過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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優しかった人たち

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ある犬との邂逅
Fenway Park, Boston, Massachusetts USA



僕らの結婚はアメリカに渡って2年もしないうちに終わりがきてしまう。 知り合ってから10年、結婚してから7年のあいだ続いた僕らの関係は、砂で築いた城が風や波にあたって少しづつ崩れていくように消えていったのではなかった。 あるとき突然、鉈(なた)でロープをぶち切るような唐突な終わりかたをしていた。
妻が去ってしまったあとの寒々としたアパートへ、ある日思いがけない人から電話がかかってくる。 妻の妹の郁子だった。 姉のことを心配するお父さんに付き添って日本からボストンに来てから数日経つと言う。 明日発つんだけど帰る前に一度会いたい、お父さんもぜひ会いたいと言っているそうだ。 僕は郁子の方から指定して来たレストランでランチの時間に会う約束をして電話を切る。

妻のお父さんというのは、もともと横浜国大の工学部を出たエンジニアだったのに、代々女系家族の妻の実家に養子に入り、栃木で古くから続いた呉服問屋の旦那になってしまった。 温厚な人柄で、気の強い奥さんの尻にしかれていたようなところがある。 そしてこんな商売に向く人だとは僕にはどうしても思えなかった。 どういうわけか僕のことを気に入って、僕が妻の実家へ帰るとゴルフへ連れ出したり、行きつけの料亭で芸者を呼んでくれたりして、よくいっしょに酒を飲んだ。 ネガティブなことは一切口に出さなかったけど、ひょっとしたらあまり幸せではないんじゃないかと、僕は何となく感じていた。

義妹の郁子は僕らよりも5才年下のとても明るく優しい子だったが、気が強くて派手な性格の姉の影でいつもひっそりと霞んでいたようなところがあった。 郁子が東京の大学に出てきた最初の数年を、僕らのマンションでいっしょに暮らした。 兄弟のない僕は郁子を自分の妹のように可愛いがり、郁子の方でも性格の強い姉に言えない事を僕に相談してきたりした。 僕が郁子に優しすぎるといって妻の機嫌が悪くなったことも何度かある。

指定されたレストランに行くと二人はもうそこへ来ていて、笑顔で僕を迎えてくれた。 席に着くなりいきなり郁子が笑い顔で 「義兄(にい) さん、いったいどうしたの? お姉ちゃんとはあんなに仲良しだったのに・・・」 と言う。
故意に明るく響かせたその口調に僕は何も言えず、母親に悪行を見つかった子供のようにばつの悪そうな苦笑を浮かべるだけだった。 郁子なら僕の気持ちを分かってくれるかもしれない、という思いがふと胸をかすめるが、それはお父さんの前では出せない話である。 そのあとは妻と僕のことはいっさい二人の口からは出ることは無しに、東京の友人たちの噂とか、当たり障りのない話題で食事が進み言葉の少ない昼食になった。 食事が終わり、コーヒーを飲んでしまうともうあまり話すこともなく、僕らは席を立った。

外に出るとびっくりするほどの人の群れだった。 すぐ近くのフェンウェイ・パークで今日はレッドソックスの試合があるようだった。 僕はふと思ってバッグからカメラを取り出すと、二人を道端に並んで立たせて写真を撮る。 お父さんがポケットから封筒を取り出すと、「何か美味しいものでも食べなさい」 と僕の手に握らせる。 目に涙をためて僕を見つめていた郁子がいきなり胸に飛び込んで来てすがりつく。
「兄さん、あまり無茶をしないで。 いつまでも元気でいてちょうだい」
「うん。いつかまた会えるさ」 (それから一度も会っていない)
そのあと雑踏の中で僕らは右と左に別れたのだった。

そうか。妻を失えば妻の家族との縁も切れてしまうのか。 あんなにいい人たちなのに。 何となく納得がゆかないけれど、これが世間の慣わしなんだ。
球場へ向かって流れる群集に逆らって歩きながら、ふと上を見上げると、目の前の今は封鎖されてしまった古いホテルの窓から一匹の犬が覗いている。 このビルは無人のはずなのになぜ犬がいるのだろう? 僕は立ち止まってしばらくのあいだ犬と睨み合う。 それからカメラを取り出すとそれを犬に向けて写真を撮る。 周りの群集が怪訝(けげん)な顔をして僕を見ながら通り過ぎる。 雑踏の真っただ中に立ちすくむ僕に、次々と人がぶつかる。 思わずよろめいて再び上を見上げると、犬の姿は消えていた。

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三味線とパイプ

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Boston, Massachusetts USA



何千枚という古いネガをスキャンするという気の遠くなるようなプロジェクトを始めたこのごろ、この1枚の写真に出くわした僕は、そこで呆然としてしまった。 28歳か29歳の自分がそこにいてパイプをくわえながら三味線を弾いている。
そのときの自分と、今こうして壊滅状態に近いそのネガを再生しようとしている自分とのあいだには、はかりしれない時間の流れがあった。 古いラブレターを焼いてしまうのと同じ気持ちで、あのころのことはもう記憶の引き出しを空っぽにしたと思っていたのに、この写真を見たことでその引き出しに少しずつ返ってくるものがあった。

結婚をして数年、おたがいに20代の後半だった僕らは東京で壊れかかっていた結婚をもう一度ふたりだけでやり直そう、とボストンにやってきた。 そして僕の通った大学のすぐ近くに借りたのがこのアパートだった。 古い石造りの建物の中にあって、4階にあったわれわれのアパートは大きな2つの部屋にキッチンとバスルームがついていた。 東京で僕らが住んでいたマンションとはくらべものにならない、家具も何もない質素な生活をここで始めた。 そんなことはあまり気にならなかった。 もう一度最初からやり直そうとふたりでここまで来たのだから。

それからの2年間にさまざまなことがこのアパートで起こった。
華やかでありながら空虚だった日本での仕事や交友を棄てて、いきなり一介の苦学生になったのも
見かけは平穏でつつましい結婚生活がしばらくのあいだ続いたのも
東京のことがすべて、現実には起こらなかった前世のように思えたのも
ふたりで一生懸命にがんばったのも
みんなこのアパートでだった。

それから
ピアニストとしての自分の将来になんとなく先が見えてしまったのも
生きるということがそんなに仰々しいことではないと分かり始めたのも
妻の僕に対する失望がどんどんと膨らんでいったのも
このアパートでだった。

そして
ある日、2匹の獣(けもの)になっている妻と友人を見てしまったのも
このアパートでだった。


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イタリアの旅 ラヴェンナ

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Ravenna, Italy



旅をする人というのはみなそれぞれに楽しみ方に違いがあるから、それによって同行する人選だとか目的地だとか旅程だとかが自然と決まってくるわけだ。
そのそれぞれに違う楽しみ方のなかで、共通しているのは 「美味しいものを食べる」 ということにはたぶん異論はないだろう。 もっともなかには世界中どこへ旅行するのでも、米と炊飯器、それから持てる限りの日本食品を詰め込んで行くという人もいる、と聞いたけど。

実は僕には旅先での食事には奇妙な癖というか習慣がある。
好きなものなら同じものを何度でも、毎日でも食べたいという、大人気ない欲望があって、同行の人たちに笑われたり呆れられたりする。

たとえば、フランスではダック(鴨) だった。
僕はパリでもプロヴァンスでも行く先々のレストランでほとんど偏執狂的な執拗さでダックを食べた。 テーブルについて他の連中がメニューを見ながらあれこれと楽しげに品選びをするのを横目で見ながら、僕はふつう二,三種しかない鴨料理の中からひとつを選ぶのに10秒ぐらいしかかからない。 さすがに1日に2度は食べなかったが、数週間滞在したフランスでダックを食べなかった日は片手で数えられるほどであった。

そしてイタリアではカラマリ(イカ) だった。 僕は毎日毎日せっせとカラマリを食べた。
それが、上の写真のカラマリをラヴェンナの町で昼食に食べたときは、あっと声を出すぐらいに美味しかった。 いや、実際にあっと声を出してしまったので、カメリエーレ(給仕) がなにか不都合があったのかと心配げな顔で僕らのテーブルに戻ってきたぐらいだ。 嘘のようにカラリと軽く揚がったイカは、歯ごたえの無さが物足りないと思わせるぐらいに柔らかく、そのうえ油っこさがまったくない。 この町に住んでいたら僕はきっとこのリストランテに一日おきに行くだろう、と思うぐらいに旨かった。
味覚も、視覚や聴覚と同じくちゃんと記憶に残すことが可能なのだ、と悟ったイタリアの旅だった。



旅をすることの目的は異国の地に足を着けることではない。
最後に自分の国へ帰って来るときに
そこを異国として自分の足を着けることなのだ。

G. K. Chesterton




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クリスマス狂騒曲

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待つ
Dayton, Ohio USA

アメリカのサンクス・ギビング(感謝祭) は毎年11月の第4木曜と決められている。クリスマスとか独立記念日の祝日と違って感謝祭はもともと農産物の収穫を祝うお祭りだから、宗教とか政治の色あいが少ないという点でこの祝日を好むアメリカ人は多い。そして別名 Turkey Day と呼ばれるように何億匹という七面鳥がこの日のために処刑される日でもある。

 ところがこのターキーという鳥肉が僕は苦手なのである。美味しいと思わない。どんな調理の仕方をしてもターキーをおいしいと思って食べたことがない。嫌いで食べられないというのではなくて、僕の食欲をまったくそそる料理ではないのだった。それで僕は親類間では「ターキーを食べない変な日本人」というレッテルを貼られてしまって、家族間の感謝祭のディナーでは僕ひとりのために鶏肉とか豚肉の料理を別に用意するという奇妙な習慣ができてしまった。
僕としてはそれだけ料理人によけいな手間をとらせるのは申し訳ないということで、最近は自宅であらかじめ料理したダックを持参でディナーのパーティーに参加することになっている。

 そしてその平和で穏やかな感謝祭が終わった明くる日の金曜日。つまり今日だ。
この日にアメリカは最大の戦争に突入する。クリスマスショッピングという名の戦争に。
デパートをはじめアメリカ中の小売商店が前代未聞の安売りを実施するのがこの日なのだ。今日だけは朝の五時とか
時に開店する商店の前には、まだ暗いうちから長い行列が並び、人々は5割引とか7割引とかで売られるクリスマス贈答品をねらう。なにしろ小売商店の興亡がこの日の一日の売り上げにかかっている、といわれているくらいである。

 「ターキーを食べない変な日本人」はもちろん、この週末は自宅から一歩も外に出ることはない。


ショッピングはセックスよりもずっと良い。
手に入れたものに満足できなければ
もっと好きなものと交換ができるから。
Adrienne Gusoff



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モナとその周辺 (4/4)

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別れの季節
Commonwealth Avenue, Boston, Massachusetts USA



破局は若者にだけ訪れる。
しかも繰り返して何度も。
あたかも、物語の半ばでひとつの章が終わると次の新しい章が始まっていくように。
それにひきかえ、老人にとって破局はありえない。
死があるだけだった。

モナとの1年半が過ぎていった。 まるでおとぎ話の舞台のようにさまざまに彩(いろど)られた夢の世界の1年半が。

その時僕は、新しく出版される旅行案内の本の写真を撮るために、著者といっしょにアメリカ中の都市を数週間の強行軍で飛び回っていた。 サンクス・ギビングのターキーのディナーを帰りの飛行機の中で食べたということは、11月に入って冬がもうすぐそこまできている頃だったに違いない。 くたくたに疲れてボストンに帰って来た僕を空港に迎えてくれたのは、モナではなくてルームメートのジェロームだった。 (何かあったな) と僕は直感した。
「モナのお母さんが急に亡くなったんだ。 自動車事故らしい。 それで彼女は昨夜ジョージアの実家に飛んで行った。 きみに連絡を取ろうとしたんだけど、そちらはちょうど移動中で捕まらなかった」 と告げるジェロームの顔つきから、モナの受けた衝撃と苦痛が推測できた。
その夜遅くなってモナからの電話があった時に僕は言う言葉がなかった。 電話の向こうで 「やらなきゃならないいろんなことがありすぎて、悲しんでいる時間がないくらいよ。 でも今はそのほうがいい」 というモナの声には疲れが滲んでいた。  葬儀が済みしだいボストンに帰ってくるというモナに 「待ってるよ」 と僕は答えて電話を切った。 しかしその時はまだ予想すらしていなかったのは、僕の人生の長編小説の半ばで、「モナ」 というひとつの章が終わろうとしていたことだった。

《死があたかもひとつの季節を開いたかのようだった》 と堀辰雄は書いたが、まるでそのとおりになってしまったようだった。
まず、モナがボストンを引きあげてジョージアの実家に帰って行くということ。 これは、モナの病身のお父さんの面倒を見ていたお母さんが亡くなってしまった今、モナ以外にはその代わりを勤める人がいないという事らしい。 モナには二人の兄がいたがその兄たちにはそれぞれ家族があり、しかもカナダとサンフランシスコとに遠く離れて住んでいた。
次はジェロームだった。 ブラジルのリオのオーケストラのオーディションに受かって、3週間も経たないうちに彼もいなくなる。 それからアランと彼の愛人ドナルドはケープ・コッドのゲイの町、P タウン (Provincetown) に新しくアンティーク・ショップを開くためにこれもボストンを去ることになった。
僕は、自分の廻りをごうごうと渦を巻いて動いて行く大きな時の流れのようなものを感じないではいられなかった。 そしてその渦巻きが去って行った跡に、再び独りだけ残されるだろう自分・・・・

モナといっしょに過ごした最後の日はクリスマスに近く、朝から大雪が降っていた。 僕らはその晩のスティーヴィー・ワンダーのライブ・コンサートの切符を買っていたので、降りしきる牡丹雪の中をタイヤを滑らせながら走るタクシーに乗ってシンフォニーホールへ向った。 スティーヴィーの大ファンだったモナは 「今夜、あの曲を歌うかしら? 歌うといいな」 と言った。 「歌うよ、きっと」 と僕は答えた。 楽しかったころ、モナの部屋で、僕の部屋で、車の中で、バーのジュークボックスで繰り返して聞いていたのがこの 《Another Star》 だった。
その夜のコンサートではスティーヴィーはこの曲をアンコールの、それも一番最後に歌った。 まるでモナの願いを聞き入れることで、僕らの最後の夜を祝福してくれるかのように。
ふたたび雪の降り続く戸外に出ると、まだ夜はそんなに寒くはなくて、僕らは無言のまま肩を並べて、雪明りの道をどこまでも歩き続けた。

どこかの星で
Stevie Wonder



モナは今でも日曜の朝には、床に寝ころんでテレビを見ているにちがいない。 そしてキッチンでは誰かのためのコーヒーが沸いているのだろう。 

(終)

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モナとその周辺 (3/4)

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砂の女
Manhattan, New York City



まず、モナと僕はアランのパーティに招待される。 アランはボストンのゲイのコミュニティではリーダー格の男で、モナが自分の兄のように親しくしていた。 彼のサウス・エンドの瀟洒なアパートで僕らを迎えてくれたアランは、その顔を見たときアッと思うほどDavid Bowie に似ていて、僕の手を優しく握ると全員に紹介してくれた。
アランの広大なアパートはどの部屋も洗練されたアート・ヌーボーのインテリアで統一されて、そこらじゅうに置かれた美術品も、居住者の知性とセンスの良さを感じさせた。(彼はアンティークの売買を仕事としていた) 
パーティは男女をまじえた五, 六人の少人数の集まりで、モナのルームメートのジェロームもそこに来ていた。 全員がゲイとレズビアンである事は東洋人をアメリカの街角で選び出すのと同じくらいにまちがえようがなかった。

そのあとの数時間は、パーティ嫌いのはずの僕がこんなにリラックスした時間を、初対面の人たちに囲まれて持つことが可能だなんて、自分でも信じられないくらいに楽しかった。 それぞれのゲストは驚くほど話題が豊富でありながら、それらの話題は常に控えめにしか語られず、何の話をしていても最後には主客である僕のところにいつも注目が戻ってきた。そして途中から僕は気がついていた。 そうか、今夜のこの集まりは僕の認証式だったんだと。
仲間うちでアイドルのように愛されてきたモナを、どこからともなく現れたストレートの東洋人の男がいきなりさらって行こうとしている。 兄として姉として仲間として、彼らがこの侵入者の真意をチェックするための会合だったのだ。
帰り道でモナとふたりきりになった時に僕がそのことを言うと 「だいじょうぶよ。 全員があなたの事をすごく気に入ったみたいだわ。 たとえそうじゃなくたって私には自分が選んだ男について行くしか選択は無いんだけど、でもやっぱり友達や仲間は失いたくなかったから、私とってもしあわせよ。 あなたも彼らのこときっと好きになるわ」
僕は認証式を無事にパスしたようだった。

認証後の僕たちはモナの仲間のパーティには頻繁に招待されるようになり、短いあいだに次から次へと僕の交際の輪は広がっていく。 そのほとんどがゲイやレズビアンで年齢も20代から70代までと幅が広いうえに、みなそれぞれがユニークな経歴の持ち主で、ありとあらゆる興味深い仕事を持っていた。 彼らの世界は世間の常識やメインストリームからは完全に隠されていて、ふつうの人たちにはその存在さえ見つけることができない。 そのどこか淫靡で非現実的な魅力を持つ世界へ、僕はモナというドアを通して足を踏みいれてしまったとになる。
それまで僕が一度も行ったことの無い地域のバーやクラブにも、モナやアランに連れられていくと、どこでも常連として扱われた。
なかでもよく行ったのは、マサチュセッツ・アヴェニューのMIT (マサチュセッツ工科大学) の斜向かいにあったナイトクラブだった。(名前を覚えていない)  かなり広い店内はいつ行っても客で溢れていたが、その中で僕はただひとりのストレートの存在だったに違いない。 センスのいいロックバンドが演奏する中で人々はフロアで踊っていたが、そのほとんどが男同士、女同士のカップルだった。
ここでもモナはプリンセスだった。 そのプリンセスのボーイフレンドという事で、僕は紹介されたとたんに誰にでも暖かく迎えられ、次から次にドリンクが目の前に出てきた。 時折りモナがそばを離れて僕がひとりに残されると、あからさまな目的を持って僕に近づいて来た男達も、誰かが耳打ちをすると事情を理解したらしく、改めて握手を求めてきてモナの友達だと自己紹介した。



こんなふうにして、それまで固く閉ざした貝の殻の中で独りで生きていた僕の生活が、少しづつ変わってきた。 最初は貝の殻をちょっとだけ開けて恐る恐る外界を覗いていたのが、モナと、モナの優しい仲間たちのおかげで僕は完全に貝から出てくることができたようだ。
アンティーク好きだった僕らは、土曜日になるときまってモナの車で海沿いの町を巡って骨董の掘り出し物を探しに出かけた。 買い集めたものは、アランの所有するビーコン・ストリートの骨董屋に置いておけば、時には買値の10倍以上に売れたりすることもあって、そんな時モナと僕は手を取り合って子供のように狂喜した。 そして土曜日のアンティークのハントの後は、海辺の町に僕が借りているアパートにふたりで帰っていく。 それから夕凪(ゆうなぎ)の海で泳いだり、ふたりで夕食を作ったり、その町で一軒しかないバーへ飲みに行ったりしたあと、モナはそのまま泊まってゆくのが習慣になった。

そして日曜の朝。
遅く目覚めるとモナは全裸の体に白いシーツを巻きつけてベッドを抜け出る。 キッチンに立ってコーヒーを沸かす彼女の姿は、まるで朝の香を焚(た)く古代ローマ帝国の皇女のようにみえる。
それからモナはテレビの前の絨毯に腹ばいになると、よく幼い子供がするように、床に立てた両ひじの上の掌に顎(あご) を乗っけて、テレビの子供向きの漫画を一心に見る。 幼い時から欠かしたことがないというその習慣は、いつも僕に微笑をもたらす。 「そんなに近くで見るのは目に悪いよ」 という僕の警告はモナの耳には入らない。
あけ放した窓から強い潮のかおりを風が吹き込み、それとコーヒーの匂いとが、部屋の中で僕らのしあわせの取り合いをする。 波の音が聞こえてくるほど海に近い僕の部屋には朝日が斜めに射しこんでいる。 夏の終わりのどこか弱々しい朝の光だ。 寝転んだモナの背中を、光と陰の境界線がザックリと切り裂くように二分している。 まるで、モナの美しさや、昨夜僕らが分けあった快楽を罰するかのように。

こんな美しい日々に終わりが来るなんて誰に想像ができただろう?

(続)

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モナとその周辺 (2/4)

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孤独な滑走
Boston, Massachusetts USA



モナは市の社会福祉機関で民生委員として働いていたが、時々モデルの仕事をして小遣銭を稼いでいた。 白人と黒人の混血といいながら、生まれてくるときに神様がうっかりして色の配合をまちがえたらしく、その薄い褐色の肌はちょっと焼き過ぎた夏の日焼けのように見えた。 そして衣服の下に隠されたそのすばらしい肢体を僕が最初から知っていたのは、相棒のRのポートフォリオで彼女のスウィム・スーツの写真を見たことがあったからである。

モナと僕とは最初からすぐに気が合って、彼女といっしょにいるととにかく楽しい時間があっというまに過ぎていく。 それは男と女のあいだではもっとも明瞭な 「恋のはじまり」 の兆候にちがいない。 色事師のRの誘惑をキッパリとはねつけた事も (彼に聞いていた) 僕の気に入っていたし、モナの豊かな人柄の中には恋人だけではなく、優しい母親や幼い子供が混じっているのを僕は感じることができた。
あとになってふたりがいっしょに夜を過ごすようになったとき、僕はモナの褐色の肌を愛した。 滑らかで弾けるように密度の濃い皮膚は、指で触れていて飽きることがなかった。 それは美しいものの中でも、若い生き物だけに所有することを許されていながら、やがていつかは朽ちてゆくに違いない儚さ (はかなさ) のようなものを僕に感じさせた。
僕らの恋は、激しく燃焼する炎というのではなくて、幼馴染み同士が大人になってそのまま恋に陥るような、安らぎといここちの良さのようなものを持っていた。
なぜそんなに僕に興味を持ったのかと聞いたことがある。 すると彼女はしばらく考えていたが、
「Animal Magnetism,  獣(けもの)同士の磁力 ね」 と短く、しかしはっきりと答えた。

ある夏の日の夕方、ふたりでチャールスの河畔を散歩している時に、ねえ、と改まった調子でモナが話しかけた。
「もし、わたしがレズビアンだってわかったらあなたどうするかしら?」
僕はあまり驚かなかった。 もしそれが事実としても今の僕らにはあまり関係のないことのように思えたから。
「別にどうもしないと思う。 だけどレズビアンのモナがなぜ男の僕なんかに興味を持ったの?」 と僕は逆に聞き返す。
「それがね、自分でもよく分からないんだけど、男の人をこんなに好きになったのは初めてなの。 前に男と寝たことが無いわけじゃないわ。 それは女の子なら誰もがする一種の洗礼のようなもので、とにかくそれを過ぎなきゃ大人になれなかったような気がしていただけでじゃないかしら。 処女を失うってことがわたしにはとくに何の意味も無かったように思うの。 そのあとはもう何年も女性にしか興味が無かった。 あなたに会うまでは」
僕は前から内心気になっていることを口に出してみる。
「じゃあ、ジェロームは? モナはルームメートとは言っているけど、事実上は男と女の関係じゃないかな、と思っていたんだ」 ジェロームというのはモナといっしょに住んでいる若い黒人の男性で、オーケストラでチェロを弾いていた。
僕の問いにモナはゆるい微笑を見せると
「違うわ。 ジェロームとわたしはとっても仲の良い友達よ。それに彼もゲイなの」

こうして僕は、話に聞くだけで実際には覗いたこともなかった、妖(あや)しげなホモセクシャルの世界へ踏み込んで行くことになる。

(続)


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モナとその周辺 (1/4)

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破壊願望
Cambridge, Massachusetts USA



1976年ごろのボストンの話である。
そのころ僕はニューバリー・ストリートに、知り合いの写真家と共同で写真のスタジオを持っていた。 というといかにも聞こえがいいが、実際には4階建ての古い石造りのビルの地下にあった2室続きのアパートを借りて、1室はバックドロップや照明器具を運び入れて撮影スタジオに、もう1室は暗室にしてフィルムの現像やプリントができるようにしただけの小さな仕事場だった。 すぐ上の階はレストランになっていて、そこが僕たちのオフィスになり、食堂になり、人と会う時の応接間にもなった。

スタジオのレントを僕と分けあっていたのはRという40代はじめのロシア人で、何事にも深くものを考るということをしない単純な性格だったが気の良い快活な男だった。 われわれはなんとなくおたがいに気があっていたようだ。 彼の英語はロシア語訛りが強くて彼としばらくしゃべっていると、自分の英語にまでロシア語の訛りがうつってしまったような気がした。 彼の仕事は主に雑誌や新聞などのファッションの広告がほとんどで、それも一流雑誌のヴォーグとかマドモアゼルのように何人もの助手や複雑なセットを使ったりする流行写真家には程遠く、穴倉のような地下のスタジオで駆け出しの安いモデルやモデル志望の女の子を使って、地方の雑誌や新聞の日曜版のチラシに載せる衣服や下着の広告などを撮影して生計をたてていた。 それでスタジオの方はRが、暗室は僕が使うという取り決めをわれわれは最初からしていた。

独身で精力旺盛なRは自分のモデルと寝ることも仕事に含まれていると考えていたようで、20歳前後の若いチックから50代の成熟したマダムまで、彼のまわりには女気が絶えることがなかった。
「アメリカの男性はセックスが下手なんだよ。 だからみんな俺と寝たがるんだ」 と彼はうそぶいていたが、僕が 「そうじゃないんじゃないかな。 あんたと寝ればまた次の仕事をもらえるからだと思うけど」 と言ったら、しばらく僕の顔をジッと見ていたが、そうだったのかとがっくりとした表情で何か汚い言葉をロシア語で吐いて、手に持っていたウォッカのグラスをグイとあおった。 しかしそれで彼の女癖が治まるということはなかったようだ。

僕はといえばほとんどの時間を、ほの暗いアンバー色のセーフ・ライトが灯り、定着液の酸が強く鼻をつく暗室の中で過ごした。 夜遅くなって地下鉄がなくなると、そのままスタジオの床に毛布を敷いて寝た。 そのまま自分のアパートへ何日も帰らないこともあった。
相棒のRは僕よりもずっと年上だったから、若いくせにうじうじと孤独に生きている僕を見かねて、彼のモデルたちを僕にひき合わせようとした。 その中にはとても感じのいい女性もいて、いっしょに食事や映画に行ったりしたけれど、僕はそれ以上に交際を発展させようとはしなかった。 彼女たちから見れば僕は変な男と映(うつ)っていたに違いない。
かなり以前に壊れてしまった結婚の後遺症をいまだに引きずって生きていた僕には、女という存在が得体(えたい)のしれない化け物のように感じられ、彼女たちに再び僕を傷つけるチャンスを与えるのをひどく恐れた。

そうしたモデルたちの中に、僕に最初から強い興味を隠さなかった白人と黒人の混血の女の子がいて、それがモナだった。

(続)

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子供たち

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まるで明日がないように・・・
Somerville, Massachusetts USA


実は白状すると、僕は昔から子供が苦手なのである。
子供が嫌いだというわけではない。 青年であったころからまわりに子供がいるという世界に無縁だった僕は、大人として子供をどう扱えばいいのかの経験がまったく無いせいだと思う。
結婚してからも、自分とそっくりの顔と性格を持つ小さい人間が、赤ん坊という名でこの世に生まれて来る、という考えは長いあいだ僕には何か許されない恐ろしいことのように思えていた。 だから妻が妊娠したときに、僕には喜ぶよりも何よりも先に (困った事になったなあ) と当惑してしまったというのが本心だった。
しかし僕の当惑を無視して子供は生まれてきた。

アメリカでそのころ急激に増えていた自然分娩を選択したわれわれは、出産前の数週間を何度か講習会に出て、リハーサルのようなことをやらせられた。 だからいよいよ本番が始まったときには、僕は白衣を着せられて白帽をかぶり、医者や看護婦といっしょに妻の両脚のあいだに立って、赤ん坊が少しずつこの世に押し出されてくるのを、まのあたりに見た。
そのときに僕が感じていたのは、生まれてくる自分の分身に対する愛というようなものではなかったような気がする。 むしろ、出産という太古からくりかえされてきたこの神聖な儀式が与える 「生命の神秘」 に襟を正すような感激をおぼえた。

 「自分の相似形」 がこの世に誕生するということにまだ拘(こだわ) りをもっていた僕は、生まれてきたのが女の子だったのですこしほっとした。 女の子なら僕のような醜い人間にはならないだろう、と何の根拠もなく決めてしまっていたのだ。
生まれてきたマヤは育ってみると僕にはあまり似ていないが、目と口が僕の母にそっくりだった。 性格はどちらかというと、僕よりも妻の性格を受け継いだようだったのでそれにもあらためて安心をした。
そんな経験をして、始めはまったく自信のない父親だった僕も、3年後に息子が生まれるころには、いつの間にか世間並みの父親の役を演じることができるようになっていた。

それで二児の父親になったから子供が好きになったかというと、そんなことはなくてあいかわらず今でも苦手なのは変わらない。
先日も、産休でしばらく職場を休んでいた女性が、生まれたばかりの赤ちゃんを見せに会社にやって来ると、みんなでワッと取り囲んで、女性連中の口から (僕の職場は90%が女性なのだ) 「Cute!」 「Lovely!」 「Adorable! 」 「Precious!」 とありとあらゆる形容詞の連発である。 中には 「天使のようだ」 とか 「貴女にそっくり」 だとか言っている。 ところが僕から見ると、生まれたばかりの赤ん坊は顔がクシャクシャしていて、天使にも母親にも似ていると思えないし、むしろ猿の顔にそっくりだと思えた。 僕はかろうじて 「可愛いね」 と小さく言ってみたが、言ったとたんに、見え透いた嘘を言ったあとのあの罪悪感がたちまち襲ってきた。 それを償うためにあわてて 「名前は?」 とか 「体重はどのくらい?」 とかで懸命にごまかしている自分がいた。

大家族である僕のまわりには、15人もの甥と姪がいるが、「ちょっと気難しいけど、話の分かるおもしろい叔父さん」 という事に僕はなっているらしい。
この写真の子供たちも今は20代の後半になった。 どちらもいまだに生きることへの試行錯誤をくりかえしているようだが、それと似たようなことを今までやってきた父親の僕には、何も言う資格はない。 ただ、ほんとうに僕の助けを必要とするときにはきっと何か言ってくるにちがいないと信じている。

すべての女性は子供の扱い方を知っていなければならない
なぜなら
いつの日か夫という名の子供をもつことになるから
Franklin P. Jones


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悲しみよ こんにちは

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Montparnasse, Paris



パリで僕らが借りたアパルトマンは、モンパルナスのメトロの駅から歩いて10分ほどの便利の良いところだった。 駅まで歩く狭い通りの両側にはカフェ、レストラン、マーケット、ワイン屋などがぎっしりつまっていて、夜中過ぎまで人通りが絶えることがなく典型的なパリの下町の活気に溢れていた。
僕らのアパルトマンのすぐそばには高い石造りの塀が長く続いていて、その塀の内側がモンパルナス墓地だった。 この広大な墓地は昼の日中でもまるで別世界のように静かでひと気がなく、朝夕の散歩にはもってこいの場所である。 墓場という陰気な雰囲気がまったくないうえに、それぞれの墓が何かしらユニークに造られている。 ぶらぶらと歩きながら見ていると、まるで野外の展覧会場にいるようで飽きることがない。 一つ一つの墓をたんねんに見ていくと、時々よく知られた人たちの名前がある。 サルトル、ボーボワール夫妻や、モーパッサン、ボードレール、サミュエル・ベケット、ゲンズブールなどがここに眠っているのは前から知っていたが、ある日ここで、アメリカの女優ジーン・セバーグ (Jean Seberg) の名前を見つけたときはあれっと驚いた。

19歳の時にアイオワの片田舎から発掘されたジーン・セバーグは、デビューした最初から 「現代のシンデレラ」 としてその細い肩に重荷を背負いすぎたのかも知れない。 いくつかの映画に出て、その中にはあのゴダールのヌーベールバーグでジャン・ポール・ベルモンドと共演した 《勝手にしやがれ》 など評判になったフィルムもあったにもかかわらず、彼女に対する批評は厳しかった。 美貌のジーンに次から次に映画の役がついたが、彼女への女優としての評価は概してあまり良かったとはいえない。 一度など、リー・マービンやクリント・イーストウッドとミュージカル映画に出演していながら、歌えないジーンは歌を全部吹き替えにしている。
そうするうちにアメリカに愛想をつかした彼女は後年パリに移り、そのあとは二度とアメリカに帰ることはなかった。 41歳の比較的短い生涯を終えるまでに、3度の結婚、無数の情事、政治運動への参加、そして女優としての不成功、アルコールやドラッグの中毒、と彼女の私生活はあたかも自分自身がドラマの主人公になってしまったかのようだった。
そして1979年のある日にいきなりパリのアパルトマンからすがたを消してしまう。 そのあと11日たって自分の車の後部座席で死体となって発見される。 「許して。 これいじょう生きてゆけない」 という短く書かれた紙片を手に握って。
あれほどパリを愛した彼女が眠るのは、モンパルナスほど適切な場所は考えられない。

ジーン・セバーグのフィルムで僕が忘れられないのは、《勝手にしやがれ》 よりもその前年に、デボラ・カーやデイヴィッド・ニーヴェンたちと共演した、あのフランスソワーズ・サガンの 《悲しみよこんにちは》 だった。
美しい南フランスを舞台にしたこの映画で、多感で孤独な娘のセシールを演じるジーンが、二人の男 (ボーイフレンドと父親) と次々にダンスをする場面。 そこに流れる音楽はジュリエット・グレコが歌う 《悲しみよこんにちは》 だった。 その旋律と言葉が、愛を感じないボーイフレンドに抱かれて踊るセシールの魂にギリギリと食い込んでゆく、あの場面だ。
今あらためてこの場面を見ていると、これからあと、どんな不幸が自分を待っているのかまだ予想すらしていない20歳の女優ジーン・セバーグと、豪奢ながら空虚と悲しみに満ちて生きる劇中のセシール、 そこへさらに、原作を書いて天才少女といわれたフランソワーズ・サガンの3人の女性像が、スライドショウのように重なったり離れたりする。

ジュリエット・グレコがささやく。

憂鬱はわたしのお友達
いつもとても悲しそう
毎朝 眼が覚めると
わたしはつぶやく
おはよう 悲しみさん
                            ・・・・・ September30 訳

      


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リオから来た女 (2/2)

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夜へ
Las Vegas, Nevada USA


1970年代の初め、僕は日本の音楽界を離れてボストンの音楽学校に留学した。 その少し前からピアニストとしての自分の才能に限界を感じはじめていた僕は、大学では器楽科ではなくて作曲科に籍を置いていた。 それでも時々ギグが入ってくるとあちこちに出かけていってピアノを弾いていた。 コンバット・ゾーンのストリップ小屋だとか個人のパーティなどつまらない仕事が多かったが、経済的に苦しかった僕にとってはどんな仕事でも無いよりはましだった。
作曲科の学生としてその頃の僕がもっとも興味を持っていたのは、ギル・エヴァンス (ピアニストのビル・エヴァンスではない) とミシェル・ルグランの二人の作編曲家だった。
そのギル・エヴァンスが、アストラッド・ジルベルトのために全曲をアレンジしたLPを僕は日本から持ってきていた。 ふつうならストリングスなどを使って甘くイージーリスニングになりがちなアストラッドの歌に、ギル・エヴァンスは不協和音をためらわずに多用した重厚なハーモニーをぶつけて、独特の世界を創り上げている。 それはアストラッドの細く繊細な歌との完璧な結合だと僕は思っていたが、このアルバムを僕は文字通り擦りきれるまで繰りかえし聴いた。
そのアルバムの中のこの歌は映画 《シェルブールの雨傘》 の主題歌で、作曲は偶然にも僕にとってもうひとりのアイドル、ミシェル・ルグランだった。




そのアストラッドがボストンのジャズクラブに来たのは、71年か72年だったろうか。それまでに彼女は夫だったジョアンとはすでに離婚していたし、スタン・ゲッツのグループからも離れて、世界的にトップレベルのシンガーとして独立していた。 ジョアンとの離婚は、アストラッドとゲッツの深くなりすぎてしまった関係のためなのか、それともブラジルに帰りたがっていたジョアンと、アメリカに永住する決心をしたアストラッドとの意見の相違からなのか、そのへんのことは僕には分からなかった。

ある日、大学で僕のピアノの教師だったレイ・サンティージがレッスンの後で、「仕事があるよ」 と言い出した。
レイは以前にチャーリー・パーカーやスタン・ゲッツ等と仕事をしたこともあり、ニューイングランド地域では著名なピアニストだった。 ボストンを訪れる一流のバンドやシンガーがピアニストを必要とするときには、決まってレイを指名した。 レイはその時、ニューヨークの初演を終えてボストンにやって来たばかりのミュージカル 《ヘアー》 のために長期公演の契約をむすんでいたので、たまたま一週間だけのクラブ出演のアストラッド・ジルベルトのギグとぶつかってしまったのだ。 僕が金に困っていることをよく知っていたレイは、それまでにも時々仕事を回してくれていた。

日本にいた頃からあんなに好きだったアストラッドといっしょに仕事をすることになって僕は不思議な気がした。 彼女の歌った曲は僕はすべて知っていたし、この仕事で集められたグループの中には顔見知りが二人いたこともあって、午後のリハーサルは何の問題もなかった。 当のアストラッドは化粧のない素顔で現れ、カタコトの日本語であいさつをして僕を驚かせたが、リオにはサンパウロほどではないけれど、けっこう日系人が多いのだと言っていた。 僕と二つしか年の違わない彼女は、きさくな飾らない性格で、話をしていてその声を聞いているだけで僕は彼女の歌を聴いているような気がしていた。

リハーサルの次の日から一週間、ジャズクラブ 《ポールズ・モール》 での演奏は一晩2ステージで、 客席は毎晩満席だっただけではなく、長い列がボイルストン・ストリートに並んだ。 聴衆はどちらかというと三十代以上のおちついた「大人」が多かったのは、先週このステージで聴いたばかりの BB・キングとは大きな違いだった。 酒を飲み食事をしながら誰もがボサノヴァのリズムに身を任せて、今にも立ち上がって踊りだしそうな楽しい雰囲気だったが、誰よりも楽しんでいたのはこの僕自身だったに違いない。 この十年のあいだ遠くからだけ見続けてきたアストラッドのすぐそばでピアノを弾きながら、耳に聴いているのは擦り切れたLPからのサウンドではなくて、生身の彼女の声だった。 そしてその彼女と、音楽のコラボレ-ションの中でピッタリと一つになっている瞬間に僕はこの上ない幸せを感じていた。
暗い鬱々とした日々を送っていたその頃の僕にとっては、実にまれな事であったと言っていい。

アストラッドとまる1週間をいっしょに過ごしていて、僕がひとつだけ気になったことがあった。 それは彼女がふだんだけではなく、ステージの上でもとても静かなことだった。 静か過ぎる・・・
日常の生活でどんなにおとなしいエンターテイナーでも、いったんステージに上がればそこは別の世界のはずだ。 客のために歌い、笑い、しゃべる。 アストラッドのステージにはそれがなかった。 そして彼女の見せる控えめな微笑は、隠れていた母親の背後から押しだされて歌っている恥ずかしがり屋の少女を思い出させた。 (幸せじゃないのかな) と僕は思った。 厳しいショービジネスの世界を生き延びてゆくには、彼女はあまりにも線が細く、壊れやすいガラス細工のような雰囲気を持っていた。

最後の夜の最後の演奏が終わったあとで、《ポールズ・モール》 のオーナーのポールがバンドの全員をディナーに誘ってくれたが、アストラッドは疲れたからと言ってそれを断ると、自分のマネージャーを後に残して、数ブロック先のコプリー・ホテルまで歩きたいからと言ってひとりで帰って行こうとしていた。 送って行こうかと申し出た僕に、アストラッドはそれも丁寧に断った。 そして僕の手を握ったあとでガラスのドアを開けると、夜中過ぎでもまだ人通りの絶えないボイルストン・ストリートへと姿を消して行った。
そのとき僕が思っていたのは、リオ・デ・ジャネイロの家のキッチンでワインを飲みながら、陽気に歌を口ずさんでいた頃のアストラッドは、こんなに孤独ではなくてもっと幸せだったのかもしれない、ということだった。

(終)

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リオから来た女 (1/2)

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嵐の予感
St Petersburg, Florida USA



フィラデルフィア生まれのテナー・サキソフォン奏者のスタン・ゲッツが1960年ごろのブラジルで、ボサノヴァという不思議なリズムに出会ったときに、ジャズの世界にひとつの新しい季節が始まった。
スタン・ゲッツは当時のブラジル音楽界の大御所、ピアニストで作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビムと、ボサノヴァ界の寵児であったギタリスト兼シンガーのジョアン・ジルベルトを仲間に誘って、このブラジル生まれの新しいリズムをアメリカに持ち込もうと考えていた。
リオ・デ・ジャネイロに滞在していたゲッツはアントニオやジョアンと頻繁に会って将来のプランをあれこれと練っていた。 ある時3人が初めてジョアンの自宅に集まった事があった。 そこでゲッツはジョアンの妻で、まだ少女のように若いアストラッドに紹介される。 (実際アストラッドはその時19歳でジョアンと結婚してからまだ数年しかたっていなかった)。
音楽の話に熱中していたゲッツの耳にその時聞こえてきたのは、隣のキッチンで来客のためにワインのつまみか何かを作りながら鼻歌を歌っているアストラッドの声だった。 ハッと話を中断したゲッツはしばらくじっとその歌を聴いていたが、それから改めてジョアンの顔を見つめていた。
「おい、冗談だろう?」 とジョアンは抗議したが、ゲッツの心はそのときにもう決まっていた。 ボサノヴァという魅惑的なリズムを、まるで伝染病のように世界のすみずみまで広げてしまったリオのシンガー、アストラッド・ジルベルトの誕生だった。

Corcovado
(Quiet Nights of Quiet Stars)
 


最初のアルバム 《イパネマの娘》 がアメリカ国内で売り出され、あっというまに爆発的なヒットになる。 最初は旦那のジョアンとのデュエットでいっしょに歌っていたが、やがて妻にすっかりお株を取られた形のジョアンはギターだけに専念するようになる。
アストラッドの歌は、歌というよりも 女の (つぶやき) のようなものだった。 巨大なコンサート会場での絶唱ではなくて、小さなナイトクラブでひっそりと聴くための歌だった。
ボサノヴァの軽快なリズムに合わせて、アストラッドは一見リズムを無視した無造作な乗りかたで歌っていながら、それでいてちゃんと内面の独特なリズムを創りあげてゆく。 ブラジル人が生まれながらにして備えているダンスのリズム感に違いない。 そのうえ、彼女の舌足らずの英語の発音も、エキゾチックなポルトガル語の響きと合わせて新鮮で清純な色気のようなものを聴衆に与える。
ゲッツとジルベルトのコンビのレコードはそれから何枚も製作されてすべて大ヒットした。 世界中に。 

(続)

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20ミリの世界

101117


堕ちていく女
Musee D'orsay, Paris


20ミリの超広角レンズに出合ったのはもうずいぶん昔のことだったが、たちまちその虜(とりこ)になってしまった。
超広角を初めて手にする者が最初は誰でもそうであるように、遠近のパースペクティブを極端に強調したショットや、超広角でしか撮れないアングルのショット、近景と遠景を対比させたショットなど、夢中になって撮りまくりながらレンズ光学の魔術に感嘆していた。
そしてしばらくすると飽きてしまった。

そんな時偶然に、50ミリで撮るべき平面的なシーンを被写体にうんと近寄って20ミリで撮った写真を見ていて、あっと思ってしまった。 画角は50ミリで撮られたものと理論的には同じであるはずなのに、どこか何かが違うのだ。 そこには、50ミリで作られた織物をいったんバラバラにして、今度は違う材質の縦糸と横糸を混ぜ合わせて、あらためてもう一度織り直したタペストリーのような不思議な雰囲気があった。 そしてそのイメージは、見る者に現実と非現実のあいだを揺れ動いているような奇妙な感覚を伝えた。 そこにあるのは眼にはっきりと訴えてくるものではなくて、よく見ないとうっかりと見過ごしてしまいそうな微妙な、不思議な空気だった。
それで再び病みつきになってしまったのである。

それからは外に出かけるときにはこの20ミリは必ずカメラバッグの底に潜んでいた。 それを取り出して使うチャンスははるかに少ないにもかかわらず、僕はいつも20ミリで取れる被写体を探し続けていたように思う。 それは現在でも同じだ。
「超広角で撮られたようには見えないイメージを超広角で創る」---これが僕の命題になった。

「堕ちていく女」 はそんな中の数少ない一枚である。 この写真は、誘惑に堕ちたなまなましい女の裸像からほんの1メートルしか離れていない地点に立って撮っている。


私はあらゆることに抵抗することができるが
誘惑にだけは勝てない。
Oscar Wilde





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日本語、それとも英語?

101115

ビジネスマンの朝
Faneuil Hall, Boston, Massachusetts USA


長いあいだアメリカで生活をしていてよく人に聞かれるのは、ものを考える時に、「日本語で考えますか、それとも英語で考えていますか?」 ということだ。
そのたびに僕は困ってしまう。
ほかの人はどうか知らないけれど、いったいものを考えるのに言葉があるのかな、と僕は思っている。 考えた後でそれを表現するのには当然言葉が必要になるので、その時点で英語を好むか日本語を好むか、と聞かれればそれなりの答えは出てくるだろうが、「考える」 という行為自体は純粋に意識下にあることだから、言葉という、形を持ったシンボルの発生する以前の現象ではないか、と僕は思うのだけれど・・・

それでは、その自分の考えを表現するのにどちらの言葉を好むか、と聞かれたら (これもよく人に聞かれる) 「それはその時の状況によります」 とまた、あまり面白くない答えになってしまう。
日本人同士での会話は当然ながら日本語になるので、曖昧さを特徴とする日本語をあやつって、言葉の選択とか発言の端々にまでその人の人柄や態度が微妙に出てくるのは、これは日本語の良いところで日本語でしかできない隠し技だろう。
女性を口説くのが良い例だそうだ。 (僕にはあまり経験がないけれど)
日本語で日本人女性を口説くときは、自分の思いつめた切ない気持ちが日本語という繊細で含みのある言葉になって、まるで熱い息を直接吹きかけるように相手の皮膚に浸透していっているのが自分でも感じられる。 そして目の前にいる相手がその言葉に直接反応しているのが、相手の眼とか顔の表情とか仕草とかに隠しきれないままに表われてくる。 
それにくらべると、英語で欧米女性を口説く時はかなりちがう。 自分の口から出る異邦の言葉に、なんとなくまるで以前に見た映画の中の台詞を読んでいるような白々しさがあって、自分の真情がどこまで相手に伝わっているのかにも自信がない。
自分がたった今吐いた言葉と、自分が伝えようとした熱い気持ちのあいだに、ささやかな、しかし絶望的な距離をいつも感じてしまう。 そのうえ相手の女性が口に出した言葉も、日本語のようにまっしぐらに僕の胸に切り込んでこないで、いったん脳へ送られてそこで分析と解釈のプロセスを経てから胸へ下りてくるから、どうしても1テンポ遅れる。 その1テンポとは、このさい限りなく貴重な瞬間なのにちがいなかった。

ところが、ビジネスの世界において日米混合のビジネスマン連中とのミーティングなどで、人と折衝をする時だとか、何かの報告とか議論とかをする場合は、これはもう英語でやるのが一番楽である。 つまり、物事を順序だてて説明したり、考えを筋道を立て供述するのには、日本語はまったく不向きな言葉なのだ。
日本人同士のメールではたとえそれがビジネスの目的であっても、煩雑な敬語、謙譲語、曖昧語、季節の挨拶、などの裏に隠されて、かんじんのメールの主意は半分は失われてしまう。

日本語と英語の違いを一番極端に感じるのは、(女性を口説くのを別にすれば) テレビやラジオで聞く政治家の演説だろう。 欧米の政治家は、Statesman と呼ばれるぐらいだから演説がすごく上手だし、また上手な演説ができることが政治家としてのひとつの資格になっている。 大統領だとか州議員の演説を聴いていると、言おうとしていることが明確にこちらに伝わって来るし、憎いほど適切な言葉の選択をして、理論的にたたみかかけてくるその論法はすごく説得力がある。
それにくらべて、日本の政治家の選挙演説や国会の質疑応答を聴いていると、何を言っているのか何を言いたいのか時々分からなくなることがある。 10の言葉を費やしていながら実際に含まれている内容は4とか5とかで、あとは例の日本語特有の曖昧であまり意味のない言葉の羅列に過ぎないことが多い。
だいいち、考えを 「述べる」 のではなくて 「叫んで」 いる政治家が多いのは、あれは本人の資質もあるだろうけれど、日本語という言語自体にも責任があるのではないかと思ったことがある。 静かな話し合いで人を説得できない言葉は、どんなに大声で叫んでも相手に浸透するはずがない。

現在の僕は日本語と英語のあいだを、スイッチを切りかえるように行ったり来たりして日常の生活をしているわけだけど、そうなるのには長い年月がかかったようである。

棒と石でもって私の骨を砕くことができる。
しかし言葉は私の心を砕く。
Linda Mccartney


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スティーブのこと

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Steve
Somerville, Massachusetts USA



長い人生の中のほんのささいな一部分をおたがいに共有していながら、そのまま混沌の中へと別れて行った、そんな人達の何と多いことだろう。
そんな人達との数知れない交友の残骸が、日記などをつけた事のない僕には写真というかたちで残っている。 その中には日常の生活の中で思いだすこともなく、もう名前さえ忘れてしまっている人も多い。 それなのに古い写真を取り出して見ていると、その人の声や仕草や、場所や、衣服などといっしょに、その人と自分のあいだの微妙な交友関係までが一瞬にして蘇える。 目にしているのは一枚のスチル写真にすぎないのに、僕の脳の中ではそれが一連のビデオフィルムのようになまなましく再生されるのだった。

スティーブもそんな人達の中のひとりだった。 友達と呼ぶほど親しくはなかったけれど、仕事場でのただの同僚と呼ぶにははるかに仲良くしていた。 つまり、短い邂逅のあとでふたりがそれぞれの方角に別れてしまうことがなければ、僕らはきっと良い友達になっていただろう、と思う。
絵描き志望だった彼も、その頃ボストンで何とかして生き延びようとしていた無数のアーティストと同じく、絵とは直接関係のない写真のスタジオで働いていた。 物静かで口数は少なく、いつも悲しそうな眼をしていた。 社交家といえない僕には交友の範囲は限られていたが、その僕よりもスティーブははるかに人付き合いがなく、僕はその数少ない中の一人だったようだ。
すでに家庭を持っていた僕の家へ、彼はよくウォッカのびんを抱えてやって来ると、同じくアーティストだった僕の妻を入れて3人でとりとめのない話をした。 美術や音楽だけではなく、本や映画や政治などを夜遅くまで話しこんだものだ。 面白い話になると彼はよく笑ったが、その笑いはいつもどこかで抑制されていて、心から大笑いをするということはなかった。 そして、声に出して笑っている時でも彼の眼だけは笑うことが絶対になかった。 その眼の奥にあるものを引き出そうと僕は何度か試みたが、その試みはいつも優しく静かな拒絶に会うだけだった。

そうしているうちに、僕らの家族は遠い中西部へ移ることになって、スティーブと僕は右と左に別れて行ったのだ。
この写真は、スティーブの悔恨ではなくて、僕自身の 「悔恨」 なのにちがいなかった。

スティーブ
幸せになっていてくれよ


真実の友人同士のあいだでもっともすばらしいことは
別々に生きることは別れではない、ということだ。
Elisabeth Foley




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時には母のない子のように

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追悼
Oakwood, Ohio USA


母の最後をいつか書いておかなくては、と思いながら、いざとなるとなかなか決心がつかなかった。 その理由はたぶん、母のことは自分の胸にだけそっとしまっておこう、と長いあいだ思っていたからにちがいない。
それが最近になってすこし考えが変わってきたのは、僕自身が人生の秋を迎えている今、もし自分がいつかいなくなってしまえばこのことも永久にそのままになってしまう、との思いに耐えられなくなってきたからだ。 ひとは日記を残したり写真を残したりする。 今の僕にはブログの記事という形でしかあとに残すことはできない。


母が亡くなったとき僕は東京の大学の二年生で、学期の途中だったがたまたま郷里に帰省していた。 いや正確に言うと、母の様態が悪いから帰って来い、という父の連絡が来たとき、僕は大学に届けを出すと特急出雲で一晩かけて山陰の郷里に帰って来たのだった。 駅から、家には寄らずに直接母の寝ている病院へタクシーで向かうのが、ここ数年来の習慣になっていた。 乳癌に冒(おか)された母はそんなにも長くこの大学病院で寝ていたのだ。
母の病室に着いてみると、そこに父がいて、母の様態は一時的に持ち直していて意識もあった。 もう顔も身体も動かすことのできない母が、眼だけを動かして僕の顔を見ると、かすかに微笑した。 そして最初につぶやくように口にした言葉が 「まあ、そんなに髪が伸びて、床屋に行かなきゃだめよ」  だった。

母の様態が持ち直してみると僕はとりあえず何もやることが無く、昼間は母のそばでラジオを聴きながら本を読んだり、フランス語の勉強をしたりして、夕方に父が仕事から帰って来るのを待った。 母は僕に学校のことや東京のことをポツリポツリと尋ねる以外は、いつも疲れてかすかな寝息を立てて眠っていた。 父はここ数年の間、ほとんどの夜を母のベッドの横の床に毛布を敷いて泊まっていて、朝になるとまず家に寄って、母が病気になる前から飼っていた何十羽ものインコやカナリヤに餌をやってから、仕事に出ていた。
僕は夕方に仕事から帰って来る父を待って、病院の食堂や近所の父の行きつけの小料理屋でいっしょに言葉少ない夕食をとった。 そのあと父は母の病室へと帰って行き、僕はそれから、郷里の友達と喫茶店で会ったり、『キリマンジャロ』 で酒を飲みながらレスビアンの二人のママさんと話しをしたり、ひとりで映画を見に行ったりした。 それから真っ暗な無人の我が家に帰ってひとりで眠った。 もう長いあいだ人の住んでいない我が家はうっすらと黴(かび)の臭いが漂い、子供のころは気にならなかった小鳥たちの鳴き声や羽音が耳について、よく眠れない夜が多かった。
また時々は、父が病室に持ち込んだコンロの上ですき焼きなどを作って、母のベッドのそばの床にあぐらをかいて一升瓶から酒を飲みながら、親子三人で食事をした。 母はもちろん何も食べられなかったが、父と僕の会話を耳をそばだてて聞いていて、ときおり僕らの質問に短く答えることで会話に参加をした。
病室内で煮炊きをすることはもちろん禁じられていたが、この病棟で一番古い患者である母が、家族を相手に最後になるだろうささやかな団欒を持っているのを、医者も看護婦も、まわりの患者たちも、誰も咎(とが)めるものはいなかった。

ある日の昼間、たぶんその時間に父が母の病室にいたということは週末だったに違いない。 行きつけの小料理屋で僕がひとりで昼食をとっていた時、病院の父から電話がかかってきた。 母が、たった今駄目だったから(それが父がその時に使った言葉だった)すぐに病院へ帰って来い、と言う。
外に出て歩きながら、僕の気持ちは不思議なほど静かだった。 あまりにも静かなので、僕と言う人間は母の死に何の感情も持つことのできないほど冷酷な心の持ち主だったのかと、むしろそのことに驚いていた。 そして、つい先刻病室を出て来たときの母を思い出していた。 喉が渇いたと言うので、母が大好きだった大粒の種無し葡萄の紫色の皮をプチッと破って口に含ませてやった。 母はそれをチュウチュウと音を立てて吸いながら、目だけは僕をジッと見ていた。 その目を見返しながら、僕は微笑をしていたと思う。 目だけを見ていればとても病人とは思えない、黒い大きな目であった。 それから母は再び目を閉じると、軽い寝息をたてながら眠ってしまった。
そこへ父が入って来て、入れかわりに僕は病室を出て行ったのだった。

もう寝息も聞こえない母をあいだにはさんで、父と僕は長いあいだ黙ってそこに腰掛けていた。 僕は母の寝息がもしかして聞こえるような気がして、顔を近づけて懸命に耳をすませていたが、聞こえるのは病室の窓に吊るされた南部鉄の風鈴の鳴る音だけだった。 母の耳を楽しませるために父が吊るしたその風鈴の音は、今は死者を弔う 「りん」 のように響いた。
僕は声をださないで泣いた。
向かいにいる父の胸中は僕には読むすべもなかったが、そのとき僕が泣いていたのは、逝った母のために泣いたのか、それともその母にここまで尽くした父のために泣いたのか、自分でも分からなかった。


それからの数日は母の葬儀のために何かと忙しかったはずなのに、その記憶がなぜか完全に僕から抜けている。 ただ、ひとつだけ鮮明に記憶に残っていることがあった。 葬式の途中で多勢の参列者に囲まれて母の骨壷が地中に埋められようとした時だった。 父が地面に膝をついて骨壷のふたを開けると、ポケットから取り出した小さな紙片を、そっとその中に入れた。 そして 「ゆきこ、埋まれ」 と骨壷に低く語りかけた。
骨壷の中の紙片には何が書かれていたのか、僕は長いあいだその事を考えていたが、ついにその事を父に訊いてみる勇気がなかった。
なぜかそれは、訊いてはならないことのような気がしたからだった。

母がいっしょに泣いてくれなかった最初の悲しみ
それは母の死だった

 作者不詳



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思い出よ 逃げないで

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壊れゆく女
Boston, Massachusetts USA


その老婆はひと目で常人ではないと分かった。 1940年代の古い絹のドレスに、一輪の花が付いたつば広の帽子、先の丸まっこい中ヒールの黒い革靴など、他人の服装に無頓着(むとんちゃく)なアメリカの町でも彼女の服装はちょっとまわりのひと目を引いた。 いや、ひと目を引いたのはその服装だけではなく、彼女の挙動もそうだった。 ここパブリック・ガーデンの中の小道を、まるで教会のミサの時間に遅れまいとするかのような急いだ足取りで靴音をたてながら、すこし前屈みになって一心不乱に歩いて来る。 公園の芝生に寝転んでいる僕のそばを通るとき、ぶつぶつと訳のわからないことばを、呪文のように休みなくつぶやいているのが僕の耳に響いた。 まるで自分が今まで生きてきたことの釈明をしているように。
そしてそのまま、植込みの向こうに姿を消した。

その老婆がふたたび僕の目に入ってきたのは、それから20分ほどしてからである。
今度は公園の鉄柵の外のアーリントン・ストリートの歩道を、かっかっかっかっと靴音をたてて足早に歩いて来る。 僕のいる地点から道をはさんだ向かい側に古い映画館があって、上映中の "Woman under the Influence"  (壊れゆく女) の看板がかかっていた。
『壊れゆく女』――― 道具立てとしては完璧だ。 しかし僕には鉄柵まで近寄って行くだけの時間はない。 老婆はもうすぐそこまで来ているのだ。 僕はもどかしく135ミリの望遠を付け変えたカメラを顔に当てると、ろくにレンズの焦点も合わせないままに最初のシャッターを切っていた。 そしてそのまま目をファインダーから離さず、右手でシャッターと巻き込みレバーを手早く交互に繰りかえして操作しながら、それでも数枚のショットを得ていた。(その頃の僕のカメラは露出も焦点合わせもフィルム巻き上げもすべて手動だった)。
あとで見てみると5枚だけ撮れていて、その中の1枚がこの写真である。
レンズの焦点が老婆に合わないで、手前の鉄柵に合ってしまったのは不運だった。

すり抜けてゆく鳩に手をさし伸べて、老婆が掴もうとしているのは何だったのだろうか?


傷ついたのは、生きたからである。
高見順



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ニースからバルセロナへ

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ルイ・ヴィトン
Les Champs-Élysées, Paris


ある時、日本人の駐在員の人たち数人と会食をしていて、話が財布のことになった。 ズボンのヒップのポケットにいつも財布を入れている僕が、何度買い換えても新しい財布が1年も経たないうちによれよれになってしまう、と不満を漏らしたら、その場にいた誰もが同じ経験をしていることがわかった。 その中にひとりだけ、「自分も長い間そうだったけれど、ある時贈り物でもらったこの財布を使うようになってから、その問題は解消しましたよ」 と言って、ヒップのポケットから取り出してみんなに見せてくれたのが、ルイ・ヴィトンの札入れだった。
皆がかわるがわるに手に取って見ると、もう3年も使っているというその札入れはシャキッとして形にもまったく崩れがなく、まるで最近購入された新品のように見えたので、僕はうーんとうなって感心してしまった。 僕の、買って1年もたっていない札入れはそれにくらべると、まちがって洗濯機を通したあとの前衛芸術のオブジェのように見えた。

日本人は他の国民に比べてブランド志向が何倍も強い、とよく言われる。 衣料品や装飾品の高級ブランドを手に入れるための理由で外国を旅行する人も多いらしい。
ところが僕自身は完全に反ブランド主義を今まで通してきた。
しかしよく考えてみると、高級ブランド崇拝が一種のスノビズム (俗物主義) だとすると、僕のような反ブランド志向はそれに負けないスノビズムに違いなかった。 つまり、それがブランドであろうとなかろうと本当に自分の好きなものを手に入れるのが自然だとすると、ブランドだからといって買うのと、僕のようにブランドであるという理由で買わないのとは、同じようなスノビズムだろう。

そういうわけで僕にしては珍しくこの有名ブランドの財布に興味を持った。 いや、興味を持ったどころかどうしても欲しくてたまらなくなったのである。 さっそく調べて見ると、この財布をアメリカで手に入れるには250ドルも払わなければならないと判明した。 僕は考えてしまった。 どんなにすばらしくとも、たかが財布じゃないか。 着物や宝石のように人前でいつも見せるものならともかく、財布とは金を払うときの数分間だけ取り出すだけで、いつもは上着の内ポケットや尻のポケットにひっそりと隠れているものなのだ。 しかも僕にとっては高級ブランド品を所有しているという喜びのようなものはまったく無いわけだし。 それならアメリカで35ドルで買える財布(そのほとんどが中国製) を今までどおりに使い捨てにすればいいじゃないか、と思い直してしまった。
それでまた僕は35ドルを出して新しく、中国製の札入れを買ったのだった。

その明くる年。
家族4人でヨーロッパ旅行をしたときのことである。 フランスはニースのホテルで昼寝をしていたら、外から帰ってきた娘のマヤが、「お父さん、ルイ・ヴィトンのお店があるわよ。 男物の札入れ、パスポートを見せると100ドルちょっとで買えるみたい」 と情報を流した。 以前からルイ・ヴィトン、ルイ・ヴィトンと僕が言っていたのを彼女は覚えていてくれたのだ。 そこで、うん、100ドル ならと僕はその気になった。
というわけで、長いあいだの憧れのルイ・ヴィトンの札入れは、南仏のニースでめでたく僕の所有となった。 僕はくたびれてよれよれになった古い財布からクレジットカードやグリーンカードや運転免許証や数百ドルの札を取り出すと。手触りもなんとなく高級そうで、シャキッとクールに決まっているルイ・ヴィトンの札入れに、鼻歌なぞ歌いながらその中身を収納した。 そしてその札入れはめでたく僕のズボンのヒップのポケットにおちついたのだった。
とうとう、長い年月をかけて納まるべきところに納まるべきものが納まった、というしあわせな満足感を僕は味わっていた。

ニースのあとはスペインだった。 われわれはバルセロナで3日間を過ごしたあと、パリまでいったん戻る予定になっていた。 そのバルセロナの2日目に、Las Ramblas の雑踏の中でスリに会い、僕の新しい札入れは跡形もなく消えてしまった。
ニースで購入してから36時間しか経っていなかった。



人生は望遠で見れば悲劇
広角で見れば喜劇
チャーリー・チャップリン





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恋の報復

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果てのない旅へ
Martha's Vineyard, Massachusetts USA



愛は永久に続くことはあるかもしれないが、恋には必ず終わりがある。 
そして恋が終わったときに、ひとは唄を歌うのだ。 悲恋の唄を。
古今東西の「歌曲」と呼ばれるものはその99.6% が『恋』を主題にしている。
この数字はヤフーの検索の結果でもなければ雑誌 《Psychology Today》 のレポートでもなくて、僕自身のでたらめな推測からきている。 しかしそんなに大きく外れてはいないだろうという自信がある。
ジャズのスタンダード・ソングから日本の演歌、現代のロック・ミュージックからフラメンコ、ロシア民謡からシャンソン、と恋を歌わない唄は聴いた覚えがないような気がする。 あのオペラでさえ「詠唱」と呼ばれる部分はみな恋の唄である。
美味しいパスタを讃える唄だとか、株で失った財産を悲しむ唄などというものは存在するのだろうか?

人間は恋をするようにできているのだろう。
遭ったり別れたり、愛したり憎んだり、憧れたり蔑んだり、怒ったり許したり、その繰りかえしで一つの恋が終わる。 終わったしまうと、われわれはまた新しい恋を探して漂流の旅に出るのだ。 恋という名の、激しくほとばしる滝の向こう側に待っている永遠の静かな愛を求めて。

僕の少ない経験からすると、ひとを棄てるのとひとに棄てられるのとでは、棄てられるほうがずっと、本当にずっとずっと楽である。
棄てられるということは確かに悲しいことには違いない。 悲しいだけではなく、怒りとか、嫉妬とか、自己嫌悪とか、自己憐憫とか、憎しみとか、そんなものがどろどろの大きな塊りになって、その中で自分は今にも溺れそうになって、浮いたり沈んだりする。 傷ついた自分を癒そうとして、酒を飲んだり、スポーツに打ち込んだり、ギャンブルをしたり、旅行をしたりする。 何をしてもますます深い孤独に落ち込んで行くだけなのに。
そしてそんな事をしているうちにいつかその傷は癒えてしまう。 いつもそうだ。 それが長いか短いかの違いはあっても、まちがいなく「時」が解決してくれる。

それにくらべると 「人を棄てる」 ということはそんな生易しいものではない。 ひとを傷つけるという事は、自分が傷つくよりはるかに残酷なことだから。 これがお互いに憎み合って別れたのなら、どんなに救いがあるだろう。
行かないで、と取りすがる女性の両手の指を一本一本と無理やりに引き剥がすようにして、無残に去って行った経験が僕にはあるが、その事を今でもよく思い出す。 思い出すたびに僕は何とも言えない哀しみに襲われて、その時の彼女の心情を思うと、いつも涙が出そうになるのだった。
これは 「時」 が解決してくれることではない。 僕はこの哀しみを死ぬまで引きずって行くことになるのだろう。


In a manner of speaking - Nouvelle Vague




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矩形の福音

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尼僧
King of Prussia, Pennsylvania USA


ペンシルヴァニア州の Valley Forge National Park。
1777年と1778年の冬を、ジョージ・ワシントン率いる大軍隊がここで露営をした。 それが今は国立公園になっていて、広大な敷地のあちこちに当時の建物が保存されている。 僕はこのすぐ近くに1年ほど住んだことがあって、この公園には犬を連れてよく散歩に来た。
この写真の建物は、たぶん当時の兵隊たちの兵舎だったのだろう。 厳しい中西部の冬を防ぐために厚い石造りの小屋に窓は小さくとられていて、内部には木造の床が敷いてあった。
最初ここにきて開け放された白いペンキ塗りのドアを見た時に、まず僕の目をひいたのはそこにある無数の矩形だった。兵舎という大きな矩形に囲まれて、窓もドアも戸口も、吹き抜けに見える向こうの戸口も、すべてが大小の矩形で構成されていて、その矩形の集合体はさらに写真というかたちで矩形に切り取られるのを待っているように僕には思えた。

「運良く向こうを尼僧が通りかかるなんて、幸運だったのですね」 と、この写真を見る誰もが言う。
「ええ、まあ」 と僕は曖昧に答えることにしているが、実は僕にしてみれば単なる 「幸運」 だけともいえない理由があったのだ。

僕が散歩の途中でこの場面を最初に目にしたときに、まず直感したのは (この絵を完成するにはあの向こう側の戸口に何かが見えてあるべきだ) ということだった。 しかしその 「なにか」 とは自分でもはっきりとわからなかった。 犬が一匹とかガチョウが一羽とか、子供でも老人でも女性のヌードでもなんでもいい。 「なにか」 がそこ見えていなければならないと思った。 それ無しではこの場面は俳優のいない舞台と同じだった。 
それで僕は散歩に来るたびにカメラをさげてここまでやって来てその 「なにか」 が起こるのを待った。 何日も何日も。
ところがながいあいだ何もおこらなかった。 というのはここは国立公園といっても観光客が遠方から訪れるほど興味をひくものはこれといってないし、そのうえ季節はもうすぐ冬がくるという頃だった。 近くにはこれも昔ながらに保存されているチャペルがあって、そこには住民が時々礼拝にくるのだが、その人たちもわざわざ兵舎のあるこのあたりへ姿を見せることはなかった。
そしてある日、突然ひとりの尼僧が現れたのだった。 迷える子羊を救うためにエルサレムの丘から降りてきたキリストのように。


私にとって写真とは観察の芸術だ。
ありふれた場所に興味深い何かを見つけるということなのだ。
それは「何を見るか」にはほとんど関係がない。
「どう見るか」にすべてがかかっている。

Elliott Erwitt


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