過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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ハロウィーンのころ (2/2)

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Michelle


アメリカに住んでいて一年を通じていろいろとある行事の中で、僕がことさら好きなのはハロウィーンだった。
まず何よりもこの頃の季節が好きだ。夏の熱気で霞(かす) んでいた周りの風景が、今は透明な空気の中で鮮やかな色を見せている。喧騒で行動的だった夏が終わったあとに待っているのは、自然の移りを静かに眺めながら物事を考えさせるこの季節だ。夏という季節が人々に思い出をつくり、秋という季節が過ぎ去ったことを思い出させる。

ハロウィーンが好きなもう一つの理由は、この行事が他の祝祭日と違って宗教や政治の匂いがないということだった。もともとは宗教から来ているとしてもアメリカ人にとってハロウィーンはとことん楽しく愉快な行事なのだ。
うちの会社でも毎年、仮装のコンテストがあって、相互投票の結果、勝者に贈られる賞は1日の休暇と100ドルのギフトカードだった。そのコンテストの賞をもう何年も続けて独り占めしているのが、オフィスでいつも受付に座っているミシェルだった。

もし、受付(Receptionist) という職業は他の社員に較べてそれほど重要ではないと思っている人がいるとしたら、その人は、すべての善人は天国に行けると説く牧師と同じぐらいに物事がわかっていない。会社の玄関に入ってくる来訪者たちがまずニッコリと応対を受けるのは受付にいるミシェルからだし、同時に何本もかかってくる電話を素晴らしい速度でさばくのも彼女だった。そして彼女の仕事はそれだけではない。忙しくない時には他の社員の手伝いをしたり、オフィス備品の購買、書類のコピーやファックス、などの仕事をてきぱきとこなすだけでなく、僕の秘書のようなことまでやってくれる。

それからもう一つ、僕から見て実に驚くべき彼女の特殊技能は、何百という電話番号をすべて暗記できるという才能だった。
「ねえ、P社のQさんの電話は何番だっけ?」 と訊く僕に、
「代表はXXX-XXXX、Qさんの呼び出しがXXX。でも携帯電話のXXX-XXXXの方が確実よ」 というぐあいである。
そんなわけで、わが社の社長がいなくても僕らの仕事には何の支障もきたさないが、ミシェルが数日いなくなるとオフィス全体の機能が半分止まってしまうくらい、彼女は重要な存在なのだった。

そのミシェルがハロウィーンの朝、魔女になってオフィスに現れた。
全員があっと言ってしまった。これはマスクではない。徹底して念の入ったメーキャップなのだった。2時間かかったという。何という情熱、というか執念というか、今年のコンテストも彼女の優勝は間違いなしであった。母親に連れられて会社を訪れた幼児が、見るなり恐怖で泣き出してしまったのも無理はない。



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同僚たち

この3人は、左から営業部長、経理課長、人事部長。
えっ? 僕は何の衣装を着たかって?
それは企業秘密である。


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ハロウィーンのころ (1/2)



僕の住むオークウッドという町はそのサイズからいえばとても小さくて、端から端まで探訪しても、車ならそんなに時間もかからない。町の大部分を占めるのは1900年代の初めに建てられた古いレンガ造りの家が多く、木々の緑もふんだんに散らばった美しい町である。小さいながら商店街もある。そこにはレストランやブティークやスターバックスや銀行や郵便局や薬局などがあって、日常の生活は徒歩か自転車ですべて用が足りてしまうような、便利で住み心地の良いコミュニティだった。
この町には高校が一つ、中学 (ジュニアハイ) が一つ、小学校が二つあり、高校と中学はひとつの建物の中に同居している。全体の生徒数は少なくて、たとえば高校の毎年の卒業生が130人ぐらいしかいない。

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この町にはスクールバスというものが1台もなく、子供たちは全員が徒歩か、自転車か、父兄が車で朝は落っことして午後は歩いて帰宅する、かのどれかだった。学校には食堂があるけれど、ランチを食べに家まで帰る子供たちもたくさんいた。僕の二人の子供たちもここで小学校から高校まで通った。

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高校と中学が同居しているので、一度中学に入ってしまうとあと6年間(中学2年間に高校4年間) を同じ校舎で同じ生徒達と過ごす事になる。 だからこの町の子供たちは、同級生だけではなく、年上や年下の生徒まで含めて全員を知っている、といっていいだろう。

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ハロウィーンになると、子供たちが所属するクラブやグループに別れて町中に飾りつけをするコンテストがあった。週末の午後などその一つ一つを順に巡りながら、家族連れで散歩をする人々をあちこちに見かけるのはこのころだった。

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僕らがここに住み始めたのは、プライベート校に子供を送る余裕なんてなかった僕らが、公立の学校でありながらこの町の学校の教育のレベルが州のトップに近いということが大きな理由だった。
その子供たちも成人になって家を出て行ってしまった今では、使わない部屋が幾つもあるような家に住んでいる理由がない。もっと小さな家へ引っ越そうかという話が妻と僕とのあいだに過去に何回出てきたことだろう。
ところが僕も妻も引っ越しというものが大嫌いときているから、その話はいつも立ち消えになってしまった。
今度この家を出るのは、その時はアメリカを離れる時だろう、という気がしている。

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10月のクイズの結果は...

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The Venetian Hotel
Las Vegas, Nevada USA


今月のクイズは難しかったかもしれない。正解をよせてくれたのは、実際にこのホテルに行ったことのある人か、僕の以前のブログの記事を覚えていてくださった人か、のどちらかに違いない。
といっても正解は二人だけ。
抽選の結果 (というよりサイコロの丁半の結果) 当選は「かおり」さんに決まりました。

かおりさん、おめでとう。
住所氏名を非公開コメントにして送ってください。
お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のないばあいは棄権として次の方を選びます。

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叔父のライカ

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煙草のけむり
鳥取県米子市


僕の父は戦争前の北京で裕福な暮らしをしていたころに写真の趣味があって、高価なカメラを所有したり自分の暗室を持っていたらしいが、幼児の僕にはその記憶はまったく無い。僕が覚えているのは1個の大口径の古いレンズだけだった。そのレンズは、家族が中国から引き揚げて日本へ帰って来たあと、もう写真どころではなかった父から、5歳の僕におもちゃとして与えられたもので、僕はそれを虫眼鏡代わりに使ったり、内蔵された絞りを大きくしたり小さくしたりして遊んでいた記憶がある。それを見て「これは子供のおもちゃじゃない」といって僕から取り上げたのは、やはり写真に凝っていた僕の叔父だった。

この叔父は写真を撮ることが好きだっただけではなくカメラの蒐集にも凝っていた。僕が10歳の時に最初のカメラを買ってくれたのも、その使い方を手をとって教えてくれたのも叔父だった。だからといって僕が写真やカメラにとくに引き込まれてしまうこともなく十代を過ごしたのは、スポーツや文学に大半の時間と情熱を注いでいたからにちがいない。
それが大学に入ったころから再び写真に興味を持ちはじめて、どこへ行くにもこれも叔父が買ってくれたハーフフレームのオリンパスペンを持ち歩くようになっていた。

後年、僕がアメリカに渡ることになった時に、その叔父が彼のコレクションの中から選んで持たせてくれたのがニコンFで、それ以後長いあいだ僕はニコン以外のカメラを使ったことがなかった。
アメリカで僕は自分が撮った写真を8X10インチにプリントして、それが溜まってくるたびに叔父に送っていた。全部で200枚にもなるだろうか。それは叔父が当時の日本の写真雑誌「朝日カメラ」「カメラ毎日」「日本カメラ」の三冊を毎月きちんと送り続けてくれたことに対するお礼の意味もあった。写真を送っても叔父はありがとうとも何とも言わない性格の人だったけれど、いつもアメリカからの外国郵便を心待ちにしていることを、僕は叔母から聞いて知っていた。
「写真はまだまだだけど、プリントは俺よりも確かに上手い」というのがその頃の僕の作品に対する叔父の評価だった。
あるとき日本の写真雑誌に僕の一連の作品が載った時も「おまえの写真の中でも感心しないものだけを選んで載せてある」とわざわざ手紙に書いてきたのもいかにも偏屈(へんくつ) な叔父らしい批評だった。

その叔父が76歳で亡くなった時、帰国した僕は久しぶりに叔父の集めていたカメラに対面した。書斎のガラスケースにはライカ、ローライ、ハッセル、ニコン、コンタックス、と選び抜かれた歴代の名機が20数台、ぎっしりと並んでいていわゆるガラクタは1台もない。長いあいだ蒐集と売買を繰り返した結果、最後に選びぬかれた極上品だけがそこに残されていた。そのどれもまるで昨日届けられた新品のように手入れが行き届いていた。叔母が言うには亡くなる前日まで毎日1台ずつ取り出してはシャッターをきったりレンズを磨いたりしていたらしい。
僕にとっては短い日本滞在の期間だったけれど、ある日ガラスケースからライカを1台取り出すと、それにフィルムをつめてぶらっと外に出た。子供のころ住んだ懐かしい街の一画を歩き回ってみたかったのだ。


最後にこのあたりを歩いたのはもう50年も前である。予想していたように周りの景色はすっかり変わっていた。路地にそって流れていた小川で子供の僕は鮒やザリガニを捕ったものだが、それは埋められて路が広がり、花や果実を摘みに行った広い菜園があった場所には小さなアパートが幾つも建てられていた。そんな中で、僕の家族が住んだ家や若かった叔父叔母が愛の巣を構えた借家や、子供のころよく遊んだ神社、川端の地蔵などはそのまま残っていた。僕は見覚えのあるものを見つけるたびに立ち止まると、それを記憶の底から呼び起こしながら使い慣れない叔父のライカに収(おさ) めた。
そうするうちに、僕は一軒の喫茶店の前に来ていた。そこは昔、舎園と呼ばれる小さな荒れ庭があった場所にちがいなかい。三方を建物に囲まれて昼間でもほとんど日が射さず、厚い羊歯の葉が地面も見えないほど茂った陰気なその庭には、さまざまの昆虫や小動物が棲息していた。まわりの世界から切り離されて、真夏でも何となくひんやりとしているその薄暗い空間へ、子供だった僕はいつも好奇心と恐怖をとり混ぜて入り込んでいったものだ。

コーヒーが飲みたくなった僕はドアを引いて店に入ってみる。 低くクラシックが流れていて落ち着いた、感じの良い店だった。 久しぶりに吸う両切りのピースに咳き込みながら挽きたてのコーヒーを飲み、そこでもまた写真を撮る。そのとき突然、強い悔悟にも似た感情が突き上げてきた。
自分にとってこの50年はいったい何だったのだろうか?

***

撮ったフィルムを現像に出して、返ってきたプリントを見たとき、僕は息を呑んだ。ライカのズミクロンの柔らかで深みのある描写は何ともいえない味があった。セクシーと言えるかもしれない。しかも色調が渋く抑えられているところにあの日の僕の心象がそのままに再現されている。長年使ってきたニコンのレンズではこんな描写はできない。もっとドライで硬い写真になってしまっただろう。

「カメラはどうせ全部あなたのものになるんだから、好きなのを持っていきなさい」と叔母が言ってくれた。僕はライカのM5とM4-2の2台に90ミリ、50ミリと35ミリの3本のレンズを持ってアメリカに帰ってきた。
今ではほとんど完全にデジタルに移行してしまった僕だけれど、ときどきこのライカを取り出して、そのずっしりと重く黒光りのする機体を掌に乗せて指で触っていると「写真は機材じゃないよ」と言いながらあんなにカメラを愛した叔父の心情がよく解るような気がする。

今年はその叔父の十回忌になる。




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ダブル テイク

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陽のなかの和毛(にこげ)
Harvard Square, Cambridge, Massachusetts, USA


僕の住んでいたボストンのバックベイ地区から、大通りのマサチュセッツ・アヴェニューを歩いて (あるいは車に乗って) MITブリッジを渡りチャールス河を越えるとケンブリッジの町に入る。そこはもうマサチュセッツ工科大学のキャンパスである。
さらにそのままずんずん進んで行くとやがてハーバード大学に出る。このあたりはハーバード・スクェアと呼ばれる一帯で、本屋、レストラン、バー、衣料品店、雑貨屋などがわんさとすし詰めになっている典型的な学生街だ。昼でも夜でもまるで新宿の歌舞伎町のように混雑している地域だった。
学生街だから歩いているのは圧倒的に若い人が多いが、そうでない人たちもたくさんいる。その頃の学生とヒッピーはほとんど外見では区別がつかないとしても、一見教授風の人、一見ビジネスマン風、一見商人風、一見旅行者風、一見浮浪者風、そして何度見直してもさっぱり何者なのか分らない人、などの上に、さらに白人黒人黄色人種が雑多に入り混じっている。
そのうえ街角ではストリートミュジシャンがいたるところで演奏をしていて、またそのまわりに人垣ができる。人間ばかりではない。人込みをかきわけるようにして進んで行くと、どういう訳なのか犬がひとりで歩いていたり、肩に乗せられた猫や鳥がいたり、歩道には馬がたたずんでいてその馬には騎馬警官が乗っていたりする。
一口に言うと全く混沌とした街だった。

話が少し変わるけど、アメリカで暮らすわれわれ日本人が毎日のように感じているのは、周囲の人が自分を見る「眼」である。
たとえば、向こうから歩いて来る人がすれ違いざまに何気なく僕の顔を見て、「ん?」と一度そらしかけた視線がまた僕の顔に戻ってくる。いわゆダブルテイク (double take) というやつだ。まじまじ見つめるというのではなくて、一瞬の視線の動きだった。 それは相手の中で起こる無意識で反射的な反応だった。
これはもうアメリカ中いたる所で経験した。人種の「るつぼ」といわれるアメリカなのに、なぜかわれわれ外国人はこのダブルテイクを毎日のように経験する。ボストンでもそうだったし、ニューヨークやシカゴのような巨大都市でさえそれを経験する。
それがアメリカの田舎に行くとこのダブルテイクは極端に多くなるのだ。子供などはもうダブルテイクどころではなく、まるで動物園で珍しい動物を見るような好奇心をむき出しにしてわれわれを凝視(ぎょうし) する。

ところがヨーロッパに行くとそれがない。
英語がまったく通じないようなフランスの田舎でもダブルテイクは経験した覚えがない。それなのになぜアメリカでこんな経験をするのか、僕にはまったく説明のできないことだった。
そんなアメリカに長く暮らしてきた僕が、ここだけは人の目を気にしないで自由にのびのびと歩きまわることのできる稀 な街。それがこのハーヴァード・スクェアだった。
周囲から無視されることの心地良さ!




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イタリアの旅 ボローニャ (2)

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乗りものたち
Via Zamboni, Bologna, Italy


イタリアの大都市ではそれがローマであれ、フィレンツェであれ、ミラノであれ、市街地の雑踏を走っているのはほとんどがこの写真に見える、4種類の乗り物だった。つまり、自転車、スクーター、オートバイ、そして軽自動車だ。
網の目のようにめぐる細い路地をこれら4種類の乗り物がまるで地面を動き回る昆虫のように、右往左往しながら走り回る。旅行者が時々まちがって、レントした大型のバンかなんかをうっかりこの雑踏に乗り入れようものなら、たちまちにっちもさっちも動きがとれなくなって、うしろに長い列をつくる車から無数のホーンがまるで調子はずれのファンファーレのように襲いかかってくる。

それが、ハイウェイになると話は別である。

ところでアメリカで僕の運転するクルマに同乗した人が、口をそろえて言う。
僕の運転が怖い、と。
少し感情を害した僕が、「でも、免許を取ってから、40年以上になるけど日本でもアメリカでもヨーロッパでも無事故だよ。 スピード違反は数限りなくあるけど」 と抗議をすると、「それはあなたがたまたまラッキーだっただけよ」 とか言って、みんな助手席に乗るのを嫌って後部座席に乗ろうとする。だから数人が同乗する時はいつも後部座席の取り合いになるのだった。
僕に言わせれば、アメリカのドライバーほどマナーが悪くて不器用でそのくせ自分勝手なのは世界中探しても無い、と確信している。そんなアメリカ人たちが、僕のクルマに乗ると、「怖い」 と言うのはどういう事なのか?

僕は日本に住んでいた時からクルマをいじることが好きで、自分で改造した車でラリーに出ていたこともあった。今でもそれは変わらず、現在僕の運転するドイツ車は購入したあといろいろと手を加えてある。車高を下げたり内臓コンピューターのチップをアップグレ-ドしたりエグゾーストを取り替えたりシフトノブを短くしたり、クラッチを強化したりタイヤをより大き目のより幅広のものを付けたり、そのほかいろいろ細かなところに手を加えた。それで購入した時のもともとスポーツ仕様の250馬力をなんとか350馬力まで上げることに成功した。ギヤシフトはもちろんクロース レシオの前進6スピードである。
だから当然ながら運転には自信を持っていたのに、ゆっくり走ることが安全運転だと信じているアメリカ人には、僕のヨーロッパ式の運転は命知らずの無謀運転としか映らないようだった。

その僕がイタリアに行って、イタリアのハイウェイにクルマを乗り入れたとたん、僕はまるで水に放たれた魚のように実に生き生きとするのだ。ここではアメリカと違って、追い越し車線をトロトロと永遠に走り続ける車など絶対に無いし、右側から追い越しをかけるような無謀運転をする車も無いし、危ない割り込みも無い。それでいてビュンビュンとすばらしい速度で飛ばしている。飛ばしたくないクルマは右端の車線にへばり付いて、自分の速度で走っていれば誰の邪魔にもならないし、誰にも文句は言われない。 
バックミラーの中ではるか背後からみるみる迫って来たクルマが、躊躇(ちゅうちょ)することなく左側からアッと思うような速度でレーンを変えて、悠々と遅い車を追い抜いて行く。 
そのクルマを背後から追って来た別のクルマが、さらにすばらしく速い速度で追い抜いて行く。 
そのクルマを別のクルマがさらに速い速度で...
まことにリズミカルで見ていても気持ちが良い。彼らの運転はそれ自体が一つのアートと呼べるものだった。
しかもそれがすべて完全な秩序と統制のもとに易々と遂行されるのは、まるで厳かな儀式を見ているような気がした。 
僕はつい嬉しくなって叫ぶ。 
Viva Italia!

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十月のクイズ

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ここはどこでしょう?
どこの国の、どこの町の、何の場所かを答えてください。

正解者の中から抽選で1名の方に、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 (以前のブログも含めて)
8インチX10インチのマット付きのプリントを世界中どこへでも送ります。
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい。

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友情のはじまり

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仲良し
Boston, Massachusetts, USA



幼い子供にとって、両親や兄弟以外に最初に親しい関係を作りあげるのは、たぶん家族が飼っている犬や猫にちがいない。
幼稚園や小学校にあがるまえの子供にはまだ友達というものはいないから、ふだん一日をいっしょに過ごして自分と遊んでくれる動物たちが、子供にとって一生で最初の親友になる。
幼い子供はそれが犬ならばときおりしっぽをひっぱたり、背中に乗っかったりして意地悪をすることがあっても、犬はキャンとなくだけでこの小さな暴君の無邪気な虐待を許してくれる。そうやって子供は、自分が愛するものと自分を愛するものとのあいだの信頼と忠誠を学んでいくのだ。
犬だって機嫌が悪いときがあるから時には吠えついたり、じゃれ遊んでいてつい力があまって自分より小さな主人を押し倒したりしてしまうことがある。子供はそれで火がついたように泣き出して一瞬その友達を憎むかもしれない。でもそのあとはちゃんとまたもとの仲良しにかえる。そのくりかえしで子供は 「人を許す」 ということの大切さを覚えていくのである。

利害を無視した、駈け引きのない、見返りを期待しない純粋な愛。
それがどんなに稀(まれ)なものかをこの子供が身をもって自覚するには、もっともっと長い月日を待たなければならないだろう。



自分を愛する以上に相手を愛することができるのは
この世で犬だけである。
- Josh Billings -





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イタリアの旅 ボローニャ (1)

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山頂のポルティコ (柱廊)
Bologna, Italy


聖堂 『サン・ルカ』 はボローニャの町はずれ、山と呼ぶより丘と言ったほうがいいその頂上にあって、晴れた日ならボローニャの町のどこにいてもこの聖堂を遠くに眺めることができた。
この聖堂に行くにはふもとの旧市街から登りづめのポルティコを3キロ半も歩くと辿りつく。ゆるい階段の付いた、3キロ半という信じられないほど長いポルティコだった。雨の日や雪の季節にでも礼拝者たちが濡れることなく、安全に頂上まで登れるようにということで、建造されたのは300年以上前である。
この 『サン・ルカ』 は以前に行った南仏のマルセイユの山頂にある、ノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院のような巨大で仰山な建物ではなくて、眼に沁みるような鮮やかなテラコッタ色をした、シンプルで美しい聖堂だった。
ここではマルセイユのようにツーリスト満載の観光バスが次々に乗りつけることも無く、数台の車を駐車できるだけの空き地があるだけで、そこここに数人の訪問者を見るだけのひっそりとした場所である。



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Madonna di San Luca
Bologna, Italy


下山する途中で、ひとりの修道女すがたの老女とすれ違った。杖に頼って一歩一歩ゆっくりと登って来る。長い坂道をよくここまで来れたと思わせるような高齢のひとだった。すれ違いざまに顔を上げて僕らを見ると "Buon giorno!" と思いがけない元気な声がかかって来て、またそのまま黙々と自身の登坂に専念して行く。
そよ風の吹く、気持ちの良い秋の日の午後だった。




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最後の夏に (2/2)

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最後のひまわり
Camden, Maine, USA


その中に正子がいたのだ。
東京の女子大の家政科に行っていた彼女は、その年の夏休み前の一学期を、郷里の中学校で教育実習をやっていた。両親が昔からの雑貨屋と仕出屋を兼ねた店をやっていたので、よく、おいしい弁当をいくつも海岸に持って来てはみんなで分けあって食べたりした。
最初に会った瞬間から、僕は彼女に (なにか) を感じていた。 グループで遊んでいても、遠くから正子と僕の視線がよくぶつかり、そのたびに正子があわてて視線をそらせた。
車の運転を学ぼうとしていた彼女に、僕がその教師役をかって出ることで、二人だけでグループを抜け出すことに成功したあとは、僕らは急速に接近して行ったのだった。ほとんど毎日のように、グループで遊んだり二人だけで会っていたが、会うたびに正子の気持ちが、まるで満ち潮が砂山を侵食するような緩(ゆる)い速度で僕の心に染みこんでくるのを感じていた。
若いふたりにとって舞台は完璧だった。真っ白な砂浜、山頂のケーブルカー、深林の湧き水、赤いクレーのテニスコート、瀟洒なレストラン、ヴィヴァルディの流れる喫茶店、それに、隣町の広島市までの秘密の一泊旅行。
ある時正子が、僕の腕の中で (夏が終わって東京に帰るのが怖い) と言ったことがあった。それがどういう意味なのか。東京で僕を待っている婚約者のことは、正子は何も知らないはずだから、たぶん東京で僕との関係にさらに深くのめり込んで行くことへの不安を言ったのだろうと推測していた。しかし僕は、夏の終わりにこの町を離れる時に、僕の最後の夏は終わり、僕らの恋も終わるのだと、自分に言いきかせていた。

この海辺の町で、僕は終わりの無い夏を、永遠に終わることのない正子との夏をどれだけ切望したことだろう。しかし、季節は残酷な正確さで移ってゆき、僕の仕事はもう終わりが近づいていた。9月になると学生達もそれぞれの学校へと散って行き、正子も東京の電話番号を僕の手に残して去っていった。
ひとりで行ってみるあの海岸はしばらく前の栄華を完全に失って、弱々しい陽光の中で壊れた風景の残骸のようにそこに横たわっていた。人の気配も無く、風が強く、高い波が砕ける岩の上に立って、何かが僕の中で完全に終わってしまったことを、はらわたに滲みるような痛さで感じていた。それは、何かが終わった、というだけではなく、取り返しのつかないことをしてしまったという強い敗北感のようなものだった。
そうだ、僕は何かに負けたのだ。

砂浜にふたりで築いた大切な城を、自分の足で無残に踏み崩してしまったあとの虚(むな)しさ。 そんな虚しさを抱いて僕は東京に帰ってきた。正子に電話をしたいという激しい衝動と昼も夜も戦いながら、電話に手を伸ばしながら、僕は電話をしなかった。
しばらくして、僕は正子からの手紙を受け取った。その封書は悲しいほど薄くて、中は短い手紙だった。

「夏が終わって、あの海辺の町を離れれば、私たちのことも終わりになるような、そんな予感がいつもしていました。この夏のことを、いつまでも忘れません。
体に気をつけて、どうか御自愛のほどを...  正子」


***


盛大な披露宴には100人ものゲストが連なり、僕の大学のビッグバンドが勢ぞろいしてくれて、次から次と懐かしいジャズを演奏している。プリンスホテルの宴会マネージャーが、こんな外国映画で見るような結婚式は初めてです、というほどの華麗な集団の中で僕の胸には何があったのか、今ではどうしても思い出すことができない。
僕らの結婚は7年後にアメリカで挫折してしまうことになるのだが、そのあとの長い人生で、あの23歳の夏が僕の最後の夏だったような気がする。

正子 ごめんね  

(終)

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最後の夏に (1)

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夏の記憶
Oakwood, Ohio, USA


23歳のときに婚約をした。それまでの大学時代の数年間をほとんど一緒に過ごした女性と。
婚約をしたと言うより、双方の親に婚約をさせられたのだった。今から思うと、僕らはとくに結婚をしたいという強い気持ちがあったのかどうか。十代の終わりから二十代の始めにかけての数年間をたまたま孤独な二つの魂が、東京という巨大なジャングルの中で遭遇して、お互いを好きになり、頼りにしながら生きてきた。地方から東京に出てきた多くの若者達のように、めくるめく大都会の波に押し流されて、いじけた孤独な世界に閉じ込められないですんだだけでも、僕らはラッキーだったと思う。それに何よりも、僕らはとても気が合う、仲良しの友達であったのだ。
大学を終えた時に、親達が当然ながら僕らに筋を通すことを要求してきた。その時点でお互いの本音をさらけ出して、これから二人はどうするのかを話し合うべきだったのだ。いやもっと言えば、僕らは結婚をするべきではないということを、彼女も僕も意識の底に感じていたにちがいない。もし結婚をしないでいたら、僕らはきっと生涯の良い友達でいられたと思う。そうすれば何年もたったあと、あんな醜いかたちでお互いを傷つけあって永遠に失うことはなかったのに。
それにもかかわらず、婚約から結婚という親に決められたお決まりのルートを歩いてい行くことに決めたのは、いまさら周りに大きな嵐を引き起こすのが怖く、言われるままにしておけば、誰も傷つかないし面倒なことは何も起こらない、という安易で怠惰なオプションを暗黙の了解のうちに選んでいたのだろう。
僕らは卑怯だった。結婚式の段取りが、周りでどんどん進んでゆくのを、僕はまるで他人事のように眺めていた。

その年の夏に東京を数か月間離れなければならない音楽の仕事が入ってきた時、僕はその仕事をとることにした。結婚前の最後の夏をひとりになってみたい、という強い気持ちがあった。行く先が山陽地方の、瀬戸内海に面した小さな町だというのも僕の気に入っていた。しかし独りになりたかった理由は、結婚することになっている女性としばらくのあいだ離れて暮らしてみて、本当に結婚に踏み切るのかどうかを見極めたい、という目的ではなかった。なぜなら結婚することは動かせない事実としてすでに決まっていたから。
僕はただ、自分がそれまで絡まっていたいろいろなものとしばらくのあいだ距離をとって、そのあと納得をして結婚という新しい制約の中に自分を置こうと思っていた。そのために逃避行だった。

その瀬戸内海に面した小さな町にはアメリカ軍のキャンプがあり、輸送機の発着する飛行場や、軍の高官の宿舎だとか、兵隊のためのいくつかのナイトクラブが、高い鉄条網の張りめぐらされた中にあって、MPの詰めるゲートで出入りを厳しくチェックされた。 僕ら少人数の日本人グループは、ゲートからすぐそばのところに1軒の家を借りて、クラブへの往復は東京から乗って来た僕の車を使った。
僕らの仕事は例によって夕方に始まり夜中に終わるので、朝遅く起きてから夕方までは1日の大半が自由時間だった。 季節はちょうど夏の盛りで、僕らはほとんど毎日午後になると、この町の近くにある海岸に車を乗りつけ、熱い砂の上に寝そべってラジオでジャズを聞きながら数時間を過ごした。しばらくすると全員が、目鼻立ちも分からないほど真っ黒に日焼けしていた。
東京の婚約者から1週間に1度のわりで手紙が来るたびに、僕は返事を書く代わりに公衆電話から電話をかけたが、電話はいつも短かった。僕らの借りた家には電話がなかったのが、かえってありがたかった。結婚が待っている東京に帰るまでは、僕は独りで居たかったのである。

真夏の海は若者たちであふれていた。夏休みで帰省している、自分とそんなに年の違わない大学生たちとすぐ顔見知りになり、ジャズの好きな彼らを、僕らが演奏するクラブに招待してやったりした。地元の住民にはまず入れる機会の無い米軍のキャンプに自由に出入りできる僕らを、若い彼らは羨望のまなざしで見ていたようだ。時には、逆に彼らに連れられて地元の住民しか知らないような森や河に遊びに行ったり、彼らの家に招かれてレコードを聴いたりするうちに、いつの間にか男女を混ぜた数人のグループができていた。

その中に正子がいたのだ。 

(続)




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サン・ジェルマン・デ・プレ

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Cafe de Flore, Paris


星の数ほどあるパリのカフェの中で、外からの観光客にとって一番ポピュラーなカフェ、と言えば "Café les Deux Magots" か "Café de Flore" だろう。 この二つのカフェはどちらもサン・ジェルマン・デ・プレにある。
サルトルやヘミングウェイや、そのほか多数の知識人や芸術家を常連に持っていたというこの二つの有名なカフェの前まで行ってみたが、あまりの混雑に恐れをなして、僕は中に入る気が失せてしまった。 それよりも、この界隈に来たのならどうしても行きたい場所が他にあった。

むかしむかし日本の田舎の町の一中学生で、クリクリ坊主の少年だった僕が、ある日ぽっくりと、まるでコレラか何かに罹るようなぐあいに、ジャズという伝染病に罹ってしまった。
ピアノのF先生からはジャズを弾くことを禁じられていて、レッスンのたびに、
「あなた、またジャズを弾いてたでしょう。 音を聞けばすぐ分かるのよ」 と叱られたが、それは思春期の若者に向かって恋をするな、と言うのと同じで、F先生もある程度はしかたの無いことだ、とあきらめていたのかも知れない。

高校に入ってこの病気はますます重症になって、僕は友達とグループを組んで、ジャズのレコードを譜面にコピーしたり、見よう見まねでピアノを弾いたりして、アメリカから来たこの不思議な音楽にどっぷりと陶酔した。
そんな僕らが教科書のように、いやまるで聖書のように敬って、朝夕に聞いていたのが、アート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーズの 《クラブ・サン・ジェルマンのアート・ブレーキー》 というアルバムだった。
1958年にクラブ内で実況録音されたこのLP は、当然ながら騒音が多く、音質もあまり良くなかったけれど、それだけに聴衆の話し声やグラスの触れる音なども聞こえて、まるで自分がそこにいて、渦巻くタバコの煙の中でこの熱っぽい演奏を聴いているような気になった。 《モーニン》 の出だしでは、そこにいたヘーゼル何とかというパリで有名な舞台女優が、酔っ払って客席から大声でテーマをいっしょに歌っているのまで、そのまま録音されていた。

歴史的といってもいいその夜の演奏から43年後の5月の夜、僕はその同じクラブの中にいた。 狭い階段を地下に下って、四方に石の壁がむき出しになった、まるでワインセラーのような小さな穴倉、それがクラブ・サン・ジェルマンだった。 名前を知らない黒人女性がコンボをバックにしてハモンドのB3を弾いていて、テーブルは満席だった。
渦巻くタバコの煙とグラスの触れ合う音、聴衆の話し声や騒音の中で僕の耳に響いていたのは、リー・モーガン(死亡)の突き刺すようなトランペットやボビー・ティモンズ(死亡)のファンキーなピアノ、秀逸な作曲家でもあるテナーのベニー・ゴルソン(健在)、それからあのアート・ブレーキー(死亡)のアフリカから直輸入したような強烈なドラムのビートだった。

演奏が終わって外に出ると、そこは気持ちの良い五月の、真夜中過ぎのサン・ジェルマン・デ・プレだった。

このフィルムは同じ年の1958年にベルギーのコンサートで演奏された "Moanin" である。



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500年の静寂

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Le Crestet, France


ふと迷い込んでしまった丘の上の小さな村。 旅行案内書には名前さえ出ていない。 晩秋のころの南フランスの街道を車で走っていて、まるで見落とされるために立てられたような目立たない標識を通り過ぎたとき、僕は車を回して引き返したのだった。 街道から細い枝道に入って行くと、はるかな前方の丘の頂上に、白い石造りの集落が見えて来た。 車がようやくすれ違える幅の道路が蛇行しながらその丘に向かっていて、道路の両側は一面のブドウ畑である。 丘のふもとにたどり着くとそこから先はもう車では登れない。
車を棄てて歩き始める。 それまでは舗装されていた道路が赤土の登り道に変わり、それが頂上に近づくにつれて砂利道になる。
(古い部落だ) ということがひと目で分かる。

小さな教会の前を通る。 閉まっている木のドアをためしに押してみると、ぎいーっと音がして開き、僕は中に入ることができた。 木製のベンチがいくつも置いてあるが二十人も座るといっぱいになってしまうほどの広さである。 内部はきれいに掃除が行き届いていて、現在でも日曜の朝には村人たちがここに集まるのだろう。
教会を出てさらに登って行くといくつかの人家が見えてきた。 ひっそりとしてどこにも人気は感じられないが、庭に張られたロープに白い洗濯物が吊られていて、そこにだけ人の生活の気配があった。
さらに登り続けると小さな広場のようなところに出て、そこには古い噴水があった。 水は出ていないが溜まっている水はきれいに澄んでいて棄てられたという感じはなく、なんとなくここが部落の中心地だという気がした。

耳をすませても何も聞こえない。
永遠の静寂・・・・ 
鳥は鳴かず、噴水の水音は無く、葉をそよく風の音さえ無い。
いや、そのとき幽かに幽かに僕の胸に響いていたのは、あれはヴァイオリンのすすり泣きだったような気がする。
完全に止まってしまった時間の中に、僕はいた。

バッハ G線上のアリア



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ジェームズの話

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Air Force Museum, Dayton, Ohio USA


僕は、1960年代の半ばから終わりにかけて、大小のジャズバンドを転々としてピアノを弾いていた。
中でも忘れられないのは、ある年の春から夏にかけて、四ヶ月の間、沖縄に仕事で行ったことがあった。 この仕事のために新しいバンドを組んでみないか、という話が僕の属する音楽事務所から来ていた。 ジャズ、ロック、ラテン、カントリーウェスタン、それにクラシックなど幅の広い音楽を、モダンジャズ風な解釈で演奏するようなユニークなバンドを5,6人で編成したら、沖縄の米軍キャンプでアメリカ人たちに受けるのではないか、と彼らは考えていた。
僕はあれこれと考えた結果、カントリーウェスタンだけを勘弁してもらえるのなら、5人編成に専属の女性シンガーを一人つけて、やってみてもよい、という事で承諾をしたのだった。 条件の一つとして、僕が弾くためのハモンドのB-3 を提供してもらうことも承諾を取っていた。
人員の選択と曲のアレンジに数週間を費やしたあと、リハーサルを兼ねて赤坂や六本木のナイトクラブで演奏をしてみたら、予想以上に評判が良かった。 中でも、バッハやモーツアルトをアート・ブレーキーのジャズメッセンジャーズ風にアレンジしたものが受けたのは、それまでにそんな事をやったバンドが無かったからである。
そして僕らの一行は、まだ日本に返還される以前の沖縄へ、パスポートとドル紙幣を手にして渡って行った。

その年は、長く続いていたベトナム戦争もまだ終わりが見えてない頃で、極東司令部のあった沖縄では、おびただしい数の兵隊が昼となく夜となく発着していた。 そんな殺伐とした状況を少しでも緩和しようとするかのように、この、丘の上に立つ立派な将校クラブでは、毎夜、華やかなショウやパーティが催された。
肩章に星をいくつも付けた将校たちがワイフたちを同伴してクラブに集まる。 彼女たちは一様に白い肩や背中を大きく露出したイブニングドレスで現れた。 週末の夜には、地元のビッグバンドのほかに、僕らを含めた内地 (そう、そのころは日本本土はそう呼ばれていた) からのゲストバンドが二つ、フィリッピン人のロックバンド、韓国人の女性だけからなるダンスバンド、などが入れ替わり立ち替わりステージに現れて、さながらバンドのコンテストのような観があった。
そんな中で僕らは地元のミュジシャン達とすぐ仲が良くなり、ステージが終わると彼らに連れられて民間のナイトクラブに出かけて、酒を飲んで気軽にジャムセッションをやったりした。 そういう民間のクラブには、キャンプ内の将校クラブには入れない若い兵隊たちがわんさと詰めかけていた。
これから戦地に向かう兵隊たちは、初めての実戦へ出る前の不安と緊張を、酒と音楽に紛らわそうとする様子がはっきりと読み取れた。 また一方、前線から帰還したばかりの兵隊たちは、はるかにもっと荒(すさ)んでいて、メチャクチャに酒を煽りつづけたり殴り合いの喧嘩になったりして、彼らが前線で目の当り経験してきた殺戮(さつりく) の凄惨さを思わせた。
僕らが毎夜演奏している将校クラブの上品で落ち着いた雰囲気にくらべると、これはまた何という違いだろう。

ある晩、その民間のクラブの片隅で、譜面を前にしてアレンジの手直しをしている僕のテーブルに、痩せてひょろりと背の高い、たぶん2メートル以上はあるだろうと思われる若い黒人がビールを手にして近づいて来て、
「ねえ、アメリカのピアニストでは誰が好きですか」 と訊いて来た。 しばらく考えたあと僕は
「うーん、エロール・ガーナーかなあ」 と答えると、恐らく彼は、ビル・エヴァンスとかマル・ウァルドロンとか、マッコイ・タイナーだとか、もっとナウな名前が僕の口から出てくるのを予想していたのだろう。 困ったような顔をして僕をジッと見ていたが、その顔がゆっくりと少しづつ弛んで笑顔に変わってきたと思ったら、いきなり大声で笑い出して、
「Me too!」
と叫ぶと黒い八手(やつで)みたいに大きな手で握手を求めて来たのである。
この、子供のような顔をした大男が、僕はいっぺんに好きになってしまった。 お互いに自己紹介をすると、彼の名前はジェームズだと言った。 子供のような顔をしていても、年を聞くと25才だと答えた。
「ねえジェームス、君はピアノ弾くの?」
「うん」
酔っていた僕はそこで彼を連れてピアノまで歩いて行くと、ふたりで半分ふざけてエロ-ル・ガーナーの弾きっこを始めたのだった。 ところが彼の弾くピアノを聴いて、僕は目を剥(む)いてしまった。 僕なんかの出る幕ではない。 日本人である僕の小さな手ではほとんど不可能といえる、エロール・ガーナーのあの左手の10度の進行をこの大男は易々とこなして、その左手のベースの上に、あの独特の遅乗りをする雄弁な右手のメロディーはまさに僕の好きなエロール・ガーナーそのものだった。
「ジェームズはどこから来たんだい?」
「ニューヨークシティ」
「ニューヨークシティで何をしてたの?」
「同じだよ。クラブでピアノを弾いてた。」





それから毎晩のように、ジェームズはこのクラブにやって来てビールを飲んでピアノを弾いたり、喧騒を逃れて外に出るとタバコを吸いながらニューヨークの話をしてくれた。 とりわけ僕の気に入った話は、ある時ジェームズがピアノを弾いているナイトクラブにエロール・ガーナーがぶらりと遊びに来たことがあった。 そこでジェームズがガーナーの十八番だった "Lover, come back to me” を弾いたそうだ。 するとじっと聴いていた本物のガーナーがジェームズと握手をしながら 「自分よりもエロール・ガーナーにずっと近いよ」 と言って聴衆を爆笑させたという話。
もし日本ででも仕事をしていれば、それこそ引く手あまたのスタープレーヤーになれるだけの才能を持ちながら、数日で戦地へ発ってしまうジェームズに、僕はなんと言ってよいか途方にくれていた。
「アメリカって国は、ノースダコタの百姓だろうが、ハーバードの学生だろうが、ニューヨークのアーチストだろうが、皆同じように徴兵するから、公平な国なんだな」
などと、つまらない冗談を吐くしか僕にはできなかった。
ある時、黒人の兵隊たちは誰よりも真っ先に危険な前線に送られる、という噂の真偽を尋ねたら、ジェームズは眼を伏せて何も言わず、ゆっくりと頭を横に振った。僕にはそれが 「わからない。でも仕方が無いよ。」 と言っているように取れた。

数日後の未明に彼の部隊はベトナムへ向けて飛んで行った。

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祭りの秋


Oktoberfest
Dayton, Ohio USA


Oktoberfest は毎年十月の最初の週末に開かれる祭りである。 その名からもわかるように、もともとドイツのミュンヘンで1800年代の初めからずっと続いているこの秋の行事は、祭りと名の付くものの中では今だに世界最大だそうだ。
そのドイツ人の移民達がアメリカに持ち込んだあと、あちこちの都市でこの有名な祭りが持たれるようになった。 とくに僕の住む町にはドイツ移民が多くて盛大に催される。毎年この祭りが来ると、ああ今年ももう秋になった、と住民たちは改めて季節の変わりを感じるのだ。

わが町の Oktoberfest は美術館の敷地をいっぱいに使って、何十という食べ物、飲み物の屋台が立ち並ぶ。 急造のステージでは幾つかのバンドがいれかわり演奏をしたり、ダンスもできるようになっている。 そして上の写真のように子供たちのためのエンターテインメントも忘れられていない。
しかし何といってもこの祭りは食べることと飲むことが主体なのは、ドイツの昔からの伝統そのままだろう。 豊富な種類のビ-ルやワインは、ふだんお目にかかれないようなドイツのブランドがあってなかなか楽しい。
腹が減ればソーセージにサワークラウト、それから赤ん坊の頭ほどもある巨大なクリームパッフェをぱくつく。 半ズボンをサスペンダーで吊った老人がアコーディオンで弾くポルカに身体を揺らせながら、人々はビールのジョッキを片手に歩き回る。 人ごみの中に知った顔を見つければ、そこでまた話が弾む。
去っていった夏を惜しみながら、すぐにやって来る寒い冬を予想するこの季節。
それは祭りの季節だった.

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記憶の底で

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トンネルのなかの男
Boston, Massachusetts USA


記憶というのは不思議なものだと思う。
僕は、つい数分前まで自分の目の前にいた人の着ていた服の色を聞かれても、まともに答えることができないくせに、30年も前に道ですれ違った見知らぬ女性の香水の匂いを、今でもハッキリと思い出すことができたりする。 脳というのはコンピューターのハ-ドディスクのようなものなのだろうか? 何かをモニターの画面で見るためには、それをディスクから呼び出してやらねばならない。 ディスクに記憶されてないものは呼び出しようが無いわけで、その情報をセ-ブするしないは自分が決めることである。 それが人の記憶の場合には誰がどうやって決めるのだろう? 先刻会った人の服の色は僕の脳にはセーブされなかったのに、30年前の見知らぬ人の匂いは、長いあいだ消去されることも無く、ちゃんとセーブされているのである。 それも目に見えないし形もない「匂い」 という形で。

たとえば上の写真。 僕はこの写真がなぜか気に入っているのだが、それはこの写真を見るたびに、自分の遠い遠い記憶の底を、何か小さなツメのようなものがカリカリとひっかくものがあるからだった。 この写真が撮られたよりも、はるかな以前に、幼い僕の眼で見た情景とどこか重なるものがあり、この写真があたかもマウスでクリックするように、僕の脳の中の古い記憶を起動するのであった。 ただ、起動されたその情景が香水の匂いのように鮮明ではなく、ややもするとそのまま永遠に消えてしまいそうなほど、希薄で頼りないのだった。

以前にフランスの田舎で、セギュレという、小さな丘の上の村に、車を運転していて偶然迷いこんだ時もそうだった。 僕はそこの風景を、どっかで前に見たことがある、と確信に近い気持ちで自分の記憶の底を探索したのだった。

実際に存在したことで無くとも、たとえば夢の中での経験とかでも記憶として脳の片隅の小さな引き出しにしまわれるのだろうか? そして一度記憶として脳にセーブされたものが、何かのきっかけを与えてやれば、現実の記憶として蘇って来る、などという事が可能なのだろうか?

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水に沈む町

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赤いボート
Venice, Italy


日本の旅行者、とくに旅行慣れをしたエキスパートの人達のあいだでは、イタリアに行ったらヴェネツィアを避けるのが常識になっているそうだ。 イタリア中で他のどんな都市よりも高いといわれる物価や、世界中からなだれ込んで来る恐ろしい数の観光者の群れや、すべてが観光地化されているホテルやレストランなど、そんなヴェネツィアのどこが良いの、というのが彼らのポイントらしい。
僕に言わせれば、ヴェネツィアは、そういう欠点をすべて飲み込んでさらにあり余るほどの魅力を持った町だと思う。
僕が初めてヴェネツィアに行った時にまずびっくりしたのは、確かにおびただしい観光者の群れにだった。 息を呑むように美しいその風景を写真に撮ろうとしても必ずどこかに群集が入ってくる。 そこでいったん写真を撮るのをあきらめて、ただ見る事に徹しようとしても、どこへ行っても見えるのはおびただしい群集だけだった。

そこで考えた。朝うんと早く起きだして、何千というゴキブリ達がぞろぞろと出てくる前に、ひとりでヴェネツィアの町を歩いたらどうだろうと。 そこで、僕は朝5時ごろムックリと起き上がると、熟睡している家族を起こさないようにそっと、まだ暗い戸外へと出て行った。 (時差ボケに苦しんでいる上に前夜遅くまで飲んでいたので、決して楽な事ではない)
ヴェネツィアの町はひと一人無く、猫一匹無く、青い静寂の中で深い眠りについていた。 そのあとの一時間半、僕は完全にヴェネツィアを独占した。 地図も持たず路地から路地をカメラを手にしてうろつき回りながら、僕は信じられないほどの恍惚の世界にいた。 サンマルコの広場でもなくリアルトの橋でもなく、標識をすべて無視して、水の上に1500年のあいだ存在したこの町と、僕はまともに一対一の決闘をしていたのだ。 頭も身体もへとへとになるまで。
やがて空がうっすらと明るくなるころ、通勤のためにぼちぼちと路に出て来はじめた住民たちと、僕は機嫌良く ”Buon Giorno" を交換しつつホテルに辿り着いた。 それから起きだして来た家族と入れ替わりに、ぶっ倒れるように眠りについた。

そして数年後に僕はまたこの微(かす)かな速度で水の底に沈みつつある不思議な町に戻ってきた。 再び勝負を挑むために。

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UserTag: ヴェネツィア 

父と娘

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ヴェネツィアのマヤ
Venice, Italy


小学校一年生の僕には、そのピアノのイスは高すぎて両足が床に届かない。 僕の両足がちょこんと乗っているのは小さな丸火鉢だった。 火鉢の中にはひと握りの炭火がかっかと燃えていて、僕の裸足(はだし)の足は皮膚が焦げそうなくらいに熱いのに、熱の届かない背中や肩は、肩掛けをしているにもかかわらずすっかり冷えきっていた。 そこは電燈も暖房もない、真冬の夜の幼稚園の講堂だった。 いや、電燈はあったのだけど、煌々と灯りを点けることを近所に遠慮して、夜の稽古のときに灯りが点けられたことはなかった。
眼の前の譜面台には一冊の楽譜が開かれていて、その楽譜の両ページをようやく含む範囲に、丸く、懐中電灯の光が当たっていた。 そしてピアノの左端には一本のロウソクが立っていて、そのぼんやりとした光でキイの上の自分の指がようやく判別できた。 懐中電灯の光は自分のすぐ頭上から発せられ、それを持って背後に立っているのは、僕の母だった。
窓の外は木立に白く雪が積もり、時おり強い風に古い窓ガラスがカタカタと音を立てた。僕は手がかじかんでくると、両手を膝に挟んで炭火で暖め、そのたびに強い一酸化炭素の臭いが鼻をついた。

背後で母の声がする。
「たった一度でいいのよ。一度でいいからつかえないでちゃんと最後まで弾いてちょうだい」
それなのに僕は先ほどから、速いパッセージの途中のある個所まで来ると、決まって左手が遅れてそのまま間違ったキイを叩いてしまうのだった。 ミスをしてもその場で止まることは許されない。 絶望的な気持ちで最後まで続けて、最後の和音を弾き終わると、母がまた耳元で低く
(もう一度)
またミスをする。
(もう一度)
それをもう何十回も繰り返しているのであった。
譜面を照らす母の懐中電灯の光が、時折り上方に動いて、ピアノの上の置時計に当たる。 それからまた、その光は楽譜の上に戻ってきて、
(もう一度)
と母がささやく。
(なぜ母は、こんなにも僕を憎むのだろう?)
涙が出そうになるのをこらえながら、僕は自分の不幸を噛みしめる。

 *****

それから長い年月が経って、兄も、母も、父も死んで、それからまたまた長い年月が経った。
僕はアメリカに来て結婚して、生まれてきたマヤにピアノを教え始めていた。 教えてみて、わが子に教えることの難しさが、やっと理解できたのである。
教師であるためには、親であることを放棄しなくてはならない。
母が僕にとって厳しい先生であったように、僕も娘には厳しい先生であったようだ。 ただ、僕は母と違って、怒って怒鳴りつけたり、彼女の手の甲をひっぱたいたりして、何度もマヤを泣かせたことがある。 見兼ねた妻が、「しばらく稽古を休んでみたら」 とあいだに入ったのをきっかけに、僕は娘の先生であることを辞めてしまった。 父親であることを放棄したくなかったからである。
それから数年間、中学と高校を通してマヤは学校のオーケストラに参加していたようだったが、僕はもうピアノに関して口出しをすることは無かったし、時々演奏会などにも出ていたようだが、妻が行くだけで僕自身は一度も行ったことがなかった。 行ってみたいという気持ちは十分にありながら、マヤの方で、僕には来て欲しくないのだろう、と思っていたから。

そのマヤが、高校の卒業演奏会で、バッハのピアノ協奏曲五番のヘ短調の第三楽章を弾くことになった、と妻から聞いたとき、僕は、えっと思った。 (そんな無茶な)
そしてそのマヤが父親の僕に向かって、演奏会まで6週間、僕にバッハをみて欲しいと恐る恐る頼んできたのである。 僕は複雑な気持ちで長い間黙って考えたあげくに、僕の母とそっくりの唇を持つマヤの顔を見ながら、「やってみるか」 と言っていた。
幼い時からマヤは神経の図太い子供だった。 他の子たちがパニックに陥るような状態の時でも、のんびりとして、逆に周りのそういう子供たちをジッと観察しているような覚めたところがあったようだ。 幼いころのピアノの発表会でも、年上の子供たちが自分の出番が近づくと、歯をガチガチと鳴らすほど緊張しているのに、マヤはさっさと出て行って、さっさとピアノを弾いて、ケロッとしてステージを降りてくる。 しかも、練習ではいつもミスする個所も、本番でミスすることはまず無いという不思議な子だった。

(もう一度)
の生活が始まった。夜も昼も。
(もう一度)
僕のコーチが厳しいだろうことは、誰よりもマヤがよく知っている。 それを承知で僕のところへ来たのである。 歯を食いしばって涙をこらえているのが、後ろに立って聴いている僕には痛いほど感じられる。
(もう一度)
父と娘の心が、お互いにこんなに近くまで歩み寄って一体になったことが今まであっただろうか?
練習をしていない時には、グレン・グールドのCD がいつも家中に鳴っていて、僕は仕事をしていても、車を運転していても、夜眠っていてもピアノの旋律がくり返しくり返し脳に響いていた。 時には耳をふさぎたいような気がすることもあったが、それはきっとマヤも同じだったに違いない。
それが6週間続いた。


第二楽章 ラールゴ
第三楽章 プレスト


演奏会の当日、楽屋で出番を待つマヤに僕が言ったのは、ひとつだけ。
「いいかい、イスに座ったらいきなり弾き始めるんじゃない。 まず目を閉じて、ゆっくりと五つ数えるんだ。 それからオーケストラに合図を送るんだよ」

演奏のあいだ、僕の目はステージの上の自分の娘に釘付けになり、耳は一音も聴き漏らすまいとしていた。 しかし僕の思いは心を離れ身体を離れ、会場の窓を抜けて夜空へ向かって昇って行った。 遥(はる)かな天空でバッハの第三楽章のプレストは、ある時は風にまかせて奔放に乱舞する羽毛のように、ある時は波に絶え間なく揺られる小船のように、終わりの無い幻想の世界へと僕を引き込んでいた。

演奏が終わって激しい拍手の中で僕はわれにかえる。 隣を見るとそこに妻の涙をためた目があった。そしてその隣には懸命に拍手をしているマヤの祖父母がいた。 僕の母もそこにいるべきだったのに・・・・

マヤの演奏は、今までいっしょに何百回と練習したそのどれよりも完璧に近く弾けていた。

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UserTag: マヤ 

モンパルナスの恋

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真夜中過ぎのモンパルナス
Paris, France

     あのひと
     コーヒーいれた
     ミルクをいれた
     砂糖をいれた
     スプーンをとった
     かきまぜた
     あのひと
     コーヒーのんだ
     カップをおいた
     なにも言わず
     タバコに火をつけた
     煙で輪をつくった
     灰皿に
     灰をおとした
     なにも言わず
     ふりむかず
     あのひと
     椅子からたって
     帽子をかむった
     レインコートを着た
     雨が降ってたから
     それから
     あのひと
     出て行った
     雨の中に
     なにも言わず
     ふりむかず
     それからわたしは
     両手で顔をふさいだ
     泣いた

     ーーーーーーージャック・プレヴェール   渡部兼直 訳

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