過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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北へ - 日本の旅(7)

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国境の長いトンネルを抜けると雪国であった


50年近くも日本を留守にしているうちに、頭の中の日本の地理がすっかりおかしくなってしまった。
たまに帰国をしてもいつも行く先は東京と山陰の郷里の2ヶ所と決まっているから、それ以外の土地、とくに昔から馴染みの薄かった東北地方はすっかり混乱していたようだ。 あらためて日本地図を見直したのはあの東北大震災の時である。 それまではたとえば秋田と山形がどちらが北にあるのかわからなかったり、岩手県が太平洋側だったのか日本海側だったのか確かじゃなかったり、それに第一、宮城という県の存在を完全に忘れていた。 (宮城の皆さん、ごめんなさい)。 そんな、日本人が聞いたら信じられないような混乱が東北大震災のお陰で訂正されたわけだ。

今年の大学同期会を新潟と佐渡でやると聞いて、また日本地図を見直してみた。
佐渡ヶ島はもっとずっと北にあると思っていたので、大学の頃ガールフレンドと数日の旅をした能登半島からそんなに遠くないのを知って驚く。 それに対岸の新潟県は意外と東京に近いじゃないか。 道理で東京組の3人は車で行くことにしたのだろう。
そして僕もそれに参加したわけである。

出発の前夜は車のオーナーである I の石神井宅で泊めてもらう。
風邪をひいていた僕のために、 I の奥さんが数種の薬やマスクなどを用意してくれて、薬の飲み方などを丁寧に説明してくれるのに感謝した。 マスクというのは日本人の専売特許だと思っていたので、外国人がよく馬鹿にするそのマスクをするのに僕はちょっと抵抗があったけど、奥さんにきつく言われて、はい、ちゃんとします、と約束をする。 僕は昔からこの奥さんの大ファンなんだけど、この時は僕の風邪を心配してくれているというより、その悪質の風邪を最愛のご主人に車内で移すのを懸命に予防したのだろう、などと思っちゃいけないと自分に言い聞かせる。 そう、彼女はいつも本当に優しくてそんな人じゃない、僕のことを心配してくれてるのだと思い直した。


朝の6時40分に石神井公園駅に集合した4人で出発する。
新潟から佐渡へのフェリーに遅れないように、朝食も I の奥方が用意してくれたおにぎりをを移動中の車内で食べる。 途中停止はトイレだけと、リーダーの I に最初から釘を刺されていたが、新潟までの数時間のあいだにそのトイレに7回も止まったことで、4人の高齢が証明されてしまった。

新潟は僕は何度か行ったことがあるが佐渡は初めてである。
正直に言うと、とくに佐渡へ行きたいと思ったわけではなく、何年ぶりで帰る日本なら行くのはどこでもよかったのだ。 ハイウェイを走る車の後部座席で、窓ガラスに額を押し付けて、次々と変わっていく風景を、僕は飽きること無く眺め続けた。








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日本人礼賛 - 日本の旅(6)

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シャトルを待ちながら
成田空港


日本へ帰るたびにいつも感激することと言えば、リストにすればかなり長いものになるけど、そのトップに来るのはいつも同じである。
それは日本人のサービス精神。

これは外国から来た人なら日本にまず最初の一歩を踏み出した瞬間に感じる。 逆に言うと外国へ出たことのない日本人にはまず理解のできない感覚で、自分がどんな素晴らしい国に暮らしているかは外国、とくにアメリカヘ来てみて初めてわかる。
日本の地へ到着した外国人がどこへ行ってもまず感じるのは、日本人は他人への対応が親切で丁寧で真心がこもっている、ということにはまず疑問の余地が無い。 もっともデパートなどでは礼儀の正しさが徹底し過ぎて、もうちょっとフレンドリーでもいいんじゃないか、などとフレンドリーが看板のアメリカに住む僕なんかは思ってしまう。 まあ営利企業などで客を大切に扱うのは当然だろうけど(アメリカにはそれさえ無い)、今回驚いたのは市役所などの公共事業で市民への対応が実に良く行き届いていることだった。 とくに高齢者に対する所員の扱いはそばで見ていても気持ちが良いくらいに、至り尽くせリと言っていい。 アメリカの役所なら、世話をしてやるんだという見え見えの態度でつっけんどんに対応されるのとはなんと大きな違いだろう。

ファーストフードの店でも客に対する店員の態度はちゃんとしたレストランのそれと変わらない。 アメリカなら、他に仕事がないから嫌々ながらやってるんだ、というのが顔にも言葉遣いにも出ていてそれを隠そうともしない。 小さな商店でも似たようなもの。 客がものを買うんじゃなくてお願いして売ってもらっている、という具合にこれは売る方も買う方も誤解している。

今回の日本で、もう何代も続いてきたような街角の八百屋のおばさんなんか、明るくて陽気で、その上高級店には無いユーモアとフレンドリーさがあった。 釣り銭を貰う時に僕がうっかり100円硬貨を落っことしてしまうと,、おばさんはそれを床から拾ってふっと息を引きかけると僕に返そうとせず、キャッシャーから違う硬貨を取って僕の手に握らせる。 汚れた金を客には握らせないというのは、これは日本の文化以外の何物でもない、と僕は感激して心からおばさんにありがとうを言うのであった。
考えてみると、アメリカに暮らしていてサンキューという言葉は、それこそ日に何十回と発するけど、心からサンキューと言ったことなんであっただろうか、と思ってしまう。

こういう話は日本へ帰るたびに毎回蓄積していくもので、いちいち書き始めるとキリがない。
以前ブログにも何度も書いていてそれをあらためて読み直してみると、たしかに、あの頃ほどの感動は最近の日本に慣れるに連れて少しずつ薄れていっているようだ。それでも日本滞在のあとでアメリカへ帰ってくると、その日から 「ああ、アメリカ…」 と溜め息をつくのが習慣になった。
そしてこれは周りのアメリカ人には絶対に言わないことだけれど、ここなら声を大にして言える。
「日本人はすばらしい!」

でもかんじんの日本人はそれを知らないんじゃないのだろうか?











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昭和を恋う - 日本の旅(5)

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伊藤足袋店


アメリカに暮らしながら遠い日本を思う、という生活をもう何十年と続けてきた。
そんな時に思い出す日本というのは、当然ながら自分が20代の終わりごろまでを過ごした昭和の時代の日本だから、時々実際に帰国して現実の日本を目の当たりにすると、そのギャップの大きさにびっくりし、そして混乱してしまう。






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咲い地蔵


今回の帰国でも、犬のようにクンクンと鼻を鳴らして昭和の匂いを嗅ごうとするのだけれど、東京のような大都会で、しかもわずか数日の滞在では、どうしても探し当てることができなかった。






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トップスター


その点、自分の郷里である山陰の田舎ではどうだったか、というと…
そこでは町中いたる所に昭和を見ることができたけれど、それら前時代の遺物たちは死体となって遺棄されているか、生きていても息絶え絶えに死を待っているかのどちらかだった。






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出現地蔵


にも関わらず、なぜかホッとする自分をそこに見出すのは、かつてここに確実に自分が生きたという実証を見るからに違いない。
それは今の日本に住む人々にはまず理解できない感覚なのだろうなあ。 笑われてしまいそうだ。






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おなじみや


今日の1連の写真は朝日町通り。
その昔、ここは夜の盛り場だった。 酔客やバー勤めの女たちが狭い町筋を右往左往する中を、少年の僕は胸をときめかせながら好奇心の目をいっぱいに開いて通り過ぎたものだった。






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沖縄酒場 ゆんたく


バー、クラブ、レストランが軒並みに延々と続くこの町並みは、今では見る陰もなく衰退したとはいえ、それでも数年前よりはいくらか活気を取り戻したように僕には思えた。 その印象をタクシーの運転手が確証する。
「そうです。 少しずつ息を吹き返して来ているようです。 まあ昔のようにはならんでしょうけどね。」

ひょんなことからこの町に僕が住む家もできた今、住んでみてもいいという気持ちが強い。
よしどうなるか見届けてやろう。
そう思った。





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茶の世界 - 日本の旅(4)

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容子の茶室
米子市旗ケ崎


容子の家には茶室が2つある。
1つはこの屋敷が建てられた時に北の端に造られた4畳半の茶室で、障子の外には荒れ庭が広がり、朝の数時間だけ陽が射すこの茶室はほとんど1日中薄暗くてひっそりとしている。 谷崎潤一郎の 『陰翳礼讃』 をそのまま再現したような趣のあるこの空間を僕は好きで、この屋敷に滞在するたびに1日に1度はそっとここへ忍び込んで、ひとりでぽつねんとする習慣があることを、ここの屋敷の主人は知らないに違いない。

そして容子の2つ目の茶室がこの写真。
もともと客間として使われていた十畳間を、裏千家の師匠である容子が大きな茶会をやるための茶室に改造された。 縁側の障子にふんだんに陽があたり、障子を開けるとそこには庭が広がっていて、すぐ眼の前に今回のクイズとなった杏の樹がある。
この部屋はふだんいろいろな目的に使われる。 洋式の応接間を使わない時はここが客間となったり、すぐ隣が台所だから宴会にはもってこいで、たまにしか帰国しない僕を迎えて多勢の友人たちが集まってくれるのもこの部屋だった。 宴会のあと、車で来た来客が酔っ払って帰宅を諦めて、押し入れから出した布団を並べて、男も女もいっしょにそのまま雑魚寝するのもこの部屋である。 ここでの大宴会のことは以前の記事 『酒池肉林の夜』 に書いたことがある。


実はこの2つの茶室の他に容子はもう1つ茶室を持っている。
国立公園大山の山中に建てた山荘がそれで、ここは茶室としてはたまにしか使われることはないようだが、宴会の会場としては僕も何度も来ている。 10年ほど前まではこの山荘は深い雑木林にポツンと囲まれてひっそりとしていたのに、いつの間にか周りに次々と別荘が建ち、すぐ隣にテニスコートまでできてしまった。

3つの茶室を所有する日本人なんてそんなに多くはいないだろうが、どんな気分なんだろうと考えてしまう。 例えばとことん俗人である僕が、マセラーティとランドローバーと日産GTR の3台を車庫に持っているような感じだろうか?

茶の世界、なんてタイトルを書いたけど僕など覗いたこともないようなまったくの別世界に思える。
ただ、江戸時代から茶道が盛んであったこの山陰地方では、それほど遠くの別世界でもないようだ。 子供の頃、友達の家へ遊びに行くとそこのお祖母ちゃんがよく抹茶をたててくれたが、こちらの狙いはお茶よりもそれについて出るお菓子だったのはもちろんである。 現在でも郷里に帰って他家を訪問すると出されるのは抹茶が多い。 作法も何も知らない僕はただがぶりと飲むだけなのに、そんなことを気にしないところが茶の世界なんだろうと思う。 大切なのは主と客の心の通じ合いだ。 ということである。







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廃墟に立って - 日本の旅(2)

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6年ぶりに米子へ帰った。
6年前のある日の午後、もう何十年と訪れたことのなかった古い町筋をゆっくりと歩きながら写真を撮った。 この一連の写真はその時のものである。

商店街の大部分はもすでにビジネスを閉じていて、開いている店は少ない。 開いている店にもシャッターを閉じている店にも、子供の頃の思い出があった。
夏の土曜夜市の晩など、この通りは人の波で溢れていたものだ。 浴衣姿にうちわの家族連れが活気に満ちたこの通りを夜遅くまで歩いていた。 それなのに6年前のこの街にはすでにその面影がなかった。





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6年前は… 2






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そして6年後の今、同じ町筋に立った僕は唖然としてしまう。
店という店はすべて閉まり、無人の道筋はガランとして人影が無く猫1匹歩いていない。 まるで廃墟だった。
米子の町が廃墟になったとは思えない。 昔は生活の中心だった古い街が外へ外へと広がって行き、郊外に巨大なデパートやマーケットが出現し、それに連れて人々の住居も周りに散らばっていったのだろう。 この数十年、地方都市ならどこでも起こっている現象なのは日本だけじゃなくてアメリカも同じじゃないか。 町も人もそうして変わっていくんだ。

変わらないのは自分だけ…








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桜を追って西から東へ - 日本の旅(1)

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東京 石神井公園


今回の日本の旅は、偶然にも桜の満開を追う旅となった。
4月4日にまず着いた山陰の米子では、空港の駐車場の満開の桜並木が、機中ほとんど眠れなかった疲れた眼に眩しく飛び込んできた。
その数日後の新潟と佐渡でも車で回る先々で満開の桜を堪能したと思ったら、帰ってきた東京でも盛りを少し過ぎたとはいえ、至る所で桜を見た。 とりわけ、滞在した友人宅の近くの石神井公園の2つの池を、ある朝友人とふたりで時間をかけて、花吹雪を浴びながらゆっくりとひと廻りしたことはきっと忘れないだろう。 目まぐるしく時間刻みに忙しかった今回の旅で、初めてゆっくりと日本を味わうことができた朝だった。


それにしても、今回ほど予期せぬハプニングが次々と起こった旅は今までにも覚えがない。

まず出発に際して空港に車を乗り入れた時に紙袋を1つ家に置いてきたことに気がつく。 東京でのブログのサロン会で皆さんに差し上げようと思って用意した数冊の写真集の入った紙袋だった。 それで車をUターンしてわが家に取って返す。
離陸の40分前に空港へ再び戻り、エアラインのカウンターで搭乗手続きをしていて発見したのは、旅行社のミスでシカゴからバンクーバーへのフライトにカナダへの通過ビザが抜けているという。 バンクーバー経由で日本へ飛ぶのは初めての僕は、飛行機を乗り換えるだけでも入国ビザが必要だとは知らず、旅行社は迂闊(うかつ)にもそれを指摘してくれなかった。 エアラインの担当者が電話でカナダの移民局と対応してくれたがビザ取得には数時間かかるので予定のフライトには間に合わないことが判明する。
旅行社とエアラインの間でかなりの時間を掛けた電話対応の結果、ようやく空席のあるフライトを見つけてくれたが、これはシカゴから成田までの直通便だった。 最初の予定では羽田まで飛んでそのままそこで国内線に乗り換えることになっていたので、新しいフライトだと成田に到着後そこから羽田までのシャトルバスを使うという余分な手間が増えたわけだが、その余分な手間を加えても十分に時間が取れたのは、シカゴ-成田の直通便がバンクーバー経由よりはずっと短時間で飛ぶためだった。

やれやれ、これで問題は解決、と無邪気に胸を撫で下ろした僕は実は甘かった。

(続)







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思い出を食べに帰る旅 (2)

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サントリー


日本に滞在中はそれがホテルであれ友人宅であれ、サントリーの角瓶をそばに置くのが習慣となってしまった。
あの独特の形をした瓶に刻まれた、亀甲模様のギザギザを手のひらに感じる時、そこには遠い昔の自分の青春があった。
20代のあの頃、ふだんオールド(だるま)を飲むほどの贅沢は許されず、といって安いトリスとの味の差に屈服するには誇りが高すぎて、『角』 をちびちびと飲むのが何よりも喜びだった時代があった

今回はアメリカへ数本持ち帰ろうと考えている。






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〆鯖


アメリカ人が食べる魚にはタラとかカレイとか白身の魚が多くて、味がおとなしすぎて物足らないと思う僕はほとんど買ったことがない。 そのかわり、鮭(サケ)ならしょっちゅう食べている。 これなら新鮮なものがどこでも簡単に手に入るし、いつ食べても美味しいと思う。
鮭は焼いたり煮たり揚げたり、といろいろやってみてあげく、魚はやっぱり焼くのが一番という結論に達した。 もちろん皮をつけたままで。 そのかわり、タレとか付け汁をいろいろと変えてみる。 大根おろしに味の素に醤油、というのは忙しくて時間がない時で、そうでなければ生姜をおろしたものにレモンの汁を多めに入れ、さらに醤油と砂糖を少々、ネギの小口切りをたっぷりと入れて最後に赤唐辛子を1本これも小口切りにする。 全体を水で薄めてできあがり。 自分でも気に入っているだけじゃなく女房も喜んで食べる。

そうそう鮭の話じゃなくて鯖(サバ)の話だった。
鯖がこんなに好きになったのはいつごろからだったろう。 すべての魚の中で1番好き、と言い切れる。 ところがこれが手に入れ難いのだ。 マーケットの魚売り場で見ることはなく、日本食材店までわざわざ買いに行くしかない。 そこでも冷凍とか干物でしか置いてなくて新鮮な鯖はまず手に入らない。 だから何年に1度か日本旅館に泊まって朝食に焼き魚で鯖が出たりするとついにっこりしてしまう。

そして〆鯖にはこれも昔の思い出がある。
学生時代に下宿のすぐそばの安い定食屋でさんざん食べたのが、〆鯖に豚汁それに冷やっこという取り合わせで、これとご飯の大盛でお腹を満たしたものだった。 いつも同じものしか頼まないので飯屋のおばさんが呆れて、注文しないのに半端な焼き魚とかお新香とか生卵なんかを出してくれた。 おふくろみたいな優しいおばさんだった。 毎年秋口になると郷里の父から二十世紀梨が箱で届いたものだが、それを袋に詰めて持っていくとおばさんはことさら喜んで、自分の家族用に作ったお汁粉を食べさせてくれたりした。

〆鯖も日本では必ず食してみたいものの一つ。






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天津飯


卵が大好きな僕にとって 「蟹たま」 とも呼ばれるこの天津飯は日本に帰ると中華料理屋で必ず注文するものの一つ。
自分が幼年の頃の数年を天津で過ごしたせいかなどと思っていたら、この料理は日本独自の発明品で中国には無いという。 にもかかわらずこんな美味しいものはないと思って食べる。

アメリカの中華料理屋にもこれに似た料理はあって、エッグ・フー・ヤングの名で必ずメニューに出ているけど、そして僕はこれを時々食べるけど、日本の天津飯とは高貴な中国美人と安淫売宿の醜女(しこめ)ぐらいの違いがある。 もちろん蟹など入っているはずがなくポークとかチキンを卵にからめてカリカリに近く揚げてある。 天津飯のようなとろりと柔らかい色気のある風情は皆無で、これは文字通りハードボイルドの世界の産物だ。 だけど僕みたいに卵の好きな人なら、奇形のオムレツと思えばこれはこれで食べられる。 最近亡くなった義母の好きな料理だった。






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鰻重


鰻も日本に帰ると忘れずに毎回一度は必ず食べる。 代々続くという古い暖簾の店へ連れて行ってもらったこともあれば、一人でデパートの地下の食料品街で買って食べたこともある。
子供の頃は郷里の町の西念寺の門前に鰻屋があったのを思い出す。 入り口の格子戸の横に置かれた大きな石の槽に、何十匹もの鰻が、理科室の壁に架けられた脳の解剖図みたいに絡まりあって、気味悪くうごめいているのを恐る恐る見に行った覚えがある。 あれを食べると口がとろけるほど美味しいと大人が言うのをどうしても信じられなかった。

初めて鰻を食べたのがいつだったのかまったく記憶にないが、ずっとあとになって10代の終りに東京へ出てからだと思う。 大学の周りには古くから続く寿司屋や蕎麦屋それに鰻屋があり、そこへ入るとどの店も一様に明治大正を通り越して江戸の時代までさかのぼったような 雰囲気があった。 落語の 『鰻屋』 をラジオで聴いたのもその頃である。






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鯛焼き


「鯛焼き」、「今川焼き」、「大判焼き」 「回転焼き」 など、材料も製造方法も皆同じなのになぜ鯛焼きに惹かれるかと考えると、やはりその可愛い魚の形と、明治の世界へのノスタルジアなのだろうか。
ふだん、ああ食べたいと思うものや、ああ美味しかったと感激するもの(ここに載せた他の食べ物は皆そうだ) じゃないくせに、日本の街を歩いていて鯛焼き屋の前へ通りかかると、つい買ってしまう。
やはりこれも、思い出を買っているのだ思う。
子供の頃、父が勤めの帰りによく持って帰ってくれたから。






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汁粉


何が好きと言って小豆餡にはまったく目がない僕は、このシリーズでも 「桜餅」 に始まって 「鯛焼き」 を挙げれば次はもう汁粉しかないようだ。 というのは選別無しで書いていけばそれこそ長いリストになってしまう。 たとえば 「きんつば」 「饅頭」 「羊羹」 「お萩」 等などなど。

両刀使いと友人たちに言われるように、僕にはお汁粉で酒を飲むという特技があって、これは正常な人には信じられない奇癖と映るらしい。
今は他市へ移ってしまったが、以前デイトンには10年以上も足繁く通った日本レストランがあった。 そこのオーナーであるシンちゃんは、従業員用に時々お汁粉を作る。 そうするとわざわざ僕に電話をくれて食べにおいでよと言ってくれた。 店のカウンターに座ってメニューにはないお汁粉を啜りながら酒を飲む。 酒はビールでもスコッチでもだめで、なぜか日本酒がよく合う。
隣席にいた二人連れの日本からの駐在員がその僕に 「見てるだけで気持が悪くなりそうですよ」 と笑った。 そしてカウンターを離れてテーブル席へ移ってしまった。 少しばかり気分を害した僕だったが、あとで考えるとあれは席を待つ間カウンターで飲んでいただけで、席が空いたから移ったのだろうと善意に解釈することにした。






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雲丹


鮨屋で食べる握りの中で自分なりの好みの順序を付ければ、文句なしに雲丹がトップにくる。 その次がイクラとなるから、貧乏人のくせに値の最も高い双璧とも言うべきこの両ネタを好むとは、何たる不幸の星の下に産まれたのか、と秘かに嘆いたものだ。
前述した芥川の 『芋粥』 ではないけど、いつか雲丹を飽きるほど食べてみたいと思いながら今だに果たせないでいたところへ、ある時サロンの仲間である川越さんのブログを読んで目を剥いたこがある。
知人から大量の殻付きの雲丹を貰い受けて、奥方とふたりで朝昼晩と何日も雲丹だけを食べて暮らしたと言う。 最後にはもうたくさん、雲丹は見たくない、という心境だったというような事を彼が書いていた。
なんという贅沢! なんという傲慢!
他人を羨むということのあまりない僕が、この時は胸が痛くなるような嫉妬を覚えた。

雲丹にも少年時代の夏の思い出がある。
砂浜よりも岩だらけの海岸が多い日本海で、荒い波に岩へ叩きつけられないように気を配りながら、海に潜って雲丹を採った。 ちゃんと水泳パンツを着けて水中メガネを顔にピッチリと装填し、雲丹の棘に刺されないように軍手をはめ、足袋を穿いて潜るのは僕ら町っ子と決まっていて、地元の漁師の子どもたちはそんな装備を一切着けずにフンドシだけではるか深くまで潜ることができた。
収穫した雲丹は自分が食べるのではなくて、家に持って帰ると近所のおじさん連中が酒の肴にいつも喜んで買ってくれるのである。 あの頃は家の前を流れる小川で捕るどじょうと、この日本海の雲丹はわれわれ少年達にとっては重要な財政源だった。

自分が採った雲丹を食べてみたことがあるが、まるでナメクジを口に入れるような嫌悪感があって、その場で吐き出してしまった。 こんな不味いものを金を出して子供から買う酒飲みの大人が理解できなかった。
今はその酒飲みの大人に自分が成って、あの不味い雲丹を何よりも好きになるなどとは思いもしなかったことである。


(終)




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思い出を食べに帰る旅 (1)

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桜餅


帰国の時期が近づいてきてもう心は日本へ飛んでいる。
いつもそうだけど、数年ぶりに帰る日本でやることといえば、会いたい人に会うことと、食べたいものを食べること、この2つに尽きる。 それだけで2週間が3週間があっというまに終わってしまう。
会いたい人の写真はブログで公表するのは支障があるから、そのかわり食べたいものを片っ端から載せてみよう。

ここに載せた一連の食べ物は見ればわかるようにとくに贅沢なものでも金のかかるものでもない。 日本にいればそのへんの大衆食堂や街の料理屋で食べられるものばかりだ。 今まで帰国するたびにこれ全部と言っていいくらい食べた。 そして今回もまた飽きずに食べるつもりでいる。 食通の友人がそれを見て笑う。 たまに帰ってくるのだからそんなありふれたものを食べなくたって、もっと旨いものを食わせてやるのにと。 それをいつも断る。 僕はこれが食べたくて日本へ帰るのだ。 友人には理解できないだろうと思う。
そう、僕は思い出を食べに日本へ帰るのである。

桜餅がその筆頭に来る。
紙のように薄いピンク色の皮の中には大好物のアンコがびっちり詰まっている。 桜の葉を剥いて、頼りないほど柔らかな餅を口に入れると、甘い中に桜の葉の香りが薄っすらとするのがたまらない。 そのあとむしゃむしゃと食べてしまう桜の葉が口の中を爽やかにしてくれる。
桜餅はまさに日本女性の象徴だと思っている。
この関東風の薄皮の桜餅は、繊細で優雅でたおやかでまるで昭和の頃の少女という感じがする。 それにくらべるとむっちりとした粒粒の餅を使う関西風の桜餅は、太り肉(ふとりじし)の熟女というところだろうか。 どちらを食べるのもそれぞれに好きだ。
あ、食べるのは餅の話です。






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餃子


この銀座の 『天龍』 の餃子はたしかに美味しいかった。 美味しかったがわざわざ銀座まで出かけて長い行列に並んで食べたいかと言われると、うーんと躊躇してしまう。 僕は餃子には目がなくてどこでもいつでも食べたい。 簡単に手軽に食べることができるから街を歩いていて看板を見るとつい入ってしまう。 どこで食べてもそれぞれ少しずつ味が違っていて美味しい。 言い換えれば、不味い餃子を食べたという経験がない。 それほど好きなのである。






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ふだん日本酒を飲まない僕が、というよりアメリカで旨い日本酒が手に入らない僕が、いったん日本へ入ったとたんに酒浸しになってしまう。 それを知っている郷里の叔母は僕が来るのがわかると、いつも一升瓶で何本も買っておいてくれるのが兵庫の銘酒 『剣菱』 だった。 亡くなった叔父が一生死ぬまで飲み続けたのがこの酒で、もし僕が日本に住んでいればまちがいなく同じものを飲み続けたにちがいない。 もちろん 『剣菱』 でなければ口にしない、ということはない。 酒ならなんでもいい。 辛口であれば。
昔ほどは飲めなくはなったけど。






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刺身


芥川龍之介の 『芋粥』 は中年の貧乏侍が、大好物の芋粥を一度だけでいいから飽きるほど食べてみたい、という願望を抱きながら、いざその夢がかない、ある時大鍋いっぱいの芋粥を出された時に、なぜか食欲がまったく失せてしまう、という話。
僕はといえば、ある時日本橋の小料理屋でこの大盛の刺身が眼の前に出てきた時に、感激で全身が打ち震えた。 芋粥を見た侍のように食欲が失せるどころか、同席の人達の会話も耳に入らずただ夢中で食べた。 ああ日本へ来て幸せだ、と改めて思うのはそんな時である。






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牡蠣フライ


これもアメリカの自宅ではほとんど食べることのない料理の一つ。
牡蠣は手に入ることは入るが粒が小さすぎてフライには向かず、といって生牡蠣でチューっと啜るほど新鮮じゃない。 シーフードのレストランならちゃんと牡蠣フライはメニューに載ってるけど、芯までパリパリに揚げられて牡蠣の味も何も無いという代物だからまず注文することはない。

ある年、横浜の牡蠣専門の店のカウンターで食べた牡蠣フライは、カリッと揚げた中から柔らかでジューシーで、ほとんどエロチックとも言える巨大な牡蠣が出てきた。 ああこれだよ、これが食べたかった、と大きくうなずきながら採れる産地名の付いた数種の牡蠣を選ぶ。 あれは旨かったなあ。






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サンドイッチ


日本のサンドイッチは実にエレガントな食べ物だと、食べる度に感心する。
アメリカなら食パンをポンとカウンター(まな板じゃなく)へ投げ出して、その上にハムやらレタスやらトマトやらあれこれ適当に重ねると、塩コショウを大ざっぱに振りかけマヨネーズを大々的にたらし込み、それをもう1枚のパンで上から抑えると全体を手のひらでポンポンポンと叩いてハイできあがり。 実に大陸的な食べ物となる。

日本は違う。
もっとずっと丁寧に手をかけて作る。 味付けも繊細で中身によってちゃんと変えてあるし、種類もはるかに豊富だ。 そして何よりも最後にパンの耳をきちんと切り落とすところが凄いところだ。 あれこそ日本人の優しさの表れだと信じている。 試しに耳を切り落としたサンドイッチとそうでないのとを同時に食べくらべてご覧。 僕の言ってる意味がわかるはずだ。
アメリカでサンドイッチをほとんど食べない僕が、日本へ帰ると何度でも食べる。 道端のベンチに腰掛けてサンドイッチをほおばりながら、目の前を川のように流れ動いていく群衆を眺めるのが好きだ。

(続)






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モランディ美術館

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モランディ美術館
Bologna, Italy

モランディの絵が東京にやって来ているそうだ。
ほんとうなら数年前に予定されていた展覧会が東北大震災でキャンセルされたのが、ようやく今年になって重い腰を上げたモランディの絵がボローニャの館を出て日本へ来ているらしい。 ふだん日本のニュースには疎い僕にそれを教えてくれたのは、読者の一人でありモランディの強烈な信奉者でもある絵描きのたまさんである。 彼女はもちろん待ちきれないようにしてさっそく見に行って、できることならボローニャで見たかったと再三言っているのは、どうやら僕に責任があるらしい。

というのは、彼女が僕を知ったきっかけというのは、もう7年も前に僕が古いブログでボローニャのことを書いた時、インターネットでモランディを検索中の彼女がたまたまこの僕の写真に行き当たったからだそうだ。 僕らはそれ以来すっかり良い友だちになってしまった。
そんなことを考えていたら、そうだ、あの美術館ではまだ未公開の写真があったのを思い出した。 これはたまさんに見せなくちゃ、と数枚の写真を掘り出してみた。





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モランディのアトリエ Ⅰ





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モランディのアトリエ Ⅱ

モランディ美術館の1室には彼のアトリエが再現されている。
彼がああでもないこうでもないと花瓶や壺を並べ替えただろう幾つかの古い机や、(写真には見えないけど) イーゼルや絵具箱や筆などが、整頓されることもなく雑然と散らばっていて、大きな窓からはあのボローニャの優しい秋の光がいっぱいにアトリエに溢れていた。





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贅沢な壁

そしてちがう室の壁には21枚の絵がいっしょに配置されて、見事な1枚のミューラルとなっていた。
モランディを愛する点ではたまさんには負けない我が Green Eyes は、その前に置かれたベンチに腰掛けて長いあいだこの壁を見つめていたのを思い出す。

あれは2007年の秋だった。






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アルルにて

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《1》

アルルに行く予定は最初はなかったんだけど、アヴィニョンからまっすぐ南下して広大なカマルグ平野ヘ車を走らせている途中で、アルルの標識を見たとたん、ちょっとだけ寄ってみようよと、車内の誰もが言い出す。
「有名なカフェ・バン・ゴッホでランチはどう?」 と同行のM夫人なんかすでにその気になってウキウキしている。 アルルといえばゴッホ、という観光者的先入観が誰もの頭に沁みついているらしく、「そうしよう、そうしよう」 とその場で全員が賛同する。
ところがその 「カフェ・バン・ゴッホ」 での昼食が、今回のフランス旅行を通して最悪の経験になるとは…





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《2》

カフェ・バン・ゴッホに到着してみると、表のテラスにも店内にもひっそりとして客が一人もいない。 もう昼前だから時間が早すぎるはずはない。 なぜだろうと訝しんでいると、出てきた冴えない顔の若いウェイターはつい今までキッチンで下水修理をやっておりました、というかのように汚れた白シャツによれよれのズボン、ゼーゼーと息を弾ませている。 そのウェイターがニコリともせず、いらっしゃいもなく、怒ったように 「何人?」 と訊いてくるのに 「8人」 とこちらも怒ったように答える。





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《3》

2階の席へ付かされてから改めて店内をみわたすと、なんともお粗末なカフェである。
木の床はゴミなど落ちてないとはいえ、何日も拭かれたことがないらしく靴の底にベタベタとくっ付くし、安っぽいパネルが貼られた壁にはゴッホの絵のポスターが3枚だけポツンと架けられていて(そのフレームもまちまち)、しかもライトの一つは切れている。
われわれはお互いに顔を見合わせながら、ウェイターがなかなか出てこないのをさいわい 「どうする? ほかを探す?」 とひそひそと討議をしているところへ、さっきのよれよれズボンがメニューを抱えて現れる。 しかたなく諦めて腰を落ち着けたわれわれは、まるでアメリカの片田舎のパンケーキハウスみたいに100近い品目の並んだメニューに目を通しはじめる。





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《4》

そのあいだに頼んだワインがテーブルに来てそれを飲んでみると、うん、これはなかなかいいじゃない? とそこで初めて全員がほっとする。 気を取り直したわれわれは、このあと半日を過ごすアルルでの訪問地に話が移り、古代ローマ人が建てた巨大な円形競技場はぜひ見なくちゃねとか、開催中のピカソ展を覗いてみようか、などといろんな提案が出るのはいつものように楽しい。 8人の興味が全員一致しなくてもかまわない。 それぞれ別行動にすればいいだけのことだから。





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《5》

「カフェ・バン・ゴッホ」 で何の料理を食べたのかまったく覚えていないけど、はっきりと覚えているのは全員が半分以上を皿に食べ残したことである。 Y子さん以外は。
不味くて食べられないというほどじゃないにしてもお世辞にも美味とも言えないその料理は、なにしろ日本の大衆食堂の超大盛くらいのすごい量なのだ。 Y子さんはそれをきれいに平らげただけではなく隣の僕の皿にまで手を伸ばしてきて 「わたし粗食に強いのよ。 それにお腹ペコペコだし」 と恥ずかしそうに言い訳をする。 それにしても、われわれみたいに日本やアメリカから遠路はるばるやって来た旅行者が、わざわざ立ち寄るほどの料理とはとても思えない。





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《6》

「カフェ・バン・ゴッホ」 といえばどんな旅行案内書にも紹介されているほどの有名な観光地点の一つだから、店の内装にこだわったり料理の質を向上したりしなくても、きちんとしたサービスを提供しなくても、それに1度やってきた客が2度と絶対にくることはなくても、客がなくなるということは無いのだろう。
ここに来ることを主張したM夫人がごめんなさい、と何度も謝るのをなだめながらカフェを出る。 その時でさえ店内にははわれわれ以外には誰もいず、表のテラスで若い旅行者風のカップルがポツンとコーヒーを飲んでいるだけだった。





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《7》

アルルの町を歩き回っているうちに、いきなりM夫人の具合が悪くなる。
何かさっき食べたものが悪かったのだろう。 行きずりの洗面所へ籠もったまま長い時間出てこず、出てきた時にはもう歩けないほどひょろひょろとしている。 僕は急いで車を停めた地点へ戻ると一行が待っている場所まで車を動かし、その中で彼女を休ませる。 そのあとはM夫妻を車に残したまま、残りの6人でアルルの町の探索を続けることになるのだけれど、あれほどたくさん食べたY子さんは何ともないのには全員があらためて感心してしまう。

そしてこのあと、われわれは本来の目的地でありそこで2日間を過ごすことになっているカマルグ平野へとアルルの町をあとにする。不幸なるM夫人にとってもわれわれにとっても、とんでもないゴッホの思い出が残る町となってしまった。
その彼女もカマルグではすっかり元気を取り戻してくれて、全員にとって忘れらない良い旅となったのは、以前 『カマルグの白い馬』 に書いたとおりである。



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日曜日のブランチ

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1

姪のルーシーの結婚式も終り、一夜明ければ日曜日だった。 (そういえばアメリカの結婚式は土曜日と決まっている。)
この日は義弟のマークの自宅で午前11時にブランチということになっていた。
少し遅れて到着すると、マークの家はもう客がいっぱいに詰まっていて、そのまま昨夜の披露宴の続きの観があった。 とはいえ、今朝ここに招かれたのは身近な家族や友人だけに限られていたようだ。






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2

まずはドリンクとなるのはいつものパーティと同じだ。
今朝はマークの嫁さんのローラが作ったという特製のブラディマリー。
昼間のパーティだから少量の酒が混じっているだけで、そのそばにデンと置いてあるアブソルートの大瓶から僕はウォッカを注ぎ足してうんと濃くする。






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3

新婚の二人は就職活動中のダスティンの仕事が決まるまでこの家に滞在ということになっている。 面接も幾つか終えて結果待ちという状態らしいが、その仕事次第で住む都市を決め、引っ越しをしてアパートを借り、それからルーシーの就職を考えるという段取りらしい。 それにしても彼の就職が決まるまでなぜ結婚式が待てなかったのか、と思ったのは僕だけではないようだ。






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4

リビングルームはルーシーの友達や従兄妹など若い連中で占められていた。






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5

それが午後になると招待客は次々と帰り始め、最後には少数のごく身近な親類だけになっていった。






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6

この家族は犬を2匹飼っていて、古顔のゼリーは15歳になるテリアで僕にも仔犬の時からの馴染みだ。
心臓が悪いということで薬でどうにか命を永らえているというのに、幸せそうな顔からはそれは察しられない。






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7

リビングルームに続く日当たりの良い小部屋があって、2方の壁に僕の撮った写真が10枚ほどと、我が Green Eyes の絵が数枚かかっている。
家族はこの部屋をふだん 「○○ルーム」 と呼んでいる。 ○○とは実は僕の苗字である。






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8

サンルームにたまたま集まった義弟ジョージの家族。 嫁さんのキティは我が Green Eyes の妹にあたる。
子供のレアとマットは両方とも韓国生まれで、子供のなかったジョージ夫妻が数年をおいて養子とした。 だから姉弟といっても血の繋がりはない。

これに関しては面白い話がある。
一族の長老となるマーサにとっては、僕の二人の子供が最初の孫となり、そのあとこのレアとマットが加わった。 つまり最初の4人の孫が全員アジア人の血を引いていた。 そこで今は亡いマーサの夫、つまり僕の義父がうろたえてしまった。 義父はジョン・ウェインタイプの典型的なヤンキーだったから
「おいおい、どうなってるんだ。 俺の血筋は東洋人に乗っ取られるのか?」 と。
人種差別とかアメリカ主義を持たなかった義父でも、一種の寂しさのようなものはあったに違いない。

しかしそのあと次々とできた13人の孫達は、全員が真っ白だったのでようやく安心したという話。






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9


広大な庭を見て最初に思ったのは、手入れが大変だな、ということだった。
案の定、主人のマークが言うには、四輪の芝刈り機に乗って芝を刈るだけでまる1日かかるそうだ。 庭いじりが嫌いでないマークでさえいい加減に嫌になっているという。 もっと小さな家へ越したいと言ったのは半分は本音だとみた。

写真の後方、森の入口に一人だけポツンと立っているのは息子の太郎。
これを見て 「何をしてるんだ?」 などと思うものはこの家族には誰もいない。 幼い頃から Frog Boy のニックネームを付けられた太郎は、どこへ行っても、成人した今でも、まずカエルやトカゲを探索するのは皆がよく知っているからだ。






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10

サンルームでルーシーが抱いているのは、彼女にとって従姉妹にあたるキャサリンの、生後4か月の赤ん坊。 この大家族でマーサにとっては最初のひ孫ということになる。
このキャサリンとハインリッヒの若夫婦が最近買った家が、オハイオのオークウッドのわが家から数ブロックのところにあり、歩いて簡単に行ける距離だ。 これからはこのレオという名の男の子をしょっちゅう見ることになるのは間違いないようだ。

このレオを初めて見た時のことを思い出す。
赤ん坊を見るなり僕が思わず 「あー、良かったあ。」 とうっかり口に出して言ってしまったのを、母親のキャサリンが聞きつけて
「えっ? どうしてどうして? 叔父さん、何が良かったの?」 としつこく訊いた。 それで僕は仕方なく答えた。
「だって、よくあるんだけど生まれたばかりの赤ん坊を見て、みんなで、あらまーなんて可愛いんでしょうとか、エンジェルみたいじゃない? とかとにかく絶賛するんだよね、僕から見るとエンジェルどころかまるで猿の子供みたいに皺くちゃで醜くて、お世辞にも可愛いなんて言えたものじゃない。 それでも黙ってちゃ悪い、何か言わなくちゃと思うから、体重は? とか、生後何日目? とかどうでもいいようなことしか口から出てこない。 1度なんて慌てすぎて、何種? (犬じゃあるまいし) なんて訊いてしまったこともある。
その点、うん、この子はほんとに可愛い!」

そこに居た全員が吹き出したのはもちろんである。





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ルーシーの結婚式 2/2

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17

式のあと、そのまま引き続いて参列者は二階へと移り、バフェ式のディナーが始まった。
ルーシーがあちこちのテーブルを回って幸せな笑顔を振りまく。 高校生の頃は少しぽっちゃり気味だった彼女は今はスタイルが抜群に良くなって、美しい花嫁だった。






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18

義母のマーサはふだん写真写りがあまり良い方ではなくて、いつも気難しそうな表情になってしまうのに、このショットは悪くない。 過去に撮った写真のどれよりも真実の彼女に近いかもしれない。
相手をするのは義妹のキティ。






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19

両端がこれも双子のミーガンとマリー、真ん中で艶然と微笑んでいるのが今年大学を終えたばかりのジュリーだ。
みんな僕の姪にあたる。






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20

息子の太郎がおばあちゃんとの会話中。
後ろでこちら向きになっている眼鏡の男は義弟のジョンで、代々エンジニアの家系に育ちながら、そして本人も大学の工科を出ていながら洋服の仕立屋になったという変わり種だ。






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21

何気なく背中に手を当てているルーシーの指に光る結婚指輪と、それを見つめる新郎のダスティン。 ダスティンはこのあとシャンペンを飲み過ぎて酔っ払ってしまい、ウェディングケーキを切る時に姿を現さないので探したら、洗面所でゲエゲエやっていた、というハプニングがあった。

真ん中の黒いドレスは言わずと知れた我が Green Eyes である。
首に垂らすマベ真珠のネックレスは、彼女を初めて日本へ連れて行った時、僕の叔母が自分の持ち物の中から幾つか贈ってくれた物の中の一つだ。






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マーサの相手をしているのは、甥のクリスの婚約者のカザイアで、東京出張から帰って来たばかりの彼女は、初めての日本の印象をいろいろと僕に話してくれた。 その後ろでは息子の太郎と、彼にとって従妹となるシカゴから来たレアとの間で話が弾んでいる。






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23

僕は年長者の強みで、バーの長い行列に並ぶこと無しに、若い連中が気を利かせて次々とドリンクを運んでくれた。 おかげで1杯を飲み干す前にもう次のマテニーがそこに来ている。   






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花嫁のルーシー側の従兄妹たちを全員揃えて写真撮影が行われた。 一人だけ抜けているのは仕事の都合で出席がかなわなかった僕の娘のマヤだけである。






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25

この刺青のオーナーは双子のミーガンかマリーのどちらかなのだが、すでに6杯のマテニーを飲み干していた僕は、その判断も曖昧になっていた。 いや、酔っ払ってなくともこの双子の姉妹を見分けるのは難しい。 着ているドレスで判断できるといっても、どちらがどれということを忘れてしまえば、同じことだ。

このあと座はますます乱れ、ダンスが始まり、笑声が響き、ようやく花嫁を捕まえた僕が3分も踊らないうちに横から誰かが花嫁を攫(さら)っていった。 僕は急に煙草が吸いたくなって外に出る。 風もなく生暖かく湿っぽい外気の中で美味しく煙草をふかしていると、ポリスのクルーザーが寄って来て中から3人の警官が降りてきた。
「これは何のパーティですか?」 と警官の一人がていねいに訊いた。
「ウェディングだよ」 と答える。
「悪い奴らがいっぱいいるから、どうかしょっ引いていって欲しい。 僕の女房もその中に入れることを忘れないでね。」
3人の警官は声を立てて笑うと、そのまま車に乗り込んで去っていった。

(終)



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ルーシーの結婚式 1/2

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1

今回のフロリダ旅行は、実は姪のルーシーの結婚式がメインイベントだった。
ルーシーは僕の妻の弟、マークの長女である。
招待状を受け取ったあと、それならいっそこちらの休暇も兼ねてしばらく滞在しよう、ということになった。 そうでなければ飛行機で飛んでしまえば向こうに1泊するだけで、楽に往復ができた。 そう考えたのは僕の家族だけではなく、オハイオ州にそのほとんどが住む一族郎党も同じで、全員が飛行機と車で結婚式の前日に続々とマウント・ドーラに到着した。






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2

結婚式場になるタヴァーレス・パビリオンは、巨大なドーラ湖の畔(ほとり)にある。 というより、文字通り湖の上に建っていた。
当日はあいにく天候に恵まれず、ハリケーンの到来で朝から雷が鳴って雨が降っていたのが、式の始まる午後4時には雨だけは止んでくれた。






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3

今日の結婚式は教会での儀式を省く代わりに司祭をここへ呼んで、説教もできるだけ短くしてほしいと頼んだり、そのあとの披露宴も堅苦しさを排しカジュアルなパーティに企画したのは、義弟夫婦のマークとローラの性格がよく表れていた。
なにしろ気温33度という暑さだったから、参列者の男性など上着無しでの出席が多かった。






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4

僕の姪にあたるキャサリンとドイツ人の夫ハインリッヒ、そして生後4か月のレオ。
レオは僕の義母にとっては最初の曾孫となる。
左端のカップルは婚約中のクリスとカザイアで、 仕事で日本に出張中だったガールフレンドのカザイアは、この日の前日に東京からの直行便でオーランド空港に着いた。
因みにクリスとキャサリンは双子である。






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5

式が始まるのを待ちながら改めて思い出したのは、今日の結婚式の企画の段階で、僕にオフィシャルのフォトグラファーとして式全般の写真をとってほしいと、義弟のマークから要請があったことだ。
僕はそれを断っている。 生まれた時からよく知っている姪のルーシーの結婚式なら、最初から終りまで思う存分に楽しみたい。 仕事として取ってしまえばそれができない、という理由からだった。 マークはもちろん理解してくれて、本職のフォトグラファーを雇ったようだ。






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6

参列者の3分の1はオハイオから来た我が一族郎党で占められていたが、あとは新郎であるダスティンの家族や、地元のマーク夫婦とルーシーの友人たちだった。






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赤いドレスの長い黒髪の女の子を見て、僕は今回出席できなかった娘のマヤのことを思っていた。
マヤが結婚することなんてあるのだろうか…






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8

6人のフラワーガールの中の2人は、ルーシーの妹のヘレン(前)とタミーが務めた。
大学に行くヘレンは美術専攻で写真を選んだのは、叔父である僕のせいだという。 赤ん坊の時から家のあちこちに飾られた僕の写真を見て育ったせいかもしれなかった。 ふだんでもよく僕に電話をしてきて写真のことであれこれと質問をする。 15人いる甥姪の中では、僕には一番近い存在といえた。






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9

この、たぶん兄妹だろう可愛いカップルは誰の子供だろうか、見当がつかなかった。
この子達の今日の役目はリング・ベアラー、つまり結婚の儀式で2個の結婚指輪を司祭に届けるという役目だった。






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10

やがて花嫁の父であるマークが、ルーシーをエスコートして登場する。
妻の一族には僕が義弟と呼ぶのが7人いるが、その中で僕と気が合うという点ではこの男が文句なしに一番だった。






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11

儀式の途中、指輪を交換したあとで新郎のダスティンが泣きだした。
数多い困難を乗り越えてやっとルーシーを獲得した、というわけでもないのに感情の起伏の激しい男なのかもしれない。
ルーシーはそれを見ながらニコニコとしているのは、こういう場面では女の方が肝が据わるのに違いない。
このダスティンには僕らは数年前のフロリダ旅行ですでに会っている。 二人が交際し始めってからまだ間もない頃で、こうやって結婚にまで漕ぎ着けることになるとは思ってもみなかった。






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12

晴れて夫婦となったダスティンとルーシー。
荘厳な結婚行進曲などなく、満場の拍手に包まれてあっさりと退場するのは異例かもしれないが、明るくさっぱりとして気持ちのよい結婚式だった。
ルーシーはこの写真をとても気に入ってくれて、フェイスブックのアバターをさっそくこれと入れ替えた。






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13

二人の孫、マイケルとスティーブの兄弟にエスコートされて退場するのは僕の義母のマーサ。 もちろんルーシーの祖母で、今日の結婚式では最年長である。
今回のフロリダ旅行も、飛行機に乗らないほうが良いと医者に言われていたのを、孫の結婚式に出れないなら何で生きているのか意味が無いと言って押し切って出席した。 一族に流れる頑固なドイツ人気質は彼女が源なのだ。






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14

退場する花嫁の両親、マークとローラのずっと後ろで振り返っている女性がダスティンの母親で、僕はついに話をするチャンスがなかったが、聞けばダスティンを産んだあと離婚をして、さらに結婚と離婚を2度繰り返したという。 ダスティンの父親は出席せず、その父親も3度めの結婚をしたばかりだそうだ。 ダスティンにとっては両親と呼べるものが何と6人もいることになる! しかもそれぞれの子供たちがすべて兄弟姉妹となるわけだから、その家系の複雑さは想像もできない。






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15

花嫁ルーシーの両親、マークとローラ。
しょっちゅう喧嘩をするくせに、今日は心から幸せそうな二人だった。
この二人のことは前に 『夫婦げんか』 に書いている。


(続く)



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950マイルの旅

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車の旅


今回の車の旅は片道950マイル(1500キロ)、日本で言えば横浜 ↔ 稚内がその距離にあたる。
長距離旅行なら以前に、ケンタッキー州のバーズタウンから西海岸のラスベガスまでの1900マイルを大陸横断したことがあるが、その時は途中で2泊しているし、ボストン時代にデイトンまで何度も車で往復した時は、800マイルの距離をこれも途中で1泊することの方が多かった。
また、サウスカロライナ州のヒルトンヘッドまでは2度行っていて、その距離は750マイル。 これは1日で走破した。 そういえばニューオーリンズまで一人で850マイルをノンストップで走ったことがあるが、あの時はモタモタ走るホンダではなくて、ハイウェイ・パトロールも追いつけないアウディのS4だったから速かった。 僕もまだ若かったし…

どちらにしても、 今回のフロリダ行きはノンストップで走る距離としては新記録ということになる。
ただ、今までとの大きな違いは、息子と運転をシェアできるということだった。 市街地での息子の運転にはヒヤヒヤさせられることがあったが、ハイウェイに乗ったあとは安心して任せることができた。 それで今回は行程の3分の1を息子に運転させた。
彼がハンドルを握るあいだ、僕は後部座席でヘッドホーンのレッド・ガーランドを聴きながらぼんやりしていればよかったが、目をつむることがついにできなかったのは、人の運転する車に同乗する時はいつものことだった。



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A = Oakwood, Ohio
B = Mt.Dora, Florida


地図を見ればすぐわかるように、今回の旅は国道75号線を真っすぐ南下するだけの、子供でも迷いようのない簡単なルートで、オハイオ → ケンタッキー → テネシー → ジョージア、の各州を抜けてフロリダへ入る。 最終目的地の義弟のマーク一家が住む家は、75号線がマウント・ドーラの町に入るやいなやそこでハイウェイを降りれば、15分で着いてしまう。 つまり、わが家とマークの家とは只の一本道に過ぎない。 長い長い一本道である。



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警告: 毒蛇に注意


アメリカのハイウェイに沿って、数十マイルごとに現れるレストストップは、日本と違ってガソリンスタンドも無ければ食堂もない。
あるのはトイレと、スナック、キャンデー、ドリンクの自動販売機だけだ。 そしてその施設の周りが必ず広大な芝生になっていて、幾つかののピクニックテーブルがあったり、犬の散歩地域が指定されていたりする。
しかし毒蛇の警告標識を見たのは初めてだった。

予定した行程をできるだけ短時間に縮めるには、レストストップをどれだけ減らすかにかかっている。
1回のストップに10分掛かるとして、6回で1時間の損失だ。 とはいえ、女性の同行者がいる限りこれは諦めるしかないことだった。 日本で売れているという携帯トイレの話をして、皆で笑った。 これはアメリカで売れるとは思えない。 レストストップが間に合わなければ、ハイウェイのどの出口で降りても、すぐそこにガソリンスタンドやレストランが必ずあるから。



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ワッフルハウス


ハイウェイの出口に必ず見る幾つかのレストラン。
マクドナルド、バーガーキング、KFC、ピザハット、それと懐かしいワッフルハウス。
3人の合意のもとに10年ぶりぐらいでワッフルハウスに寄ってみた。
ファーストフードよりはもう少しましなファミリーレストランで、もともとジョージア州で1950年代に最初の店を開けたあと、現在は1700以上の店舗を持つチェーン店だが、日本にはまだ上陸してないのかしらん、と思う。

昔とちっとも変わっていない、かなり毒々しい絵入りのメニューは、値段だけ少し高くなっていたがそれにしても安い。 昔は量の少ないのが不満であれこれ追加したものだが、大食のできなくなった今の僕のランチにはちょうど良かった。 ただ一つの問題はビールもワインも置いてないことだったが、僕は車の中で紙コップに注いだワインを持ち込んで、周りのテーブルやウェイトレスに隠しながら飲むことでその不満を解消した。 僕がオーダーしたのは好物のBLT(ベーコン、レタス、トマト)のサンドイッチ。 それにここの名物のハッシュブラウンが付いてくるのも昔と変わらない。

店を出たあとで、「あ~美味しかった」 と言える食事とは程遠いとしても、ファーストフードのようにただ空腹を満たすだけのものよりはずっと良かった。
アメリカのレストランはハイウェイを離れない限り、いや少し離れた町へ立ち寄っても、日本のように所変われば品変わるということが絶対にない。 「だから、どこへ行っても安心して食べられるんだよ」 とアメリカ人は言う。 彼らはローマへ行っても東京へ行ってもマクドナルドやKFCを探すのはそういう理由があるわけである。




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1
Papal Palace, Avignon, France





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2
Dozza, Italy





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3
凧屋 倉吉市






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4
Venice, Italy





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5
Paris, France





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6
Bologna, Italy





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7
Barcelona, Spain





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8
Isle-sur-la-Sorgue, France






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9
Ravenna, Italy





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10
東京国立博物館






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11
Lausanne, Switzerland





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Ravenna, Italy





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13
Vaison la Romine, France





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14
Puerto Vallarta, Mexico





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15
東京 国立新美術館












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セギュレの石畳

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石畳の路
Seguret, France


セギュレはフランスの南東、ヴォクリューズ地方にある山の上の小さな村だ。この村に魅せられてしまった僕は2年続けてここを訪れている。そして相当な数の写真を撮った。
旅先で発見した場所への自分の興味度と、そこで撮影した写真の枚数とは正比例するものだ。その公式で行くとこのセギュレの村は今までの旅行の中でもたぶんトップにくるかもしれない。

セギュレは標高500メートルほどの、遠くから見ると茶碗を伏せたような小さな山の中にある。だからこの村の道はすべて坂道だった。車がようやくすれ違えるくらいの細道が入り組んでいて、それはすべて石畳の路だった。加工されていなくて上面だけが平らに削られた様々な形の石がきっちりと敷き詰められていた。そしてレールのように続く2条に嵌(は)められたレンガ状の石は馬車の車輪の幅に合わせてあるのだろう。

ジグザグパズルのように、1個1個の石をていねいに嵌め込んでいったに違いない。気の遠くなるような辛抱強い作業だと思った。現代の石畳のように石の隙間にコンクリートを流し込むようなことをしていないから、雨水は坂道を流れないで自然と地面に吸い込まれる。溶けた雪も同じだろう。
何百年もの昔に造られた石の坂道を登りながら、改めて人間の力の偉大さを思った。

このセギュレの事はすでに何度か書いている。

Once upon a time
セギュレ、そのあと


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パリの本屋さん

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シェイクスピア・アンド・カンパニー書店
Paris, France


旅先で訪ねる名所旧跡が、自分が子供の頃からよく聞かされていていつかは行ってみたいと思っていたものだと、それを実際に目にした時に 「へーっ、これが!」 と感激するのは誰でも経験がある。
15年ほど前にパリを初めて訪れた時、エッフェル塔にはなんの関心もなかった僕だったが、あのノートルダム寺院を見た時はヴィクトル・ユーゴーの 『せむし男』 を思い出しながら、重厚なゴシック建築が持つ歴史の重みに、「へーっ、これが!」 と圧倒されてしまった。

だがそれよりも僕を感激させたのは、そのノートルダム寺院からセーヌ川を挟んだ対岸にあるシェイクスピア・アンド・カンパニー書店だった。実はこの有名な書店がそこにあるなどとは知らず、雑多な観光客に混じって歩いていた僕はいきなりその書店の前に立った時に 「へーっ、これが!」 と声に出して驚いた。

現在のこの書店はシェイクスピア・アンド・カンパニー書店としては2代目にあたり、初代の書店はあるアメリカ人女性によってこことは違う場所に開かれた。1919年のことである。 華麗だったベル・エポックの時代が終わったフランスはいわゆる 「狂乱の時代」 に入っていた時だった。それから20年以上、1941年にナチスドイツ占領下の政府から閉店を強制されるまでこの書店は当時の作家や知識人の溜まり場のような感があったらしい。スコット・フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ガートルート・スタイン、マン・レイ、ジェイムズ・ジョイス、など常連の名を幾つか挙げるだけで、この書店がただの本屋さんではなかったことがわかる。本屋と行っても書籍を売るだけではなく、本が買えない貧乏な作家に貸出をする図書館みたいなものでもあった。

2代目のシェイクスピア・アンド・カンパニーが現在のこの場所に再開したのが1951年だった。
初代と変わらず有名無名の作家たちがここに頻繁に出入りしたそうで、アレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズなどのビート作家やアメリカから流れてきたヘンリー・ミラーもここの常連だった。社会主義を信奉する店主の意向を反映して、階上には幾つかのベッドがあり誰でも泊まれるようになっていた。貧乏作家たちはここで宿泊とワインとパンをあてがわれる代わりに、書店の店員として少しだけ働けばよかったそうだ。

こうして100年近くにわたってパリに集まる世界中のボヘミアンたちの巣であったこの書店も、今の若者達や観光客にとっては、パリで英語の本が手に入るユニークな本屋としか認識されていないようだった。

時代は移る・・・



人は今でも 「考える」 ことをするという数少ない証拠の一つが本屋だ。
Jerry Seinfeld




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汽車の旅

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こんな汽車に乗って旅に出たい・・・
Carillon Historical Park, Dayton, Ohio


いつか長い汽車の旅をしてみたいと思いながらいまだに果たせないでいる。
南部のフロリダあたりから始まり、まっすぐ北上して険(けわ)しいアパラチア山脈の山並みに沿って走り続け、中西部の五大湖を見ながらカナダとの国境を超える。 そして終着駅(この言葉が大好き!)はモントリオールかケベックがいいだろう。 それが極寒の真冬の旅ならさらに理想的だ。 汽車の中で何日も過ごすことになるから、ひとりではちょっと寂しすぎるかもしれない。 といって数人でわいわいと騒ぐ旅もいやだ。 汽車の旅はやっぱりふたり旅がいい。 ふたり旅ならその相手は、ふだんから親しくて気心の知れたひとも良いけど、それより出会ってからまだ間もなく何となくお互いが好意を感じ始めたようなひととなら長い汽車旅にはうってつjけの相棒だ。 話すことは山ほどあるし、二人のあいだに何が起こるか、どんな結末が待っているかとワクワクするようなスリルもある。 長い汽車の旅も長いと感じる前に終わってしまうに違いない。
そんなひとと、白いテーブルクロスにカーネーションの一輪ざしが窓際に置かれた洒落た食堂車のテーブルで向かいあって、ワインと魚の料理を食べていたい。 窓の外を通過する白銀の世界を飽きることなく眺めながら。。


考えてみると長い間アメリカに暮らしながら汽車の旅をというものをしたことがない。 一刻も早く目的地に着かなければならないような、そんな慌ただしい生活をもう何十年も送ってきたのだ、と気がつく。
それでもヨーロッパでは過去に汽車の旅を何度かしたことがあった。 なかでも忘れられないのは家族4人でやったヴェネチアからバルセロまで、地中海を延々と見ながらの長い汽車の旅だった。 もっとも、イタリアからフランスを抜けてスペインまで汽車に乗りっぱなしだったわけじゃなくて、中間地点のニースで降りて2泊している。
そしてこの旅の前半、つまりヴェネチアからニースまでの行程は、僕にとっても家族にとっても過去の旅行の中では最悪の経験となった。 というのは、ヴェネチアのサンタ・ルチア駅で不親切な駅員に応対されてしまって、指定席のチケットを買うことができなかったのだ。 乗り込んだ普通席の車両が最初からもう席がない上に、途中のボローニャでもフィレンツェでもどんどん人が乗り込んできて、フィレンツェを出た時の車内の状態はまるで東京の電車の通勤ラッシュと同じだった。 いや通勤ラッシュよりもずっと悪かったのは、乗客のほとんどが大きな荷物を抱えた旅行者だから身動きがまったく取れず、僕らの家族はいつの間にか離れ離れにされてしまってその生死も定かではない。 僕自身もぎゅうぎゅう詰めのデッキにスーツケースを立ててそれに腰掛けているうちはまだよかったけれど、フィレンツェで乗り込んできた中年のアメリカ女性がかなり辛そうだったので彼女にその席を譲ってあげたあとは、まるで円盤投げ選手が円盤を投げ終わった瞬間のような恰好のままで、何時間もかけてようやくニースに到着したのだった。 やれやれ。


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ニース駅


ニースでゆっくりと3日を過ごしたあとは、またとことこと汽車に乗って終着駅であるスペインのバルセロナへ向かった。 前回の失敗にこりて指定席をとることを忘れずに。
ところが、スペインに入る直前に線路事故があってわれわれの乗る汽車はモンペリエという小さな町に不時着しなければならなかった。 でもこの事故のお陰で3時間のあいだ、南仏の美しい大学の町モンペリエを歩きまわったり、駅前のマクドナルドで久々のジャンクフードにありついたりの予期しなかった経験ができた。


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モンペリエのマクドナルド
Montpelier, France


そのあとは順調にバルセロナに到着することができて、そこで3日間を過ごしたあとは飛行機で、今回の旅行の振り出しであったパリまで帰ることになっていた。 そうすればパリ-スイス-イタリア-スペイン-パリ、と3週間をかけて一周したわれわれのヨーロッパの旅は終わることになる。
その最後のバルセロナでまたまた災難に会うことを誰が予想できただろう?

ニースからバルセロナへ








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パリのチャイナクラブ

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マダムとマドモアゼル
"China Club" Paris  2001


旅先のヨーロッパで食べた日本料理や中華料理で、美味しかったという記憶がほとんど無い。
とくに日本料理に関しては絶望的で、行く度に後悔するという経験を何回も繰り返したあと、いつの間にか行くのを完全にやめてしまった。 そこへ行くと中華料理の方はまだ少しましで、この15年のあいだに忘れられない料理を出ししてくれた店が幾つかあった。

たとえばフランスでは、ヴォクリューズ地方の小さな町、ベゾン・ラ・ロメインで入った中華とベトナム料理のレストランがその一つだった。 大衆食堂のような素っ気ない店だったがメニューを見てあっと驚いたのは、僕の好物の鴨料理が8種類も並んでいるじゃないか! 興奮してあれこれ質問する僕に、ベトナム人の若いウエイトレスが親切に説明をしてくれたあと、ようやくその中の一つに決定した。 そしてそれがまた実に美味しかったのである。 味をしめた僕はあくる日の夜も同じ店へやって来て違う鴨料理を食べなければならなかった。 後にも先にもあれだけ豊富な鴨料理のメニューにお目にかかったことは一度もない。

しかしなんといっても忘れられないのはパリの 『チャイナクラブ』 だろう。
あれは2001年の初夏だった。 あの旅行が忘れられない理由というのは、家族4人がそろって行った初めてのパリだったということや、あの旅行からアメリカへ帰国した数カ月後にニューヨークで歴史的な 9/11 が起こったということもある。

あの頃の僕は旅行へ出かける度に日本とアメリカ両方の旅行案内書を読み比べていて、こと旅先での食事に関する限り僕は日本人の情報を一方的に信頼していた。 その本の中で見かけたのがこのチャイナクラブだった。 それで僕らはある日、夜の8時に予約を入れておいたこのレストランを訪ねて行った。 メトロのバスチーユ駅で降りるとオペラ座を左手に見ながら細い路に入った所にこの店があった。 アールデコ風の凝った内装を持つ洒落た店である。 内部が驚くほど暗くてその中にキャンドルを灯したテーブルが並んでいるのは、昔60年代の東京のサパークラブを思い出させた。 その雰囲気とワインに酔い痴(し)れた我が Green Eyes が僕のタバコを1本抜き取ると火を付けて、マダムの貫禄を見せた。 彼女にとってはたぶん20年振りの喫煙だったろう。 彼女をそうさせるようなパリの夜のムードがここにはあった。

いわゆるニューチャイニーズの凝った料理から僕はまたまた鴨の料理を選んだが (ほんとによく飽きもせずに食べれると自分でも呆れる)、結果から言えばこれ以上に美味な鴨料理に13年後の現在まで出会ったことがない。 あの味が今でも舌に残っている。
好奇心から先日このレストランを検索してみてわかったのは、チャイナクラブはその後一度店を閉めたあと今度は "Le China" と名を変えて再開していた。 ウェブサイトで写真を見ると、内部はあの時のように暗くはないだけでまったく変わっていないように見える。

こんどパリへ行ったらぜひまた行ってみたい場所の一つだ。

"Le China"






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美術館と博物館と

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ピッツバーグのカーネギー美術館とカーネギー自然史博物館とは、ユニークにも両者が同じ建物に入っていて訪問者は両方を自由に行き来ができるのは、僕のように両方に興味をも持つ者には便利だった。 お陰で知らない間に4時間もぶっ続けに歩き回ってしまったのには自分でも驚いた。

 



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スコットランド生まれのアンドリュー・カーネギーが貧しい両親と共にアメリカへ移住して、後年には大富豪となったわけだけれど、そのカーネギーが彼の莫大な資産を慈善事業につぎ込んだ意味を、現今のアメリカ生まれの大金持ち達はまったく学んでいないようだ。 ピッツバーグにUSスチールを設立して鉄鋼王となったカーネギーの名は、この町へ来ると至るところで見ることができる。 彼の名を冠した大学(カーネギー・メロン)もあれば、ピッツバーグ南西の郊外にはカーネギーという町まであった。
カーネギーはまた強い反帝国主義者でもあった。 スペイン戦争の末期にアメリカがフィリピンをスペインから2000万ドルで買った時に、彼は自分が2000万ドルを出してフィリピンを買おうとした。 彼は自分の金でフィリピンの国民を解放してアメリカの植民地主義から彼らを守るという意図があったのだが、その計画は実現しなかった。




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小学生の一団が先生に付き添われて美術館を回っていた。 フィールド・トリップ(見学旅行)というやつである。
アートの先生だろう。 そばでこっそり聴いているとなかなか面白い。 ゴッホの風景画の前でその構図や色彩、絵筆の使い方までかなり専門的なことを説明していた。 手を挙げて熱心に質問をする子もいれば、絵よりも僕のカメラの方に興味を持つ子もいた。 この子供たちの中に未来の偉大なアーチストがいるかも知れない

美術館と博物館の両方を4時間歩き続けたあと、僕はさすがに疲れて館内のカフェでワインを飲みながらガラス越しに表通りを眺める。 向かいに見えるのはピッツバーグ大学の学生寮だった。 娘のマヤがそこに1年ほど住んでいたことがある。 美術館と博物館のすぐ真向かいに住むなどという僥倖(ぎょうこう)を、とくにアート志望の学生ではなかった20歳前後の娘がどこまで楽しんだのか?
ここからホテルまではピッツバーグ大学の構内を横切れば歩いても帰れる距離だったが、こうなるのを予想して車を持ってきて良かった。
僕はもう歩けない。




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都会の片隅で

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路上のジャズフェスティバル Ⅰ


ペンシルバニア・アベニューはピッツバーグのダウンタウンの目抜き通りだ。 地元の住人たちにはペンアベニューの愛称で呼ばれている。
そのペンアベニューの3ヶ所にステージを設けて、3日間に渡って昼前から夜中までぶっ続けでジャズを演奏するのが、このピッツバーグ・ジャズフェスティバルだった。 60年代、70年代のジャズがアメリカではちゃんと健在しているのを知るのは嬉しいことだった。 そのうえ、入場料を払って行くお澄ましのコンサートではないから、3つのステージで演奏するそれぞれのグループを、数ブロック歩くだけで自由に行き来して聴くことができる。 ジャズはもともと庶民のものだったんだ、とあらためて感じさせられた。



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今日の聴衆をざっと見たところ、白人30%、黒人70% という感じがした。
ピッツバーグのデモグラフィック(人口動態)を調べたら、白人65%ということだから、今日のようなジャズの演奏会で白人がマイナリティということは、やはりジャズは黒人から生まれて黒人の中に生きていると考えて良いのかどうか。 しかし両者が和気あいあいとこのお祭りを楽しんでいるのを見るのはなかなか気分の良いことだった。 しかも気がついたのは、若い人よりも年配の人々が圧倒的に多かったということである。


《ザ・サイドワインダー》 リー・モーガン



リー・モーガンはペンシルバニア州ではピッツバーグと並ぶフィラデルフィアの出身だった。 若手のトランペッターとして、60年代のバップの旗頭だったアート・ブレーキーのバンドに採用されるという幸運に恵まれていながら、おぞましいヘロインの地獄へと落ちてしまう。 楽器も何もかも質に入れて麻薬を続けていたジャンキー同様のモーガンを救ったのは、のちに内縁の妻となったヘレン・モーアだっだ。 モーガンよりも13歳年上のヘレンは、金銭的にも精神的にも自分のすべてを投げ打ってモーガンを厚生させようとした。 彼にとってヘレンは妻であるばかりではなく、マネージャーでありプロモーターでもあったようだ。 そのヘレンのお陰で1963年にレコーディングをしたこのアルバム、 『サイドワインダー』 は商業的にも大成功を収めて、とっくに消えてしまったと思われていたモーガンが、再びジャズシーンに華々しく帰り咲いた。

そしてその9年後の2月のある日、ニューヨークのイーストビレッジのジャズクラブで演奏をしていたモーガンを、妻のヘレンは訪ねて行く。 出て来たモーガンを見ると、ヘレンはハンドバッグから拳銃を取り出して彼を撃つ。
こうして33歳のモーガンはその短い一生を閉じることになる。 自分がかつて命を救った男の人生を、今自分の手で終えなければならなかった46歳の女の胸中には何があったのだろうか?




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ペンアべニューのステージで若い黒人のグループが演奏する 『サイドワインダー』 を聴きながら、僕の心は40年前のニューヨークのハーレムに飛んでいた。 あれはリー・モーガンが死んだ翌年か2年後だったろうか。
あの頃の僕はジャズを捨ててしまったあと、ビザが切れて不法滞在者となりながら、といって日本には二度と戻るまいと決心をしていたから、自分がいったいどうなるのか希望も何も無かった。 ボストンからグレーハウンドに乗ってニューヨークへやって来た僕は、もうどうでもいい、死んでもいいや、という危険な感情に流されながらハーレムをうろついた。
なぜ死ななかったのだろう?
と今でも時々考えることがある。





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ピッツバーグの夜は訪れるのが遅い。 もう夜の9時を過ぎているというのに頭上の空にはまだ碧(あお)さが残っていた。
そんな残光の下で、周囲の喧騒から忘れられたような一角があって、そこにマグノリアがひっそりと咲いていた。
世界のどこかにこんな一角を見つけるために僕は旅をするのかも知れない。


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植物園にて

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フィップス植物園
Phipps Conservatory and Botanical Gardens, Pittsburgh, Pennsylvania, USA

久しぶりにピッツバーグへやって来た。
車で5時間の距離である。 娘のマヤが住むこの町へはもう10回以上訪れていて、以前はアウディのS4で4時間で来たものが、今回はホンダのSRVでオタオタと走っていたら5時間かかってしまった。 途中で通過するオハイオ州もウェストバージニア州もペンシルバニア州でも、いつの間にかハイウェイの制限速度が65マイルから70マイルのに変わっていた。 アウディなら3時間で走破したに違いなかった。

ところで、ピッツバーグに来るたびに必ず訪れるのがこの植物園だった。
フィップス植物園は1893年に建てられた巨大なガラスの館である。 それにさらに幾つかのグリーンハウスが付随している。 植物園といっても戸外には小さな日本庭園などが申し訳程度にあるだけで、あまり見るべきものはない。目を奪うすばらしい展示はすべて屋内のガラスの中に収められているから、ここが Botanical Garden (植物園) ではなくて Conservatory (温室) と普段は呼ばれるのはそのせいだった。




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水の反映

LEED (エネルギーと環境デザインの先導団体) と呼ばれる、グリーン化を促進する世界的な運動がある。 その団体から最高とされるプラチナ賞の認定を受けているのは、世界中の植物園ではフィップスが最初でしかも現在のところ唯一なのだそうだ。 館内の電気はすべて太陽熱で補充されるだけではなく、温室のガラスは日光の入射をコンピューターで自動的に調節するようにできている。
ガラスとスチールの幾何学的なデザインとその中に息づく植物群との対比が不思議な美しさを見せていた。




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室内庭園

フィップスはその建物全体がビクトリア朝の温室を模したとされているが、この屋内庭園もその典型だった。 蘭の香りにむせそうになりながら、ひっそりと横たわるこの庭園に立つと時の流れが止まってしまう。




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サボテン

このグリーンハウスへ入ると、ムッと室温がさらに高いのを肌に感じる。
ここでバスケットボールよりも大きな丸いサボテンを見た。 Golden Barrel Cactus と名の付いたこのメキシコ産のサボテンは、日本では金鯱(キンシャチ)と呼ばれるそうだ。 縞模様の葉が丸い球にしなだれかかる風情に、僕はなぜか古い日本画を思い出していた。




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蝶の部屋

部屋中に蝶が舞っている。 そして手の届くような近くで草花にとまる。
子供の頃に、蝶の採集で夏休みを過ごした僕には、この蝶など馴染みが深くて懐かしかったが、どうしても名前が思い出せなかった。 英名を Zebra Longwing というこの蝶。
信州にお住まいの蝶の撮影家、ふみえさん。
どうぞこの蝶の名を教えて下さいな。




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チフーリの花

フィップスの歴史の中でも画期的なものの一つが、ここで2007年に催されたチフーリのガラス工芸の展示だった。 これは文字通り世界的な評判となったらしかった。 展示会のあとで、チフーリの作品の幾つかがそのままパーマネントコレクションとしてここに残されていて、これもその一つである。
実はあの時、僕は偶然にピッツバーグに来ていて、幸運にもこの催しを見ていた。 その記事は以前 『無限の世界へ』 で書いているが、あの写真はぜひぜひ見て欲しいと思う。





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ボローニャで会ったひと

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落書き
Bologna, Italy


ヨーロッパを旅行していて大きな都市へ行くと、街なかで壁に描かれた落書きをあちこちでよく目にした。
中でもイタリアのボローニャではその数が圧倒的に多かったようだ。
同行のM夫人は見るなり眉をひそめて 「まあ汚い!」 と一言のもとに嫌悪感を露(あら)わにした落書きだったが、僕はそうは思わなかった。よく見るとなかなか味のあるものがある。

英語の Graffiti(落書き)はもともとイタリア語だから、落書きに関してはイタリアは本家本元としての誇りを示しているようだった。この写真の落書きなど、もしそれがなかったら、朽ちて塗りの剥げたままに放置された古い壁はそれこそ 「まあ汚い!」 と言ってしまうだろう。この落書きのおかげで薄汚れた路地裏が明るく楽しく、そして芸術にさえなっていた。
市の規制か何かでこれがある日、味気ない一色のペンキで塗られてしまったりしたら、がっかりするのは僕だけではないだろう。



実は僕にとってこの写真が忘れられない理由は楽書きだけではなかった。

ブログで知り合って、と言うよりこちらから一方的に押しかけた結果、ボローニャに長く住むU子さんと初めてお会いすることになっていたあの日、待ち合わせ場所だった旧市街のアゴスト広場へ胸をわくわくさせて出向いた。憧れのU子さんにとうとう会えるということで興奮していたせいか、アゴスト広場には約束の時間より30分も早く着いてしまった。そこで、時間を潰すのに辺りの裏道をうろうろとしていた時に出くわしたのがこの落書きだったのだ。

後日、U子さんのブログにこの同じ場所が写真に撮られて載っているのを見た時に、アーチスト同士が目をつける所はやはり同じだなんて嬉しくなったのを覚えている。そこは観光者などはまず行くことのないだろう場所だった。

あの時、初めてお会いするU子さんは僕のためにわざわざ時間を取ってくれたにもかかわらず、僕の方の予定が詰まっていて思う存分話すだけの時間がなかったのを今でも後悔している。もっと一緒にいたかった。彼女は僕が思った通りの素敵な人だったが、会う前にすでに彼女のブログからどんな人かは察しがついていたから、初めて会う人のような気がまったくしなかった。
あの年のイタリア旅行の最後は、僕と同行者との間にちょっとした感情の食い違いがあったりして、もしU子さんに会えていなかったらあれほど明るい気分でイタリアを離れることはなかっただろう。

U子さん(ハンドル名、yspringmind さん) の 『ボローニャに暮らす』 は素敵な写真と深い内省的なすばらしい文章に満ちた稀有なブログだ。もう8年も続いているそうだから、彼女は僕なんかよりずっと若い人だけどブログでは僕の先輩になる。
そしてこれは今初めて公表することだけど、僕がブログなるものを始めようという気になったのは、実はU子さんに責任があるのです。




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プロヴァンスの石の家 (4/4)

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ブランチはサンルームで

連日の日帰り旅行と1泊のカマルグ行が続いたあとは、どこへも行かずに家でごろごろしたり、洗濯をしたり、徒歩で近所を散策したりする日があった。 そんな日にはそれぞれが勝手に朝寝坊をして遅く起きだしてくる。
この朝僕が目を覚ますとすでにコーヒーの香りが家中に漂っていて、あくびをしながら階下へ降りるとサンルームのテーブルはきれいにセットされていた。 あとで聞くと、ふだん調理当番には入っていないマヤが今朝はひとりで全部やったのだという。 サラダにポタージュ、卵、ハム、チーズ、クロワッサンとバゲット、数種類のとびきり美味しいジャム、それに冷えた白ワイン、と優雅なブランチとなった。





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家の向かいにはローマン・シアターがあって・・・

サンルームからすぐ向かいに見えている巨大な石段は、大昔に古代ローマ人が造った闘技場だった。 その裏側には近代的な博物館があって、そこを訪ねてこの闘技場の史実を知った時に僕は思わず唸ってしまった。 建てられたのがなんとBC500年というからすごい。 ローマ帝国が全ヨーロッパを支配していた時に、その威容を示すためのさまざまの創造物のひとつがここにも残っていたのである。 この町には21世紀の現在と紀元前の世界とが文字通り同居しているのだ。
このローマン・シアターは現在は夏になるとロックのコンサートが開かれてフランス中から若者たちがなだれ込み、この町はものすごい騒ぎになるそうだが、ヘンドンハウスでは居ながらにしてそのコンサートを楽しめるというわけだ。 コンサート開催中はその混雑と騒音のためにこの家の滞在費が割引になる、というのはロックが好きな人ばかりではないようだ。

そういえば不思議な偶然があった。
最初にこのヘンドンハウスへ到着した時に、同行の娘のマヤがアッと絶句して立ちすくんだ。
彼女が突然思い出していたのは、6年前にまだソルボンヌに留学していた年の夏、友達数人とパリから車を10時間運転して、はるばるこのローマン・シアターまでレディオヘッド(Radiohead)のコンサートへ来ているのだ! そのシアターの真向かいに6年後に住むことになるとは、なんという巡り合わせだろう。





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ローマン・シアター

今、自分がこうやって指で触ったり腰掛けたりしているこの同じ石段に、2000年以上前に誰かが同じように腰掛けていたのだと想像する時に、僕は 当たり前のことながら 「石は燃えない」 と改めて悟ったのだった。 その昔、グラディエーター(闘士)とライオンの死闘に大歓声を上げた民衆の子孫たちが、2000年後に同じ劇場でロックスターに熱狂的な声援を送るのだと考える時、人類の歴史とは長いものなのか短いものなのか、混然としてわからなくなってくる。





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進化と退化

ローマン・シアターの石塀の外には、ツーリストのための案内所やコミュニティーの集会所やギャラリーが並んでいる。
先ほど博物館で古代ローマ帝国時代の彫像を数多く見たばかりの僕の眼に、この21世紀の前衛彫刻は不思議と奇異に映らなかった。
のんびりと歩きながらつい目と鼻の先のヘンドンハウスへ向かう途中、アメリカでの自分の生活とは何という違った世界がここにはあるのだろう、と思っていた。 そしてその世界を、旅する者としてではなく、たとえ短期間でもそこに住む者として経験できたことが嬉しかった。

さあ、今日はこれから帰って何百枚という写真の整理をしなくちゃならない。 明日からまたアクションが始まるのだ。 明日の予定はフランスで一番高い山であるモンヴァントゥに登ることになっていた。 ここからはそんな遠くではない。
この山登りでは下山の途中で車が故障したりするのだが、そのことはここに書いた。


(終)



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プロヴァンスの石の家 (3/4)

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ダイニングルーム

ダイニングテーブルに全員が揃ってちゃんとディナーをしたのは数回しか無かった。 というのは、僕らはほとんど毎日朝から日帰りの旅に出かけて夕食を外で食べることが多かったし、夕方早めにに帰宅した時にはリビングルームやサンルームでゆっくりくつろぎながら食事をしたからだった。

この町の中心部までは歩いて10分の距離で、そこには銀行や郵便局やレストランと並んでいろいろな店やマーケットがあった。 食料品や日常品が必要な時には 「ちょっとそこの市場まで」 という感覚で気軽に買い物ができたし、まとめて大量の食材を仕入れるときには少し離れた巨大なスーパーまで車で出かけた。 そのスーパーさえ重い買い物袋がなければ歩いて行けなくはない距離だった。 ヘンドンハウスは実に便利の良い場所にあったのである。





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ちょっとそこの市場まで

同じ場所に数週間も滞在していると、けっこう近所の人たちと親しくなったり、マーケットや店屋でも顔を覚えられてまるで地元の住民のような扱いを受けるようになる。 カフェのウェイターがちゃんと好みのドリンクを覚えていてくれたり、八百屋のおじさんもニコニコして野菜を大目に測ったり、採れたての果物をそっと袋に入れてくれたりする。 (それをしてくれるのはなぜかどこでもおばさんではなくて、おじさんだった)。 パリと違ってここではどこでも英語が通じるというわけではなかったけど、身振り手振りでちゃんとビジネスは成立するし、警察(駐車違反のチケットを貰って出頭)や医者(MJ がある日いきなり具合が悪くなった)などの少し複雑な状況には、マヤのフランス語が大いに役立った。 親としては娘をパリに留学させた見返りがようやくあったと実感したプロヴァンスの旅だった。






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キッチン

キッチンはモダンに機能的に装備されていて必要な物はすべて揃っている。
それが二度目にここへ来た時には、レンジもオーブンも冷蔵庫もさらにハイテクの最新のものに取り替えられていて、それを見た女性連は競ってシェフになりたがっていた。 最初は女性連に僕を加えた数人が手分けをして夕食を作ってみたけれど、そうなるとさすがにこのキッチンも混雑して動きが取れず、身体の衝突だけではなくて意見の衝突も発生した。 船に船頭が多すぎる、というやつだ。 そのあと代わり番に当番制でやるということに意見が一致して、男性の僕はキッチンに入るべからず、と言い渡された。
それ以後は日米共同の国際料理プロジェクトは非常にスムーズに進んだようである。






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リビングルームの作戦会議

明日はどこへ行こう、何をしよう、とワイワイと騒ぎながら少しずつ予定が決まっていくほど楽しいことはない。 この旅を通して唯一のドライバーである僕は皆に大事にされていろいろな特典が与えられた。 つまりマスターベッドルームを占拠できたり、調理当番や苦手のショッピングから免除されたり、旅行中のレストランの選択は僕の意見が優先される、というぐあいだ。

一行の一人一人が何かの形で仕事を課された。 僕には勿論のこと運転という大役があったし、作戦参謀として3人の熟女連がもっぱらスケジュールを取り仕切り、マヤはその日のすべての経費を記録して1日の終りに精算して貸し借りをゼロにするという財務の仕事、MJ の旦那のカークはドライビング中に僕の横で地図と首っ引きでナビゲーターを務めていたが、失敗が重なって自信を無くしてリタイアしたあと、その仕事は彼の息子のジョンに引き継がれた。

そんな中で何の仕事も与えられずに一人で悠々とこの旅を楽しんでいたのは詩人のパチさんだった。
この家でのパチさんの行状は前にここに記してある。


(続)



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プロヴァンスの石の家 (2/4)

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ベッドルーム #5

昔は、冬の寒さやプロヴァンス名物のミストラル(野分)を防ぐために窓はうんと小さく取られたのだろう。 太い鉄格子は昔のままで、日中でもあまり光の入らない薄暗い部屋には、250年前の空気がそのまま淀んでいるような気がした。 屋根裏部屋のランプの光の下での質素な農民の生活が偲ばれる。





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マスターベッドルーム

このベッドルームだけが思い切り改装されていて、壁一面に取られた窓から、ゴッホやセザンヌが愛したあのヴォークリューズ地方の柔らかな光がふんだんに室内に溢れていた。 この家ではどの窓にも網戸というものがなかったが、外の空気を入れようと開け放しておいても虫一匹入ってこなかった。
大家のヘンドンさんはイギリス人で、ニューヨークの大学をリタイアした大学教授、奥さんは絵描きだそうで、二人とも英語、フランス語、スペイン語を自由にしゃべる。 家中至るとこに趣味の良い美術品が置いてあり、家具や装飾品や本棚に並ぶ書籍などに持ち主の教養と知性が表れていた。 そうだ、この二度に渡るプロヴァンス旅行のあとで、僕がヨーロッパ旅行をまとめたカラー写真集 『プロヴァンスからイタリアへ』 を出版した時に、ヘンドンさんはその本を2冊買ってくれて1冊は自宅に、もう1冊はこのヘンドハウスのリビングルームのコーヒーテーブルに置いてあるそうだ。 その本にはこの町やヘンドンハウスの写真も載せてある。







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窓の外には

マスターベッドルームの窓から裏庭を見る。
それほど大きくないぶどう畑があって、最初の3月の旅では裸の木々が、二度目に来た11月には豊かな葉をつけたぶどう畑がそこに広がっていた。
ヘンドンさんは人を雇ってヴァインヤードの管理から自家製のワインの製造まで任せている。 そういえば地下のワインセラーには古い木製の醸造機や樽が置いてあった。 数十本のボトルが二段の棚に並んでいて、それぞれが昨年と一昨年の収穫のようだった。 そしてそこにピンでとめられた紙片には 「一日に1,2本の割りなら自由に飲んでかまいません」 と英語で書かれていた。 もちろんさっそく試してみたら、ウーンと唸るほど良いものとはいえないにしても、アメリカの義弟が趣味で造るワインとは雲泥の差で美味しかった。 

ぶどう畑のの向こうに見える建物はあとでわかったのだけれど、家族でやっているこじんまりとしたワイナリーだった。 自由に試飲ができて、極上のものを買っても信じられないくらいに安かった。 今回の滞在では行く先々で有名なラベルの Gigondas や Châteauneuf du Pape や Séguret を始め無数のワイナリーを訪れた。 その度にワインを買い集めてきては片っ端から飲んだ。 それが、アメリカに帰国する際に持ち帰った数本はすべてこの隣家のワイナリーで造られたワインだった。 近所同士ということでこの家族とはすっかり親しくなっていたから、その思い出を持ち帰ったというわけだ。

二週間の滞在中にどれだけのワインを飲んだかといえば、ヘンドンハウスを去る前の日に全員で家中を掃除した時、僕の役目は廃品処理ということでワインの空き瓶を車に詰めて近所の回収場まで運んだ。 2度往復した。 空き瓶をざっと数えたら100本以上あった。


二度目に違う季節にここへ来た時のぶどう畑はこんな感じである。


(続)



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プロヴァンスの石の家 (1/4)

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Hendon House
Vaison la Romaine, France


僕らの一行はパリからリヨン経由のTVG(高速列車)に乗って、南下すること二時間半、アヴィニョン駅で下車した。
予約してあったレンタカーを受け取るとそこからは、目的地のヴェゾン・ラ・ロメインの町までは北西に向けて50キロのドライブだった。 借りたBMWはヨーロッパではいつもそうであるようにマニュアルのシフトだったから、今回の旅も運転は僕一人に任せられることになりそうだ。 (ほとんどのアメリカ人はオートマチックしか運転できない)。
早々にハイウェイを降りると、あとは丘陵をくねくねと抜ける田舎道が続き、僕らはその年の旅行ではまだナビゲーターを持っていなかったから、地図と首っ引きで何度か道を間違えながら、もう辺りが暗くなる頃にやっとヴェゾン・ラ・ロメインの町に入った。

ヘンドンハウスを探し当てた時に、全員の口からいっせいに 「へ~!」 と声が出た。
古い農家を改造した石造りの家だとは聞かされていたけど、そのどっしりと重量感のある風情を実際に目にして思わず圧倒されたのである。 しかも予想していたよりずっと大きい。 二棟の建物が正面の回廊でつながっている。 たぶんどちらかの棟に大家のヘンドンさんが住んでるのだろう、と思ったらそうじゃなくて、この家全体がこれから2週間僕らの住む家になるのだとあとでわかった。 建物の左端に見えているモダンなサンルームは明らかに近年付け足されたものに違いない。





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前庭

鉄製の門を開けて中に入る。 左側の壁にドアがあってそれが玄関となっていた。 右側の石段を登ると、あとでわかったことだけど、そのまま直接二階のマスターベッドルームに出入りできるようになっていて、これは夜中に誰にも知られずに家への出入りができるお忍び用の通路であったに違いないなんて勝手に想像してしまう。 玄関のドアの脇に小さなレモンの木があって、その木の下の陶器の小箱の中に家の鍵が入っているから、というのがヘンドンさんの指示だったが、その通りだった。





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門を開いて

この家が建てられたのは、1700年代の半ばだそうだから、もう250年を経ているわけだ。 その頃の人々が暮らしたような質素で不便な生活を僕らも経験することになるのか、と半ばこわごわと、半ば期待をして一歩家の中へ足を踏み入れたら、その予想は完全に裏切られた。 内部は驚くほどモダンに改造されていて、18世紀にここに住んだ人たちには申し訳ないくらい快適な生活ができるようになっていた。
大小のベッドルームが5つ、バスルームが4つ、ダイニングルームとリビングルームが一つの広大なスペースを取っていて、それに十分なサイズのキッチンが付いていた。 ガラス張りのサンルームはそれだけで我が家のリビングルームよりはるかに広い。 そのうえ裏庭にはちゃんと地面にはめ込まれたプールまで付けられていている。 右棟の建物はダンスパーティでもできそうな大広間になっていて、そこにはビりヤードやピンポンテーブル、エクササイズマシーンなどが備わっていた。

家賃は4月から10月にかけての観光シーズン中は1週間に2700ドルで、それが7月のピークには3400ドルまで上がる。 ところが僕らが行ったのは最初の年は3月、二度目は11月、とどちらもシーズンオフだったから (そう、実は僕らはここには二度も来たのだ) 家賃は週1000ドルまで下がっていた。 たとえば4カップルでこの家を借りれば、一人あたりの滞在費が1週間125ドルというのは信じられない価格である。 僕らがここへ二度も来てしまったのは、この町がとても気に入ったということは勿論だけど、実は家賃の安さが理由の一つでもあったのだ。

(続)





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ドゥカティで思い出したこと

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凱旋パレード
Bologna, Italy


最近の読者のコメントにドゥカティの名が出てきて、それで思い出したことがある。

2007年9月24日午前10時頃、僕はイタリアのボローニャの町をうろついていた。
この町は旧市内周辺を歩くとどこからも遠くに双子のような二本の塔が見えているから道に迷うことはない。 その朝はまず、銀行のATM でユーロを引き出す必要があったので、目抜き通りのインディペンデンツァ通りまで出てきた。
その時いきなり物凄い爆音が轟いて、目の前をオートバイの一群が通り過ぎた。 生半可な数ではない。 100台、いやもっとあったかもしれない。 延々と続いて行き過ぎるバイクにも、またがるライダーのヘルメットにも Ducati の名が書かれている。
生半可な数ではないばかりか、生半可な音ではなかった。 その音に負けないような大声で、隣に立っているおじさんの耳に 「ケ コゼ?」 と叫んで訊いたら、おじさんも引きつるように大声をあげて説明してくれた。

昨日、ドゥカティのチームが MOTO GP のワールドレースでチャンピオンを制覇したのだそうだ。
ドゥカティがイタリア産のホットなスポーツバイクだということは前から知っていたが、僕が知らなかったのは、ドゥカティはボローニャで生まれてボローニャを本拠地とするバイクだということ。 道理でこの大騒ぎ・・・・ と合点がいった。 




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主要道路のインディペンデンツァ通りは、旧市内に入ってくると町の心臓部にあたるピアツァ・マジョーレ(マジョーレ広場)で行き止まりになってしまう。 あのネプチューン(海神)の像がそびえる辺りである。 その広場が今朝はバイカーたちとそれを見る観客とで埋め尽くされていた。
この写真中央の白とブルーのバイクは、群衆を規制すべき警官たちのバイクだが(ドゥカティかどうかは不明)、僕の見る限り彼らは仕事そっちのけで若者たちと昨日の勝利を喜び合っていた。





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イタリアの若者たちのファッションは憎いほど決まっている。
とりわけこの男など完璧といってよかった。 磨かれたバイクは一点の泥もホコリもなくまるで神器のように輝き、黒のつなぎのレザースーツにブーツ、それにバイクの色に合わせたヘルメット、洒落た眼鏡や手袋は有名なブランドものに違いない。ヘルメットをとったあとにちゃんと赤いキャップを用意して、何気なくタバコを指に挟んで携帯電話で話しているのは歯切れのよいイタリア語とくれば、もう文句のつけようがない。





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重装備のリュックを背中に背負った男、この得体のしれない器具はいったい何なのだろう?
今月のクイズにしたいくらいだけど、出題者の自分にもわからないからクイズにはならない。
誰か分かる人がいたら教えて下さい。


こうしてドゥカティの凱旋集会は静かに整然と進んでいった。 驚くほど静かだったのはたぶん酒の入った昨夜の狂乱の結果、全員が二日酔いだったせいかもしれない。
僕はこのあと群衆を離れて、インディペンデンツァ通りをゆっくりと下って行った。 時間はもう正午近くになっていて朝食を抜いた僕は空腹感を覚えていた。 そして何気なく入ったリストランテで僕は忘れられない経験をすることになるのだが、そのことはすでに以前にここに書いている。



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回転木馬

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家なき子のように
Mt.Dora, Florida USA


僕は回転木馬には目がない。
旅先でどこにいても回転木馬を見ると写真を撮らずにはいられない。 あのけばけばしい程の色合いや、回り始めると鳴り出す仰々しい音楽や、乗っている子どもたちの幸せそうな顔などに、古き良き時代への郷愁を感じてしまう。
といっても子供の頃にそんなものは周りになかったから、郷愁というのは日本ではなくて、憧れていた西欧への郷愁のようなものだろう。

まず木馬とか回転木馬という言葉が好きである。 昭和のノスタルジアのようなものがそこにある。 メリーゴーランド (merry-go-round) も悪くはないが、アメリカで呼ばれるカルーセル(carousel) にはどうもなじめない。 それのちょうど逆なのが、最近のブログで話しに出た観覧車だ。 回転木馬と観覧車といえば、これからアメリカでもその季節が始まるカウンティフェアの二大呼び物だが、僕は観覧車という日本語になぜかどうも馴染めない。 これは英語でフェリス・ホイール (ferris wheel) と言ったほうがずっと感覚にピッタリとくるのだ。 観覧車という日本語は昔からあったのかしらん。




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サクレ・クールの回転木馬
Montmartre, Paris


僕の子どもたちが幼なかった頃メリーランド州へ旅行をした時に、どこか名も知らぬ小さな町のカウンティフェアで回転木馬に乗っている写真が我が家の壁にかかっている。 とてもいい写真で好きなのだが、そのネガがどうしても見つからなかった。   
イタリアでボローニャからサン・マリノへ車で行く途中、フォーリというこれも小さな町を通り過ぎた時に回転木馬を見た。 わざわざ車を停めて写真を撮ったけど、人気のない季節外れの公園に打ち捨てられたような木馬たちはなんとなくもの悲しかった。

フランスのアヴィニョンの回転木馬は、すぐそばのカフェでパチさんと二人でスコッチを飲みながら、一行の者たちが古城から出てくるのを待った。 あの旅でワイン以外のものを飲んだのはあの時だけだったなあ。

日本ではといういと、子供の頃に遊園地へ行った記憶がまったくない僕は、回転木馬にもたぶん乗ったことはないのだろう。
東京の豊島園にあるメリーゴーランドは、世界でも最古のものの一つだそうだ。 調べたら、1907年にドイツで制作されたものが1911年にニューヨークの著名な遊園地、コニーアイランドに据えられ、60年後の1971年にはるばる日本までやって来ている。 今ではもうたっぷり100年以上経ったことになる。 今度日本へ帰ったらぜひ見てみたい。 誰かいっしょに行きませんか? もちろん見るだけじゃなくて、いっしょに乗るのですよ。(笑)

あと、忘れられないのはパリで見たもの。
上の写真は、モンマルトルの長い階段を登ってサクレ・クール寺院に辿り着く前に見た。
もう一つ、以前にここに載せたのがセーヌ河畔の Hotel de Ville の広場で撮ったもの。 



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在りし日の歌

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石の街にて
Haute-ville, Vaison la Romaine, France



                          骨


                   ホラホラ、これが僕の骨だ、
                   生きてゐた時の苦労にみちた
                   あのけがらはしい肉を破つて、
                   しらじらと雨に洗はれ、
                   ヌックと出た、骨の尖(さき)。

                   それは光沢もない、
                   ただいたづらにしらじらと、
                   雨を吸収する、
                   風に吹かれる、
                   幾分空を反映する。

                   生きてゐた時に、
                   これが食堂の雑踏の中に、
                   坐つてゐたこともある、
                   みつばのおしたしを食つたこともある、
                   と思へばなんとも可笑(をか)しい。

                   ホラホラ、これが僕の骨――
                   見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
                   霊魂はあとに残つて、
                   また骨の処にやつて来て、
                   見てゐるのかしら?

                   故郷(ふるさと)の小川のへりに、
                   半ばは枯れた草に立つて、
                   見てゐるのは、――僕?
                   恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、
                   骨はしらじらととんがつてゐる。
                           
                                   ―――― 中原 中也




以前に書いた 未来からかかってきた電話 はこの石の街の前編とでも言えるものです。


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