過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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ゴルフと僕

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冬のゴルフ・コース
Dayton, Ohio USA


僕の住んでいる地域には、車で15分以内の距離にゴルフ場が3つもある。 それを言うと日本にいる知人友人たちはびっくりして、まじまじと羨望のまなざしで僕を見る。 そこでさらに僕が 「自慢じゃないけど、北アメリカ大陸広しといえど、俺はゴルフをしないたった一人の日本人なんだ」 と誇らしげに言うと、信じられないという顔をして、とたんに僕に対する人物評価が2段階は確実に下がってしまったのがわかる。

そういう僕が1度だけゴルフを始めようとしたことがあった。 17年前に、今僕が行っているアメリカの会社に入社した時のことである。 先代の社長兼オーナーのB氏は、外回りの営業マンにとって顧客とゴルフをすることがビジネス成功への最短距離だと信じていたから、自分が雇い入れた新入社員が実はゴルフのクラブなど生まれてから1度も握ったことのない男だと発見したときには、まるで惚れた女性から 「実はわたしってレスビアンなのよ」 と告げられた時のように落胆した。 僕の営業成績は新入社員としては決して悪くなかっにもかかわらず、B氏に言わせれば、これで僕が顧客とゴルフをやれば毎月の棒グラフが確実に3割は伸びると自信を持って主張した。 そして、暇な時間はいつもテニスに入れ込んでいた僕を見て、ゴルフを始めてみては、と最初は遠慮がちに、後になるとかなり執拗に懇願し続けた。 新しいゴルフ用具の購入も、個人レッスンの費用も、クラブメンバーの会員料も、会社で負担するから、と言う。 それでとうとう僕は、学生の時から続けていたテニスにさく時間を減らして、ゴルフを始めることになったのである。

始めてみてすぐに感じたのは、ゴルフとはなんと退屈なスポーツだろうという事だった。 僕は子供のころから球技が得意でいろいろなスポーツに手を出したが、ゴルフはそのどれとも違っていた。 まず、スポーツといえば当然付きものの、走ったり跳んだりするということがまるでない。 ただ歩くだけ。 そのうえ、打った自分のボールをアホのように茫然と眺めるだけで、他の球技のように、そのボールを誰かが追いかける、ということはしないという実に奇妙なスポーツだった。 だから僕にとってのゴルフは、汗を流して体を酷使したというあの満足感に欠けていた。 それは僕にとっては重要なことであった。 これがテニスなら、ゴルフのように貴重な人生のなかの半日とか1日をつぶしてしまうことなく、シングルスの試合を2時間もやれば、体内に溜ったエネルギーも頭脳内の欲求不満も、汗とともにキレイさっぱりと発散してしまい、気分爽やかなことはこの上もない。 肉体的なエクササイズという点でもゴルフは何の役にもたたなかった。

そんなネガティブな要素がいくつか重なって、僕はゴルフを諦める決心をした。 当然ながら社長のB氏はかなり機嫌が悪かったが、彼をなんとか説得することができたのは、ゴルフをやることなしに棒グラフを3割上げることを僕が約束したからだった。
そして数ヵ月後に僕の成績は3割上昇していた。 ゴルフという営業の武器を持たないかわりに、 「日本語を喋る」 という社内の誰も持たない特技を、僕が具(そな)えていたのがその理由だった。 我が社には僕が入社する以前は、日系企業のクライエントなど1社もなかったのである。

***

そのゴルフコースに最近頻繁に行くようになった。
2匹の犬たちを散歩させるためである。 我が家のすぐ近くにある市営のゴルフ場は、周りの人家とのあいだが昔風の木柵で仕切ってあるだけなので、冬になってゴルフのシーズンが終わると、そこは近所の犬たちの格好の遊び場になっていた。 起伏の多い広大な地域を、鎖を解かれた一群の犬たちが、気が狂ったように走り回るあいだ、犬のオーナーたちは木柵のそばでのんびりと世間話しをしている。
雪が降ったあとのゴルフ場は、寒いのを我慢すれば、ことさら美しかった。



下手な人なりに楽しめるもの、
といえば
ゴルフとセックスぐらいしかないだろう。
Jimmy DeMaret



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拷問

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待ちながら
Dayton, Ohio USA


アメリカ人というのは、概していうとすごく辛抱強い国民だと思う。 およそそういう辛抱強さというか我慢強さのようなものを生まれつき持っていない僕からみると、驚くのを通り越して呆(あき) れてしまうことがよくある。

先日もそうだった。 アメリカ人の知人数人と急に晩飯を食べに行こうということになり、彼らがどうしても行ってみたいという盛り場のど真ん中にあるレストランへ行った。 このあたりではわりと知名度の高いレストランだったし、金曜の夜ということもあって、予約も無しでいきなり行くことに僕は気が進まなかったが、ほかの連中に引っぱられるようにしてついて行った。
予想したとおり、レストランはギュウギュウに混んでいて、入り口にも外にも待つ人たちで溢れている。 メートルディーに名前を残す時に、たぶん2時間は待つことになるだろうと言われた。 2時間だと? 腹がペコペコの状態で2時間も待つというような非人間的な忍耐力を、僕は両親から受け継いでいなかった。 ところがいっしょにいたほかの連中はまったく気にしていない。 ドリンクを飲みながら待とうということになってラウンジに移動してみると、そこも満席で大部分の客たちは床に立ったままグラスを片手にしている。 飲み物を注文するのでも、人ごみをかきわけてカウンターまでたどり着くと、ひとの肩越しに飲み物の名を怒鳴り、キャッシュで支払いをして、またひとの肩越しにグラスを受け取る。 そんなに苦労して手に入れたドリンクも、どんなにゆっくり飲んでも15分で終わってしまう。 まだあと1時間45分あるわけだ。

そうするうちに僕は、昼間の疲れが足に来たうえに空腹が手伝って、どこでもいいから座りこんでしまいたいという強い衝動に襲われる。 もちろんかなわぬ夢だ。 すこしふらふらしてきたようだ。 もう1度時計を見る。 さっきから10分たっているので、あと1時間35分の辛抱である。 音量の高すぎる音楽と人々の怒鳴りあう騒音の中で、僕は頭が痛くなってきた。 そしてほかの連中が楽しそうに話をしているのをみているうちに、僕はだんだん腹が立ってくる。 これはもう拷問以外の何ものでもない。 僕は決心をすると、気分が悪くなったから帰る、と連中に告げて(それは嘘ではなかった) 逃げるようにしてこの馬鹿馬鹿しい群集を離れていった。

すぐ向かいにあるマクドナルドへ入ると、何年ぶりかで食べたビッグ・マックのなんと美味しかったこと!
しかもフレンチフライとオレンジソーダが付いてくるその豪華な夕食は、さっき飲んだ1杯のドリンクよりもずっと安かった。




ダイエット食品なんていうものは
おいしいステーキが焼きあがるのを待ってる間にだけ食べるものよ
Julia Child



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僕が死んだら・・・

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1870-1972
Sète, France


僕が死んだら、と時々考えることがあるけど、それは最近になって自分が歳を経てきたからということではなくて、ずっと昔からそうだった。 自分自身の葬式なんて我が目で見ることはできないから、妄想の世界で確かめるしかない。 葬列に誰の顔が見えるか、誰が来なかったか、誰が泣くだろうか、俺のことをなんと噂するだろうか、なんて考えることには一種の楽しさがあった。

僕が死んだら・・・
まず遺体を焼いたあとの灰を2等分する。 それから半分の灰を水色の袋に、あとの半分はあずき色の袋に入れる。 そして水色の袋はふるさとの日本海に、あずき色のは、僕が愛したはるかかなたの地中海に、撒(ま) いてもらいたいと思う。
望みはそれだけではない。
僕の通夜(vigil) にはみんなで陽気なパーティをやってほしい。 酒を飲みながら旨いものを食べながら、古い話をすることだ。 その時に流れる音楽は、シューベルトの弦楽四重奏 《死と少女》 で始めてもらいたい。

シューベルトが不治の病を宣言されたあとにこの作品が作られたという話は、どこまでが本当なのか分からないが、全楽章を通して漠然とした不吉な予感のようなものが重い霞のように満ちていて、若い作曲家にまちがいなく 「死」 が影を落としていたように感じられる。 とくに第2楽章のバリエーションは病的で、陰鬱で、そして美しい。





通夜の夜が更けるにつれて、音楽はジャズへと変わっていくだろう。 それからロックへ、フラメンコへ、シャンソンへ、タンゴへ、そして島倉千代子さんの歌も忘れないでそのなかにいれてほしい。

そして明けがた近く、いつか楽しいパーティの果てる時が来て、ひとりふたりと仲間が抜けていく時に、もう1度 《死と少女》 で締めくくる、というのはどう思う?




死ぬことをできるだけ遅らせるために
私は生きていろいろなことをする。
辛いめにあったり
あやまちを犯したり
危険に飛びこんだり
人に与えたり
失ったり・・・
Anais Nin




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猫と少年

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猫のいる風景
Seguret, France


夢の中でわたしは1匹の雌猫になっていた。
住んでいるのは南フランスの葡萄畑に囲まれた、小高い丘の上の小さな村である。 今朝もわたしは朝早く起きだすと、石造りの家の小さな穴から抜け出してきてあたりを散歩する。 あちこちの近所の猫たちが集まってきて、人も車も通らない早朝の路上でゴシップの報告をしあっているのは、いつもと変わらない風景だった。 たいていの場合はそれぞれの飼い主への不満をこぼしている事が多い。 中に1匹、透き通るような黄金色の眼と完璧な毛並みをもった美しいシャム猫がいて、彼がかなり遠くの家からわざわざ毎日ここにやってくるのは、どうもわたしがお目当てらしい。 今朝もわたしを見ると尻尾(しっぽ) を立てて体をすりよせてきた。 わたしは彼の自信に満ちた横柄な性格があまり好きでないのだけど、美しい彼がそばにくるとつい胸がどきどきしてしまうのは、自分がこれといって取り得もなく素性もしれない雑種の子だからかもしれないと思う。

ゴシップの嫌いなわたしはいつものように早めに群れを離れる。 シャム猫のプレイボーイ君がついてこようとするのを振りきって、わたしはひとりで散歩をした。 石塀の上に跳び乗ってみると、眼下に、ゆるやかな起伏をくり返しながらずっと遠くまで続く葡萄畑が、まだ弱い朝の光をせいいっぱい満喫しているのが眺められる。 まわりの家々からは、起きだしてくる人間たちが窓のシェードを開けたり、コーヒーを炒ったりしている音がかすかに聞こえてきて、わたしは日溜まりの石の上で丸くなる。
すべて、いつもと変わらない静かで平和な新しい1日の始まりだった。

わたしたち猫族は9回まで生まれ変わることを許されているから、今のこのフランスの片田舎での暮らしは、わたしにとっては6回目の人生、いや猫生となる。 ここの前はパリのアパルトマンで初老の女性と暮らしたり、その前は中国の安南省で商人の家に、その前はギリシャのクレタ島で野良猫だった、というぐあいに世界のあちこちに出没した。 (わたしたちは生まれ変わる以前の生を決して忘れることがない)。
でも他のどんな生よりも一番記憶に強く残っているのは、わたしが猫として最初の生を受けた時のことだろう。 といってけっしてそのあとのわたしの生が惨めで不幸だったわけではない。 (もっとも中国の安南省では、飼われていた家から盗まれて、もう少しで食べられそうになった、という恐ろしい経験がわたしにはあった)。
最初の生のことがこんなに強くわたしの心に残っているのは、きっとそれが自分の母と暮らすことのできた唯一の生だったということと、あの時わたしを可愛がってくれた少年との別れが、とてもとても悲しいことだったからだろう。

それは日本という小さな島国の 「山陰」 と呼ばれる地域で、海と山がびっくりするぐらい近くにくっ付いている小さな町だった。 わたしの母がまだ幼いころ、近所の路地をうろうろしていたのを、クリクリ坊主の小学生が拾って家に連れて帰ったのだった。 その少年は両親との3人暮らしだったが、兄弟もない寂しがり屋の少年はわたしの母をことさら可愛がったようだ。 母もこの少年を愛して、毎日少年が学校から帰ってくるのが待ちきれず、玄関に飛んでいくと長い尻尾をピンと立てて少年の足に身体をすり付けて甘えた。
母が夜眠るのはきまって少年の寝床の中で、少年の胸に身体をくっ付けて寝た。 そしてその母がしばらくして、わたしたち5匹の子猫を生んだのも少年の寝床の中でだった。 朝になってそれを見た少年の母親が呆(あき) れて、血のついたシーツや少年のシャツを始末したそうだ。 それからは物置になっている部屋に籠が置かれて、それがわたしたち一家の巣に決められた。 それにもかかわらず、毎夜、少年が寝床に入る時間を見計らって、母はわたしたちを1匹づつ口にくわえて少年の寝床まで運んだものだ。 5回繰り返して。 そして朝になると、見つからないようにそっと子猫たちを籠に返すのは少年の仕事だった。

わたしたち5匹の兄弟は母親に似てみな黒い毛皮に覆われていて、それぞれが違うのは尻尾の形だけだった。 短く切れているのや、長くて真っ直ぐなのや、折れ曲がったり捩れたりしたのや、いろいろあって、その尻尾の形で少年は子猫たちを識別していたようだ。 やがて、わたしたちのくっ付いていた眼が片方ずつ開いていくころ、兄弟たちは1匹ずつ他所(よそ) へ貰われて行き、最後にわたしだけが残る。 わたしに貰い手がなかったのは、わたしの長い尻尾が2箇所で異様に折れ曲がっているためだ、ということはあとになって母が教えてくれる。 わたしはそんなことはちっとも気にならず、優しい母や少年といっしょに暮らせることですごく幸せだった。 やがてわたしの身体はどんどん大きくなってゆき、もう、ひとりで家の外を歩き回ることも、飛んでくる昆虫をすばやく捕まえることもできるようになっていた。

そんなある日、冒険心を起こしたわたしはいつになく遠出をして、路上で車にはねられてあっけなく死んでしまう。 少年は帰って来ないわたしをいつまでもいつまでも待ち続けて、近所中を必死になって探し回ったに違いない。
短い一生ではあったけど、そのあとわたしが何回か生まれ変わったどれよりも、幸せな一生だったような気がする。 そしてわたしは、よく少年のことを考える。 あのクリクリ坊主の少年は今はどこでどうしているのだろう?
いつかまたどこかで巡り会うことがあるのかしら、と思う。 いや、もうどこかで知らずにすれちがっているのかも・・・・



男というものは猫のようなものだ。
追いかければ逃げてしまうし
じっとして無視をすれば

ごろごろと喉を鳴らして
足もとに寄ってくる。
Helen Rowland

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2月のクイズの結果は・・・

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Musée du Louvre
Paris, France


19人の解答者の全員が正解だったのには、ちっとも驚きませんでした。
僕のブログの読者の平均的知的レベルが極端に高いのは、ふだんから身に沁みているので。
抽選の結果、今月の当選は ayacco さんに決定です。


ayacco さんおめでとう。

住所氏名を非公開コメントにして送ってください。
お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のないばあいは棄権とみなして次の方を選びます。

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ふくろうと出逢った日

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ふくろう
Boston, Massachusetts USA



1970年代の僕は、妻を失い、音楽の道をあきらめ、滞在ビザもすでにきれていながら、日本へ帰る気持ちはまったくないままに絶望的な毎日を過ごしていた。 帰るべき祖国はすでになく、行くべきところもなかった。 僕はよくボストンの街なかを自転車で疾走しながら、交差点にくるとスピードをさらに増して、襲ってくる車に打たれて死んでしまうことを半ば期待する、というような自虐的なギャンブルを平気でやっていた日々だった。
そんな僕にとってたったひとりの友達は古いニコンFだった。 それを手にしてボストンの町をうろつきながら、目に入るすべてのものを写真に撮りまくった。 カメラのフォーカルプレーン・シャッターが、カシャッと小気味よく切れるときの音が、どれだけ僕の心を慰めてくれたことだろう。 その音は、泥沼に沈んで喘いでいる自分に、口移しに息吹(いぶき)を送りこんでくれる天使の唇のようなものだった。 そして僕は、その音を聞くためにだけ写真を撮り続けていたような気がする。

そんなある日、ボイルストン・ストリートの交差点で僕はこのふくろうと運命的な対峙(たいじ) をすることになる。
ぼんやりと佇んでいた僕のそばに1台の車が停まり、開かれた窓の中から1羽の鳥が僕の顔を凝視していた。 僕の心の底まで見透かすような激しく冷徹な凝視だった。 一瞬たじろいだあと、僕は反射的にカメラを持ち上げて数枚の写真を撮る。 次の瞬間に信号が変わり、まるでお伽の国から湧いてきたような不思議な黒い車は、ふくろうを乗せたまま僕の視界から去っていった。
ふくろうの眼に加えて、もう一つの 「眼」 がそこに写されているのに気づいたのは、あとでフィルムを現像した時である。

***

それからずっとあとになってインターネットの世界が到来して、僕も自分のサイトを持ち、そこへ数百枚の写真を載せていた。 その中でこの 「ふくろう」 に最多数の六万人の閲覧者があり、プリントが売れた枚数もいまだに最多数となっている。 またアメリカを始め、イタリア、ロシア、中国などの写真サイトでは、「ふくろう」 が起爆剤となって僕の一連の作品を特集してくれたこともあった。 このふくろうの眼が見通してしまったのは僕の心だけではなかったようだ。
それだけではなく、「ふくろう」 は出版された僕の写真集の表紙になったり、個展のポスターになったり、このブログのアヴァターにまでなって、いつも僕といっしょにいてくれる。 そしてあの二つの鋭い眼で僕の心を睨み続けてくれるのである。




樫の枝にとまる年老いた賢いふくろうは
ものごとを見れば見るほど、話さなくなり
話さなくなればなるほど、耳をすませて聴いている。
なぜ我々はそうなれないのだろう?
作者不詳



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イタリアの旅 フェッラーラ (2)

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間抜けな鵞鳥
Ferrara, Italy


フェッラーラは我がベースキャンプのボローニャから車で北に50キロ、ヴェネツィア行きの汽車に乗れば途中下車する位置にあって、町としては大き過ぎず小さ過ぎず、歩き回るには絶好の、僕好みの町だった。
この町へ車で到着したのはちょうど昼時だったので、まず何か食べようということになった。 僕らは地図を手に同行のM夫人 が前から下調べしていたあるレストランを探していた。 ようやく見つけたそのレストランは古いポルティコの下にあって、僕ら4人はパスタと地元ワインの優雅なランチにありついた。 M夫人の緻密なリサーチのおかげで僕らはいつも余分な労力を使わないですむ。 ここでもいまさらながらに彼女に感謝をしながら、美味しいロゼで乾杯をした。

“L'oca Giuliva” というのがこのレストランの名前だった。
「どういう意味なの?」 とM夫人が尋ねたので (彼女はフランス語をしゃべるけどイタリア語はだめ)、 Giuliva (まぬけな) Oca (鵞鳥) と彼女には直訳したけれど、実は英語で言う “Dumb Blonde” (頭のカラッポな金髪美人) と同じような意味があるようだ、ということは彼女には言わなかった。
彼女は美人でしかも見事な金髪の持ち主なのだった。

***

ダム・ブロンド(Dumb Blonde)についての余談・・・
まず、ブロンド(金髪)という英語は男性(blond) と女性(blonde) ではスペルを違えるのが普通のようだ。 だからダム・ブロンドは金髪のしかも女性ということだから、人前でうっかり出してしまうと大変なことになる。 それにもかかわらず主として男性間で交わされるこの言葉は、アメリカ人が愛するジョークのコレクションではトップにくるだろう。
マリリン・モンローの 『紳士は金髪がお好き』 ではないけれど、アメリカ男性は昔から金髪女性に目がない。
また同じブロンドでも色あいによって、ペール・ブロンド、ストロベリー・ブロンド、サンディ・ブロンドなどがある。 しかし僕に言わせれば、世界中でもっとも美しい金髪の持ち主はスカンジナヴィアの女性だと思う。 そして、さらに言わせてもらえば、そのブロンドよりもはるかに魅力的なのは燃えるように神秘的な赤毛(Red Head) だと思うのだけれど・・・

そんなわけだからブロンドの女性は金髪だというだけで充分に男性の注目を集める、というところから、頭のなかがカラッポなくせに(あるいはカラッポでなくても) 金髪と素晴らしい容姿で男性を魅了する女性を、羨望と皮肉を合わせ含めて 「ダム・ブロンド」 と呼ぶようになった。 マリリン・モンローは本人の意思に反して、よってたかってダム・ブロンドとしてセックスシンボルの神話にされてしまったところに、彼女の悲劇があった。

我が旅仲間のM夫人は知性に溢れる女性にはまちがいないが、その彼女が何かで失敗をすると、「ごめんなさい。 私ってホントにダム・ブロンドだから・・」 などと言うのを時々聞いたことがあった。

『イタリアの旅 フェッラーラ (1)』 へ


誰かといっしょに不幸せになるより
独りぼっちの不幸せのほうがまだましよ。
Marilyn Monroe




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陰翳礼賛 その二

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陰と影
米子市 渡部邸


日本の友人が送ってくれた谷崎潤一郎の 『陰翳礼賛』 はなかなか味わい深い本だった。
実は僕は2月ほど前に同じタイトルでブログの記事を載せているが、そのときはまだこの本を読む前のことだった。 それで谷崎潤一郎が感じるのと似たようなことを、僕ははるか異国の古代ローマの遺跡の中で感じていたのは、やはり自分には好むと好まざるとに関わらず日本人の血が流れているのだろうと思ってしまった。 同時に思ったのは、現代の日本の若い世代の人たちにはこんな感覚はもう存在しないのだろうか、それとも彼らがいつか年齢を重ねていったときに、あらためて古い日本的なものに気づいてくれるのだろうか、ということだった。

谷崎はつぶやく。
『われわれは、それでなくても太陽の光線の入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を附けたり一層日光を遠のける。 そして室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。 われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。 われわれは、この力のない、わびしい、果敢(はか)ない光線が、しんみり落ち着いて座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る 』

『書院の障子の白々としたほの明るさには、ついその前に立ち止まって時の移るのを忘れるのである。 まことにあの障子の裏に照り映えている逆光線の明かりは、何と云う寒々とした、わびしい色をしていることか。 庇(ひさし)をくぐり、廊下を通って、ようようそこまで辿り着いた庭の陽光は、もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、ただ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない』


また、同書の 『恋愛及び色情』 のなかでは、女性への憧憬を死ぬまで持ち続けた谷崎が、日本家屋の美しさだけではなく、日本女性の美も 「陰翳」 のなかでほのじろく生きてくるのだ、と自信を持って述べている。 東洋の女性は、姿態の美、骨格の美においては西洋に劣るけれども、皮膚の美しさ、肌理(きめ) の細かさにおいては彼らに優っている、と前置きしたあとで
『西洋の婦人の肉体は、色つやと云い、釣合いと云い、遠く眺める時は甚だ魅惑的であるけれども、近く寄ると、肌理(きめ)が粗く、うぶ毛がぼうぼうと生えていたりして・・・』 と不満を表したあと、
『つまり男の側から云うと、西洋の婦人は抱擁するよりも、より多く見るに適したものであり、、東洋の婦人はその反対であると云える』
『これは畢竟、源氏物語の古えから徳川時代に至るまでの習慣として、日本の男子は婦人の全身の姿を明るみでまざまざと眺める機会を与えられたことがなく、いつも蘭燈ほのぐらき閨のうちに、ほんの一部ばかりを手ざわりで愛撫したことから、自然に発達した結果であると考えられる』

谷崎は外国女性と比較して日本女性の肉体を賞賛しているわりには、日本女性の精神的な内部にはほとんど触れていない。 たぶん彼は欧米の女性に恋をした経験がないのではなかろうかと思う。 だから彼には女性の精神的な面を比較のしようがないのだろう。
僕にとって日本女性が美しいと感じるのは、谷崎の言うような肌の肌理(きめ) とか体を掴んだときのぎゅっと引き締まった充実感だとかの、肉体的なことだけではなくて、なによりもその心の肌理(きめ) の細やかさだと思う。
そしてそれは、白日の光に晒(さら)されて人を魅了する種類の美しさではなくて、陰翳の中の障子にあたる光のように、ひっそりと僕の心に沁み込んでくる美しさだった。

ちなみに、僕が以前に書いたという 『陰翳礼賛』 はこちらです。

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2月のクイズ

110220



ここはどこでしょう?

たぶん易しすぎるクイズでしょう。そのかわり・・・・
今回は以前に僕のクイズに当選した人にはご遠慮いただきたい、と思うのです。
抽選という形で毎回公平で残酷な選択をやっている僕ですが、今回は新しい人たちに希望を差しあげたい。

正解者の中から抽選で1名の方に、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい

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歳をとったのかなあ

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歳をとったのかなあ、とこのごろ思うのは、

・ マテニーが昔のように超ドライで飲めなくなったとき
・ 立ったままで靴下をはくときに片足でバランスがとれずよろめくとき
・ 運転中に大胆な追い越しや割り込みをしなくなったとき
・ 心の優しい醜女に魅力を感じたとき
・ 自分ほどテニスのうまくない30代の男性にシングルスで負けたとき (悔しくて夜眠れなかった)
・ 30年前に絶交した友の顔を懐かしく思い出すとき
・ 女性のヌードを見て純粋に芸術的に美しいと思うとき
・ しょうもないメロドラマを見て涙が溢れそうになるとき
・ 起ち上がるときに思わず 「よいしょ」 と声をかけているとき
・ 自分の容貌や服装が以前ほど気にならなくなったとき
・ 雲の流れや月の満ち欠けを時間をかけて眺めているとき
・ 自分の子供たちと電話で話しているときの声が以前よりも優しくなっているのに気がついたとき
・ 英語でファックとかシットとか汚い言葉を発言する回数が減ってきたとき
・ はらわたがちぎれるように怒っているのにニッコリと笑えるとき
・ 医者が次回の健康診断の予約を1年先に取ってくれたときに、それまで生きていたら、と冗談で答えたとき
・ パーティですご~く魅力的な女性が自分に強く関心を示しているのを軽く受け流せたとき
・ 老成した作家の名作が自分の歳より若いときに書かれたことを発見したとき

考えればまだまだいっぱいありそうである。

ある年齢に達した女性には魅力が無い (charmless) と、男性が思うのは悲しいことだ。
しかしそれよりももっと悲しいのは
ある年齢に達した男性は無害 (harmless) になる、と女性に思われることだ。
Oscar Wilde




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奇妙な美しさ

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捨てられた椅子
Dayton, Ohio USA


いつの頃からだろう? 壊れたものとか不完全のもの、失われてしまったものなどに強く惹かれるようになったのは。
朽ちたルイン(廃墟)に囲まれていると、もう失われてしまった昔の栄華が、まるで亡霊のように空気の中に漂っていて、そこに立つ者に言いしれない哀感を送ってくるような気がする。 崩れた壁、風化した瓦礫、背よりも高く密生した野草、うち捨てられた家具、手のもぎれた人形、錆び果てた金属。 そんなものになんとなく美しさを感じるのはなぜだろうか、と思う。

見事に完成されたものはそれ自体が美しい。 だけど、ついに完成されることのなかったものや、一度は完成されていながら没落したもの、破壊されてしまったものには不思議な哀しい美しさがある。

ものが完成されると、そこで時間がピタリと止まってしまう。 それはひとつの死のようなものだった。 完成されてしまったものは、いつか壊されるのを静かに待っているだけのように見える。 それにくらべると、完成されないもの、壊されてしまったもの、いや、完全に形を失ってしまったものでさえ、みな流れる時間のなかで我々になにかを訴えながら 「生きて」 いるように僕には思える。 それがきっと僕を惹きつけるのだろう。



明朝の壷はデザインも仕上がりも完璧だから、それだけで美しい。
ところがそれは写真の世界では通用しないようだ。
なにかしら未完成でなにかしら奇妙なところのない写真は、
単にきれいなものの模写に終わっているから、惹かれるということがあまりない。

John Loengard






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アンナのバレエシューズ

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アンナのバレエシューズ



数年前のこと、アンナ・レズニック(Anna Reznik) がシンシナティ バレエの新しいプリマとして赴任してきたので見に行かないか、とバレエ通の友人に誘われた時、僕は笑われるのを覚悟で「アンナ・レズニックとは何者?」と聞いていた。

僕とバレエとの関係は、ずっと昔の20代の東京時代までさかのぼる。その頃バレエ ダンサーと結婚していた僕は、妻を通じてかなりどっぷりとバレエの世界に入りこんでいた。バレエの公演にしょっちゅう行ったり、妻のバレエ仲間との交友も多く、時には僕は稽古場で踊り手のためにピアノを弾いたりもしていた。それが妻との結婚が終わりになってしまったあとは、僕は長いあいだバレエからも遠ざかってしまっていた。なんとなく、思い出したくないことがバレエにはいっぱい詰まっていたからにちがいなかった。その僕が最近になって再びバレエを見に行くようになったのは、アメリカのこに地域に越して来てから知りあったあるバレエ狂の夫妻のおかげだった。

彼らのの説明によると、僕がアンナ・レズニックの名前を知らないのも無理はなくて、一般にはそれほど知られていないけれど、ダンサーや批評家たちの間では最近高く評価されて来ている踊り手なのだそうだ。ロシア生まれ。ボルショイ・バレエ・アカデミーで少女のころから8年間みっちり鍛えられたあと、ヨーロッパのあちこちの一流バレエ団で経験をつんで来た。同じくダンサーのアレクセイ・クレムネフと結婚をしたあと、ふたりはアメリカに渡り、シンシナティ・バレエに夫婦ともども迎えられた。

シーズン初めのある夜、シンシナティのアロノフ劇場でアンナの演ずる『ジゼル』を観た僕は、即座にアンナに惚れこんでしまった。ロシア派の完璧で厳格なテクニックは往々にしてその奥にある心情的なものを抑圧してしまう傾向があるのを知っていたけれど、その夜のアンナの演技は完成されたテクニックを超えて、ジゼルの可愛らしい性格が前面に滲み出てくるような、素晴らしいバレエであった。彼女のように、踊り手と役者の両方を兼ね備えているダンサーはそんなに多くはいない。ましてシンシナティのような地方のバレエ団には珍しかった。
公演のあと、僕は劇場のボックス・オフィスに直行して残りのシーズンのチケットを全部予約していた。

それから3年間、僕らはアンナとアレクセイのペアの踊りを見続けて、見るたびにますます好きになり、ため息をつきながらふたりのパ・ド・デゥを見ていたのだけれども、その段階では僕らはただの熱烈なファンに過ぎず、公演後のカクテル・パーティに出席してもシャンペンを飲みながら遠くからアンナとアレクセイを見ているだけだった。

それが4年目になって、先ほどのバレエ通の友人を通して知り会ったクローディアという、若い頃にシンシナティ・バレエのプリマをやっていた女性が、子供のためのバレエのスタジオを開設する時に、その運営を手伝って欲しい、という話が来たのである。運営を手伝うといっても実際には我が Green Eyes が舞台の小道具の絵を描くことと、僕には公演のポスターやプログラムのための写真を撮るというそれだけの事であった。でも驚いたのは、その新しいスタジオにアンナ・レズニックが友人のクローディアのために、子供たちの先生として来るということになっていた。それで僕はアンナと個人的に近々と接するようになったのである。
芯が強いけれどふだんは口数の少ないアンナが、ロシア語なまりの英語で教えるレッスンを僕は何十回と見たが、教師としても一流で、とくに子供達への強い愛情が、厳しい言葉のなかにいつも滲み出ていた。レッスンのあとにコーヒーを飲みながら、6歳からロシアで始めたバレエのことや、モスクワでの長い修練の時代の思い出を、ぽつぽつと語る彼女の話を聞いていると、一つのことに賭けることのできる人生は、なんとすばらしいのだろう、と心から羨ましくなった。

そして4年目の終わりに、アンナとアレクセイはいきなりシンシナティ・バレエを辞めてしまう。
その理由はテレビや新聞でいろいろと取り沙汰されたが、本人たちの口からはついに何も聞く事ができなかった。バレエ団という大きな営利団体の中で、ダンサーとしての芸術の理想と、団体側のビジネスとしての利害が相容れなかった、のが原因だったということに間違いはないと僕は思っている。
二人が去ったあとのシンシナティ・バレエは、僕らも含めて会員が半減したと聞いている。

最後のお別れのパーティで、アンナは僕が所望した彼女の古いバレエ・シューズを僕に贈ってくれて、僕の両頬にキスをすると黒い大きな瞳で僕を見つめて微笑しながら言った。
“We had a good time.”

そうなんだ。本当に、
“We had a good time.”


Anna Reznik

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バレエは純粋に女性だけのものだ。
バレエとは女性そのものであり、美しい花の咲き乱れる花園である。
男性はその花園の庭番にすぎない。
George Balanchine




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アイス・ストーム

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樹氷
Dayton, Ohio USA



アイス ストームという言葉は日本では聞きなれないかもしれない。 ストームといっても大吹雪になるわけでも雷鳴が轟いて豪雨になるわけでもない。 アイスストームは静かに音もなくやってくる。 まるで悪魔の吹く口笛のような不気味な風音とともに。 そしてそえれはどんな激しい嵐よりも、もっとずっと恐ろしい。
雪が解けたり雨が降ったりしたあとの地面が濡れているときに、気温が氷点下に下がり、身を切るような冷たい風が吹き荒れると、すべての地面が薄い氷のレイヤーで覆われる。 レイヤーの厚みはほんの5ミリほどしかないのだが、これが石のように硬い氷なのだった。 アイススケートのリンクを思い浮かべればいちばん早いかもしれないが、我々が住む現実の世界はリンクのように水平で真っ平らな地面ばかりではない。 我が家の裏木戸へ抜ける通路のように、地面そのものに凹凸がある場所もある。 そんな箇所は、オーバーな表現でなくほんとうに一歩も歩けない。 たとえ平らな地面でも、ほんの少しでも勾配のある坂になると、登るのは絶対に不可能だし、降りるのは自殺行為にひとしかった。

我々の住むアメリカ中西部がこのアイス ストームに襲われた。 その日は明けがたの気温が零下20℃まで下がっていて、シカゴをはじめすべての飛行場が閉鎖されたのは、天候のせいで飛行機が飛べないのではなくて、滑走路が滑るから飛行機の離着陸が不可能のためだった。
我々住民の状態はというと、うちのように一戸立ちの車庫に入れられている車は問題ないが、路上に駐車された車は窓の全面にビッシリと氷が張付いているだけではなく、硬く凍りついたドアは開けることさえできない。 ハイウェイや町中の主要道路には大量の塩が撒かれるので、なんとか車を操ることはできても、こんな日に外に出ようとするのはなにかしら強い理由を持った人々にちがいない。

僕がそのひとりだった。
ゆるい下り坂になっているわが家のドライブウェイに車を車庫から出すと、なにもしないのに車はそのまま僕を中に乗せたまま、するすると傾斜を10メートルほど下って表の道まで滑り出していった。 もしそこにほかの車が走ってていれば立派な衝突だったろう。 そこまでして僕が危険を冒している理由は、アラビアのロレンスではないが 「塩」 が必要だったからである。 「塩」 さえ撒いてやれば妻も裏のコミ置場まで歩けるし、犬たちも中庭に出てずっと我慢していた用がたせるし、息子は毎日そうするように、ポーチに置かれたサンドバッグを叩いたり蹴ったりして体を鍛えることができる。 そのうえ、毎日午前10時半にやってくる郵便配達の女性も、なんとか玄関の郵便受けまで辿りつける。 いつも親切な彼女には、わが家の玄関先で転倒してその金髪の頭を打って死んで欲しくなかった。

そんなわけで、僕は自分の命をかけて、一族を外敵から守る古代の勇者のように勇敢に外の世界へと出ていったのだった。
ふだんなら車で5分とかからないところを、15分も車を滑らせながら着いてみると、その店では 「塩」 は一袋も残さず売り切れていた。 そこからさらに30分かけて行った2軒目の店で、アラビアのロレンスはやっと 「塩」 を手に入れることができた。

それから数日たって気温が上がり、朝から日が照って生温い風が吹くようになると、地面を覆っていた雪も氷もすこしづつ解けていって、やがて嘘のように消えてなくなってしまう。 そしてこのアイス ストームが最後にわが家に残していったのは、玄関脇の二本のモミジの木に、花盛りのように輝く樹氷だった。


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てんとう虫の話

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Ladybug (てんとう虫
Oakwood, Ohio USA



僕には人間の友達はそんなに数が多くないのに、動物にはなぜか好かれるらしく (人間には嫌われるという意味ではない。 念のため)、あちこちに動物の友達を持っている。
たとえば、バイクに乗っていつも通る近所の家の、ゴールデン・リトリーバーの犬がそうだ。 広大な庭のどこにいても遠くから僕を見つけてワンと短く吠えて疾走してくると、木柵の内側に両手をかけて尻尾をちぎれるように振りながら僕を待っている。 僕はバイクをそこで止めると、「いい子だ、いい子だねえ」 と言いながら手を伸ばして彼女の(そう雌犬なのだ) 頭や首すじや背中を撫ぜながら目を見つめ合っていると、お互いの気持ちが暖かく通じ合うのを感じる。 ある時、そこにいわせた犬のオーナーの若い女性に名前を尋ねると (もちろんオーナーの名前ではなくて犬の) イヴァだと教えてくれた。
「今度イヴァにビスケットをあげてもいいですか?」 と僕が訊くと
「もちろん構わないわ。でもいつもあなたが通るのを待っているのに、そんなことをしたらこの子ますますあなたに夢中になるんじゃないかしら」 と笑って答えた。
それからはバイクに乗るたびに、ピスケットを1個ポケットに入れて出かける習慣になった。それでイヴァと僕の交友はますます緊密になっていった。 ときどき彼女の姿を見かけないことがある。 おそらく屋敷の中に入っているか、散歩に行っているかだろう。 そんな時、僕はデートにすっぽかされた若者のような失望感を感じてしまうのである。

それ以外の動物の友達では、いちばん長い付き合いはこのてんとう虫 (ladybug) の佐伯さんだった。
佐伯さんが我が家の同居人になってからもう2年以上は経っている。 なぜ、この2ミリもない小さな虫が佐伯さんかというと・・・
むかし学生時代のフランス語のクラスに佐伯さんという、双葉かどこからか来たすごく上品で楚々としたお嬢さんの女子学生がいた。 胸元にフリルのついた白いブラウスにタイトスカート、というような服装で大学に来ていたその佐伯さんを、僕はあるときデートに誘いだすことに成功して、いっしょに新宿御苑の桜を見に行ったことがある。 うららかな春の日曜の朝に僕の前に現われた佐伯さんは、学校で見るおとなしくてシックなお嬢さんとはまったく別人だった。
濃いめの化粧、鼻をくすぐる香水の香り、踵(かかと) のうんと高い靴(そのため僕よりもすこし背が高くなっていた)。 そのうえパラシュートのように裾の大きく広がった艶(あで) やかなスカート姿で、(その下に、ペチコートなるものを着けていたのだとは後年になって学んだ) その燃えるような真っ赤なスカートにはテニスボール大の無数の黒点が散らばっていた。 あっと驚いた僕はすっかりドギマギしてしまった。 並んで歩きながらいろんな話をしたそのデートはとても楽しかったけど、それ以来てんとう虫を見るとあの日の佐伯さんを思いだすのである。 (佐伯さんは大学を卒業するのを待ちかねたようにかなり年上の外交官と見合い結婚をして、ベルギーに行ってしまった)

その佐伯さんがいつの頃からか夜になると僕の机の上に現われるようになり、一晩中あちこちを歩き回る。 重い本を置いたりするときに、彼女を潰してしまわないように気を使わなければならなかった。 何日も、あるいは何週間も姿を見ないかと思うと、ある夜に突然飛んで来て僕のシャツの胸に留まったりする。 家族に言わせると、いつも同じてんとう虫だとは限らないと異議を唱えるけれど、1匹以上を同時に見たことがただの一度もないので、我が家には佐伯さんだけが生息していることに僕はかなりの確信を持っている。 そしてもう2年以上も、机に向かう僕の良き相棒を務めてくれているのだった。

きのうの朝のこと、シャワーを浴びていてふと気がつくと、シャワーカーテンの内側に佐伯さんがポツンととまっている。 考えてみるともう何ヶ月か彼女を見ていなかった。 彼女を水で流してしまわないように注意深くシャワーを終えた僕は、指先に佐伯さんを拾うと、サンルームの明るい光の中に布をおいて、その上に彼女をそっと放す。 そして彼女の写真を撮った。
いつもなら、その小さな体にしては驚くほどの速度で歩き回る佐伯さんが、箱の上に布を敷いた急造のスタジオでじっと身動きすることなくカメラに収まった。 最初の試みに失敗して(マクロなので手ブレしてしまった)、1時間ほどしてまたサンルームに戻ってみると、僕の失敗を見抜いていたかのように、彼女は前の位置から動かないで待っている。 今度は三脚を使って撮りなおした中の1枚がこの写真となった。
そのあと夜になってから、ふと気がついてサンルームを覗いてみたら、佐伯さんはもうそこにはいなかった。


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母と歩いた道

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母と歩いた道
Cambridge, Massachusetts USA


僕が4歳のころだったらしい。
そのころ僕の家族は中国の北京市から南西に130キロ行った天津 (てんしん) という町に住んでいた。 北京で仕事をしていた父が、なぜそんな遠くに家を持ったのかは定かではない。 父の仕事というのは、日本のある大きな輸出入関係の会社の北京支店長としてかなり華々しくやっていて、北京市内に贅沢な私邸を与えられていた。 そして僕が生まれたのも北京市内の大きな病院だった。 それを父があとになって、通勤できる距離ではない天津市に家族を移したのは、たぶん終戦直前の政治的にも軍事的にも何が起こるかわからない状態になってきていた北京から、家族をいちはやく港に近い場所に移したのではないかと思う。 それでふだんの父はひとりで北京で生活をして、ときどき天津の家族のところへ帰ってきていたのではないか、という気がする。

その天津の町である日、4歳の僕は母に手をつながれて道を歩いていた。 その道は我々の家から市街へ出るまでの裏道のようなところだったらしい。 母がうっかりして僕の手を離してしまったのか、あるいは僕が母の手をふり切ってひとりで走りだしたのか、僕はそのとき路上でいきなり転んでしまった。 転んだ場所がちょうど竹林のようなところで、道端にあった切られたばかりの細竹の鋭い尖端が僕の顔に突き刺さった。
母のうろたえようは想像するまでもない。 すぐに人力車を呼んで乗り込むと、母は僕を膝に抱えて近くの病院へ走った。 母の話では、そのとき僕の顔を被った白いハンカチも、母の洋服も、溢れる血でびっしょりと濡れたそうだ。

今でも僕の唇のすぐ右の端にはっきりと残る、縦に走る1センチばかりの切り傷はそのときの名残りである。
ところが、この傷が人相学というか顔相学というのか、その道の人に言わせると非常に良くないらしい。
それを最初に僕に告げたのは、10代の終わりごろ沖縄の離島で出会って恋をした、不思議な力を持つと島民にいわれる少女だった。 その子があるとき僕の顔の傷を指でやさしくなぞりながら 「あなたには辛いことがいっぱい起こりそうな気がする。 かわいそう、この傷がなければいいのに・・・」 と言って僕のために涙ぐんだことがあった。

ずっとあとになって僕が中年になってから、 人相学の権威だといわれる偉いひとに 「現在までにあなたの身に起こったすべての悪いことは、その傷から来ているのです」  と宣告されたことがあった。
そのとき僕が思っていたのは、「だから、どうしろって言うんだよ」 という気持ちだった。 この小さな傷のために一生しあわせになれないと分かっていながら、「なぜ、俺は生きているんだよ」 ということだった。
それにもかかわらず僕は生き続けている。 悪いことはかなりあったけど、良いこともあった。 すばらしいことさえあった。
そして最近になって気がついたのは、なにか良くないことが起こるたびに口の横のこの傷を、指でそっと撫(な)でるという奇妙な癖がついてしまっていることだった。




傷跡には、それが体の傷跡であれ心の傷跡であれ、
何かしらの美しさがある。
傷跡があるということは
苦痛はすでに去り、傷口はふさがり、治癒された、ということなのだ。
Harry Crews




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