過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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さようなら、オヤジさん

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享年88歳
Donald Beall Sr.



オヤジさんが死んだ。
クリスマスイブの夜であった。
25日のクリスマスの日には我が大家族の例年のパーティが予定されていたから、遠方からもすでに全員がここに到着していた。 クリスマスイブはその前夜祭ということで、我が家には10人ほどの家族が集まっていてわいわいと食べたり飲んだりしている最中に 「危篤」 の電話が入った。 それから皆といっしょにオヤジさんが引き取られていたホスピス (老人が死ぬための施設) に出かけて、そこで30数人の家族全員に看取られてオヤジさんは息を引き取った。
僕が32年間つきあった親父さんの額に指で触れてみると、それはまだ暖かかった。
死の床に呼ばれていた、これも故人とは何十年と知り合いの牧師が言う。 オヤジさんは天国に行ったんだ。 我々はそれを祝わなければならない。明日のクリスマスのパーティはうんと楽しんで欲しい。 故人もそれを望んでいる、と。

僕が自分のブログに 「オヤジさんのこと」 を書いたのは、ほんの十日前である。

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失われたコンサート

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うしろに立つ男
The Isabella Stewart Gardner Museum
Boston, Massachusetts, USA


富裕なアートコレクターだった Isabella Stewart Gardner が100年以上前のボストンに建てたこの美術館は、ヴェネツィアン ルネッサンスの宮殿を模した小さいながらも美しい建物だった。
1903年の元旦にその最初のドアを開けた時、招待客は入り口を過ぎるとすぐそのまま花の咲き乱れる中庭の温室に面する。 中庭には高い天窓が付いているから、雨が降っていても訪問者は濡れることが無い。 そして庭の片隅に控えた室内楽の一団が奏するバッハやモーツアルトを聴きながら、人々は回廊を巡って階上への石段を登る。 そこには世界中から集められた珠玉の名画が待っていた。
1924年にイザベラさんが亡くなった時の遺言は 「何も変えるな」 という事だったらしいから、僕が頻繁に訪れた70年代のこの館は、建てられた当初の状態とほとんど変っていないと考えてよいと思う。

この館を回る僕の順路はだいたいいつも決まっていた。 入り口を過ぎて左に中庭を見ながら回廊に沿って歩き始めると、僕は一階にある展示をほとんど無視してそのまま階段を登って二階に行く。 そしてまず真っすぐに行きつくのが Vermeer の 『コンサート』 と題された絵だった。 ここにはレンブラントやマネや、他にもたくさんの名画があったにもかかわらず、いつの間にか僕はこの 『コンサート』 を見るためにだけここに来るようになっていた。 このダッチ派の画家は残した作品数が少なく、ついに認められることも無く家族に借金を負わせたまま亡くなったといわれる。 後年ワシントンDC やパリ、フィレンツェで彼の作品を見るたびに、いつも決まって思い出していたのは、初めて見たこ の 『コンサート』 だった。

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"The Concert"
by Vermeer


この 『コンサート』 は今ではもう見ようと思っても誰にも見ることはできない。 1990年に起きたあの Gardner Museum 名画盗難事件である。 数点盗まれた絵画の中に、レンブラントなどと共にこの絵もも入っていたのだ。
僕があれほど愛したこの絵は、今どこに眠っているのだろう?


私の絵が売れないという事実を変えることはできない。
しかしいつの日か、
私の絵がそれに費やした絵の具代よりも値うちがあるということを、
きっと人々は気がついてくれるだろう。
Vincent van Gogh




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陰翳礼賛

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回廊
Palais des Papes, Avignon France



なぜか暗いものに惹かれる。
夜の街を歩いていて、きらびやかな表通りを離れて薄暗い路地に入ると理由もなくほっとする。 カンカンと陽の照る明るい日よりも、雨の降る暗い日のほうが気分もずっとおちつく。
ひとだってそうだ。 天真爛漫なしあわせ一杯の女もいいが、どことなく影がある女に強く惹かれる。

僕がヨーロッパの古城が好きなのも、外の世界を完全に遮断するために (あるいは極寒をふせぐために) 窓が一様に小さく取られているから、内部はいつも薄暗い。 夜が落ちて燭台の弱い光が届かない先には、至るところに闇が満ちているのにちがいない。
14世紀の城壁都市、アヴィニョンのローマ法王の宮殿もそうだった。 700年ものあいだ何ひとつ変わってはいないだろうこの回廊にたたずむと、辺りをふわふわと彷徨(さまよ)う亡霊たちの気配がした。 かれらの栄華や悲哀や怨念が、厚く密度の高い石の塊りには吸い込まれることがないままに、いつの日かあの華やかなローマへ還れる日を待ち侘(わ)びて、湿っぽい空気よりもほんの少しだけ軽く浮かび続ける。
亡霊たちはそこにもここにも、暗い石柱の陰や回廊の片隅に潜んで、時おり通りすがる者にひっそりと語りかけるのだ。 通りすがる者はつい息苦しくなって、陽の射す明るい中庭へ逃れようと、どこにも見つけることのできない抜け穴を探すのだった。



暗闇のなかで待ち続ける者にだけ
「日の出」 という奇跡が解るのだ。

作者不詳






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ストリップ小屋のピアノ弾き

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Dinty Moore's
Boston, Massachusetts USA


ボストンのダウンタウンの端にコンバット・ゾーンと呼ばれる一画がある。 いわゆる Red-light District (赤線地帯)であった。チャイナタウンに隣接するこの地域には、無数の妖(あや)しげなストリップバーや、エロ映画館、ピープショー、アダルト玩具店などが並んでいて、24時間開業のカフェテリアには麻薬常習者やアルコール中毒の連中がいつもたむろしている。 夜中過ぎまで人通りの絶えることのないこのあたりをひとりで歩いていると、決まってセックスを売る女性が声をかけてくるし、路地のそこここでは明らかにヤクの取引が進行していた。 ふつうの人ならまず足を踏み入れることのない地帯だった。
僕がなぜこのあまり健康的でない、ときには危険な臭いのするこの一画を知っているかというと、実はこのあたりのストリップバーで僕はよく仕事として、ピアノやハモンドを弾いていたからだった。 だから深夜、このあたりを歩いていると、行きあう人の中に、顔見知りのストリッパーやそのヒモ達、バーやコーヒーショップのオーナーや、一見して堅気でないお兄さんなどがけっこうあって、恐いという気はあまり無かった。 それどころか、彼らは僕によく屋台のホットドッグを買ってくれたり、バーに誘って酒を奢ってくれたりした。 大都会のダークサイドに生きる彼らから見ると、ストリップ小屋のピアノ弾きは自分たちと同じ世界の仲間だったのだ。

このコンバットゾーンからちょっとはずれて、忘れられたような汚い路地の奥に、ポツンとこのレストランはあった。
《ディンティ・モーアズ》
周りのビルはすべて廃墟になっていて、レストランにはネオンの看板があるわけでもなく、そこへたどり着く路地には街灯さえなかった。
僕がいつも不思議に思っていたのは、こんな普通の人が近寄らないようなさびれた場所にありながら、夜になるとこのレストランに出入りするのは、みなエレガントに着飾った裕福そうな男女の一群だった。 表通りに停められたリムジンの中では運転手が待っていたりする。 舞踏会から抜け出てきたような一群の男女が、次々にこの暗い路地へ吸い込まれて行くのは、まるでフェリーニのフィルムを見ているような非現実的な情景だった。
「これはいったい何なんだろう?」
ガラスのドアの前まで行って中を覗いても内部は何も見えず、そこに写っているのは首からカメラを提げた自分自身の姿だけだった。
****

それから30数年経った。
僕はすでに何年も前にボストンを引払ってアメリカの中西部に移っていたが、4年ほど前にボストンに住む一女性からメールを受け取った。 インターネットの僕のウェブサイトで 《ディンティ・モーアズ》 を見た彼女が写真をぜひ売って欲しい、と書かれている。 そしてさらに彼女は言う。 このレストランのオーナーであった彼女のお父さんが、70年代の半ばにこの店を閉めるまで、幼かった彼女にとってここは思い出のいっぱい詰まった場所だったそうだ。 折り返しのメールで聞いてみると、僕がこの写真を撮った直後に 《ディンティ・モーアズ》 は閉まっていた。
彼女が送ってきた小切手と引き換えに、僕は自分でプリントした写真を彼女に送り出してしまうと、それでビジネスは終了してしまった。

ところが、それから2年後、一昨年のクリスマスの前に、彼女からまたメールが来たのである。
彼女の家の居間の壁にかかっている僕の 《ディンティ・モーアズ》 を見るたびに親類一族が同じ写真をいつも欲しがるので、クリスマスのプレゼントとして全員に贈ることにしたそうだ。 彼女は、23枚の 《ディンティ・モーアズ》 を注文していた。

そしてさらに今年の夏、つい数ヶ月前のことである。
カナダのケベックに住む一男性からメールを受け取る。 彼の経営するレストラン 《ディンティ・モーアズ》 の壁に僕の写真が飾られるるべきだ、と言ってまた写真を注文してきた。
不思議なインターネットの世界である。

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12月のクイズの結果は・・・

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左端の眼鏡をかけた男が二十歳の September30 です。
17人の解答者のなかで正解が11人。抽選の結果は 「Matsu」 さんの当選と決まりました。

「Matsu」 さん、おめでとう。
住所氏名を非公開コメントにして送ってください。
お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のないばあいは棄権として次の方を選びます。

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青いチャペル

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Sainte Chapelle, Paris


サント・シャペルのステンドグラスが見たくてここまでやってきた。 すごい人である。 入場料を払うのに長い行列に並ばされてうんざりしたが、無理もないだろう。 ここはエッフェル塔や凱旋門やシャンゼリゼと並んで、パリでは人気の観光スポットになっている。 待つことの嫌いな僕はよっぽど列を離れてしまおうかと考えたが、ステンドグラスを見たいという欲望のまえに、まあまあと自分を宥(なだ)めてがまんをした。
僕らの前には一団の日本人観光客、うしろには東欧人らしい一団がいてどちらもおしゃべりに夢中になっている。 東欧人のほうは何語なのかわからないがその強い響きは、まるで言い合いをしているように聞こえた。 振りかえると、皆がニコニコと楽しそうな顔をしてるので 言い合いではないということがわかる。 前にいる日本人の一団は3組の中年のカップルで、こちらは亭主組と女房組に分かれて、女房組はおそろしく生真面目な顔をして、このあとのルイ・ヴィトンのショッピングの戦略を練っていて、いろいろな意見と反論が飛び交っていた。 それにくらべると亭主組のほうはずっと口数が少なく、ぼそぼそと相談しているのは翌日の出発の段取りのようである。

ようやく中に入ることができた。 僕らはまっすぐ階上の礼拝堂への階段へ向かうと、日本人組と東欧人組に挟まれたまま細い螺旋階段を一列になって登って行く。 登りきったところが狭い戸口になっていて、そこを入ると我々はいきなりこの大聖堂の中にいた。
そこには青いステンドグラスの海があった。 その海は横に洋々と広がるかわりに、上へ上へとどこまでも登りつめて行くような不思議な海だった。 螺旋階段のとちゅうでもおしゃべりを続けていたまわりの一団にも、一瞬沈黙が落ちていた。 
「ひょっとしたら、神は存在したのではないか?」 と無神論者の自分にも思わせるような荘厳さ。
この悠久の海のまえでは、ひとの一生なんてちっぽけなかすり傷みたいなものに思える。
そして僕の意識のずっと深いところからオルガンの音色が流れてくる。 弾いているのは僕自身にちがいなく、その歌は過ぎ去ったわれわれの青春のための鎮魂歌だった。
プロコール・ハルムが 60年代の終わりに沖縄のアメリカ軍を慰問に訪れたときに、彼の後ろで僕はハモンドオルガンを弾いていた。

青い影
Whiter Sahde of Pale



僕はわれにかえるとカメラバッグから20ミリを取り出していたが、このときほど17ミリを家に残してきたことを悔やんだことはない。 三脚を禁じられているこの場所では手持ちで1/6秒のシャッターが精一杯だった。 両足を踏んばりカメラを額(ひたい)にぴったりと当てて、息を止めてシャッターをきった。
それでもブレてしまった。


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暗流

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Lady in the Water
Photo by Toni Frissell (1947)



暗い日曜日。
梅雨を思わせるような雨が昨夜から降り続いていて、その雨は冷たかった。 しかも強い風が吹くなかを葉が落ちてほとんど裸にされた木々が、寒さに身震いをするように揺れている。 家の中は暖かい。 僕は朝のコーヒーを飲みながら先ほどから聴いているのは、ビル・エヴァンス (ピアノ) とジム・ホール (ギター) の二重奏 《Undercurrent》 (暗流)である。
40年も昔に東京の片隅の、万年床を敷きっぱなしのあまりきれいではない四畳半の下宿で、ヘッドホーンを耳に当てて毎晩のように聴いていたアルバムだった。 そのころの自分は、泣きだすほどの強い悲しみというのではなく、、自分でも理由のわからない、意識下にうっすらと流れる見えるか見えないかの薄い煙のような哀しみを、常にかかえて生きていたような気がする。 若く孤独だった自分の心に、この音楽はしっとりと吸い込まれていった。今朝のこの冷たい雨のように。

このアルバムの 『暗流』 というタイトルとジャケットの写真がまた、音楽の内容と憎いぐらいにマッチしている。 ビル・エヴァンスとジム・ホールの二重奏は、これは演奏というよりも対話と呼ぶべきだろう。 ふたりともジャズメンらしくなく見るからに哲学者のような風貌 (ビルは痩身で、ジムは太め) を持ち、両者のあいだで交わされる、感情を極端に抑えた内省的な対話は、実に絶妙なコラボレーションを生みだしている。
そしてアルバムのジャケットになっている、水面下に浮かぶ白い女性の映像はこの40年のあいだ僕の脳のどこかに、まるで古い牡蠣の殻ようにこびりついていたようだ。

つい最近のことである。
僕が今まで名前を聞いたことのなかった幾人かの古い写真家をインターネットで訪ねていて、Toni Frissell という、40年代から60年代にかけてのアメリカ人の女性写真家を見つけた。 あまり多くはない彼女の作品を次々と見ていてこの写真にめぐりあったときに、僕はあっと声を出して、そこでいきなり時間が止まってしまったかのようだった。 そのとき僕は瞬時にあの 『暗流』 の世界に流し戻されていた。
白いドレスの女の体が、浮きつ沈みつ、緩(ゆる)い速度で暗流にのって流れてゆく象徴的な情景は、まず僕にハムレットのオフェリアの死を思い出させる。 そしてさらに見つめていると、その映像はゆらゆらとメタフィジカルな世界にまで流れついて行き、人間の心の深い底にいつも流れ動いている 「生と死」 の意識のようなものにまで辿りりついてしまうのである。
(もともとこの写真はそんな哲学的な意図は無くて、ファッション雑誌、ハーパーズ・バザールに女性ファッションの広告として載せられたものである)。

芸術家の作品が、創造されたずっとあとになって作者を離れてこうやって一人歩きしてゆくのは珍しいことではない。
上の写真は、オリジナルの映像を僕の勝手な解釈でうんと変えてしまっている。 しかし作者の Toni Frissell はそんな僕を笑って許してくれそうな、そんな気がする。

冷たい雨の降る暗い日曜の朝は、人の思考も暗流にのってゆっくりと流れてゆく。


彷徨(さまよ)える夢



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海辺のワークショップ (2/2)

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Camden, Maine USA



メイン州の海岸線はジグザグパズルの小片のように入り組んでいて、無数の入江や岬が続いている。 ロックポートはその海岸線からすこし内陸に入ったところにある鄙びた美しい町だった。 すぐ隣にはハーバーを持つキャムデンという名の町があって、 そこは休暇を楽しむ人々がボートやヨットで寄港するので、ちょっとしゃれ たレストランや商店などが並んでいた。 この2つの町は歩けば40分ほどの距離だったが、もちろん僕のように歩く人はまずいない。 街道沿いに歩いている僕を見て車を止めると 「乗る?」 と訊いてくれるドライバーが多かった。

講師のジョン・ロンガードに会った。 どんな人なのだろうと興味しんしんだったが、会ってみると、言葉の少ない頭髪のもじゃも じゃした気さくな小男で、写真家というより近所の八百屋の親父さん、という感じである。 彼は僕のポートフォリオを時間をかけて一ページづつていねいに見 ていたが、批評めいた言葉は一度も彼の口から出なかった。

ワークショップが始まる。
毎日が、午後4時までの写真撮影と、それ以後の暗室作業の2部に分かれていて、すぐに分かったのは毎日がかなり過激なスケジュールになるということだった。
泊まっている木賃宿のようなホテルを、朝7時に起床してカメラバッグをつかんで外に飛び出すと、一日中ロックポートとキャムデンのあいだを歩きまわって写真を撮る。 午後4時には暗室のあるワークショップまで帰ってくる。 それからその日に撮影し たばかりのフィルムを自分で現像して、ネガが乾きしだいにコンタクトシートを焼く。 そのコンタクトシートを、ルーペで丹念にチェックしながらジョンと1対1のディスカッションになる。 そして最終的に、プリント可能なフレームを決定するのである。 それから再び暗室に入って、10台備えられた最新のプロ用の引き伸ばし機 (そのために10人しか生徒をとらないのだと分かった) を操作してプリントの作製に入る。 何枚も何枚も紙を無駄にした結果、ようやく自分に納得のいくもの が仕上がると、それをジョンに見せにいく。 ジョンはその場でOKすることはまず無かった。 いかにしてネガの持つ隠れたポテンシャルを最大限に引き出すかを、暗室の中で実際に自分でやって見せてくれる。 引き伸ばし機のレンズの下で両手をひらひらと動かしながら、burning や dodging を見事に実演するジョンは、ステージでトランプを扱う手品師を思わせた。 プリントの最初からコントラストの強い紙を使うことや、フィクサーの段階での toning なども僕が初めて学ぶテクニックだった。
そうしたさまざまの処理を経て、また何枚も何枚も紙を無駄にした結果、ようやく最終の1枚のプリントが完成する。 ほっとして外に出ると時刻はいつも夜中を過ぎていた。 それから、もう立っていられないほど疲れ果てた僕はホテルに帰ると、スコッチを1、2杯煽ったあと服を脱ぎ捨ててベッドにもぐりこむ。 死んだように眠る。 朝7時の目覚ましに起こされるまで。 

そういう毎日が1週間続くうちに、僕は精神的にも体力的にもへとへとになっていた。 こんなに厳しい修業のために無い金を使い、これが何かの役に立つのだろうかという疑問が湧いてきていた。 先生のジョンは最初に見せたポートフォリオも、作成中の僕の作品も、好意的な批評をしてくれたことは一度も無い。 しょせん自分の才能なんて見る人が見れば、シロウトの趣味以上のものでは無いのか。 それを納得するためにだけここに来ているのかも知れない。 などと悲観的な思いに取り憑かれていた。
ワークショップ最後の夜は全員が一室に集まって、各自の組写真を壁に貼りつけ、ビールとワインを飲みながらの合同批評会になった。 僕の一連の作品に対しては概してポジティブな批評が多く、中には強く賞賛してくれた人もいたが、それにもかかわらず僕の落ち込んだ気持ちは晴れることがなかったようだ。
わいわいがやがやと雑多な批評が飛び交った後、それまで黙って皆のディスカッションを聴いていたジョンが、締めくくりに一人一人の批評を順にして回った。 どういう訳か (それが偶然なのか、ジョンの意図なのか分からない) いちばん最後に僕の番が来たとき、彼は言った。

「キミよりも技術的に優れた人はここには何人もいるし、キミよりももっと広い視野に立ってもっと明確な方向に進みながら写真を撮っている人たちもいる。 キミは確かに自分の周りの世界を見ることのできる優秀な 「眼」 を持っているにちがいない。 しかしそれを言うなら、ここにいるみんなもそれぞれそういう 「眼」 は持っているんだ。
そこで、ここにいる誰に比べても明確にキミだけが持っている、と僕が強く感じるのは 『自分のスタイル』 という事なんだ。
これは非常にラッ キーな事だと思わなければいけない。 写真に限らず、どんな芸術でも自分独自のスタイルをつくりあげる事ほど難かしいことはないからね。 一生そんなものに縁の無 いアーティストはたくさんいるんだ。
ひとつのテーマのもとに写真で物語を創り上げるようにと僕は最初に言った。 このワークショップは 《Photo Essay》 だからね。 ところが先ほど誰かから異議が出たように、キミの一連の作品には一見してそういう意味でのデーマは無いように見える。 ところが 「スタイル」 ということ自体がちゃんとひとつのテーマになっているんだよ。 もっとずっと深いところでね。
最後にひとつだけキミに言いたいのは、プリントのテクニックを学ぶことでキミのその貴重なスタイルがもっと明確に表現できるようになるだろう、ということだね」

(終)

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海辺のワークショップ (1/2)

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軌跡
New York City, USA



ある年の夏、写真雑誌を見ていて一つの記事が目に止まった。 メイン州のロックポートという町で、《Photo Essay》 というテーマで1週間のワークショップが開かれるという記事だった。 メイン州といえば僕の住むボストンからそんなに遠くはないうえに、講師になるジョン・ロンガード (John Loengard) という名に僕は強い興味を覚えた。 ジョン・ロンガードといえばあの歴史的な写真雑誌 『ライフ誌』 の写真家として、ユージン・スミス、ロバート・キャパ、ゴードン・パークス、など数え切れないほどの世界的なフォトグラファーたちといっしょに仕事をした人である。 そして1972年のライフ誌の廃刊後は、同じタイム社が始めた週刊誌 『People Magazine』 の最初のピクチャ・エディターとして、有名無名の写真家たちをアゴで使っていた人だった。

そのころの僕は相変らずの貧乏生活を送っていたが、このワークショップには何とかして参加したい、という強い気持ちが湧いてきていた。 そこで、思いきって選考のためのポートフォリオを提出してみることにした。 提出したあとで知らされたのは100人以上の応募者の中から10人だけを選考するという。 (これはまずダメだろう) と思った。 でもダメなら無理をして金の工面をする必要も無くなるので、かえってほっとするかも知れないとも思った。

ところがその選考に通ってしまったのである。 規定の期日までに必要な金を入金しろ、という通知を受けとった時、僕はまず働いていた日本レストランのオーナーに給料の前借をした。 それだけでは足りないので、妻と別れた時に指から抜いて長いあいだ引き出しに放りこんであったプラチナの結婚指輪をゴソゴソと探し出して、それと愛用のダンヒルのライターとをいっしょに、ポーンショップに売りつけて残りの費用をつくった。 そして、グレーハウンドのバスに何時間か揺られて、メイン州の海辺の町、ロックポートまでやって来たのである。

(続)

 

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12月のクイズ

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四畳半の青春
東京都板橋区和泉町
Photo by Iwasaki


久しぶりのクイズになります。
まず、この写真と下の記事は2年ほど前の古いブログからの再掲載です。
記事の最後尾にクイズの質問がありますが、べつに記事を読まなければクイズの答えがわからない、ということではないので、「こんなの2度も読んでる暇ねえよ」 と思う方はどうぞスキップしてください。

***

数ヶ月前のこと、毎日かなりの数で来るメールを半ば機械的に処理をしていて、マウスを掴むその手が、あるメールでぱったり止まってしまった。 Sという差出人の名で日本から来ている。 日本にそれと同姓の知人は他にもいないわけではないのに、なぜかそのとき僕は即座にある一人の旧友の顔を思い浮かべていた。 そしてメールを読んでみると、やはり長い間会うことの無かったその人だったのだ。 38年振りだと彼が書いているのを読んで、へえ、最後に会ったのはそんなに前だったのかと驚いたが、その時に僕が思い浮かべていた彼の顔は、もちろん38年前の顔であった。
僕らは郷里での数年間と、東京での数年間をお互いに分け合っていて、僕がアメリカに 「逃亡」 する直前の彼の結婚式には、僕も出席していた。

アメリカに仕事で数日間来るのでよかったら会わないか、と書いてある彼のメールに、もちろん会いに行くよ、と返事を書いた。 その事を周りの人たちに話すと、38年はすごい、と皆が言う。 どこにでもある再会では無いらしい。 ところが肝心の僕は、38年という年月の重さを量ることがどうしてもできなくて、まるで数年来会わなかった友達に、久しぶりに会いに行くような気がしていた。

僕はワシントンDCまで飛んで行って、髪がグレーになっただけで昔とほとんど変わらない彼の笑顔を見て、固く握手をして、抱き合ってお互いの背中を叩いて、それで38年の年月は、跡形(あとかた)もなくふうっと煙のように消えてしまった。 そのあとは、時間をかけてお互いの空白を埋める作業に専念すればよかった。
38年の重みなど、僕らの間には存在しなかった、という点では、僕は正しかったのだ。

今回日本に帰って妻と僕は東京のSの家に滞在させてもらった。 その時、彼が見せてくれた古いアルバムの中にこの写真があった。 板橋の僕の下宿で撮られたこの写真は、なぜか完全に僕の記憶から抜け落ちていた。 だがそこに写っているSや自分を含めて、みんなの眩(まぶ)しくはじけるような 「若さ」 に、僕はいつまでも見ていて飽きることが無かった。
僕らが全員二十歳の時だ、とSの自筆で記されていた。

***

そして今月のクイズ。 5人の仲間のなかで、どれが二十歳の僕だったのだろう?
「そんなこと分かるわけないじゃないか」 とむくれる人のためにヒントをさしあげよう。 最近の記事のなかにもうひとりの僕が写真に写っているのです。
あはは、読まなかった記事をいやでも探さなくちゃならない。 それが目的なのでした。

正解者の中から抽選で1名の方に、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 (以前のブログも含めて)
8インチエックス10インチのマット付きのプリントを世界中どこへでも送ります。
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい 


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斜線の国から来たアメリカ人

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日曜のパレード
Oakwood, Ohio USA


アメリカに暮らしていて驚いたことは (たくさんあるけれど) アメリカ人というのは海外の国々に対する興味が、僕が予期していたよりもはるかにずっと低い、ということだった。 休暇でヨーロッパや南米やアジアに旅行するアメリカ人はもちろんたくさんいるけれど、その比率はびっくりするほど低い。 経済的に余裕のある階層のアメリカ人が、休暇になると家族を連れてこぞって出かけるのは、国内のデラックスなリゾート地が圧倒的に多い。 外国へ行くといえばせいぜい陸続きのメキシコとかカナダぐらいのものである。
あたかも彼らの世界地図には巨大な北アメリカ大陸が色濃く、でん、と中央に描かれているのに、それ以外の世界中の国々は斜線が引かれて色合いも薄くフェイドアウトされて、現実に存在しない世界のようだった。

2010年の今年、アメリカ合衆国の人口が3億人を突破した。 その3億人の中でほんの一握りのネイティブ・アメリカン (アメリカン・インディアンのこと) を別にすれば、あとは一人残らずその祖先が外国から渡ってきた、という事実。 それにもかかわらず、彼らが自分たちのルーツを求めて、斜線がひかれた国々へ源流探しの旅をする、というアメリカ人は少なくとも僕の周りにはあまりいないようだ。
彼らにとっての「世界」とはアメリカ合衆国のことなのである。

ヨーロッパにたびたび旅行をする僕に向かって 「なぜ?」 と不思議そうに質問するアメリカ人がけっこういる。 わざわざ時間と金をかけて、言葉も通じないし習慣も違う上に、はるか遠方に位置する異文化の国々を訪ねるということが、彼らには理解のできないことだった。 若い世代にはそんなことはないだろうと思ったら、それがそうでもないのである。 特に僕が住むアメリカ中西部の田舎では、生まれてこのかた海を見たこともなければ、飛行機に乗ったこともない、という若者はワンサといる。 それどころか、シニアの年代の人たちで、自分の住む州から外に出たことがない、というのがけっこういる、というのはまったく驚くべきことだった。  
そういう若者がそのまま歳をとって、金を貯めてリタイアをしたあと、巨大なモ-ビルハウスに家族とバイクと犬を詰め込んでアメリカ中を旅行する。 そしてアメリカという巨大国から一歩も外に出ることなく一生を終えるのだろう。

アメリカ 万歳!



アメリカは野蛮から敗退へ、
途中に文明開化を経ないで移っていった唯一の国である。
Oscar Wilde




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オヤジさんのこと

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帰郷
Dayton, Ohio USA



今日、12月12日はオヤジさんの誕生日だった。
オヤジさんというのは僕の妻のお父さんのことだが、2年ほど前にアルツァイマーと診断されてから彼の健康は徐々に、しかし確実に衰えてきているのがわかる。 今日の家族の集まりでも自分が一族の長として永いあいだ君臨した、この大家族に囲まれながら、ほとんど話をすることもなく、ただそこにぽつねんと座っていた。耳も遠くなり、もう補聴器をつけていても会話がままにならない。 椅子に立ち座りをするのでも誰かの助けを借りるか、病人用の電動椅子を使っている。 昔のオヤジさんを知る人が見ると、今はもうまったくの別人になってしまっていた。
僕がこの写真を撮ったころは、うしろに写っている僕の息子がまだ幼いときだから、オヤジさんはたぶん六十代の半ばでまだ元気いっぱいのときだった。 仕事ををリタイアする直前のころである。

オヤジさんは自営の運送業を自分の父親から受けつぎ、この町では一番ポピュラーな引っ越し屋として永年忙しくして来たのだが、8人の子供の誰にもオヤジさんの仕事を継ごうとする者が無かったので、二代続いたこの商売も彼のリタイアとともにそこで終わりになってしまった。 しかしいまだに、昔オヤジさんに引っ越しをしてもらったという人はこの町には驚くほどたくさんいる。 その人たちに、僕はそのオヤジさんの息子なのだと言うとみんなが、えっと驚いて、パーティーなどではかっこうの会話の種になるのだった。
引っ越し屋というのは大変な重労働だ、と僕が身をもって経験したのは、ずっと前に一度だけ、面白半分にオヤジさんの仕事のヘルプをかってでた事があった。 それはプロの引っ越し屋にとっては何でもないほど小さな仕事だったが、それでも一日の終わりには、まだ若かった僕の体は立ち上がれないほどボロボロにくたびれて、僕は一日でこの仕事がいやになってしまった。 時々仕事を手伝わされていた3人の息子たちも、同じようにしていやになったのだろうと、納得のゆくような気がした。 そんな、毎日毎日体力の限界を試すようなきつい仕事を、オヤジさんは2台のトラックを所有して、数人のヘルプを雇うだけで何十年とやって来たのである。

オヤジさんの家系はもともとアイルランドからの移民で、この町で運送業を始めたお父さんには、オヤジさんと、それからオヤジさんのお兄さんとの2人の息子があった。 この2人の息子のあいだには子供の頃からいろいろと確執があったらしく、それが歳をとるにつれて治(おさ)まるどころか逆に激しくなってゆき、この長兄が比較的早く亡くなるまで続いた。
話に聞くと、兄弟がまだ子供の頃いっしょに遊んでいて、オヤジさんが片方の目を失うという不憫な事故があり、それが故意でなかったにせよお兄さんに原因があったために、二人の仲にそこから亀裂が入って来たのだろうと思われる。
オヤジさんが長兄のことを語るとき、その言葉の端々から滲み出てくる憎しみは、長兄がもうとっくのむかしに亡くなっているにもかかわらず、この年になってもまだ許すことのできないほど深いところから出ているのだ、と思われた。 「許す」 ことを至上の徳とするカトリック教の謹厳な信者でありながら、その教えに反してここまでひとを憎まずにはいられなかったオヤジさん。 きっと苦しい一生だったのではないか。 と、上の写真を見るたびに思うのである。

でもオヤジさんは、ふだんはとても思いやりのある、ユーモアに満ちた人だった。 そしてとてつもなく頑固だが正義感の固まりのような人で、責任感が強く、いつも筋を通さなければ気の収まらないところがあった。 僕が、結婚というかたちでこの家族に参加することになったとき、男がいかにして、一族の長として家族を統率し、外敵から守って生存して行くかという最もプリミティブな 「男」 の典型を、このオヤジさんから真っ先に学んだのであった。 それは西部劇で見る、ジョン・ウェインのイメージに非常に似ていた。 いつも海賊のするような黒い眼帯を片目につけていたところまで、映画の中のジョン・ウェインに似ていた。

僕はこのオヤジさんと、一度だけ大ゲンカをしたことがある。
ある時、テレビのつまらない番組をいっしょに見ていて、オヤジさんの漏らしたあまりにも一方的なコメントに対して、僕がちょっと異議を唱えたら、それがどんどんエスカレートして行って、気がついてみると二人とも大声で喚(わめ)きあっていた。 いつまでも平行して解決のつかない議論が、怒鳴り合いとなって延々と続いた。 家族のものが出てきたが、ふたりのものすごい剣幕に圧倒されて仲裁どころではなく、まわりでおろおろするばかりだった。
ようやく治まったあと、我々は数日間お互いに口をきかなかった。 それからやっと握手をして仲直りをしたのだった。
家族の者たちが、オヤジさんとこんな大口論をした者は (家族内では) かつてひとりも無かった、と言って笑った。 僕は僕で、一族の長として君臨するジョン・ウェインとは、まちがってもケンカなどするものではない、ということを学んでいた。


アメリカの家族制度には、両親が老いても子供たちが引き取って世話をするという日本のような習慣がほとんどない。 オヤジさんの夫婦にとって幸運だったのは、彼らの8人の子供のうち6人までが車で30分以内の距離に住んでいるので、いつも誰かが訪れている。 そして昨年のクリスマスのように、珍しく全家族が集まると (こういうことはあまりない) 孫たちを入れて35人という巨大な家族パーティになるのである。
自分の両親をとっくの昔に亡くしてしまった僕にとっては、妻の両親が今は自分の両親だという気がする。 あれもこれもと、自分の両親にしてやれなかったことを、この異邦の両親に少しでも尽くすことで、どうしようもない親不孝者だった僕はいくらか救われるような気持ちになるのだった。


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日本人とアメリカ人 (3/3)

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斜線
Tokyo, Japan


日本を初めて訪れようとするアメリカ人がよく僕に聞いてくる。
「日本に行ってわれわれがいちばんびっくりするだろうことはなんでしょうか?」
僕はいつも迷わずに即座に答える。 「奉仕(service) という概念に対する根本的な違いですよ」 と。 するとその人はきまってわかったようなわからないような顔をする。 そこで僕はつけ加える。
「説明できなくはないけれど、まあ日本の空港に降り立ってターミナルに入った瞬間に僕の言う意味がきっとわかります」
いや、もしその人が日航や全日空を使うとしたら、出発の機内に足を踏み入れたとたんに (おや? 何かが違う) と 感じるはづである。 なぜならそこはもうすでに日本だから。

前に書いた、銀行での客のあしらいかたの話などは別に珍しいことではない。 アメリカでは同じようなことは我々が毎日いたるところで経験していることである。 ということはアメリカ人にとっては、別に寅さんのように細い目をさらに細くして強く抗議するほどのことではないのだ。 だから日本を訪問するアメリカ人にとって予想もつかないのは、着いたとたんに彼らは例外なくアリスになってしまう。 不思議の国のアリスに。

そして今度は日本での話。
もう十年以上前になるけれど、久しぶりに帰った東京である日の午後、学生時代には僕のテリトリーであった懐かしい新宿の雑踏を歩いていた。 友人に電話をする約束があったので、(僕は日本では携帯電話をもっていなかった) ポケットから電子手帳を取り出してみると電池が切れかかっていて液晶の文字も読めなくなっている。 どこかで電池を手に入れなければならない。 その時歩いていたのがたまたま伊勢丹のすぐそばだったので僕はそのままそこへ入ることにした。 このデパートは昔と変わらず一歩ごとに人とぶつかりそうになるくらいに混んでいて、一瞬僕はここに来たことを後悔したがもう遅い。 友人は僕の電話を待っている。 何階に行けばよいのか戸惑ったあと、とにかくすぐ上の時計・貴金属の売り場へ行くことにした。

制服姿の可愛い女の子が満面にこぼれるような笑みを浮かべて、深々と頭を下げ、ていねいな挨拶で僕を迎えてくれる。(きっとローレックスを二,三個買いそうな客に見えたのだろう)。 電池の事を聞いてみる。 彼女は電子手帳を僕から受け取って裏蓋を開け、電池の種類を確認したあと、あいにくとその電池はX 階にある電子製品売り場にしか無いと言う。 礼を言ってその場を離れかけた僕は内心 (やれやれ) と思っていた。 これから人の群れを掻き分けてエレベーターまで辿り着き、順番を待ち、さらに階上まで人に揉まれて上がって行き、降りてからまた売り場を探してまたうろうろしなければならない。 混んだ雑踏が苦手の僕にとってはほんとうに (やれやれ)である。
するとまるでその僕の気持ちを読んだかのように 「お客様、その電池がX 階に揃えてあるかどうか問い合わせますので、少々お待ちいただけますか?」 と優しい彼女の声が僕の背中を追って来る。 振り返ると、彼女は電話で短く話をしたあと
「はい、その電池は確かにございますが、よろしければ係りのものがこちらまでお届けしますので、そこに掛けてお待ちください」
一瞬、僕は自分の耳にしたその言葉が信じられず、次の瞬間、その天使のような彼女の細い身体を力いっぱい抱きしめて、そのおでこにキスをしたい衝動に駆られていた。

ああ、日本・・・ (深いため息)

(終)


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日本人とアメリカ人 (2/3)

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帽子
Boston, Massachusetts USA


先日こんなことがあった。
現金が必要になったので、ある銀行の外に設置してあるATM (現金自動支払機) に行ったら、僕の前にいた中国人の老人が途方にくれた顔をして立っている。 僕を見て言うには、現金を引き出そうとしたら金が出てこない上にカードが機械に飲み込まれたまま返ってこないらしい。 銀行のドアはもうロックされていて、そこには午後5時で閉店と書いてある。 時計を見ると五時を数分過ぎているが、ガラスの向こうには数人の銀行員の姿があった。
ドアをノックして行員と話したら、と僕が言ったのでその老人はドアを叩いてみたが、中に聞こえているはずなのにそれは完全に無視されているようだった。 老人はノックをし続ける。 ようやく中にいる若い女性がこちら見て、もう閉店したというしぐさで手を左右に振るだけで、ドアのところまで来ようともしない。 老人がさらにノックをする。 彼女がしかたなさそうにドアまで歩いてくると明らかに不機嫌な顔を隠さないで開けたドアの隙間から首を突き出す。 そこで老人が中国語訛りの強い英語で事情を説明すると、彼女が面倒くさそうに言うには ATM は特定の人しか開くことができなくて、その人は明日の朝にならないと出社してこない。 だから明日の朝もう一度出直して来い、と言っているようだ。 困惑しきった面持ちの老人が、何とかならないか、自分は今夜どうしてもお金が必要なんです。 カードを返してもらえれば他のマシーンに行きますから、と懇願するのを 「何度言えば分かるのかしら?  銀行がもう閉まっているのは、見れば分かるでしょ」 と冷たく言いきってドアを閉めようとした。それを見た僕は閉まろうとするドアを押さえて言った。

「よう、お姐さん、冗談じゃねえよ。 さっきから黙って聞いてりゃあ、客のことを何だと思ってやがんだい? 機械が壊れているのはおめえさん方の責任じゃねえのかい。それなのに、 すみませんの一言でも言ったかよ。 お客さんが困ってるのが分かんねえのかい? 病気の子供に薬を買わなくちゃならねえのか、ひもじい家族にハンバーガーを食わせるのか理由は知らねえがよ。 このお方はとにかく金が必要なんだ。 それも金を貸せとか呉れとか言ってるんじゃねえ。 預けてある自分の金を引き出そうとしているだけじゃねえかよ。 病気の子供に薬が買えなくて子供が死んだりしたら、あんたは仕事をクビになっちまうだけじゃなくて、おめえら銀行は何ミリオンと損害賠償することになるんだぜ。 俺はこんなケチな銀行明日にでも解約して他の銀行へ行くからな、そう思え。 とにかくてめえみたいなチンピラじゃ話にならねえ。 店長を出せ、店長を!」

と、日本語なら寅さんみたいにまくし立てるところだけれど、残念ながら英語ではもう少し知的で穏やかな表現になってしまっていた。 それでも僕の怒りは十分に相手に伝わったようで、その女性がしぶしぶ引っ込んだと思うと今度は課長だか店長だか知らないが中年の男性が出てきた。 僕はその上役に同じことを説明した上に、さらに若い女子行員の不誠実な態度や銀行としての不満足なカスタマーサービスを非難した。
彼は即座に 「よござんす、分かりやした旦那。  しばらくお待ちなすって」 と言って腰につけた何十と鍵の付いた鍵束から魔法のようにサッとひとつを取り出して ATM のマシーンを裏から開け、カードを取り出すとそれを老人に返してくれた。(もちろん返す前に老人の免許証を見て本人の確認をしてから) 
そしてさらに男は 「ねえ旦那、うちの若いもんにはくれぐれもよく言って聞かせますんで、ひとつ内聞に・・・」 と言ったが、その上役からも 「すみません」 の一言はとうとう最後まで出てこなかった。

ああ、アメリカ・・・ (ため息)

(続)


アメリカでは成功した芸術家だけが尊敬される。
フランスではすべての芸術家が尊敬される。
イギリスでは芸術家というものは尊敬されなく、
オーストラリアでは芸術家とは何か、をまず説明してやらなければならない。
Geoffrey Cottrell


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日本人とアメリカ人 (1/3)

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ピクニック
Franklin, Ohio USA



20代の後半までを日本で暮らしながら、僕は周囲の人達とどうもうまく歯車がかみ合わないことに気がついていた。
その理由は、日常の生活において、なんでも (日本語特有の紆余曲折を省いて) ストレートに表現をしてしまう僕の発言や、古いしきたりや慣習をつい軽んじてしまったり、周囲の誰に対してもいつもあけっぴろげな態度で接してしまうことに起因しているようだった。 No と言いたいときに一応最初は Yes と言っておいて、それから徐々に No に変えてゆく、というような日本式のテクニックを僕は知らないわけではなかった。 それにもかかわらず、そういう面倒な演出をする必要性をあまり認めていなかったような気がする。 言葉は真情の吐露だと信じていた僕は、明らかに心にも無いことを平気で口にする人達を軽蔑した。 しかも、相手から僕に向かって発せられた言葉のどこまでが本意で、どこからが儀礼なのかを、自分の中で何度も反芻して推測したり訂正しなければならない。 そんなメンタルゲームに、僕は疲れきってしまっていた。

僕が尊敬していたある先輩が、
「お前さんはちょっと見にはハナからケタが外れているように見えながら、実は心底では決して一線を超えていない。 そこがお前さんのいいところだ。 しばらくつきあっていればそれが分かるけど、普通の人から見ればただの礼儀知らずで傍若無人で鼻持ちならないやつ、とレッテルを貼られてしまうんだ。 お前さんみたいな人間はきっとアメリカのほうが性(しょう)に合ってるよ」 とアメリカでの商社勤めが長かったその人が言ったことがあった。 僕が日本を離れてアメリカへ渡ることを真剣に考えたのは、いくつかの理由があったけれど、その先輩の言葉がいつも心底に潜んでいた。
それでちょっと様子を見てこよう的なわりと軽い気持ちで日本を離れてしまったのである。

そしてアメリカ。
No がそのまま受け入れられる国。 敬語の無い国。 英語という曖昧な言いまわしには向かない言葉を持つ国。 人の目を気にすること無しに暮らせる国。 迷惑にさえならなければ、何を言っても何をしても誰も気にしない国。 感情がそのまま顔に表れる人たちの国。 煩雑な慣習や制度の元になる古い伝統を持たない国。
そのアメリカに住むようになって、僕は心からホッとした。 そしてアメリカ人の、単純と言っていいくらいのストレートさや陽気さを僕は愛した。 ここではもう 「礼儀知らずで傍若無人で鼻持ちならない」 と思われる事もなかったし、人の口から出てくる言葉の裏を読む必要も無かった (ほとんどの場合は、という意味だけれど)。
僕はアメリカで、水に放たれた魚のように生き生きとしていたと思う。 そしていつのまにか祖国日本へ帰るチャンスを失ってしまっていた。

こうして何十年もアメリカに住み続けてきた僕に、いつごろから異変が起きたのだろう? そんなに古くはない。 ここ数年来の事だと思う。 アメリカ人の徹底し過ぎる個人主義や、即物的なものの見方にうんざりとさせられるようになってきたのは。
それと同時に、今は時々訪れるようになった日本で、周りの人たちのちょっとした思いやりとか細かい気配りなどに、(ああ、やっぱり日本はいいなあ) と感激をしている自分がいた。
「自分はやはりどうしようもなく日本人なんだ」 という意識は昔からいつも持っていながら、その意識は長いあいだ心の奥の小さな引き出しに鍵をかけてしまいこまれていたようだ。 そしてその鍵もとっくにどこかへ失くしてしまった、と思っていた。
それが最近になって、優しい日本人たちがそれぞれの鍵を僕に手渡してくれる。
「ほら、ここにもあるよ」
「こちらの鍵もきっと合うかもしれないよ」

そうして久方ぶりにその引き出しを開けて、小さくなって縮(ちぢ)こまっていた古い自分を取りだすことができた。

(続)

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冷たい冬の夜のこと

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冬の旅
Oakwood, Ohio USA



寒い日が続いている。
今この記事を書いているのが夜の八時半だけど温度は13度(華氏)である。 摂氏に換算してみたら零下10.5度という数字が出てきた。 夕食のあとでテレビのオバマ氏の演説を聴いていたらいつものように眠くなって20分ほどぐっすりと眠ってしまった。 目が覚めてまだぼんやりとしたままの頭で2匹の犬たちを裏庭に出してやる。 ほんの3分ほど外に立っているだけなのに、まるでエスプレッソを3杯飲んだあとのようにたちまち頭がシャッキリとして眠気が吹っ飛んでしまう。 コートを着ない僕の身体に鋭い冷気が水をかぶせるように襲いかかってきた。 いつもならうろうろと庭中を歩き回る犬たちも、今夜はさっさと用を済ませると戸口まで走り帰ってくる。
こんな夜は焼酎のお湯割を飲みながら暖かい音楽を聴くことにしよう。

トーマス・クァストフ (Thomas Quasthoff)
現代のドイツを代表する声楽家。 妊娠中にドラッグを使用した母から、奇形の子供として生まれる。 身長は122センチに足らず、手も足も短い。 正常な人の肘のあたりに手がある。 そのためピアノを弾くことができずドイツの音楽学校への入学を拒否された。

数々の賞を受けた現在にいたるまでに、どのような過酷な半生があったのかわれわれには想像することもできないが、ステージでの彼の顔にはそんな暗さがまったくない。 実を言うと僕は彼の笑顔が彼の歌と同じくらいに好きなのだ。
最近はジャズの領域にも積極的に入り込んできて、古いクラシックの世界から大いにはみ出している。 小さな身体をした大きな器なのである。




しかし、僕が何といっても好きなのは彼のシューベルトである。
「冬の旅」 のなかの Gute Nacht (おやすみなさい)は、あの伝説的なフィッシゃー・デスカウの 「おやすみなさい」 よりも僕は好きだ。 テンポがずっと緩やかなのも気に入っているし、クァストフのバリトンにはフィッシャ・デスカウの声にはない優しさと円(まる)みがある。



おやすみなさい



それでは、
おやすみなさい・・・




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恐竜、化石、貝類図鑑

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蒼の恐竜
Carnegie Museum of Natural History
Pittsburgh, Pennsylvania USA



僕が生まれたのは今から6600万年前の、地球が白亜紀の終わりに近づいていたころだった。
恐竜の子供として生まれた僕は、よちよち歩きのころから母がその太く長い尻尾を、振り子のように左右に振り動かしながら歩くあとを、遅れまいと必死でついて行った記憶がある。 時々その母の尻尾に触れて、小さな僕はすってんころりんと転んでしまう。 痛さに泣き声をあげる僕を、母はゆっくりと振り返って大きな二つの目で 「どうしたの?」 と問うと、長くて柔らかい舌を出して僕の体を優しく舐めてくれる。 ひとりっ子の僕にとっては誰とも共有しなくてもいい僕だけの母だった。
それからしばらくして、僕らの一族は幼い僕を含めて残らず地上から絶滅してしまう。 そして6600万年後に僕は今度は人間として再び生まれてきたのだった。

人間の子供として生まれ変わった僕にこの話しをしてくれたのは、腹違いの兄である。 年齢が離れすぎていたので兄というよりも僕にとっては優しい叔父のような存在だった。 痩せて背が高く、右の頬骨のあたりに小さな痣(あざ)があった。
兄は松江の大学の理学部で地質学を専攻していて、家から汽車通学をしていた。 そのころの兄は、小学生の僕をよく山歩きに連れて行ってくれたものだ。 兄がハンマーで崩した岩の小片をルーベを眼に当てて丹念に調べたり、それを大事そうに紙に包んで肩から提げた布製のカバンに入れたりするのを、僕はすぐそばにしゃがんで飽きることなく見ていた。
兄が恐竜の話をしてくれたのはそんな時だったのだろう。

ある時、そんな兄が発掘した2種類の貝の化石が、新発見ということで中央の学会で承認され、新聞に載ったことがあった。 兄はその二つの貝に付ける学名を、ラテン語の辞書を片手にあれこれと頭をひねっていた場面がはっきりと記憶に残っている。 長ったらしいラテン語の学名の最後尾には発見者である兄の苗字が含まれていた。

それからしばらくして兄は九州大学の大学院に行ってしまい、ある日わが家の玄関口で 「さよなら」 と言ったのが、僕が兄を見た最後になってしまう。 学会や大学から大いに期待されていた兄が、博士論文を発表する数日前に死体となって博多湾に浮いていた。 原因や状況などがいっさい謎のままになっている。
ずっと後になって、僕は実際に貝類図鑑のページに載せられた、兄が発見したという2種類の化石の写真を見たことがある。 兄の名前はそこに永久に残されていた。

兄の墓があるのは、彼が通った旧制中学に隣接した寺だった。 そこの墓地からすぐ向かいに学校の木造建の校舎が見えた。 その場所へ墓が決められたのは、母校へ通う学生たちを毎日見ていれば兄も淋しくないだろう、という両親の配慮だった。
そしてもうそのころは新制の高校に変わっていたその同じ校舎に、僕は毎朝兄の墓の傍をとおって通学した。



もし私が死んで、おまえが私の墓のそばを通ることがあれば
深い地の底から
きっとお前の足音を聞いていると思うよ。
Benito Perez Galdos


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日本への回帰 (2/2)

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暦(こよみ)
米子市旗ヶ崎



ところが最近になって、日本が僕に帰ってきた! それもかなりの速度でもって。
そのきっかけになったのはたぶん、2年前に見よう見まねではじめてしまったこのブログではないかと思っている。 ブログを作ってみようと思ったときに僕には2つの動機というか目的のようなものがあった。 ひとつは写真家としての (実は自分を写真家と呼ぶのにすごい勇気を感じるのだけれど) 今まで撮りためた作品を、1年とか2年とかに一度の個展とか数冊の写真集にまとめるだけではなくて、無限に広いインターネットという世界でもっと日常的なペ-スで曝してみたいと思ったからだった。
ふたつ目の理由は(実はこのほうが強かった)単純に日本語をもう一度書いてみたい、と思いはじめたのだ。 何十年という長いあいだ、僕はもちろん日本語を時々話していたし、雑誌や本を読んだりしていたけれど、日本語を言葉として書いたことはほとんどなかった。 いったい自分には、日本人に通じる日本語が今でもちゃんと書けるのだろうか? という疑問は僕が常に持っていた恐れのようなものだった。
そんなわけでこっそりとはじめたブログだったが、しばらくして予期しないことが起こった。 ブログに寄せられるコメントや、そこから発展したメールのやりとりなどが少しづつ増えていって、いろいろな人たちと知り合いになれたことだった。 そこから長いあいだ忘れていた 「日本」 がすこしづつ自分に帰ってきたのである。 おたがいに匿名ということで、知人や友人や家族には漏らすことのない心の深い部分もわりと容易に伝わってくる。 そしてそのひとたちの深い部分が、自分の中の日本人と (好むと好まざるにかかわらず) ピアノの絃同士のように心地よく共鳴をするのを感じていた。 そしてそれは、日本に住んでいたころもふくめて、今まで感じたことのない安らかで納得のいく同胞感のようなものだった。コメント欄でどなたかがいみじくも言いきったように僕は 「やはりどうしようもなく日本人」 だったのである。

現在の自分は、おそらく生涯の友になるだろう人たちにもめぐり会えている。 何世代前には予想することもできなかったに違いないこんな無限の出会いが、まだこれからもどこかで自分を待っているのだと思うと、これ以上にしあわせなことはないという気がしている。

みなさん、
僕を日本へ引っぱり返してくれてありがとう。

(終)

ひとは誰でも、時によって心の火が消えかかってしまうことがある。
それが誰かに出会うことでいきなり炎となって炸裂する。
内なる精神にふたたび火をかきたててくれる人たちに、
われわれは感謝をしなければならない。
Albert Schweitzer


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日本への回帰 (1/2)

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凧 (たこ)
米子市旗ヶ崎


日本を出てから40年が過ぎた。
僕は日本を離れるとき、数年後にはまた日本へ戻ってくることに何の疑いを持たないでアメリカへやってきた。 それなのに  (つまり、そのう… いろいろなことが起こってしまいまして) なんとなく帰らないでいるうちに長い月日が経ってしまったのだ。
何がいったい起こったのかは、以前の僕のブログを読んだ読者にはだいたいのところは推測してもらえると思うが、要するにある時点で僕は女性に失望し、その女性が代表する日本人に失望し、そんな日本人がウジャウジャとひしめいている日本という国に失望してしまったのだと思う。
そのころの僕は2度と日本には帰るまいと決心していた。 しかし今考えてみると、僕は日本や日本人に失望したのではなくて、実は自分をも含めた人間というものに失望したのではなかったか? 
そしてある時期にはそれは失望というより、もっと強い、憎しみに近い感情でもあったような気がする。

それで長いあいだ僕は日本を棄てたつもりで生きてきた。
ところが、あるとき (それはずっとあとになってからだけど) 実は 「僕が日本を棄てた」 のではなくて 「僕が日本に棄てられたんだ」 ということに気がついた時に、胸の中に長年つかえていたものがスッと消えて行くような、一種の清清(すがすが) しさを感じることができた。 ちょうど複雑な代数の問題を解いていて答えが、ぼっかりと簡単な整数として出てきたときのように。
棄てるよりも棄てられるほうが、ずっと楽だし救いがある、という真実を僕は年月をかけて身につけていた。

(続)


「今が最悪の事態だ」
と言えるあいだは最悪ではない。
William Shakespeare



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古い日記から

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Restaurant "Half Shell"
Boylston Street, Boston, Massachusetts USA



〇月〇日
明け方、あまりの寒さに目が覚める。 暖房費を払わないので2日前からヒーターをとめられている。 皮肉にもきのうからすごい大雪になり、気温が摂氏零下15度まで下がってアパートの中も外とあまり変わらないような寒さだ。 仔猫のムチャチャもベッドで僕の足元の毛布の上にへばり付いて震えている。 僕はごそごそと起き出すとクロゼットから厚手のセーターを引っぱり出して頭からかぶり、そのまま、またベッドにもぐりこむ。 ムチャチャを胸元に引き入れると、僕は横向きに背中をまるめて、手足を思いきりちぢこめてまるで胎児のようなかっこうで眠りにつく。 人間はどんな孤独にも耐えられるけど、この寒さには耐えられない、などと思いながら。

〇月〇日
出て行った妻が電話をしてきて、残していった衣類を取りに来るという。 わざわざ電話をかけてきたのは、顔を会わせないですむようにその時間にはアパートを空けておけということだろう。 さいわい今日はレストランで昼夜と働く日なので、僕は昼前に出かけたまま夜遅くまで帰っては来ない。
出かける前に、廊下とベッドルームの両方のクロゼットに、ハンガーにかかったまま残されている妻の衣服をまとめてベッドの上に重ねる。 タンスの引き出しに妻の下着がまだ残っているのを、どうしようかとしばらく迷ったあげく、そこまですることはないだろうと、それはそのままにしておく。 ムチャチャはどうするの? 連れて行くの? と紙切れに書いて鏡台の上に置く。
今日は金曜日だからレストランは忙しくなるだろう。

〇月〇日
学校のアルバイトで写譜をした金が入ってきたのでガス代を払う。 これでヒーターも入るだろうし、第一、何日かぶりで熱いシャワーを浴びられる。 外は大雪である。 何となく人が恋しくなって(ポケットには金もあるし)うんと厚着をして、エスキモーの着るようなコートを着ると外に出る。 雪道を歩いて行く先は行きつけの "Half Shell"。 嵐のあとでしかも時間が早いので客は僕ひとりだった。 バーのいつもの席に腰かけるといつものバーテンダーが 「よう、元気かい?」 と言ってくれるのに 「あまり元気じゃなかったよ」 と答える。 しかし今の気分はけっして悪くない。
ふだんは自分が働く日本レストランで飯にありつけるけど、たまにはよそでも食べてみたい。 ギネスの黒ビールに生牡蠣を1ダースぺろりと平らげる。

〇月〇日
ニューイングランド音楽院の声楽科の学生、アンがアパートにやって来る。 アンは (オペラ歌手がみんなそうであるような) 豊満な体を、するりとドアのあいだから滑りこませるようにしてやってくる。 そして僕にとっては久しぶりのマリワナを巻いてくれる。 極上のやつだ。
アンの卒業リサイタルに (まだ先のことだけど) 彼女の伴奏を一曲だけやってくれ、と頼まれる。 曲はフォーレの 「月の光」。 僕の好きな曲だ。 いいよと承諾する。 あれはソプラノの曲だと思ったらアルト用の編曲もあるらしい。 彼女が譜面を持参していたので、僕らはピアノの長イスに並んで腰かけるとさっそく二人でやってみる。 アンの優しくてやわらかな中音域の声を耳のすぐそばで聞いているうちに、僕の内部にこのところ膨らみ続けていた暗く刺々しい感情が、急速に萎えていくのがわかる。

帰りぎわにアンは僕の肩に手を置いて僕の目をすぐ近くから覗きこむと 「あなた、だいじょうぶ?」 と尋ねる。
「うん、だいじょうぶだよ」 と答える僕。
それからアンは下から僕の顔を見上げながら言う。 「あなた、わたしを抱きたい? 抱いてもいいのよ。 それであなたがもとのあなたにかえることができるのなら」
一瞬、僕は彼女の優しさに胸がいっぱいになる。
「わからない。 でもたぶんそうしない方がいいと思う。 今の僕は誰とも新しい関係に入るべきじゃないような気がする」 
アンは僕の頬にそっとキスをすると 「わかったわ。 来週のいつかステージでリハーサルをしましょう。 電話するわ」 と言って、来たときのようにまたするりとドアのあいだから抜けるように帰っていった。
 

〈月の光〉





〇月〇日
土曜の夜。 アンに無理やりに連れ出されて行った先のパーティで、いろいろな人に紹介される。 ほとんどがクラシック畑の若い音楽家だった。 酒を飲みマリワナを吸い、チェロの独奏あり、ピアノの連弾あり、歌曲あり、弦楽四重奏あり、と次から次にみんなが代わる代わる演奏する中で、僕も乞われてジャズを弾いた。 珍しく良い音のするグランドピアノが置いてあったから。 それからアンが僕の伴奏で 「月の光」 を歌う。 

〇月〇日
雪の降るニューバリー・ストリートを歩いていて妻とQの二人連れにばったりと会ってしまう。 一瞬お互いに顔を見合わせてちょっとだけ頷くと、言葉も交わさずに行き過ぎる。 いつのまにか自分がシッポを脚のあいだに挟んで退散する負け犬のような気分になっていることに気がついて、われながら嫌になってしまう。
もうたくさんだ。 ボストンの冬がつくづく嫌になる。 寒くて陰鬱でまわりの風景はすべて荒涼としている。 まるで自分の内臓をそのまま曝けだしたかのように。

〇月〇日
イーグルズの 《Hotel California》 を聴いて心は西海岸に飛んでいる。 とくに好きなグループというわけではないが、この曲は好きだ。 同じ哀感でも、燦々(さんさん) と明るいカリフォルニアの陽光の中でのそれには若さと夢が溢れている。 冬のボストンのように陰鬱で老人くさくない。

Hotel California.......
You can check-out any time you like,
But you can never leave!

一度行けば二度と離れたくないそんな場所がこの世にあれば、いつか行ってみたいと思う。



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