だらけの画像を、フォトショップで時間を掛けて修復していると、しきりと何やら心を掠(かす)めるものがある。 思い出せ思い出せ、と突(つつ)いてくるのにそれが何なのかどうしても思い出せないままに修復を終えて、それからもう半年も経っていた。 今回改めてこの画像を取り出して見たらいきなりハッと蘇ってきた。
そうだ! クララのことだった。

あの頃、というのは30代初めの僕がボストンで暮らしていた頃のこと、クララという名のブラジルから来た女の子としばらく付き合ったことがあった。 クララとそうなったのはまったく予期していないきさつからである。


僕のエジェリー ロードのアパートのすぐ向かいのアパートに住んでいて、よく顔を見る女性がいた。 たぶん僕よりは4,5歳は年上だろう。 美人とはいえないがよく陽に焼いたような肌の色をした大柄の女性で、道ですれ違って挨拶を交わす時などその胸の大きさや腰のくびれや長い脚にいつも圧倒された。 少し親しくなってから知ったのは、彼女の名はマリアといってサンパウロから来たという。 ボストンのアダルトスクールでポルトガル語を教えていた。
それである時、偶然いっしょに地下鉄の駅まで歩くチャンスがあった時に思い切ってデートに誘ってみた。
「ごめんなさい。 私、ボーイフレンドがいるのよ」 と済まなそうな表情を見せてマリアが言った。 そして
「でも、あなたは素敵な人だと思うわ。 ぜひ紹介したい子がいるから今度うちでディナーをするから来てちょうだい」 と言った。

しばらくしてマリアからディナーの招待があって、そこで紹介されたのが彼女のボーイイフレンドというかなり年配の黒人の男と、マリアの妹のクララだった。 クララはサンパウロから数日前に着いたばかりだという。 素晴らしい英語を話す姉さんとちがってクララはカタコトの英語しか話せなかった。
あとになって気がついたのは、仕事を持つ忙しいマリアが、クララのボストンでの案内役を僕に押し付けたというところがあったようだ。 それに僕なら食事や観光などのデートの費用をクララに分担させることはないだろう、とちゃっかりと計算をしたのかどうかは知らないが、もともとマリアに惹かれていた僕にとってはあまり嬉しい話とはいえなかった。 ところが当のクララは、女の匂いがぷんぷんする姉のマリアの横では、まるで少女のように見えたほど小柄で、その愛くるしい顔を思わず見直してしてしまったほど可愛いかった。 それに性格も素直そうな子だったので、ディナーが終わる頃には僕は、「よし、この子に楽しい思いをさせてやろう」 という気になっていた。 それで僕はクララの子守役を承諾したというわけだった。

予期しないことからボストンの町で人を案内するはめになって、 車を持たない僕が最初にしたのが、観光バスの一日のツアーだった。 すでにボストンに数年住んでいながら僕自身はこのニューイングランド地方のどこへも行ったことがなかったから、これは楽しかった。 クララと僕はダブルデッカーの観光バスの二階席に肩をくっつけあって座り、行く先々で下車して名所を訪ねる時には、グループに混じってまるで十代の恋人同士のように仲良く手をつないで歩いた。 お互いに言葉があまり通じないからこれといって難しい話をすることもなく、クララにはガイドの説明もよく分からなかったと思うのに、それでも彼女が楽しそうに始終ニコニコとしているのを見ると、僕もついニコニコしてしまった。

(続)



ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

コプレースクェアーのこと

Image03010347-blog.jpg

炭焼きバーガー、ジャンボフライ付きで $1.75 (1974年ごろ)
Copley Square, Boylston Street, Boston


ボストンの町をほぼ東西に走っているボイルストン・ストリートは市内で一番の大通りで、両側にぎっしりと会社や商店が並び、昼も夜もなくいつも雑多な群衆に満ちていていた。 そしてそのボイルストン大通りと正確に90度に交差する無数の小通りは、東端のダウンタウン側からきちんとアルファベット順に通りの名前が付けられていて、ここもまた小さなレストランやバーや店屋が軒並みに並んでいる。 Arlington、Berkley、Clarendon、Dartmouth、Exeter...などの道の名前がそれだった。 洒落たことをしたものだと感心したけど、われわれ外国人にとってはニューヨークのように42番街とか76番街のように数字の方が便利なことは確かだ。

そのボイルストン・ストリートを歩いていると、途中でいきなり大きな空間へ来てしまう。 そこには大きな広場があって、群衆に揉まれながら緊張感を持って歩いていた人達が、この区域へ来掛かると何となくほっとする。 そこがコプレースクェアーだった。
写真の背景に見えているのが由緒あるコプレースクェアーホテルで、広場の右手にはボストン図書館、左手は巨大なトリニティ教会があった。 広場には大きな円形の噴水があり、夏には子供たちが服を着たままずぶ濡れになって遊んでいた。 そしてこの広場は現在はボストン・マラソンのゴール地点でもある。 僕が住んでいた頃はゴール地点がボイスルトンストリートのずっと東のプラデンシャル・センターだったのがいつのまにかここに移されたので、ランナーたちはさらに2キロほど余分に走ることになった。 (このホテルは後年取り壊されたあと、超近代的なコプレースクェアーホテルとして2009年に再建されている)。

広場の角には地下鉄の出入口があって、ギシギシと音をたてる櫛の歯のような形をした木製のエスカレータで地上まで上がってきた人は、通りを渡ればもうそこは広場の中だった。 便利だから、僕はもう思い出せないほどの数多くの人達と、会う約束をこの広場でしたものだ。 天気の良い日なら噴水の端に腰掛けて来る人を待ったし、雨や雪の日にはトリニティ教会のファサードで会うことにしていた。 僕の住んだアパートはボイルストンの東端にあったから歩いて20分、地下鉄に乗ればひと駅の距離だった。

今この写真を見ていると、さまざまな記憶がどっと蘇る。
バーガーがこんな値段で食べられた時代。 煙草が50セントで買えた時代。 アパートの家賃が150ドルだった時代。
そして僕が、
 怒りと悲しみに挟まれて生きていた時代、のことだった。




千年生きた人よりも多くの思い出を、私は持っている。
ボードレール




ブログランキング
 にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

笑顔の効用について

Scan-130702-0002-blog3.jpg

笑い
ボストン マラソン(197?年)


日本へ行っていつも感じるのは、日本は笑顔が少ない国だということだ。
なにか可笑しいことがあれば顔を崩して笑うのは世界共通だけど、僕がここでいうのは日常生活の中でのさりげない笑顔ということだ。 それも家族や友人などの親しい人達に対してだけではなくて、他人に対しての笑顔、ということである。 日本人は古来、感情を顔に表さないように躾けられてきたから、ニヤニヤするのは下品だと決めつける傾向があるような気がする。 しかし、男性でも女性でも謹厳そうで恐い顔をした人が、時たま見せる優しい笑いはすごく魅力的だと僕は思う。

東京の街の雑踏を歩いていていつも経験するのは、あやうく人とぶつかりそうになった時など、お互いに顔も見ないで、というより意識的に眼をそらせながら無言ですれ違うのがほとんどだった。 ごくほんのたまに 「失礼」 と挨拶する人は決まって年配の人達だ。 そんな時アメリカ人なら、必ず相手の顔を見ながら 「エクスキューズミー」 と言って双方が微笑を見せるのが普通である。

アメリカで暮らし始めた頃、笑顔が至るところで見られるのに気がついたが、それに慣れていない日本人の僕はつい戸惑ってしまうことがあったようだ。 そしてしばらくするうちに、その笑顔はアメリカ人が誰とでもうまくやっていこうという処世術なのだと気がついた。 つまりメルティングポッドと呼ばれる雑多な人種のるつぼの中で、笑顔はお互いの摩擦を少なくするための潤滑油のようなものなのだ。
買い物をしたり食事をする時も、勘定を払う時に店員が 「ありがとうございます」 というのは当たり前だけど、客もそれに対して 「ありがとう」 と答えてにっと笑うことで、僕たちはお互いに助けあって共存していくんだよ、という気持ちを表しているように僕には思えた。

ずっと昔ボストンに住んでいた頃のことだけれど、僕は笑顔に救われた経験がある。
1970年代の半ば頃、レストランのウェイターとして働いていた時のことだった。 その頃の僕はいろんな事が起こったあとで失意のどん底に生きていた日々だったから、レストランで働く僕はいかにも不機嫌で無愛想なウエィターだったろうと思う。 それがある日、 二人連れの若い女性の客が入ってきて僕が受け持っていたテーブルの一つに席を取った。 最初から何となく感じの良い二人だなと思っていたが、わけてもその中の一人はウェイターの僕と言葉を交わす時にいつも笑顔を絶やさない。 ドリンクを持っていった時も料理をテーブルに置いた時も、グラスに水を注いで回るときにも、必ず話を中断すると下から僕の顔を見上げて笑顔で 「ありがとう」 と言った。 
体も心も疲れきっていた僕にはその笑顔がどんな優しい慰めになったことか。 そして笑顔というものは相手の心に反射するのにちがいない。 それまでトゲトゲしかった僕の態度が、急にまるく優しくなっていって、他のテーブルの客達にも同じように優しく接している自分に気がついた。 そしてその日は一日中何となくしあわせだった。

あの時の彼女の美しい笑顔がその後の僕の生活を変えてしまった、といっても言い過ぎではない。
それ以来のことだ。 どこにいても人に何かをしてもらった時には必ずその人の目を見て、微笑しながら 「ありがとう」 と言えるようになったのは。
僕は40年経った今でもそれは続けている。

***


この話には後日談がある。
レストランでその女性の笑顔に魅了された数日後に、ボストン美術館を訪れていた僕は、ギフトショップで彼女にばったりと出会ってしまったのである。 そこでパートで働いているという彼女は僕のことを覚えてくれていて、ちょうど休憩の時間だったのでいっしょに館内のカフェに行ってコーヒーを飲んだ。 ビバリーという名だった。 駆け出しの女優でシンガーだというビバリーの話を聞いたり、僕も自分のことを話しているうちに短い休憩時間はあっという間に終わってしまった。 
別れ際に思い切って、「今度改めてゆっくり会いたいんだけど?」 と勇気を出して言ったら、彼女はにっこりと笑って 「うん、会いたい」 と答えてくれたのだった。

ところがその後、ビバリーと僕のつながりはデートを二度しただけで終わりになってしまった。
ビバリーはすでに初めてのニューヨークのブロードウェイでミュージカルの稽古が始まることになっていたうえに、その公演のあとはボストンに一度帰ると、すぐにそのままハリウッドでデビューをするために西海岸へ越して行ってしまったからだ。

一年ほど経ってからいきなりウディ・アレンの映画 「アニー・ホール」 に端役で出ていた彼女を見たと思ったら、そのあとはテレビドラマや映画 「ヘアー」 の主役など次から次に絶えず彼女の顔を見ることになる。 そしてそれからイタリア人の貴族と結婚したと聞いた時は、イタリアの血を引く彼女ならなるほどと頷いた。 ところがその結婚のさなかに外に恋人をつくってその一人が自殺をしてしまったり、イタリア貴族との離婚後は俳優のアル・パチーノとのあいだに双子の子供を作ったり、僕なんかには想像もできないようなまったく別世界の人になってしまっていた。 それにもかかわらず、僕の覚えている24歳のビバリーは、あのレストランで笑顔を見せてくれた一人の優しい女の子として僕の心から消えることはなかった。
彼女の名は Beverly D'Angelo という。



ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

三十年目の和解 (2/2)

Image03010305-blog.jpg

記憶 (1972年)
North End, Boston USA


それからYが身体を壊してしまったのだ。
はっきりと記憶にはないけれど、たしか結核だったと思う。 あの病気にとって長い厳しい冬を持つボストンほど最悪の環境はなく、その上ベースを弾くことも医者に止められた。 転地を勧められたYがヒロちゃんと二人でブラジルへ引っ越していったのはそれからしばらくしてからである。 なぜブラジルだったのか、僕は当然知っていたはずなのにそれが思い出せない。 それだけではない。 彼らがボストンを去る時に僕は彼らにさよならさえ言っていないのだ。 というのは、その直前にYと僕は仲違(たが)いをしてしまっていた。 原因になったのは今から思えばそんなに大したことではなかったと思う。 その詳細さえもう覚えていないくらいだから。 一口に言えば、あの頃の僕に残されていた小さな最後の誇りのようなものを、Yによって無残に傷つけられた(と当時は思っていた) ある事件のせいだった。 彼がヒロちゃんや妻を通して謝ってきたのにもかかわらず、僕は彼を許そうとしなかった。 たぶん、そんな風に僕を傷つけた相手が、他の誰でもないYだったということが、どうしても許せなかったのだろうと思っている。

そんなことがあって彼らがボストンを去って行ったあと、それまで太い綱で繋がっていたYと僕との関係はまるで鉈(なた)でぶち切るように終わりになってしまった。
僕は僕でそのあとは、唯一の身内だった日本の父が亡くなったり、妻が家を出て七年間の結婚に完全な終止符が打たれたり、それといっしょに音楽を含めてあらゆることを諦めてしまったり、というようなことが次から次へと重なっていた。 そのあとは僕が長いあいだ思い出すことさえ避けていた無頼の七年間が続くことになるのだが、その時期のことはもう何度も以前に書いているので繰り返すのはよそう。

それから三十年が過ぎて、今から十二年前のことである。
Yがいきなり電話を掛けてきた。 ハワイからだった。
ボストンで別れたあのあと三十年のあいだ、僕らは電話どころか手紙一本、葉書一枚も交換したことはなかったのだ。
電話の話の中で僕が知ったのは、Yはいつのまにか日本では名を知られた心理学者になっていて、かなりの数の翻訳書や著述集が日本で出版されていた。 そしてハワイに住みながら常時日本へ帰っては講演やセミナーに飛び回っているという。 そんないろいろな過去の成功を自慢の匂いを隠そうとしないで話してくれているYに、僕は昔のままのYを見て 「おまえ、昔と変わんないな」 と笑って云った。 そしてその瞬間に長年のあの 「わだかまり」 のようなものがきれいに消えてしまっているのに気がついた。
俺たちはいつか日本で会えるだろう、とお互いに約束をして長い電話を終わりにした。

電話を切ったあと、僕は長い間ぼんやりとしていた。 そうか、と初めてわかったような気がした。
学生だった昔からYが僕に対して抱いていた子供らしい 「甘え」 と 「ライバル意識」 のようなものを、あいつは今まで持ち続けていたのだと。
三十年前、ボストンでの僕は自分自身が置かれていた切羽詰まった状況のために、それを理解してやる余裕がなかったのだ。 Yの悪意のない無邪気な言動や行為をそのまま受け止めてやればよかったのに。
しかしそこに気がつくまでに三十年という歳月を掛けなければならなかったとは・・・

***

その三十年ぶりの邂逅の話を、仕事場で秘書のk子さんにYの名を出さないでちょっと漏らした時に、彼女の顔色が変わった。
「その人ってYさんでしょう? 私よく知っています。 学生の頃バイトでYさんの東京の事務所に一年ほど勤めていました。 だから毎日顔を合わせていたんです」
彼女と僕はもう何年もいっしょに仕事をしながら、僕らのお互いの接点がそんな昔にできていたのだとは今まで知らなかった。 僕は改めて 「因縁」 ということを実感していた。

二年前の秋、大学の仲間が十一年ぶりに集まった時に僕はそのために帰国した。 その時Yもたまたまハワイから日本に来ていたにもかかわらず、彼は同期会に出席しなかった。 東北地方での講演の日程とぶつかってしまったからだ。 Yを抜いた十人が紀伊と京都で数日間遊んだ。
日本を発つ前に僕はYに電話を入れてみたが、忙しい彼を捕まえることができなかった。


そして今年の四月三十日。
Yはいきなり死んでしまった。
肝臓に癌を発見してから三週間しか経っていなかった。

(終)



男たちは友情をまるでフットボールのように蹴リ回すにもかかわらず
壊れることはないようだ。
女たちは友情をまるでガラス細工のように扱うのにもかかわらず
粉々に砕けてしまうことがある。
アン・モロー・リンドバーグ



ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

三十年目の和解 (1/2)

Scan-130725-0005-blog.jpg

プレイボーイクラブ (1971年)
Boston USA


トランク一杯に詰められた膨大な数の古いネガを、根気よく漁っていくという作業を始めてからもう一年が過ぎた。
たぶん僕が生きているあいだにこれが最後になるかも知れないという予感があって始めた大仕事だった。
いざ始めてみるとこれがなかなか大変で遅々として先へ進まない。 ほとんどのネガは当時フィルムを現像したあとにそれぞれコンタクトプルーフを付けていたので、何十年経って黄色く変色したそのコンタクトシートを、ルーペを眼に当てて一コマづつ丹念に辿ってゆき、以前に見落としたり無視したりしたショットに行き当たると、そのネガを引き出してネガ専用のスキャナーでスキャンをしてPCのフォトショップに取り入れるという作業だ。 そして気に入ったものがあるとついその場で拡大して写真処理を始めてしまうから、これではなかなか次に進まないわけだ。 

そういう中に、1971年頃に撮られたこのボストンのプレイボーイクラブのショットがあった。
すぐに思い出していたのは、友人のYのことだった。

***

Yは僕とは東京の大学の同級生で、いっしょにジャズをやった仲間の一人だった。
ベースを弾いたYとピアノの僕とはジャズに対してまったく同質の情熱を持っていたようで、大学のバンド練習室に遅くまで残っていっしょに練習をしたものだ。 年齢の割にませていた僕と、まだ子供のあどけなさを残していたYとは歳は一年しか違わなかったが、まるで兄弟のような関係だったといってもよかった。 そしていつの間にか二人とも学校に行かなくなって、気がついたらプロのミュジシャンになっていたが、僕らが歩いた道はかなり違っていたようだ。 岡山の素封家の長男だったYは生活の心配がなかったから、まっしぐらにジャズの道へと進んで行けたのに比べると、僕はピアノで生活費を稼ぐためにそれこそ何でもやらなければならなかった。あの当時は、少し楽器ができれば面白いように金を稼ぐことができた時代だったから、 いつの間にか僕はジャズから離れて芸能界に入り込んで行った。 しかし、違うとはいえ隣合わせの世界に住んでいたYと僕の交友はずっと変わらずに続いていた。 僕はすでに友人の誰よりも先に結婚していたが、ステージやテレビ局を駆けまわる僕とバレエダンサーであった妻とのライフスタイルはひと目にはこの上なく華やかなものとして映っていたようだ。 一方、ただひたすらにベースに専念していたYは女性などにまったく興味はなかったようだったが、ある時、妻の親友であったヒロちゃんという女の子を紹介したあと、二人はあっという間に結婚してしまった。 そんな経緯(いきさつ)があったから、Yと僕のあいだにはごく親しい家族同士のつきあいもあったのだ。

そのYがボストンのバークリー音楽院に留学してヒロちゃんといっしょに日本を離れたあと、しばらく経ってから僕と妻を呼び寄せてくれたのだった。 「ここまで日本で仕事がうまく行きながらなぜ?」 と反対した周りを無視して行くことに決心した理由は二つあった。 もう二十代の終わりにさしかかっていた僕は、どっぷりと浸かっていた日本の芸能界にうんざりしていて、もう一度ジャズをやり直したいという渇望感のようなものがあったことと、七年のあいだに少しづつ壊れかかってほとんどどうしようもないところまで来ていた僕らの結婚を、まわりの全てを切り離した外国でもう一度やり直すことで救えるかもしれない、という望みを持ったからだった。

僕らは日本を離れてボストンに渡る。
最初の数週間をYのアパートで過ごしたあと、学校が始まる頃には僕らも新しいアパートに移っていた。 Yはその前からすでに大学をやめていてあちこちアメリカのバンドで演奏をしていた。 あとになって思うと、ピアノよりも作曲編曲に興味があった僕にとってバークリーのプログラムは実に目から鱗(うろこ)が落ちるような新鮮さがあったのに比べて、ベース演奏だけに徹していたYにとって机上の音楽理論はつまらないものだったのだろう、と推測できる。

僕らがボストンに移ってきた頃、Yが演奏していたのがこのプレイボーイクラブだった。
ボストンの著名なピアニスト、ボブ・ウィンターがYのベースに惚れ込んで起用したのだが、音楽をやる人間が掃いて捨てるほどいたこの町で誰もが羨む良い仕事だった。 東洋人のYが選ばれたこと自体が、彼のベーシストとしての才能のレベルを語っている。
ダウンタウンにあったこのプレイボールクラブに僕は時々遊びに行ったものだ。 演奏者の友人であったからできたことで、そうでもなければ僕みたいな学生が、この高価な洗練されたメンバー制の大人のクラブに行く機会などまず無かったに違いない。


(続)

ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

古いアドレス帳

T01venice07-blognew.jpg

閉ざされた窓
Venice, Italy


知らない国の知らない町をさまよう。
歩いていて新しい道にぶつかる度に、そこを曲がるかそのまままっすぐ進んで行くか迷う。 その決定はいつも直感的なもので理由はなかった。 新しい道を行くことに決めた時は、もしその先に何もなければまたここへ帰って来ればいいと思う。 しかし、元の場所へ帰って来ることは、偶然でそうなってしまった以外はほとんどなかった。 何となくわれわれの人生に似ている。

迷路のようなベネツィアの町はそんな歩き方をするのにはうってつけの場所だった。 僕は昼間の大群衆がまだ眠っている時間にうんと早起きしをして、夜明け前の町を彷徨する。 そこには自分だけのヴェネツィアがあった。
そうしていつの間にかこんな所へ来てしまっていた。 ちょうど夜が明けたばかりで、人々が起き出してくるにはまだ早い。 どの窓もぴったりと黒い雨戸が閉じられていて、窓の内側ではいったいどんな生活が営まれているのか想像もつかない。 よく見ると一つだけ開けられた窓があって、引かれた白いカーテンが朝風に揺れていた。 それを見てなんとなくほっとする。 そこに暮らす見知らぬ人となんとなく心が通じたような気がしていた。  

ひとの心も同じだ。
お互いに心の窓を少しずつ開きながら新しいつきあいが始まっていく。 ひとにもいろいろあって、固く心を閉ざしてめったに窓を開けない人もいれば、少しずつゆっくりと時間をかけて開けてくれる人もいる。 そして僕のように、わりと簡単に開け放してしまう人間もいる。 それがいったん心が通じ合えば、そのつきあいがどこまで深くつながっていくかは人それぞれに違うとしても、僕にとってはそのどれもが大切な人たちとなっていく。
そういう人たちとの付き合いも、長い間変わらずに続いているのもあれば、いつのまにか宙に留まったまま自然と疎遠になってしまったものもある。 「去るものは追わず、来るものは拒まず」 とは長い間に僕の人生の理念となってしまったようだ。

それが時々失敗をする。
あの時、 「去るもの」 をもっと追って行けば良かった、追うべきだったと後悔したこともあったし(これはけっこうあった)、違う時には 「来るもの」 を拒んでいればあんなことにはならなかった、と反省したこともある。(これはずっと少ない)

古いアドレス帳を見ながら、そんなことを考えた。



ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ

倒錯の世界へ

T01paris58-(2)-blognew.jpg

男たちと男たち
Paris, France


パリに2週間ほど滞在したホテルの近くで、トランスベスタイト(transvestite)、つまり服装倒錯者たちのパレードに出くわしたことがある。
人気のあるコミックの役柄を模した奇抜な衣装もあれば、ムーラン・ルージュの舞台から抜け出てきたようなエレガントなダンサーや、あるいは普段着でちょっとそこまでショッピングに、というふうなパリジェンヌまで、なにしろわんさと100人くらいの美女熟女が通りを練り歩いていた。 そして彼らはその全員が男性なのだ。
中にはどこから見ても絶対に女性にしか見えないという完璧な人もいれば、化けそこねて男性丸出し、という人もいた。 
いや、化けそこねて、というのは正確ではない。 彼らには女に化けるという意識は最初からなくて、単純に女性の衣服を身につけることを楽しんでいる、という印象を受けた。
パレード終了後には一般の観客が混じって、衣装を称賛したり雑談を交わす場面があちこちで見られた。 あの、今は古典になったフランスのコメディ、"La Cage aux Folles" (邦題、Mr..レディ、Mr.マダム) に見るようなゲイの世界は、この町では舞台や映画の中だけではなくて、現実の生活の中に存在しているようだった。

それについて思い出したこと。
昔、30代だった頃の僕はボストンから毎週のようにグレイハウンドバスに乗ってニューヨークまで遊びに出かけていた。 知り合いの日本人シェフたちが3人でシェアしていたアパートがマンハッタンのど真ん中にあって、僕はいつでも好きなだけそこへ滞在することができたのだ。 そしてその高層ビルの同じ階の住人で、エレベーターの前でいつも顔を合わせたのが、スピッツを胸に抱いた美少女だった。 自然と会話が始まって、彼女といっしょに犬の散歩をしたり、道端のカフェでランチをしたり、色んな話をするようになった。
ある時、シェフたちが出かけたあとのアパートへ彼女がやってきて、部屋へ入るなり 「まあ、男クサーい」 と笑いながら顔をしかめると窓を開け放して、そのあと半日をかけてテキパキと動きまわり、アパート中をきれいに掃除してくれた。

そんなことがあったあと、ごく自然の流れで、ある夜、彼女の部屋のベッドの中で衣服を剥ぎ取った二人が肌を合わせた時に、突然アッと思ってしまった。 (皆さんもう気がついている思うけど) その美しい少女は男の子だった。

不思議だったのはそのあと、気持ちも身体も萎えてしまったにもかかわらず、違和感とか嫌悪感がまったく湧いて来なかった。
「驚いた? ごめんなさい。 いつもここまでは同じなの。 蹴飛ばされたこともあるわ。 でもあなたのこと好きよ。 しばらくこのまま抱いてて」
と、哀しそうに云った彼女に、僕はすごく優しい気持ちになっていて、そのままの姿勢で彼女を抱いて長いあいだ話をした。
男とも女とも判別できない身体で生まれてきたこと、最初は両親に男の子として育てられながら、小学校にあがる頃女の子に変身したこと、口のうるさい小さな町にいたたまれなくなって、高校を出たあとニューヨークへ出てきたこと、そしてニューヨークで仲間を見つけて 「その世界」 へと入っていったこと、夜のクラブでダンサーをしながらお金をためて、いつか本当の女になるための手術を受けるのが夢だということ。

ポツリポツリとそんな話を耳元で囁く彼女が僕は無性に愛しくなって、ちょっぴりと膨らんだその胸に唇をあてる。 細く喘いでいた彼女が上半身を起こすと、身体を下にずらせて僕の身体にキスをしてくれた。
優しくて柔らかくて、深いキスだった。

その夜は外は雨が降っていた。


あのこが話してくれたこと
t.A.T.u







ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ