過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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わが家の動物たち (2/2)

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マヤと雌鶏 (めんどり) たち



今日は 『わが家の動物たち』 の室内編。
ピアノの上に置かれためんどりの母子は陶器製で。右のコミカルなのは張り子細工。
幼いころの娘が座っているボール紙の箱は 「マヤの部屋」 だったから、この子と話したい者は “Knock, knock!” と口で言ってノックをしなければならなかった。



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タランチュラ (大蜘蛛)



高校生のマヤが何か小動物が飼いたいと言うので、他の子供たちのようにハツカネズミとか小鳥でも飼うのかと思ったら、ある日10センチもあるタランチュラを連れてきたのでびっくりした。 毎日のように檻から出して手のひらに乗せて遊んでいたのを思い出す。 家族のものは気味悪がって誰も近寄らなかった。 何年か経って、この子が大学に入って家を出て行ったときにこの蜘蛛はペット屋に引き取ってもらった。
ゴム製の大蜘蛛はキッチンの窓からいつもこちらをにらんでいる。



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あひる

ピアノ室の片隅。背後にはわが Green Eyes が描いた、不思議の国のアリスの白ウサギが。
右端のベンチに乗っているバスケットには、見えないが大きな陶器製のダチョウの卵が入っているし、床に置かれたブリキ製の水差しは、亡くなったジェーン伯母の家からきたもので、もう80年ぐらい経つ古いものである。





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異星人たち

リビングルームの暖炉の上には陶器類が雑然と並んでいて、そこは 『E.T.』 たちの集会場でもある。
青い焼物は昔ボストン時代に松本画伯の失敗作を無理やり貰い受けたものだし、壁にかかったサージェンの絵といい、中国の馬といい、新しいワイングラスといい、そしてこの異星人たちといい、すべてが無秩序で無関係の関係を持つ。 しかし僕はインテリア・デザインに関しては、ずっと以前からいっさいの発言権を略奪されているのだった。




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わが家の動物たち (1/2)

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白兎


若者が、遠方の恋人に1年ぶりに出会う日を指折りながら待ちわびるように、陰鬱な冬の風景に閉じ込められてしまった僕は、あの暖かい春をただひたすら待っている。 せめてブログのうえで過ぎ去った季節に帰ってみたい・・・

わが家の庭には季節に応じて野生の鹿やウサギだけでなく、タヌキとかリスとかモグラとか、さまざまの小鳥たちが訪れる。 生きた動物だけではない。 あるとき芝刈りをしていて、庭のあちこちにおかれたガラクタのなかに動物がけっこういるのに気がついた。
夏になるとワインを飲んだり、時には夕食も取ったりするこのポーチの鉄製の丸テーブルも、気候がよくなるまでは鉢植えの台になっていた。 そこへ置かれたこの粘土細工の白ウサギを、わが家の犬たちが最初に見たとき、いきなり吠えついて駆け寄っていった。 そのくらいうまくできている。 良く見るとウサギのうしろの鉢には小鳥の雛とそれを狙うカエルが置かれていた。




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獅子


ポーチの壁にはライオンが架けられている。 イタリアでいやというほど見たライオンの守護神である。
2匹のライオンがポーチの両側の壁からしっかりと我が家を守ってくれているので、火事とか泥棒とかの災難は今まで一度も無かった。
これを見るたびに僕が思い出しているのは、ヴェネツィアはムラーノ島のヴァポレット乗り場の近くの、古い家の扉にあった2匹のライオンだった。 これとまったく同じ作りで、ライオンの表情も同じだった。 違うのはムラーノ島のそれは青銅でできていた。 いや、ただライオンを思い出した、というのは正確ではない。 つまり、3年前にムラーノ島のライオンを見た時にその場でわが家のこのライオンを思い出していたのだが、その 「思い出していた」 という記憶がわが家のライオンを見るたびに僕に帰ってくる、ということなのだ。 記憶とは時にはすばらしい具体性をもっているものだ。




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カウベル (Cowbell) は放牧中の牛の首にかける大きな鈴の事である。 それから始まってカウベルというラテン音楽の楽器にまで発展した。 むかし大学のジャズバンドで、ピアノを必要としないラテンものを演奏する時にカウベルは僕の担当だった。 ちょうど日本の坊さんが金属製の木魚を幾つか違うリズムで叩く感じだと思えばいい。
この牛はわが Green Eyes がどこかの蚤の市から見つけてきたもので、カウベルを模した風鈴である。 しっかりと錆び付いてもう鳴らなくなった風鈴は、わが家の前庭のモミジの枝から下がっている。




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ブラス製の蝶は南フランスの Isle-sur-la-Sorgue という舌を噛みそうな名の小さな町の蚤の市での戦利品。
これも見るたびに、あの蚤の市の裏手で、透き通るようにきれいな水が流れていた掘割りを思い出す。
モミジのタイルが乗っている切り株は、2年前の大嵐で根こそぎ倒れた前庭の菩提樹で、二階建ての屋根よりはるかに高い大木だったが、ラッキーにも家の上に倒れなかった代わりに道路を塞いで、まる1日のあいだ交通遮断をした。 市から出動してきた一隊が巨大な伐採機やクレーンやトラックを使って運び去るときに1片だけ残してもらった。 そしてそのことを後悔した。 男が2人がかりでようやく動かせるほどの凄い重さなのだ。 たぶんこの位置からあと何百年かは動かされることはないだろう、と思うぐらいに重かった。

(続く)


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ミシシッピー・デルタ

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病葉(わくらば)
New Orleans, Louisiana USA


1973年の秋の終わりに、僕は突然旅に出ることにした。 いろいろなことがうまくいっていない時だった。 なんとなく落ち込んでいたというようななま易しい状態ではなかった。 今までの自分の生きかたへの歯軋りするような後悔に苛(さいな) まれていたし、それに加えて、このまま無為に年をとっていくことへの不安だとか、自堕落で不健康な生活だとか、次から次へと駄目にしていく仕事だとか、理由はいくらでもあった。 でも何よりにも増して絶望を感じていたのは、僕は自分という人間に失望しきっていたようだ。
「俺はこのままでは駄目になってしまうかもしれない」 と思いはじめていた。

そんなときに、ボストンからマイアミに越していった知人が、遊びにこないかと声をかけてくれたのだ。 僕はマイアミまでの飛行機の片道切符を買うと、バッグに最小限の着替えとハメットの二冊の小説とニコンFを詰めて飛んだ。 片道の切符しか買わなかったのは、マイアミのあとどこかへ回るだろうという漠然とした予感があったからだった。
マイアミに住む知人というのはそれほど親しい仲ではなかったが、そんな僕を暖かく迎えてくれた。 彼はひとの心の状態を敏感に感じるような性格の男ではなくて、あれこれと詮索されないのが僕にはかえってありがたかった。
そのマイアミに4日ほど滞在しているあいだに、僕はまったくなんの理由もなく、ミシシッピー・デルタを見たいという強い衝動に駆られていた。 それで僕はある朝グレ-ハウンドのバスの切符を買うと、ほとんどまる1日かかる距離をニューオーリンズに向けて出発した。

そのバスの旅はおおむね快適だったといっていい。 フロリダの州境を出てアラバマに入ると、バスはメキシコ湾沿いに真西にアラバマを横断したあと、海岸線の近くを走りながらやがてルイジアナ州へ入っていく。 最初ほぼ満員で出発したバスも途中で次々に乗客を降ろしていき、乗り込んでくる客はほとんどいなかった。 僕の隣席にはおそろしく太った40代の労働者風の男が座っていて、彼の左ひじが常に僕の脇腹に当たっていることと、苦しそうに鼻から出てくる、ふいごのような呼吸音との両方が気になってしかたがなかったが、その男もアラバマの小さな町で降りていってしまった。、そのあとは僕は、ダシル・ハメットの 『マルタの鷹』 の英語版を取り出して読み続けた。 ときどき目を上げて窓の外を見ると、メキシコ湾のはるかかなたの水平線のあたりにタンカーが2隻あってそれは動いているのか止まっているのか、何度見てもその2隻の黒い影は大きな雲を背景にして同じ位置にあった。

ニューオーリンズに到着したのはもう夜の9時を過ぎていた。 予約をしておいたリヴァーサイド・ホテルは、観光地域のフレンチ・クォーターからはかなり離れた港湾の工業地域にあって値段も安く、まあまあきれいで簡素なホテルだった。 そのすぐ裏をミシシッピー川が流れているはずだったが、それを見る前に僕は部屋へ入るとシャワーも浴びないでベッドにもぐり込むとそのまま眠ってしまった。 今日や昨日の疲れではなく、何ヶ月ものあいだ溜まっていた疲れが一挙に出てきたような深い眠りだった。

あくる朝目が覚める。 ぼんやりした頭にまず響いてきたのは雨の音だった。 かなり激しく降っている。 僕は階下の食堂でコーヒーを2杯飲んだあと、ホテルの傘を借りてさっそくすぐ裏手にゴチャゴチャと並んだ倉庫のあいだを抜けて川へ出てみる。
ミシシッピー・デルタがそこにあった。
想像もできないほどの長い距離を旅してきたにちがいない豊穣な水が、まるで生きもののように動いていた。 それはかなりの速度で流れながら、この地点でメキシコ湾に注ぎ込んでいた。 雨のせいだろう。 水量が怖いほど豊かで、水面をじっと見つめているとそのまま自分が引き込まれてしまいそうな目眩(めまい) を感じていた。
空も、川も、あちこちに停泊する無数の貨物船も、すべてが暗鬱な濃灰色に溶けこんでいて、そこには 「美しさ」 と呼ばれるようなものはどこを探しても無い。 それなのにその風景にはなぜか僕を感動させるものがあった。 それは 「荘厳」 といってもいい、大河の持つ激しい生命力みたいなものだった。 我々人間が日常で感じること、悲しむこと、悩むこと。 そんなコセコセしたことを、この大河はすべてを吞み込んで運び去ってしまうように思われた。 しかもその流れは一瞬も止まることがない。

この次に僕がここに立つ時は、ひとりではなく誰かと来てみたいと思う。 いつかそんな誰かに出会えると思う。 そのときの僕らのささやかな真実の愛を、ふたりでこの大河の流れに曝(さら) してみたい。 古代の人々が、ユーフラティスの、ガンジスの、黄河の、ナイルの畔(ほとり) でそうしたように。


井上陽水 〈リバーサイドホテル〉




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・・・なる古城のほとり、雲白く遊子かなしむ

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Les Barroux, France Ⅰ



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プロヴァンスに滞在した3週間に、車を駆ってほとんど無計画にあちこちを訪れた。 その旅ではまだナヴィゲーターを持っていなかったから、ベースキャンプに選んだ村 Vaison la Romaine を毎朝地図を手にして出発しても、運転をしながら地図を見ることがすぐに面倒になってしまって、そのあとはただやみくもに走った。 車に装備されたコンパスで東西南北がようやく判別できるだけだった。

その日はすばらしい天候だった。 まるで吸い込まれそうに空が青く、その青の中に、雲が水彩絵の具の白を一筆でさっとなぞったように浮いていた。 僕は車を南へ南へと走らせる。 そのうち地中海に落っこちてしまうかもしれないと思いながら。
やがてその空の下に、小高い山の上の古城が遠方にはっきりと姿を現した。 街道わきに標識がでてきて、それが "Les Barroux” という名の村らしいとわかる。


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Les Barroux, France Ⅱ


山頂に着いてみるとそれは思ったよりも大きな城で、公開されているのは一部だけだったが、きちんと手入れされていてよく管理が行き届いているのがわかる。 受付では主婦らしい初老の女性と、彼女の孫くらいの年の青年が、きちんと中世の衣装を着けて親切に応対してくれた。 周りに住む農家の人たちが代わり番にボランティアとしてここに詰めているらしい。 驚いたことにちゃんと音声ガイドまで借りられるようになっていた。 ここを訪れる観光者はけっこうあるのにちがいない。


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Les Barroux, France Ⅲ


音声ガイドによれば、この城は12世紀に、まわりのサラセンやイタリアからの侵入に対抗するための要塞として建てられらたらしいが、それから現在までの900年のあいだ、ここにただ悠然と平和に聳(そび)えていたわけではない。 ずっと現代に近くなってからフランス革命では破損されたり、世界大戦ではドイツ軍がこの城を焼いている。 そのたびに篤志家によってていねいに修復されてきた。 「開かずの間」 はその修復がいまだに続いているらしい。
城内は家具や装飾品などをごちゃごちゃと展示しないで、ところどころに小物がそっと置いてあるだけなのが、かえって中世の人々の質素できびしい生活を偲ばせる。


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Les Barroux, France Ⅳ


城の上から見下ろすと、すぐ真下に小さな村落があるだけで、あとはどちらを見まわしても美しい自然に囲まれている。 もし僕が絵描きだとか物書きならこんなところに暮らせば良い仕事ができるだろうなあ、と思う。 毎日のようにここまで登ってきて空と山と平野を眺め、退屈すれば周りにある何十という町や村を車で訪ねればいいし、40キロ南西に位置するアヴィニョンまで足をのばせば都市の生活を味わうこともできる。 そしてそこから汽車に乗ればパリまでは2時間半である。

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伯母ジェーン

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ジェーンの部屋
Dayton, Ohio USA


ジェーンが92歳で亡くなってからもう数年が経つ。
僕の妻の伯母にあたるひとで、7人兄弟の長女だったが生涯結婚もせず家族を持つこともなく、亡くなるまえはひっそりと一人で暮らしていた。だからといって、田舎に住む寂しい老嬢を想像することはまちがっている。彼女の妹(妻の母)や弟たちがそれぞれの結婚で8人とか10人とかの子供をつくり、しだいに巨大な一族となってふくれあがっていったのに、その一族のほとんどがこのアメリカ中西部の地方都市から外に出ることなしに暮らしてきたようだ。そのなかでジェーンはちがっていた。20歳になるかならないかの時に郷里の町を出てワシントンDCに行き、そこの有名デパートのファッションのバイヤーという仕事についている。そのあと彼女は、ニューヨーク、ダラス、サンフランシスコと数十年を大都市で過ごしたあと、リタイアをしたときに郷里の町に帰ってきて、彼女のお母さんとふたりでこの家に住んでいた。そのお母さんが102歳で亡くなったのはもう20年以上も前である。そのあとジェーンはお母さんから受け継いたその家で、隣接する教会のボランティアなどをしながら気ままな生活を楽しんでいたようだった。

そのジェーンと僕が最初から気が合ったのは、この一族の中では珍しい彼女のコズモポリタン的な知性のせいだったと思う。僕にとっても、自分より30歳も年上の女性と対等にいろいろな話ができる、という経験は初めてだった。それで僕はよく彼女をデートに誘い出して日本食や中華のレストランへめしを食べに行ったり、アート系の映画や美術館へ連れていったりした。酒が好きなところもジェーンは僕と合っていて、よくキッチンのテーブルに向かい合ってスコッチを飲みながらカードをした。ジン・ラミーではいつも僕を負かした。
若い頃にあちこちの大都市にある有名なデパートで購買という華やかな仕事をしていたジェーンにとって、とりわけニューヨークでの7,8年は忘れられない大切な時期であったようだ。セピア色に褪せた古いモノクロ写真を見ると、白い夏のドレスに思いきりつば広の帽子をかぶったジェーンが、開いた花のように笑いかけている。 家族持ちの男性との激しい恋があったという古い噂は本当らしい。ジェーンから直接その話を聞いた者は誰もいなかったが、亡くなったあと、その男性からのラブレターの束が出てきた。

家主を失ったジェーンの家に入ると、湿った黴の匂いがした。暗いリビングルームには、ここにもそこにもジェーンのかたちの無い存在が潜んでいるのが感じられる。"Jane doesn't live here" という古い映画のタイトルが僕の頭に浮かんできたが、それがどんな映画だったのかも思い出せない。明かりを入れようとカーテンを開くと、見慣れた葡萄のステンドグラスがそこにあった。 そしてその横の壁には何十というジェーンの甥や姪が、まるで採集された蝶の標本のように並んでいた。(その中には18歳のころの妻の写真もあっった)。彼らもまた、今ではもうそれぞれの家族を持ち、成人した子供たちの親になっている。
部屋の中にはそういった「時の流れ」のようなものが、圧縮された空気のように澱(よど)んでいて、そこにいるものに息苦しいほどの悲哀を感じさせた。 すべてが化石のように動かず、完全に停止した時間の中に僕はいた。
Jane doesn't live here…

このジェーンの部屋も今はもう存在しない。この家はその後しばらくして隣の教会に買い取られ、買い取った教会が家を取り壊して真っ平らな駐車場にしてしまった。葡萄のステンドグラスはそのまま一族の誰かの家へ移されたようだ。
先日ここを車で通ると、ポッカリと空いた空間にジェーンの魂がふわふわと揺れ動いているような錯覚がした。その魂が休める場所は、この白いコンクリートの地面の上にはどこにも無い。


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雪の朝、雪の夜

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雪の朝
Boston, Massachusetts USA



冬が好き、という人はあまりいないんじゃないかと思う。 僕も冬は苦手で、寒いのがなによりも嫌いなのである。 それなのになぜこんなに雪が好きなのだろう?
朝目が覚めて窓のシェードを上げたときに、いきなり目の前に白一色の世界が広がっているのをみると、あっと思ってとたんに胸がわくわくする。 そこにあるのは、ふだんさんざん見尽くしたいつもの道路や家並みや木々ではなくて、一夜のうちに魔法に掛けられて変わってしまった、見たことのない新鮮な風景だった。

そういえば昨夜はかなりの雪が降っていたようだった。 僕はいつものように夜中の2時前まで起きていて、日本(午後4時) とドイツ(午前8時) とアメリカ西海岸(午後11時)の友人たちに幾つかのメールを送ったあと、翌日更新する予定のブログをもう1度推敲した。 それから階下に下りてキッチンでショットグラスにバーボンを指二本分注いでゆっくりと飲んだ。 そのとき窓の外を見ると、街灯にぼんやり照らされた道路にぼたん雪が勢いよく舞い降りているのが見えた。 風がまったくないらしく、雪片同士が可能なかぎりお互いの間隔をつめ合って、あとからあとから、まるでそれが決められた仕事でもあるかのように一生懸命に落ちてくる。
僕はそれから二階に戻ると歯を磨いてベッドにもぐりこむ。 いつもなら家の前を時おり通る車の音も今夜はまったく絶えてしまっていて、世界中がしんとしていた。 ベッドの中で日本の友人が送ってくれた谷崎潤一郎の 『陰翳礼賛』 を数ページも読まないうちにいつのまにか眠ってしまったようだ。



「優しさ」 は雪のようなものだ。
覆(おお)われるだけですべてが美しくなる。
September30


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パリのメトロ

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凝視
Paris, France



パリの街を歩いていて時々ギョッとするのは、女性の大胆な下着すがたやほとんどヌードに近い広告写真のポスターが、目抜き通りのあちこちに堂々とかかっているのを目にした事だった。 ポスターだけではなく、ビルボードやビルの壁一面に張られた巨大な広告から、薄い下着を魅力的な肢体に着けた魅力的な女が、下に流れる群集を見下ろしているのは僕の住むアメリカでは見ることのない光景だった。
日本はもちろんのこと、同じヨーロッパのイタリアやスペインでもここまで大胆なものは見た覚えがない。 ミラノのような、町中が化粧品や衣料品の広告に埋められた、世界のファッションの本拠地でさえも、ヌードだけはなかったと思う。

その年、パリで僕らが滞在していた小さなホテルは、メトロの “Les Gobelins” の駅のすぐそばにあってとても便利の良い場所だった。 毎日のようにそのメトロの階段を下りるたびに、いやでもこの全裸の女性のローションの広告が目に入った。 いやらしさはまったく無いし、化粧品の宣伝としてむしろ洗練されたものだったが、その広告につい僕の目が行ってしまうのは、これは自分の中にある「男性」が無意識に呼び起こされているのだろう、と苦笑をしてしまう。 もちろん広告のスポンサーの狙いもそこにあったのにちがいない。 これがもし赤ん坊だとか犬の写真だったらたぶんちがっていただろうから。

この広告を背景にして何か面白い写真が撮れないものか、と考えてみる。 まず頭に浮かんできたのは、性に目覚めはじめた小学生の男の子でも通りかかって、(昔自分がそうであったように) 美しい女性の裸体をそれとなく盗み見しているところなんか絵になるんじゃないか、と考えた。 そこで僕は向かいのプラットフォームのベンチに陣取り、カメラをかまえて 「何か」 が起こるのを待つことにした。
僕はそこに、たぶん1時間以上も座っていたと思う。 そのあいだに数知れず雑多な人々がこの広告の前を横切った。 かんじんの小学生のグループも何回か通りかかった。 ところが期待に反して、誰一人として、タダの一人として、この魅惑的な女性の裸身に注意さえ払う子供はいなくて、彼女は完璧に無視されてしまっていた。 その前で立ち止まったのはむしろ数人の若い女性でたぶん 「このローション、一度使ってみようかしら」 などと考えていたのかもしれない。

すっかり失望した僕が、カメラを片付けようとしていてふと顔を上げると、いつのまにか一人の中年の男がそこにいた。 その男は裸像の前に立って食い入るように女性の裸体を凝視していた。 (彼はちらっと盗み見るというような謙虚さをまったく持っていなかった)。 僕は何も考えず夢中でシャッターを切り続けたが、その数枚のショットは寸分もちがわない画面になったはずだ。 なぜなら男はそのあいだ微動だにしないでそこに立ち続けていたから。
しばらくしてようやく振り向いた男の顔を見ると、それは僕らの同行のひとりのKさんだったのだ。

Kさんはもちろんアメリカ人である。



裸体は露出にすぎないがヌードは表現なのだ。
ヌードとは裸になることではなくて、
一種の衣服を着けることである。
John Berger


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とり残されて・・・ (続)

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葦に潜む
Boston, Massachusetts USA



僕のこころにギリギリと入りこんできた旋律はジャズだけではなかった。
最近ではジョン・ウィリアムスの映画音楽 『シンドラーのリスト』 がそうだった。 映画が製作されたのは1993年だから最近とは言えないけど、あのころ映画を見たときには、そのあまりにも衝撃的な内容に音楽のほうをつい聞き流したのにちがいない。 それがつい最近になってラジオから流れるこの曲を聴いたとき、何かが激しく僕の内部を揺さぶって、やっていた仕事の手をとめると僕の目には涙が湧いていたようだ。
それが何なのか僕には言葉にあらわすことができない。 しかしこの旋律を聴くことであの悲しい物語を思い出していたのではないのは確かで、純粋に音楽だけからの感動だったようである。



シンドラーのリスト



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とり残されて・・・

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真夜中の水族館
Oregon District, Dayon, Ohio USA



ジャッキー・マクリーン (アルト・サックス)、マル・ワルドロン (ピアノ)。
50年代、60年代を通してハードバップの主流に沿いながら、さまざまなスタイルのミュジシャンが活躍した中で、この二人はそれぞれにユニークな世界を創造した。 21世紀の現在でも根強いファンを世界中に持っているのは You Tube を見ればすぐに分かる (二人ともすでに没している)。
この二人のコンビで出したレコードのうち、1960年に出したアルバム "Left Alone" は僕の青春時代を通して、最も思い出のあるLPアルバムのひとつになっている。 このアルバムの最初の曲はアルバムのタイトルにもなっているワルドロン作曲の "Left Alone" だった。 この曲を初めて聴いたのは、僕が田舎の高校を終えたあと東京にぽっと出てきて、あの目くるめくような奇怪な大都会の重圧に今にも押し潰されそうになりながら、金魚のようにパクパクと喘ぎながら生きていた頃だった。 マクリーンのあの尖った凶器のように鋭く、焼け焦がすように熱いメタリックな音色は、18才の僕のはらわたを匕首 (あいくち) のようにギリギリと突き刺した。 その音はあの小さな金管楽器から出ているのではなく、人間の背骨を通って噴き出てくる叫びのように僕には聞こえた。

ワルドロンのピアノはお世辞にも流麗とは言えない。 言葉が少ない。 しかもその少ない言葉も時々ドモリながら出てくるようなピアノだった。 それでいてジャズの真髄 (そんなものがあるとすれば) にいちばん近いところの音を、まるで落ち葉を拾うようにぽつぽつと弾いている。 ビリー・ホリディは彼のピアノを愛して伴奏のピアニストにワルドロンを雇っている。
新宿の 「きーよ」で、渋谷の 「オスカー」で、四畳半の自分の下宿で、この曲を聞きながら僕は長い長い孤独の夜を過ごした。


とり残されて・・・




数知れないアーティストがこの曲をレコードやCDに残しているけれど、この最初のアルバム以上に、肌に寒気をおぼえるような感じで僕に迫ってくるものは皆無である。 マクリ-ン自身でさえ晩年になってから数回同じ曲を吹き込んでいるのに、その演奏は僕に失望しか与えてくれないのは哀しいことであった。 マクリーンが失ってしまったものは、僕が失ったものと同じものなのかもしれない。 そして人間なら誰もが失う運命にあるものなのだろう。



ひとはいろいろな経験を重ねるにつれて若さを失ってゆく。
哀しいことだ。
Vincent van Gogh




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雨のルーヴル

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雨の庭
Musée du Louvre, Paris


その年、パリに滞在した1週間のあいだほとんど毎日雨が降った。 激しい雨というわけでもなければ、一日中降り続く雨でもなかったけれど、雨の切れめに日が射す時間のほうがずっと少なかった。 同行の者たちはそのことを嘆いたり呪ったりするような言葉を、一人あたり1日平均20回ほど口にしたが、実は僕はそれほど気にならなかった。 「雨のパリ ・・・」 なんとなく良い響きがするじゃないか、と思っていた。 「雨のモンマルトル」、「雨のセーヌ」、「雨のバスティーユ」、「雨のブローニュ」 と、そのどれも絵や詩や写真のタイトルになりそうだった。

そんなある朝、起きてまずホテルの窓から外をみると、やはり雨が降っている。 ずっと遠くの空に重い暗雲の切れ目があって、そこから明るい光が射しているのに、その光は我々のほうへやって来ないで、どんどん遠ざかって行った。
卵とクロワッサンとジャムとフルーツとカフェオレの朝食をとりながら、今日は外を歩くかわりに美術館で1日をすごそう、ということに多数決で決まったようだ。 悪いアイデアではない。 ルーヴル美術館は数日前に1度行って半日足らずの時間をそこで費やしたけれど、今日ならゆっくりと心ゆくまで見てまわることができるだろう。  悪いアイデアではない。

みんなでルーヴルまで歩いて行くと、美術館で我々がいつもそうするように、待ち合わせの時間と場所を決めたあとそれぞれが勝手な行動をとることになった。 館内は今日はうんざりするほど雑多な群集で埋めつくされていた。 (雨の日の良いアイデアというのは誰もが考えつく)。 僕は見たいと思っていた幾つかの絵画へたどりくつ努力をあきらめると、比較的人の少ない部門だけを選んでまったく無計画に見て回った。 そうしていてふと窓から外を見ると、その窓からは広大な中庭が見渡せて、しめやかな雨のなかに、孤独な噴水が力なく水を吹いている情景が見えた。
これは 「雨のルーヴル」 だと、僕はその庭へ出てみることにする。 群集を離れて外の冷たい空気の中へ出て行くと、そこには見渡す限り人の姿がなく、なんともいえず暗鬱な光景が広がっていた。

いつものように、妄想がはじまる。 (僕はその気になればわりと簡単に、現実にはない 「もうひとつの世界」 へいつでも入って行けるという奇妙な癖を持っていた)。
この光景に真実に感動するためには、僕はまず若者でなければならなかった。 しかも、激しい恋に破れたあとの痛手をひきづって、孤独な旅を続ける若者でなければならない。 その僕にとってここは絶望の広場だった。 異様と思えるほど低く垂れこめた暗雲のずっと向こうに、ほんの少しだけ覗いている6月の空は、あれは僕に残された未来の希望なのか、それとも過ぎ去った恋の思い出なのか? どちらにしてもそれはもう僕の手の届かないはるか遠くに位置していた。 目の前でたよりなく息をしている噴水はあるいは僕自身なのかもしれないと思う。 しかしそれはまだ確かに生きている。 すべてが凍りついたように静止したこの情景の中で、噴水の白い水だけが吐息のように動いていた。 そしてまわりをとりかこむ不気味で巨大な宮殿は、僕の来訪を待ちうけている死の館(やかた) のように見えた・・・・

やがて不吉な妄想から覚めた僕は、カメラが濡れないようにコートの下に隠すと、ふたたび人々の溢れる明るい建物の中へ入って行った。 そしてそこが、まぎれもなく 「こちらの世界」 だと確認をしたとき、なんとなくほっとしていた。


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エヴァのこと (2/2)

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赤い靴はいてた・・・
Miamisburg, Ohio USA



エヴァが僕に1枚の紙切れを見せた。 古い小包の包装から切り取られたと思われるその褐色の紙切れは、よれよれになってインクもかすみ、それが送られてきてからの長い年月を思わせた。 そこには男の名前と住所が漢字で書かれていて、住所は明らかに自宅ではなくてある会社の所在地になっている。 そしてその住所は東京になっていた。
エヴァが僕に頼んだのはその男と連絡を取って欲しい、ということだった。 1度でよいからその男に娘のリサと話をしてくれるように頼んで欲しいという。 その男は自分が会ったことのない娘がアメリカにいるという事実だけは知っているらしい。 今では13歳になっているリサが、ことあるごとにエヴァに父親の事を訊ねるようになり、エヴァにもそれは無理のないことのように思えたのだと言う。 日本人などほとんど来ることのないレストランで働きながら、エヴァはいつか自分の前に日本人が現れるのを待っていたのである。 住所が書かれたのはもうずいぶん前の事らしいから、その男が同じ会社にまだいるかどうかも分からないが、とにかくやってみるよと僕は約束をした。

約束をしたあとで僕はまずその男に手紙を書こうとした。 しかし届かないかも知れない手紙を書いて何日も何週間も待つよりは、いきなり電話をしたほうが話は早いのでは、と思いなおした。 会社に電話すれば (その会社がまだ存在するとして) たとえ男がそこを辞めていたとしても、その後の消息などが会社を通してつかめるかもしれない。 もし男がまだ同じ仕事場にいるとすれば、電話でその男の反応が即座に読み取れる。 そしてその反応はエヴァにとってもリサにとっても大切なことだと判断したからだった。
紙切れの住所には電話番号は無かったが、インターネットで会社の名を検索をしてみるとそれは簡単に見つかり、ある日、日本時間の午前中を見計らって電話を入れてみた。 そしてあっけないほど簡単にその男につながった。

電話口に出てきたその男に、僕はまず、エヴァと僕とは友人以外の何者でもないということを説明したあと、あなたの娘になるリサが1度でいいから話をしたいと言っていること、ただしエヴァとしてはこれを機会にリサと父親との関係を進めたいというような意図はまったく無いこと、今後迷惑をかけるような連絡は一切エヴァの方からは取らないこと、などをかいつまんで話した。 男は僕の話を黙って最後まで聞いたあと、意外とハッキリとした声で、「よく分かりました」 と答えた。 その短い声の中に、男の責任感と誠意を感じて僕はほっとした。 そのあと僕は彼にエヴァの電話番号を教えてやった。 彼は丁寧に礼を言ったあと、何月何日の何時に電話をします。 ということで僕らの会話は終わりになった。

男は約束した日時に電話をして来て、エヴァとしばらく話したあと、リサとかなりの長い間話をしたそうだ。
リサにとって、自分と自分の母親を捨てた、見たことのない父親と話をすることが果たして良いことであったのかどうか僕に判断のできることではなかった。 少なくともそのあと、何かがリサの中で吹っ切れたようだとエヴァが言うのを聞いて、これはいつかはリサが体験しなければならなかったことなのだろう、と思った。

そのあと1度だけ、エヴァがリサを連れて僕のオフィスに現れたことがある。 応接室のソファに母親と並んで、両手を膝に置いてちょこんと腰かけているリサを、僕は痛々しい思いで見た。 彼女が刑務所で生まれたことや、2度目の父親との醜い事件などを思い出していたからだった。 黒い髪に黒い眼をした、一見して日本人の血が入っているのはまちがえようがない顔だちをしていた。 母親の美貌は控えめに受け継いでいるようだったが、明るい素直そうな女の子に育っているのを見て、僕は心からほっとしていたようだ。 日本語を勉強したいというリサに、僕が日本語会話のカセットテープを数巻プレゼントしてやると、にこにこと顔をくずして、「ありがとう」 と日本語で言った。

エヴァと僕とのあいだでは、僕の方から彼女に連絡を取ることはほとんどなくて、いつも彼女の方から電話がかかってきたので、このところ長い間電話がなかったことに気がついた。 よく考えるとエヴァと最後に話したのはもう1年以上も前のことになる。 その時の僕らの会話は、リサの父親が娘に会うために日本から出て来るので、リサを連れてシカゴまで会いに、これから車で出かけるというその直前だった。
(そうか、やっぱり血は切れないのか) と僕は思っていた。

ふと思いついて先日何年ぶりかでエヴァに電話をしてみたら、その電話はもう不通になっていた。

(終)

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エヴァのこと (1/2)

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羞恥
Murano, Italy



エヴァの前身は娼婦だった。
彼女がそのことを僕に話してくれたのは、知り合ってからかなりたって、時々ふたりでコーヒーショップやバーの片隅に座って彼女の話を聞くようになった時である。 30代半ばのエヴァと、ずっと年上で妻子があり家庭を持つ中年男性である僕との関係は、最後までフレンドの領域を出ることはなかったが、他人の目にはそうは映らなかったかもしれない。 しかしどこへ行っても僕たちがまわりの人々の目を引いたのは、ふたりの奇妙な取り合わせのせいではなかった。 エヴァのたぐい稀な美貌のせいだった。

エヴァと知り合ったのは、僕が今とちがって、会社の机で過ごす時間より外を飛び回っている時間の方がはるかに多かった頃のことだった。 あちこちの町をを車で走りまわっていろんな人に会って、長い一日がようやく終わりに近づき、やれやれあと30分ほどで家に到着するという距離まで来ると、いつも急にコーヒーが飲みたくなる。 そこでハイウェイの24番の出口で降りたところにあるファミリーレストランのカウンターで、アメリカンコーヒーをゆっくりと飲んで、それから帰途につくのが習慣になっていた。 そうするうちにそこでいつのまにか常連とみなされたらしく、いつもコーヒーだけの客である僕に店の者たちが親しく話しかけて来るようになっていた。 エヴァはそこで働くウェイトレスの中の一人だった。

数人いるウェイトレスの中でエヴァがとくに僕の目を惹いたのは、いやでも人目を引くその美しい顔立ちのせいだったのはまちがいない。 しかし美しい女に熱い視線を送るという年代をもう卒業していた僕にとって、それ以上に僕の興味をひいたのは、こんな田舎には珍しい彼女の垢抜けた雰囲気と、その中世の彫像のように整った表情の内側から滲み出ている、淡い陰のような暗さだったと言っていい。 しかも他のウェイトレスの誰よりもてきぱきと仕事をこなすだけではなく、客に対して、とくに老人や身体障害者に接するときの暖かい対応は、見ていて自分の気持ちまで暖かくなるようだった。
それなのに、彼女が始終絶やすことのない優しく美しい笑顔から、ときおりその重みに堪えきれず零(こぼ)れ落ちてくる、かすかな痛みのようなものを、僕は感じることができた。

そのエヴァがある時、僕の前に置かれたカップにコーヒーを注ぎながら、「あなたにほんじんでしょう?」 とカタコトの日本語で訊いてきたとき僕はびっくりしてしまった。 それがきっかけとなって、エヴァと僕は以前よりずっと多くの言葉を交わすようになった。 あとでわかったことだが、エヴァが日本人である僕に声をかけてきたのは、実は理由があったのだ。 僕に何かを頼みたいらしいということはわかったが、それは、まわりを人が動き回るレストランのカウンターで話すにはあまりにも私的で複雑なことのようだった。 それではどこかほかの場所で会おうということになり、数日後にエヴァと僕はレストランの近くのコーヒーショップで会っている。 そしてそのあとはさらに2度会って話をした。

僕に語ってくれたエヴァの話は、長い物語だった。
大体のところを知っているのは両親だけで、こんな詳細を人に話すのは初めてだという。 淡々と話すエヴァの声を聞きながら僕は喉が渇いて何杯も水をおかわりしなければならなかった。
ここに書くのはその大まかな荒筋に過ぎない。 いや荒筋でさえないかもしれない。 というのは、物語の中の幾つの箇所はたぶんどんな形でも発表のできる内容ではなかった。 それはここでも全部省いてある。

エヴァは中西部の小さな町で生まれた。 裕福でも貧乏でもないごく普通の家庭に育ちながら、18歳の時に家を飛び出してカルフォニアまでヒッチハイクをして放浪する。 西海岸のあちこちの都市を転々としたあと、結局ラスベガスまで流れて、そこで高級娼婦となる。 若さと美貌と容姿をすべて備えていたエヴァにとっては、トップクラスの娼婦となるのに時間はかからなかった。 そしてそのまま数年が過ぎた頃、エヴァは偶然に知り合った日本人の男に恋をしてしまうのだ。 そのあとエヴァは身体を売る仕事をやめて、レストランのウェイトレスになるのだが、妻子を日本に置いてきた駐在員のその男性が、任期が切れて帰国するまでの2年間が、エヴァにとってはもっとも甘く幸せな月日であった。

男が日本へと去って行った時ににエヴァの夢が閉じられてしまう。 エヴァはそこから人生の海の荒波へと漕ぎだしてゆくことになる。 愛する男を失った悲嘆から。 彼女はドラッグに手を出した。 そのうちドラッグを買うだけではなく、ディーラーとして街角で売りさばくという暗い不法の世界へと入って行ったのだった。 そして自分が妊娠している事を発見する。子供の父親はもちろん彼女の愛した日本人の男だった。

アメリカ国内の麻薬売買、ことに麻薬を売る事は重罪であった。 検挙されて、州の女性刑務所で服役した2年の間に彼女はその刑務所の中で女の子を出産する。
2年後に出所したエヴァは赤ん坊のリサを連れて中西部の郷里の町へ、両親の元へと帰って来たのだった。
それからのエヴァは仕事に恵まれず、レストランや商店を転々としたり、時には再び街に立ってセックスを売ったりしていたらしい。 そのうちに知り合った一人の男に請われて結婚をする。 男は若くは無かったがひとりで商売をやっていて金回りも悪くなく、エヴァはもう働く必要もなくなった。 彼女にとっては初めての自分の家庭を持ち、落ち着いた生活ができるようになった。 それからその男との間に、男の子が生まれる。 エヴァの人生もようやくここまで来て、女としての人並みの幸福をつかむことができて、怒涛のような半生が遠い過去に流れ去って行ったかのように思われた。
それが数年後に、彼女は自分の夫であるこの男を警察に訴えている。 8歳になる彼女の娘リサを、父親である男が性的に虐待し続けていたのだ。 証拠不十分で男は不起訴になったが、エヴァはそのままリサと男の子を連れて家を飛び出し、そのあと離婚の手続きを取っている。
そして彼女が最後に出会ったのがイエス キリストだったらしい。 クリスチャンとして急速に宗教にのめりこむことで、彼女は自分が救われたと思っている。

***

ここまで書いてきて思うのは、この荒筋にはエヴァが実際に経験したことの半分も表現されていないのに気がついた。 娼婦としての生活や刑務所の中での幾つかのハプニング、それに最後に離婚する時の男との葛藤など、彼女を次から次へと襲った苦痛は精神的なものだけではなかった、としかここでは書くことができないが、すべてはエヴァの美貌が原因になっていたように思われる。

そのエヴァが僕に接近してきたのは理由があったのだ。

(続)

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失われた川

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失われた川に巡り会った日
Springfield, Ohio USA


そこは瓦礫 (がれき) の海だった。
フットボールのフィールドを2つも3つも並べたほどの果てしなく広大な場所に、自動車の死骸の、考えられる限りのありとあらゆる破片が、すべての秩序や規律を無視して投げ込まれているメタルの墓場だった。 その光景は僕に、いつか映画で見た、何百という兵士の死体が散らばった悲惨な戦場を思い出させた。

その戦場の真っ只中を歩きまわっていた僕がふと気がつくと、強い西日を浴びて白く光るものが眼に入った。 近寄ってみるとそれは、醜く折れ曲がったバンパーに貼りつけられたスティッカーで、それには 『失われた川を見つけた』 と書かれてある。 そしてそのスティッカーは、瓦礫の海の暗い波間に漂う発光魚のように、ひっそりと光りを放っていた。
『失われた川』 とは何だろう? と考える。

それは何かしらとても大切なもの。 一度は自分が持っていて、失ってはならないものなのになぜか長いあいだ見つけることのできなかったもの。 かつては自分の心の中に勢いよく流れていた清流なのに、いつのまにか涸(か)らしてしまい、 もう二度と見ることはないと思っていたもの。

そんなもののような気がした。
そして 『失われた川を見つけた』 とは、長い旅路の果てに、ようやくその川に巡り会えたのだ。
ところが巡り会えたそのときには、その川はすでにこうして 「死の海」 に注ぎ込んでいた。
僕は呆然とそこに立ちすくんで、何十年先の自分の死骸を見ているような気がしていた。

****

ずっとあとになって、そう、この写真を撮ってから29年以上も経って、僕がインターネットで 『失われた川』 を検索してみたことがあった。 検索の結果を見てがっかりしてしまった。

『失われた川 を求めて~渋谷川(渋谷から表参道まで)~ 』
『タモリさんの「 失われた川 」 - お気に入り:livedoor Blog』
『失われた 「 川 」を求めて - 大阪市内さんぽガイド』

ちがう! 『失われた川』 とはそんなものじゃない。 もっと深い意味があるはずだ。
次に 「ランダムハウス英和大辞典」 を引いてみる。

"Lost River" (米語)
     「末なし川:乾燥地帯などの地下水路や下水溝に流れ込んでいく川.」

これもがっかり。

この写真を撮ったときに僕が感じていた 『失われた川』 はどうも僕だけの川だったようである。

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人魚を釣った男

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漁師の孤独
Martha's Vineyard, Massachusetts USA


もう30年も前の話である。ボストンに住んでいた僕のまわりに数人の日本人の仲間がいた。みんなまだ若くてそれぞれが自分の道を懸命に歩いていたころである。僕らに共通していたのは、ちがう分野にいながらアートに関係のある仕事をやって いたことで、ボストンに多かった日本企業の駐在員や大学の研究室に派遣された会社員とはまったく離れたところで、アメリカ永住を前提として生きている、どちらかというと孤独なグループだった。
そのなかのひとり、A君は庭師だった。ハーバード大学の建築科で造園を学び、アメリカ中に日本庭園を造ることを夢としていた。

ある年の春を、その数人の仲間たちとマサチューセッツ州のマーサズ ヴィニヤード島で過ごしたことがあった。A君の顧客だった裕福なアメリカ人が、この島の海岸に持っている別荘を僕たちに解放してくれたのである。マーサズヴィニヤードといえば米国の有名人たちがこぞってサマーハウスをここに持ち(ケネディ、クリントン等)、映画のロケ地になったり(ジョーズ等)、東海岸ではまず知らない人のない有名な避暑地である。しかし僕たちが行ったのはまだ春先のシーズンオフだったから、島中どこに行ってもまったく人影を見ることがなく、食料品店などで買い物をしているのはほとんどが数少ない島の住民たちだった。

庭師であるA君は同時に漁師でもあった。彼は毎日ひとりで朝早くおきると、4輪駆動のジープを島の南端まで運転して海岸に乗り入れて、そこで2時間ほどかけて「その日の食料」を捕獲してきた。その彼について僕はいっしょに出かけてみたことがある。茫々と果てしのない大西洋に向かってくり返し糸を投げるA君の姿には言いようのない孤独感が滲み出ていた。そのころ僕はすでに家庭を持っていたし、ほかの仲間たちも結婚したり恋人がいたりしたのに、なぜかA君だけが長いあいだひとりぼっちだったのだ。
季節のせいか天候のせいかは知らないが、A君の漁はあまり成功ではなかったようだ。50センチもある見事なブルーフィッシュの尻尾をつかんでぶら下げながら、意気揚々と帰ってくる時もあれば、空しく手ぶらで帰ってくる時もあった。不漁が続いた時は、近くで釣っている地元の漁師から1尾を分けて貰ってきたりしていた。そうした魚は刺身になったり鍋になったり天婦羅になったりして、裏の菜園から採れる野菜と共に食卓にのぼる。酒を飲みながら話がはずむ。話はそれぞれの未来の夢のことで、尽きることがない。そしてこの家にはA君の設計になる日本庭園があり、その端にはこれも彼が造った木造りの野天風呂があった。母屋から地下にパイプが通っていて、水と湯が出るようになっていた。そこにみんなと浸かって眼前に広がる大西洋を眺めながら、僕らは酒を飲み続けた。

この写真の若き日のA君は、この休暇ではあまり魚が釣れなかったが、そのかわりあとになって素敵な人魚を釣り上げた。やはりボストンで建築会社に勤めていた美しい日本人の女性である。 ふたりが結婚した時に、僕はこの写真を彼らに贈っている。

それ以後はケープコッドまでは何度も行きながら、この島に渡ったことは一度もない。A君は小さく始めた仕事がどんどん大きくなっていって、いまでは100人以上のデザイナーやコントラクターを使う造園専門の建築事務所の社長になっている。
言うまでもなく僕たちのあいだでは今でも交友が続いている。


男たちは生涯をかけて魚釣りをする。
彼らが気がついていないのは、
自分たちが追っているのは魚ではない、ということだ。
Henry David Thoreau




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モノクロ写真について

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澱む水、朽ちる舟
Morrow, Ohio USA


僕はモノクロ写真は一種のアブストラクトだと思っている。
我々をとり巻く色彩あふれる現実を四角に切り取って、それをいったんバラバラに梳(と)きほぐす。 そしてあらためて白と黒と幾つものグレーの糸を使って、タペストリーのように紡(つむ)ぎなおしていく。 その紡ぎなおすという過程で僕にとってなくてはならないのが "RAW" のフォマットで撮影されたデジタルの原画と 『フォトショップ』 という道具だった。
その結果できあがったものは、現実に模されていながらすでに現実ではなく、どこにでもありそうで実はどこにも存在しない、それは僕の 「心象」 を描いたものにちがいなかった。

アンセル・アダムスが気の遠くなるような時間を費やして完成したゾーン システムは、フィルム現像の段階でコントラストを (ある程度) 調整することから始まり、いや、その前にウェストンの露出計でそれぞれのゾーンを設定するところから始まり、プリントの段階でそのネガのもつ最大のポテンシャルを引き出してやるところで終わる。 それは芸術と科学の見事な融合だったといえるだろう。
銀塩写真時代に僕はゾーン システムの狂信的な信奉者だった時期がある。 やがてそこから離れていった一番大きな理由は、ゾーンという科学的に既定された枠に縛られることなしに、もっと自由に、もっと感覚的に、白と黒の絵の具を思うままに使って絵を描いてみたかったからだった。  暗室の中の作業でそれはものすごく困難なことで、僕にはまるで不可能なことのように思えた。

やがて時代の流れとともに、僕は得体の知れないデジタルの世界へ入り込んで行き、そこで 『フォトショップ』 という魔術の道具を手にした時に、僕は長いあいだ愛してきた銀塩カメラを躊躇(ちゅうちょ) なく捨ててしまう。 なんの後悔もなしに。
デジタル化されてコンピューターに収められた画像は、それがデジタルカメラで撮られたものでも、あるいは銀塩カメラで撮られた古いネガをスキャンされたものでも、僕の自由な解釈と編集を受け付けてくれる。 昔なら暗室で何日かかって苦闘しても到達できなかった場所へ、今は僕をずっと容易に(そして何よりも)はるかに自由な道を通って連れて行ってくれるように思われる。
カメラの種類やレンズの選択、プリントの紙質などに厳しくこだわりを持つ Purist (純正主義者) から見れば、眉をひそめるようなことを僕はやっているわけだ。
しかし僕にとって、写真を撮るということは自分の心象を描くという以外の何ものでもないとするなら、そのためにどんな方法をとろうとも、それは僕個人の問題に過ぎないと思っている。



わたしにはモノクロ写真の
白と黒は、
ひとの希望と絶望を交互に象徴しているように思える。
Robert Frank




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娘への手紙

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ふり返るマヤ
Charles de Gaulle Airport, Paris


マヤへ

今年のクリスマスにまた、1年ぶりにマヤが帰ってきてくれて父さんも母さんもとても嬉しい。 遠く離れた町でここ数年のあいだ、おまえにいろいろと起こったことも知っている。 いつも何も言わないおまえのことだから、私たちが知っていると思っているのは、実際におまえに起こったことのほんの何分の一にも過ぎないのだろうが、親である私たちはいつも胸を痛めていた。 とくに母さんは、おまえのことを心配のあまり時には眠れない夜を過ごしているのを、私は知っている。
今回の帰省でも父さんが飛行機の切符を買ってやるというのにおまえはそれを拒否して、バスで十時間かけて帰ってきた。 経済的に苦しいおまえに、母さんが私に内緒で月々何がしかの金を送っているのも知っている。 今度の帰省でも、お土産とかクリスマスのプレゼントなど心配するなと言ってあったのに、おまえは極上のウォッカの大瓶を父さんのために抱えてきてくれた。 混ぜて飲むにはもったいないほど美味しいそのウォッカを、父さんはストレートですすりながら、今この手紙を書いている。

幼い頃からおまえはほかの子供たちとは違っていた。 無口でひと見知りが強く、人前ではいつも母親の後ろに隠れていたね。そのくせ、頑固なうえに妙に図太い神経を持っていて、いつも何かをじっと考えているような子供だった。 子供のことだから当然何かにつけて無理を言ったり泣いたりしたのだろうと思うが、どういうわけか父さんにはそんな記憶がほとんど無い。 第一、おまえはものを欲しがるということをしない子だった。 クリスマスにサンタにあげる 「欲しいものリスト」 は弟のほうがページいっぱいに書かれた長いリストをくれるのに、おまえのリストはいつも寂しいほど短かった。 「鳩時計」 だとか 「鈴のついた鉛筆」 だとか 「鍵のかかる日記帳」 だとか・・・  「鳩時計」 は父さんが町中を走り回って探したけど適当なのが見つからなかった。 現在のようにインターネットが普及するずっと前のことだからね。 それでもがっかりした顔を見せずにケロッとしていたのがマヤだった。

十代になってまわりの早熟な女の子たちが流行の服飾に凝ったり、男の子とデートをしたり、華やかなチアーリーダーになったりするのを、おまえはいつも横目で見ながらひとりで本を読んだりピアノを弾いたりしていた。 エキゾチックな雰囲気をもつ美しいおまえに、いつも同年の男の子たちが寄ってきたけれど、誰ひとりマヤの心を掴むことができず、みな尻尾を巻いて引き下がっていったね。
高校の卒業演奏会でバッハのピアノ・コンチェルトを父さんと二人で毎日毎日練習したのはこの頃のことだった。

ピッツバーグの大学のフランス語科に入ったあと、ずばぬけて良くできたフランス語の才能を教授に認められてパリの大学への留学を薦められ、ソルボンヌに編入が決まった時のおまえほど幸せそうな顔を見たことはなかった。 覚えているかい? パリでのおまえは水に放たれた魚のように生き生きとしていた。 あの時、私たちはパリまででかけて行って家族4人でフランスからスイス、イタリア、スペインと3週間をかけて回った旅行は、父さんや母さんの一生の中で最高の思い出になっている。

パリから帰ってきたおまえを待っていたのは、あの J との出会いだった。 それまで長いあいだ男性には何の興味を持たなかったおまえにとって、おそらく初めての恋だったのだろう。 それもおまえらしい、激しい一途な恋だったようだ。 おまえの住む町を時々親の私たちが訪れるとき、J といっしょにいる時のおまえは、あの大きな黒い瞳を恐ろしいほどキラキラと輝やかせて、親の私たちが見とれてしまうほど美しい、恋する女になっていた。
それから何が起こったのか、何も話してくれない私たちにはついに分からなかったが、分かっていたのは J がおまえを離れて、遠いアフリカへ仕事で行ってしまったということだけだった。 もともと壊れやすく脆(もろ)い神経の持ち主ではなかったおまえの事だから、この傷の痛みもおまえなりにしっかりと受けとめて、ひとりでじっと耐えていたに違いない。 父さんや母さんが感じていたのは、そんな娘に親として何もしてやれないという強い無力感だった。

その頃おまえはとても良い仕事についていて、オーナーである女性に気に入られたおまえは短期間にどんどんと責任の重い役職へと上がっていった。良い給料をもらっていただけではなく、会社の車を与えられたり、毎月の学生ローンの返済も会社で払ってくれるなど、友人たちが羨むような条件で働いていた。 それがいきなりおまえがその仕事を辞めてしまったとき、私たちは何が起こったのか推測することすらできなかった。
数ヵ月後にその会社のオーナーの P さんが直接父さんへ電話をしてきた。 何が起こったのかは彼女も詳しくは話してはくれなかったが、マヤが会社を去ったのはすべて P さんに責任があるというようなことを言っていた。 マヤに謝罪したい、そしてどうしてももう一度仕事に帰ってきて欲しい、何度もマヤに連絡を取ろうとしてもマヤは返事もしてくれない。 それで父親の私から P さんの気持ちをおまえに伝えてもらえないか、そんな内容の会話だった。 父さんも母さんも当然ながら、おまえにぜひもとの仕事に帰って欲しいのが正直な気持ちだった。

そのことをおまえに伝えたのにもかかわらず P さんにはついに一度も連絡を取らなかったようだね。 しばらくして P さんはもう一度私に電話をかけてきて、前と同じことを頼んできた。 そしておまえがその時、とりあえずの生活のためにウエイトレスをしていたレストランの名を、無理やり父さんから聞きだすと (私も彼女の誠意に打たれたのだ) P さんはそこまで出かけていっておまえに会っている。 二人のあいだにどんな会話があったのかは知らないが、おまえはついに P さんの会社へ戻ることはなく、それ以後は P さんからの私へ電話がくることもなかった。
あそこまで誠意を見せてくれた P さんを受け入れなかったおまえの頑固さと誇りの高さを、父さんも母さんも失望するより以上に尊重するということだけは知っておいて欲しい。

それからおまえには K という新しい男友達ができて、二人でアパートをシェアしていた。 おまえの言葉の端々から察しても、以前の J の時とはまったく違った、もっとずっと軽い関係だったようだ。 その関係ももうすぐ終わりになるだろう、とおまえがそれとなく母さんに洩らしていた矢先に、その K があの自動車の轢き逃げの事故に会って、片脚を打ち砕くという大怪我をしてしまった。 おまえはそれから1年以上も、身動きもできなかった K の面倒を見て、係累のない彼の生活をを経済的にもすべてひとりで背負い、仕事を同時に2つも続けていた。 父さんからの援助を頑 (かた) くなに断ったのは、マヤ自身の生活ならともかく、両親とは関係のない男友達のために、それほど豊かでもない私たちの財力に頼ることはできない、というおまえの信条のようなものだったと思う。 それでも母親からのわずかな送金や、衣料品や食料品などは受け入れてくれたようだ。
あの1年どんなに苦しい毎日を送っていただろうと思うとき、父さんも母さんも胸が痛む。 おまえのあの時の自分を捨てた献身は、男への情愛 (もう終わりかかっていた) というような私的なことではなかったと思う。 もっと深い、人間としての責任感のようなもの、博愛というか人類への愛というか、聖書でいう compassion (深い同情) のようなものだったのじゃないだろうか? 
Kが車椅子を使ってようやくひとりで動けるようになって、遠い町の施設に移されるまでおまえの献身は続いた。
誰にでもできることではない。 きっと父さんにだってできなかったと思う。 逃げ出さずに苦難をしっかりと受けとめて生きたおまえを、父さんは心から誇りに思う。

1年ぶりで古巣に帰ってきたおまえを見て、「あの子は幸せじゃないのね」 と母さんが哀しそうに私に漏らした。 それで父さんはこの手紙を書く気になったんだ。
いろいろな事がありながらも、マヤには樹のようにたくましく天に向かって伸びて欲しい。 たとえ曲がりくねったり、瘤々(こぶこぶ) だらけの樹であってもね。

父さんが今書いているのは送り出されることのない手紙だし、おまえが目にすることもない手紙だろうけど、こんな事やいろいろな事を、いつか静かにふたりで話せる日が来ると信じている。 もう若くない父さんだから、遅くなり過ぎないうちにね。
今、壁を隔てたとなりの部屋の昔ながらの自分のベッドで、昔のように眠っているマヤ。 わずか十日間だけど、何もかも忘れてぐっすりと眠るんだよ。子供のように。

寒いと思って窓から外を見ると、いつのまにか雪が降っている。
もう夜中の3時だから、父さんもそろそろ寝るとしよう。

おやすみ、マヤ。

12月28日 深夜
父より

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わかれ道

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わかれ道
大山国立公園 米子市


わかれ道に立ったことが自分の今までの人生に何度あったのだろうかと考えてみる。 大きなわかれ道 (そのあとの人生を大きく変えてしまったような決定的なわかれ道) は二度とか三度しかなかったような気もするし、それ以外にはさほど重要には見えなかった小さなわかれ道は数限りなくあったように思われる。 しかし果たして、決定的でなく、運命的でもないわかれ道などというものが存在するのだろうか? それがどんな小さな道であっても。 
若いころはもし違う道を選んでしまったら、また引き返せばよいと思った。 そんな試行錯誤を繰り返しなが生きても、なおかつ充分すぎるほどの時間が自分の前には洋々とあったから。 それが今はちがう。 すでに僕に残された年月はそんなに無尽蔵にはないのだ。 失敗は許されない。 だからといってじわじわと壁際に追い詰められたような気分で生きて行くつもりはまったくないが、いよいよ本番はこれからなのだと思う。 コンサートのピアニストと同じで、長かった修練の期間はもう終わろうとしている。 そして僕にとって最後のステージの幕が上がろうとしている。 ピアニストは知っている。 この次に幕が下りて楽屋に引き上げて来たあとは、彼はもう二度とピアノを弾くことはないだろうということを。

「わかれ道のない道を行けばいいんだよ」 と自分の中でもうひとりの僕が囁(ささや)く。
「ほんとうのしあわせなんて、どこにもありはしない。 錯覚さ。 今の状態で満足することがしあわせなんだよ」 とその声は続く。 その声に正面から対処しなければならない時が来るような気がする。

雨の降る暖かい元旦の朝。 今年はその大きなわかれ道に辿りつくことになるかもしれない、と静かに思っている。



私は年をとるにつれて、幸福の反対を不幸だとは思わなくなった。
幸福の反対は怠惰というものではなかろうか。
亀井勝一郎  






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