過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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無常ということ

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幼なじみ
Mt. Vernon St., Beacon Hill, Boston, Massachusetts USA


先日、僕の大嫌いな歯医者の待合室で順番を待っていて、と書き始めてこれはまずいと思った。この書き方はおかしい。大嫌いなのはこの歯医者さんではなくて歯医者に行くことであって、じつは僕はこの歯医者さんをとても好きだからである。もし彼でなければ、僕は歯の治療に行くことをとっくの昔に止めていただろう。
その歯医者さんの待合室で手持ち無沙汰に読んでいた雑誌の中に 『アメリカで一番高価な邸宅』 という記事があって、ボストンのビーコンヒルのルイスバーグ広場にある家々は、時価が20ミリオンダラー、というのを読んであっと思った。

僕はその頃、このビーコンヒルからそんなに遠くないビーコン・ストリートの安アパートの4階に、リトアニア人のガールフレンドとブチという名のダルメーションと暮らしていた。そのブチを連れてよく散歩に行ったのがビーコンヒルだった。昔、英国から移って来た人たちが最初に根を下ろしたのがこのあたりだったらしい。丘の上にあるこの瀟洒な街は車の通れないような細い路が縦横に走っていて、赤レンガを敷きつめたその路はどこを歩いても坂になっていた。周りの家々もすべて煉瓦造りで、暖かい季節には窓に色とりどりの鉢植えの花が置いてあり、ついぞ人の出入りを見ることも無く街全体がいつもひっそりとしていた。並木道に沿って駐車してある車は、なぜか小型の日本車や欧州車が多くて、街の風景はそのままヨーロッパだった。マウント・ヴァーノン通りからルイスバーグ広場に通じる辺りはことさら美しく 『若草物語』 を書いたオルコットの家もそこにあった。
ブチを連れた散歩の帰りはいつも、坂を下りきったチャールス・ストリートのカフェ・ロマーノに寄るのが習慣になっていた。ここはヨーロッパのように、犬を連れて入ることを許される。その半地下のカフェで、僕はエスプレッソを飲み、両切りのペルメルを吹かしていると、なんとなく贅沢な気分になった。「ん、こういう生活も満更じゃないな」と思った。
そしてそれからまた、ブチといっしょにエレベーターも無い、穴蔵のような4階のアパートへ帰って行った。

それから32年が過ぎたある日、サンフランシスコに住んでいる見知らぬ男性からメールを受け取った。この3人の子供と1匹の猫が写っている写真をインターネットで見たと言う。1970年代に彼の家族が住んでいたのが、この子供たちのすぐ後ろに写っている家だったと言う。そしてこの写真の子供たちは(猫も含めて)当時8歳だった彼の仲良しの遊び仲間だったそうだ。そのあと数年して彼の家族はカルフォニアに引っ越しをしてしまい、幼なじみのこの子供達ともそれきりになってしまった。偶然にこの写真に行き当たったときに驚きと懐かしさの余りメールを送ったと言う。

自分の1枚の写真が、見も知らぬ人の古い記憶につながり、その人がこうして自分に接触をしてきたことに、僕は何となく (無常) ということを感じた。
猫はともかく、この子供達は今どうしているのだろう?

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UserTag: ビーコンヒル 

羽毛のように

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美しいもの
Museum of Fine Arts, Boston, USA


僕はもう、ピアノを弾くことも作曲をすることも止めてしまっていて、牡蠣の殻がぴったりと閉じるように周りとの接触を絶っていた。友人達が心配してアパートのドアをノックするのを、息をひそめて聞いていても僕はドアを開けようともしなかった。居なくなってしまった妻が拾ってきた仔猫のムチャチャだけに僕の心は通じていて、この小さな生き物と毎日時間を掛けて遊んだ。
生活費を稼がなくてはならないのにピアノのギグはほとんど来なくなったので、近所の日本料理屋でそれまでパートで働いていたのを、フルタイムに変えてもらう。レストランで働くかぎり食うことの心配が無かったし、毎日忙しく立ち働くことで自分に起こっているいろいろな事をしばらくは忘れることができたからだった。そして夜中過ぎにくたくたに疲れて自分の巣へ帰ってくると、安物のワインを喉に流し込みながら、最近出たばかりのチック・コリアの "Return to Forever" をくり返しくり返し聴きながら、いつかスペインに行こうと決心した。そのアルバムジャケットの写真のような1枚の羽毛となって、まだ見ぬアンダルシアへと心は翔(と)んだ。 (僕がスペインに実際に行ったのは26年後になる)。





レストランで働かない日は決まって長い散歩に出かけた。行く先は大体決まっていて、チャールズリバーの河畔か、ボストン公園か、ハーバード広場の雑踏だったりしたが、なかでも僕が一番好きだったのは美術館だった。あの巨大な美術館を僕は隅から隅まで知っていた。好きな絵の前のベンチに腰を下ろして、その絵を長いあいだぼんやりと眺めていた。眺めているうちにいつのまにか僕はその絵の風景の中に身体ごと入って行くことができて、オランダの農夫と酒を飲んだり、スペインの貴族と狩りをしたり、パリの娼婦と踊ったりした。

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僕をめぐる三人の女

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米子水鳥公園


アメリカに長く暮らしていて、何度もヨーロッパを旅行していながら、日本に帰るたびにいつも思う。
日本の風景ってなぜこんなに優しいのだろう… と。

女性に例えたりしたら叱られるかも知れない。
たとえば僕にとってアメリカは女房である。 長いあいだ一緒に暮らして来た。 楽しいことも苦しいこともすべて分け合ってきたし、時々は喧嘩をしたり口をきかなかったりするけれど、大体は仲良しでやってきた。 もうお互いによけいな気を使うことはないから、いっしょに居ても居心地が良くて安心していられる。 その代わり、時々馴れ合いのような感じがしないでもないけど。

ところがヨーロッパは違う。 初めて見たときから僕を虜(とりこ)にしてしまい、そのまま激しい恋となった。 アメリカや日本の美点や欠点を僕に強烈に感じさせてくれたのもヨーロッパだった。 何度も逢いに行っているのに、もっともっと逢っていたい。 ひとりでぼんやりとしている時、僕の想いはいつもヨーロッパに翔(と)んでいる。その妖しい誘惑にいつまで抵抗できるのか僕には自信が無い。 これは危険なことに違いない。 いつかすべてを棄てて彼女の胸へ跳びこんでゆく勇気が、僕にはあるのだろうか?

そして日本。
なんという優しさ!
まるで母のよう。
いつも黙ってひっそりと僕を待っていてくれる。 傷ついたり刺々(とげとげ) しかったりする自分の心が、日本の風景の中にいるだけでいつか癒されて、子供のような素直な気持ちになる事ができた。 子供の頃の僕を誰よりも良く知っていて、いろんな問題を抱えて帰国する僕に、(いいのよ、悲しい時は私の胸で泣きなさい) とそっと語り掛けてくれるのである。

三人の女に囲まれて生きている自分は、とても幸せだと思っている。


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500分の1秒

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横顔
Boston, Massachusetts USA


写真というものは、というよりカメラというものは不思議なオジュジェクトだと思う。たとえばこの写真だ。テクニカルに述べれば、フィルムはISO400のトライX、レンズは135ミリの望遠を5.6に絞って、500分の1秒でシャッターを切っている。そして (当たり前の事だけど) レンズを通して映像がフィルムに焼き付けられ、その結果をこうしてプリントやモニターで見ている。それだけの事だ。

70年とか80年とか生きる人間の一生の中で、500分の1秒が科学的にどれだけの意味を持つのか僕には分らないが、それは人が瞬きするよりもはるかに短い時間である。次から次へと止まることなく流れて行く「時間」という目に見えないものを、カメラは完璧に、そして正確に500分の1秒に切り取る事が可能なのだ。これは凄いことだと思う。
たとえば、この写真の中の5人の人達、お互いに全く無関係の5人が、たまたまボストンのダウンタウンで、同じ日の同じ時間に同じ方向に向かって歩いているところを、横から見ていた僕のカメラがそれぞれの人生の500分の1秒を切り取って、写真という形でこうして永久に残してしまった。お互いに無関係の人生を生きていながらこの5人は、この写真にたまたまいっしょに収まっているというだけで、すでにお互いに深い関わりを持ってしまった。なぜなら、5人それぞれの位置関係、バランス、遠近、色調、などがお互いに不可欠の要素となって、この写真の中で幾何学的なひとつの独自な (世界) を創り上げてしまったからだ。好むと好まざるとにかかわらず、写真家という魔術師の虜(とりこ) となったこの人たちは、平たい長方形の中に閉じ込められて永久にそこから抜け出すことはできない。魔術師がこの世から消えてしまったあとでさえ、その呪いは解けることがないのだ。

肩からカメラを提げて歩いていると、自分が黒いオールマイティの魔法の小箱を誰にも知られないで、密かに持ち運んでいるような気がする時がある。


写真家は、ある瞬間を捕らえるために何年も何年も、いや生涯さえついやす。
それなのに
その捕らえた瞬間を全部加算しても幾時間にもならないのは不可思議なことだ。

James Lalropui Keivom



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イタリアの旅 フェッラーラ (1)


ひとひらの雲
Ferrara, Italy


フェッラーラは小さい町ながら、見るべきものはたくさんあった。
斜塔のある、1391年に創設されたという大学や、エステ家の居城だったエステンセ城、いくつかの美術館など一日では歩き回れない。
だが僕にとっての圧巻はカテドラーレだった。ロマネスクとゴシックの混合だとされているこの怪異な建築は、荘厳と華麗の見事な融合であった。その威力に圧しつぶされそうになって僕がその正面に佇んだ時、ひとひらの大きな雲が太陽をさえぎった。反射する太陽の恩恵を一瞬失ったこの巨大な聖堂は、その時、まるで千年の呪いを吐き出そうとする魔女のように、自身の深部から発散する黒いエネルギーで、鈍く鈍く輝いて見せたのだった。 僕のために…



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ニューヨーク、ニューヨーク

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群衆の中の孤独
New York City


ボストンには二つのジャズクラブがあって、そのどちらも Boylston Street にあった。
実はこの二つのクラブはオーナーが同じ、所在地も同じだった。つまり、一階が "ジャズワークショップ" でその地下が "ポールズモール" というわけだったのだ。一階と地階では同じジャズクラブでもかなり雰囲気が違っていた。"ポールズモール" はカバーチャージがあり、ドリンクの値段も高めで、店内の装飾もナイトクラブらしく暗くてムードがあり、ジャズ好きでちょっとおすましの大人が軽い食事をしながら酒を飲むのに向いていた。ボサノヴァのアストラッド・ジルベルトだとか、エロール・ガーナー、バディ・リッチなどがここに来ていて、ハードなジャズというよりはどちらかというとエンターテインメントの要素が強かったようだ。
それに比べると一階の "ジャズワークショップ" はガランとした殺風景な室に小さなステージとピアノがあるだけで、あとは無数の小さな丸いテーブルと置けるだけのイスを置いて、人をぎゅうぎゅうに詰めこんだ。こちらは昔ながらの気取らない、生粋のジャズ愛好家のための場所だった。 僕らがバークリーの学生証を見せるとドリンクも安くなるという特典があり、いつもそこではよく知っている教授やクラス仲間の顔があって、学校の教室がそのままナイトクラブに移されたという感じがあった。ここで僕はマイルス・デヴィスやロイ・ヘインズ、ビル・エヴァンスなど、数えきれないほど多数の演奏をここで聴いた。それというのも、ジャズの本場ニューヨークに演奏に来る知名なミュジシャン達が、必ず小遣い稼ぎにボストンに寄るからであった。

そのころ、ニューヨークの著名なジャズクラブのひとつ "ヴィレッジ・ヴァンガード" では毎週月曜の夜、サド・ジョーンズとメル・ルイスのオーケストラが演奏していた。当時アメリカで最も評判の高かったこのビッグバンドは、一応レギュラーのメンバーが決まっていても、その晩ギグの無い仲間のミュジシャン達が気軽に楽器持参で立ち寄って参加するので、行くたびに (今日は誰が来るだろう) という予想のできない楽しみがあった。僕らボストンの音楽学生はいつも数人の仲間を募ると、月曜の午後に、ボストンから車で4時間以上かけて、Greenwich Village にあるこのジャズクラブまでよく遠征をした。 この遠征に参加するために、いかにして月曜の午後の授業を取らないようにするかに学生たちは苦労していた。

僕が初めてこのクラブに行ったのは、実は音楽の仲間とではなく別れる前の妻とだった。予約も無しにいきなり入って、席はもう無いと言うメートルディーに10ドル札を握らせると、クラブの最後尾の柱の陰になるような最悪のテーブルをあてがわれた。そのすぐそばにあるバーでそれまで飲んでいた数人の演奏者たちが、ステージに向かって歩き始めた時に、僕らのテーブルの横を通りかかったその中の一人が、僕の顔を見て「XXX?」と大きく僕の名を叫んだ。ピアニストのローランド・ハナだった。

実は彼が数か月前の2月、ボストンの "ジャズワークショップ" に自分のトリオを引き連れて来たことがあった。僕は友達数人と連れ立って出かけたのだが、あいにくその夜は天候が悪く、外はかなり強い吹雪になっていた。クラブ内の聴衆はわれわれ以外に数人いるだけで、その数人も最初のステージが終わるとさっさと帰ってしまい、悪天候のために、最後のステージをキャンセルして店を早めに閉める、との店内アナウンスがあった。そのあとローランドや他のメンバー達が僕らの席までやって来てしばらく雑談をしていて、僕らが音楽学校の学生だと分ると、とたんに話が弾んでしまい、今度はみんなで座りこんでビールを飲み始めたのだった。やがてローランドが日本食が食べたい、と言い出したので、僕が知り合いのレストランに電話をして、閉めようとしていた店を無理を言って待ってもらうと、みんなで外に飛び出して、降りしきる雪の中をまだ辛うじて走っていたタクシーに分乗してレストランまで駆けつけたのだった。

ローランド・ハナの名前はもちろん日本にいた時から良く知っていた。60年代のジャズピアノ界で、ハンク・ジョーンズやトミー・フラナガンと共にデトロイトの三羽ガラスと呼ばれた彼は、その頃の黒人のピアニストには珍しく、ニューヨークのジュリアード音楽院の優等生だった。しっかりしたクラシックのテクニックの上に展開される、知的で洗練された彼のスタイルは、そのころ全盛だったファンキーとかバップとはひと色もふた色もちがっていて、ずっと前から僕のお気に入りだった。

そのローランドが、ボストンで僕と会ったすぐそのあとに、サド・ジョーンズのオーケストラのレギュラーメンバーになっていた事を僕は知らなかった。
「あの晩のボストンは信じられないくらい寒かったね」と黒い大きな手を伸ばして来たので、それを固く握って握手をすると、僕は自分の妻を紹介した。ローランドはちょっとの間何か考えていたが、人差し指を立てて (ちょっと待て) と合図した後どこかに消えてしまった。と思ったら、店のマネージャーがウェイターに指揮して、ステージの左端、ローランドの演奏するグランドピアノのまん前、手を伸ばすとピアノに触れそうな近くに、丸いテーブルを置いてイスを2個運んでくれた。 "Friends" のための特別席である。
その晩の飛び入りは、頬をカエルのように膨らませてラッパを吹く、あのディジー・ガレスピーだった。

2002年11月13日、ローランド・ハナが70歳で亡くなった。


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9月のクイズの結果…

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母と子
Camden, Maine USA


今月のクイズの応募は人数は少なかったけれど、たくさんの「人には二通りあって…」が送られてきました。
残念ながら、うーんとうならせるような傑作は無し。そこで、佳作として以下の3つを選びました。

felice」 さん
《人には二通りあって、幸せを幸せと感じない不幸な人と、不幸を不幸と感じない幸せな人がいる》
コメントを拝見するとご本人の経験から生まれた考察のようですが、まさに真理だと思います。
はたして自分はどちらなのか?
前者でしょうか。現在は私なりに幸せだと知っていながら、それに満足していない自分がいるようです。

みん」 さん
《人には二通りあって、男と女と…》
簡単明瞭にして、小説のように奥が深い。男性遍歴の豊かなみんさん (失礼、勝手に想像しました) ならではの味わい深い結論です。私も歳を経たら聖人にも賢人にも仙人にもならずに、死ぬまで男でありたいです。

Via Valdossola」 さん
《人には二通りあって、まずやる事を終わらせてから遊ぶ人と、まずは遊んだあと、ぎりぎりになってやらなければならない事をはじめる人とがいる》
少し言葉を変えさせていただきましたが、卑近な日常生活の考察です。誰もが思い当たるでしょう。
私は完全に後者のようです。

この3人の方に賞を差し上げたいと思います。
住所氏名を非公開コメントにしてください。お好きな写真を指定する事を忘れないように…


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ボストンの冬


吹雪のあと
Newbury Street, Boston, Massachusetts USA


1978年の1月21日、ニューイングランド一帯を襲った前代未聞の猛吹雪が、ボストン全市を完全に雪に埋めてしまった。 有名な "Blizzard in New England, 78" である。
僕はそのころ、ボストン北部の Winthrop という海辺の小さな町の海岸にアパートを借りていて、仕事場のボストンまで毎日電車で通っていた。 その日の朝、僕はいつもの通りに仕事に出た。朝から雪が降っていたが、朝早くテレビを見る習慣のない僕は、天気予報など聞かないでのんきに出社した訳だ。朝から降り続けた雪は昼を過ぎるころには猛吹雪に変わり、僕は初めて (こりゃあ大変な事になるな) と思い始めた。夕方までにすでに1メートル近い積雪となり、電車を含めて全市内の交通は完全に止まってしまった。それでも雪はまだどんどん降っている。
僕は仕事場のすぐ近くに住んでいる友達があり、酒を飲んで夜遅くなるとめんどうくさくなってよく彼のアパートに泊めてもらっていた。それでその夜はとりあえず彼のアパートに行った。そしてそれからまる1週間そこに居つづける事になってしまった。その前にニューイングランド地方の全地域に緊急非常体制がしかれて、連邦の軍隊が救助に出動したりするころには、僕もようやくこれは生半可な天災ではないということを理解していた。

ボストン市内の街路はとっくに除雪作業が完全に放棄されていたし、市民の食糧事情が急速に悪くなり、あちこちのレストランが無料でコーヒーやスープ、サンドイッチなどを支給していた。しかしさすがに雪になれたボストンの住民たちはパニック状態に陥るようすはなかったようだ。ふだんなら車で混雑する Boylston Street を、人々はスキーを履いて散歩をしたり、子供をそりに乗せて遊んでいた。自宅の庭にテントを張って、ランプの光でエスキモーの生活を体験している家族もあった。きっと今さらジタバタしてもしょうが無い、という心境だろう。現在僕の住んでいるオハイオ州の住民みたいに、ちょっとした雪で全市パニック状態に陥り、学校も会社も閉めて非常食料を地下に蓄え込む、というような事は冬に慣れたニューイングランドの人達はしないのである。
交通機関が回復したあと、ようやく1週間ぶりに海辺のアパートに帰ったら、僕の部屋はそれはもう惨憺たる有様だった。 なにしろ僕のアパートは海岸から50メートルしか離れていない古い建物の1階にあったので、窓ガラスは破れドアは湿って開かず床上まで池のように水が溜まっていて、その上ガスも電気も止まっていた。何よりもこたえたのは、何十という額入りの自分の写真を床において壁に立てかけてあったのが水に浸かって全滅したことだった。

そのかわり、この吹雪の中で数枚のいい写真が取れたことが、この歴史的な天災をハッピーエンドにしてくれた。



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父と子


いとこ同士
Springfield, Ohio USA


子供は自然と親の真似をするようにできているのだろうか。 そういう僕は幼いころ意識して父の真似をしようとした記憶もないし、父のような人になりたいととくに思ったこともなかった。 そのくせ、なんとなくいつの間にか子供の僕から尊敬心を獲得していたのは、母よりも父だったと思う。 どこの家庭の子供でも同じように、ふだんの生活の大部分は母との繋がりだったにもかかわらず、厳しくはなかったが、といってとくに優しかったともいえない父を、子供心になんとなく尊敬していたのはなぜなのかよく分からない。
そのくせ、とっくの昔に他界してしまった自分の両親のことを考えるときに、懐かしさに胸がつまって涙が出そうになるのは、父ではなくて母のことだから、親と子供の絆(きずな) というものは不思議なものである。

この写真でカメラを構えているのは僕の息子なのだが、これを見た時に感心してしまった。 ピッタリと顔につけたカメラの構え方や、両膝を少し曲げて視界を調節しているところなど、なかなかのものだ。 誰も教えないのに、父親が撮影している姿をいつも見ていて、自然に覚えたのに違いない。 あとは開いた両腕の脇をしめて身体にくっつけてカメラを支えることを学べば、いっぱしのプロの写真家並みのポーズになるだろう。
それにしてもこの子はファインダーの中に何を見ているのだろうか、と思う。

この仲の良いいとこ同士も今では20代の半ばになっている。 息子はついに写真の世界に興味を持つことはなかったが、それ以外になにか父親から学んだものがあるだろうかと思う。 ピアノも教えたしテニスも教えた。 チェスやポーカーも、それから日本語も教えた。
テニスとポーカー以外はどれも長続きしなかった。

実は今日も気持ちの良い秋晴れの午後を近くのテニスコ-トでふたりで思う存分打ち合ったばかりだ。 試合をするというのでもなく、ただ、がむしゃらに打ち合う。 まるで憎み合う者同士がそれぞれの怒りをオレンジ色のボールに込めて、相手の身体に叩き込もうとしているような激しい打ち合いだ。
2時間もしてへとへとになった僕がもう動けなくなっても、息子はそのあと家の地下室でバーベルを何十回と持ち上げる。
なんという若さ!
僕は疲れきった身体を這うように動かしてようやくシャワーまで辿り着く。

いつか父親の僕がいなくなっても、こんな秋の日の午後を二人で汗みどろになって分けあったことを、この子は思い出してくれるのだろうか。





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UserTag: いとこ