過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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2011年03月

四季

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窓の外
Oakwood, Ohio USA



四季が好きだ。
春夏秋冬があるから、人生はおもしろい。
カルフォニアとかフロリダを常夏(とこなつ)の国と呼んで、まるで天国のようにに憧(あこ)がれる人が僕のまわりには無数にいる。 だけど、1年を通して同じ気候なんて生活に変化も何も無くて、つまらないに決まっている。 季節が変わるからこそ、人は花を見たり風の冷たさを感じたり、旬(しゅん)の野菜や魚を食べたり、衣服を変えたりする。 そしてそこに存在する自分の生きざまを思うのである。
僕はこの寒くて長い冬は苦手だけど、その厳しい冬があるから、そのあとに訪れる暖かい春を今か今かと待ち焦がれる。 そして待ちに待ったその季節が、とうとうやって来た時の喜びは、これは常夏の国に住む人には想像もできないに違いない。

季節が次々と巡って行くのに、家の内部では冬も夏もいつもと変わらない人々の暮らしが営まれている。 そして窓の外を 「時」 が確実に流れて行く。 しかし自然に四季があるように、人生にも四季があるのに違いないと思う。
我々もまた、揺れる小船に乗る旅人のように 「時の流れ」 に身をまかせるほかはない。
それは、遡(さかのぼ)ることのできない旅路であり、いつかは終わりのくる船旅だった。



舟唄》  チャイコフスキー






真冬のさなかに、僕はようやく気がついた。
自分の中にまぎれもない夏が存在するのを・・・
Albert Camus


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3月のクイズ

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港町


X月X日
この町はどこへ行っても紺碧の空が背景にあった。
今日は古港の方へ行ってみる。 暖かい日で、波の打ち寄せる岸壁から糸を垂らしている数人の釣り人がいた。 同行の女性たちはそこで見つけた <Bath and Body Shop> へと消えてしまい、あとに残されたKさんと僕はすぐそばの古いカフェのテーブルでコーヒーを飲んでいた。 目の前に開ける風景は 「まるで絵のような」 という陳腐な表現しか言いようがなかった。 それは不思議な光に満ち満ちていた。 過去に数多くのアーチストがこの港町を愛し、ここに住んだり頻繁に訪れたりした理由はこの光のせいだったのだ、と僕は納得した。
遠くの山の上にそびえるのはあのノートルダムの寺院にちがいない。 ネオ・ビザンチン様式の美しい建物がここからでもはっきりと識別できる。 僕らはこのあとそこを訪れる予定になっているのだ。
女性たちはまだ現われない。

***

今月のクイズ。
ここはどこでしょう?

正解者の中から抽選で1名の方に、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい

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祖国ということ

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障子と階段
鳥取民芸美術館


今回の大震災とそれに続く原子力発電所の事故ほど、僕を揺すぶったものはなかった。
地震はもちろん予期せずに襲ってきたのだけれど、それを遠くアメリカから眺めるだけしかなかった僕の反応は、自分でもまったく予想していなかったほど強かった。 アメリカ人たちにとっては対岸の火事でしかなかったのに、僕は自分の家が燃え続けている実感に襲われていた。

20代のころ、こせこせした島国の日本に見切りをつけてアメリカに渡り、新世界で水に帰った魚のように生き生きとした生活を得た、と思ったのはもう40年も昔のことである。 それからいろいろな事があった。 そした長いあいだ、僕は祖国を失った異邦人として生きてきたような気がする。

異変が起こったのはほんの数年前のことだったと思う。 その時僕はアメリカの市民権をとるべく膨大な数の書類をそろえていた。 僕のまわりにはとっくの昔に市民権を取得した日本人が多くいて、宙ぶらりんな永住権だけを持ってアメリカで長く生活をしている僕をいつも不思議そうな目でみていたようだ。 僕が長いあいだ市民権の事を真剣に考えなかったのは特に理由があったわけではなく、そのための煩雑な手続きを考えるたびに、生来の面倒なことを嫌う性格が頭をもたげてきて、いつもつい放っておいた、ただそれだけのことだった。
今の僕の年齢なら市民権は比較的簡単にとることができる。 それで僕はようやく必要な書類をインターネットからプリントをしたりして、手続きを始める事にしたのだった。

書類を全部そろえて送り出してしまうと、あとは移民局からの呼び出しを待つだけである。 数週間たってシンシナティの移民局から連絡が入り、面接の日取りが決められていた。 面接の当日、シンシナティまで1時間ばかりの距離を僕は車を運転しながら、今自分がやろうとしていることを改めて考えていた。

日本人でなくなってしまう・・・・

それは耐え切れないほど悲しいことのように思えた。 若いとき、あれほど嫌ったり避けたりしていた日本や日本人なのに、この悲しみはどこからくるのだろう? 長いあいだ僕を優しく受けとめてくれたこのアメリカには感謝も親愛も感じているのはまちがいがない。 そのアメリカ人に今これからなろうとしている。 しかし僕が最近になって強く自覚していたのは、自分が日本人であることの秘かな誇りのようなものを、僕はいつも持っていた、ということだった。 こうやって長いあいだ異邦の地で暮らすことができたのは、日本という帰るべき祖国があったからだ。 その祖国を、僕は捨てることができるのか?

深いため息が出た。
(おれは結局、どうしようもなく日本人だったんだ)
僕はハイウェイの次の出口を下りると、家に向かって引き返していた。

・・・

そして今回の東北大震災。 それに続く原発の恐ろしい事故。
僕はうろたえてしまった。
あの懐かしい日本の山河が消えてしまう。 帰るべき故郷(ふるさと) がなくなる。
「障子と階段」 の美しい国が壊滅する。
祖国を失う。
(そんなことになったら、おれはどうすればいいのだ?)

祖国日本よ
どうか立ち直ってくれ。



マッチ擦る
つかの間海に霧深し
身捨つるほどの祖国はありや
寺山 修司



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ものを作る喜び (2/2)

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揺りかご


下の子供が生まれた時に作ったマホガニー材の揺りかごは、評判が良くてそのあと友人の子供が生まれた時に同じものを作って贈った。 そのまた知り合いの人達からぜひ欲しいといわれて、さらに二つ製作したが、僕の作ったものが売れたのはあとにも先にもこの時だけである。 普通は揺りかごというと湾曲の脚がついていて、かご自体が揺れるのがほとんどだと思う。 僕のデザインは固定された支柱の間でかごが揺れるというユニークなもので、揺らさない時は支柱の穴に木の棒を差し込んでロックできるようになっていた。

家具の製作年月日などはとっくの昔に忘れているのに、この揺りかごだけは忘れる事がないのは、それは息子と同じ年だからだった。 その息子が今年は28歳になる。 その間、この揺りかごは何度友人たちの家庭へ貸し出されたことか。
少なくとも6,7人の赤ん坊がこの揺りかごで人生の最初の数ヶ月を過ごしたはずだ。


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揺りかごの詳細


この揺りかごは今ではわが家のリビングルームに置かれて、本や雑誌、クッションや毛布などの入れ物になっている。
また、友人を通して知らない人に売った揺りかごには後日談がある。 20年ちかく経ったある日、ボストンの町の骨董屋の店内に自分の作ったこの揺りかごが並んでいるのを見てあっと思ってしまった。 それが中古家具の店ではなくて、れっきとしたアンティークを扱う店だったのと、僕が売った時の10倍の値段が付いていることで、僕は原作者としてのプライドを満足させられた。




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コーヒーテーブル


ある時、木工店でマホガニーの超薄板の切れ端が安く売られているのを見て買い、物置に放り込んだまま忘れてしまった。 何年かあとになってそれを見つけた時に、これは何かに使ってやらないとかわいそうだ、と思って作ったのがコーヒーテーブルだった。 ウォルナット(クルミ材)で本体を作って上面にマホガニーの薄板を嵌め込んだもの。


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ベッド


美術館でシェーカーの家具類を見ていて発想が湧いてきた。 樫(カシ)にするか桜にするか最後まで迷って、すぐそばのタンスに合わせて樫にした。 ばかでかいキングサイズのこのベッドを、引越しの時に運びやすいようにと、簡単にノックダウンして解体できるように作ってある。 そうでなければ古い家屋のドアからは中に入れることができなかっただろう。 柔らかいスプリングのベッドが嫌いな僕は、板の上に厚い布団を敷いてみたらそれではちょっと堅すぎたので、さらにもう1枚の布団を重ねてやったら、世界中で一番寝心地の良いベッドになった。


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ものを作る喜び (1/2)

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カシ材のタンス


僕は一時、木工に凝っていたことがあった。それもすごく凝っていた。
もとはと言えば、ひと嫌い日本人嫌いに徹していた70年代の後半を、僕が自殺することもなしに無事乗り切れたのはあるアメリカ人女性に拾われたおかげだった。 僕らはケンブリッジ市のハーバード大学からそんなに遠くないところにアパートを借りて、ふたりで結婚生活を始めようとしていた。 新しい生活を始めるにあたって、最小限の家具をそろえなけばならない。 ところが家具屋やデパートや骨董屋などで 「これはいい」 思われる家具類はすべて手が届かないほど高価だった。 そして我々にでも買えそうな家具は、デザインも気に入らないし材料も安っぽくできていて、どうしても買う気になれなかった。 といっても家具は必要である。

キッチンの食器棚ぐらいなら自分で作っちゃおう、とその時思ったのが運命の分かれ目だった。 電気ドリルと手鋸で作った食器棚から始まって、本箱、机、と作り続けた。 それからコーヒーテーブルやダイニングテーブルやベッドと、技術的に高度なプロジェクトへ進むころには、テーブルソーやルーター、電動カンナ、ドリルプレスなど、ほとんどの木工用のツールを地下室にそろえていたので、それにかかった費用を考えると、結局は最初から気に入った高価な家具を買ったのとあまり変わらなくなっていた。 さらにそのあとは、居間におくソファや、子供が生まれた時には揺りかご、子供用ベッド、さらに次の子供が生まれた時には二段ベッド、そしてもっとも難しいとされているイス、と要するにわが家にある家具はそのほとんどが僕の手になるものになってしまった。 そしてそれらの家具のほとんどは、30経った現在でもそのまま我が家で使われている。


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タンスの引き出しの詳細


ひとつの家具を作るのには大きく分けて、設計、製作、塗装、の3つの段階がある。
何といっても僕にとって一番楽しいのは最初の設計の段階だった。 実際に木を切断したり溝を彫ったり組み立てたりするのが職人の仕事だとすると、設計は芸術家としての創造だった。 その思考プロセスはちょうど音楽の作曲によく似ていて、何も無いところから自分だけの、自分にしかできない 「何か」 を生み出す、という作業は胸がワクワクするような興奮があった。 僕がこれほど木工にのめり込んでしまったのは、この興奮のためだったのはまちがいないだろう。



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本箱

そして設計が終わって、製作の段階に入ると、これが僕にとってはひとつの修行だった。
だいたい僕は子供の時から何をやっても、腰を落ち着けてじっくりと取り組むという性格ではなかった。 パッと理解して、パッと遂行して、短時間で終了すると、パッと外に遊びに出かける、というタイプだった。 良く言えば手際が良くて速い、悪く言えば、要領が良過ぎて仕事が雑になっているのである。
その点、家具造りというものは段階を一つ一つ丹念に追って行くしかなく、それぞれのステップは省略もできなければ、近道もない。 画家がキャンバスに一筆ずつ絵具を塗りつけるように、じっくりと時間をかけるしかないのである。 もし急ぐと、工具はいつでも危険な凶器に豹変する。 テーブルソーのカーバイド製の刃が凄い速度で回転している、その1センチ離れた位置にいつも僕の指があった。 ふだん常に早道や容易な道を探している僕のような性格の人間にとっては、これ以上の格好な試練場は無かった。

この本箱は同じものを対(つい) で作った。 柔らかく傷付きやすいポプラ材を使って、わざとアンティークの感じをだしてみた。 椿のステンドグラスはそのころ同じ町に住んでいた大隈ゆかりさんの作品。


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リビングルームのタンス


このタンスは思いきり遊んでみようと思って設計した。 マホガニーの本体に、カエデ材(Bird's eye maple) の引き出しを附けてみた。 取っ手もマホガニーである。 モダンな感じを出そうとしたのだが、デザインに関しては賛否両論があった。
設計のきっかけは、ある日材木屋でおもしろい形の大きな節穴の付いたカエデの板を見た時にアイデアが湧いた。


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上のタンスの引き出しの詳細


この引き出しに使った組手(ジョイント) も僕の「あそび」 のひとつ。 アメリカでは Dovetail(鳩尾)と呼ばれるもので、日本では古来、 「蟻組接ぎ」 とか 「蟻ほぞ接ぎ」 とか呼ばれてきた。
いくつかのバリエーションがあって、 Through Dovetail (通し蟻組接ぎ)、Half-blind Dovetail (包み蟻組接ぎ)、Full-blind Dovetail (隠し蟻組接ぎ) など、この順に作成の難度も増してゆく。
このタンスの引き出しは、継ぎ目が正面からは見えないで、側面からだけ見える「包み蟻組接ぎ」である。

(続)


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パリの驟雨

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Paris, France


2005年の4月、僕はパリにいた。
ようやく長い冬の明けたパリの街は、噴き出すような明るい美しさを精いっぱいに見せていた。 「パリの四月」 と口に出してつぶやくと、カウント・ベイシーの軽快なメロディが僕の頭の中でバウンスする。
そんなある日、気持ちの良い晴天の午後に僕は Ponte d’Austerlitz の橋の真ん中あたりに立ち止まって、欄干に肘をつきながらセーヌを見ていた。 カルティエ・ブレッソンがセーヌを撮ったのがたしか1933年ごろだから、72年後の4月の午後に僕は同じ場所に立って同じセーヌを見ていることになる。 美しい風景である。 (写真を撮りたい) という欲望が、喉が渇いたときに水が飲みたくなるように自然に湧きあがってきたけれど、僕はなぜか躊躇していた。 たとえ今撮っても、ブレッソンのような写真が撮れることはない、という気がしたし、それどころか自分の周りでさかんにセーヌにカメラを向けている多数のツーリストのスナップショットとたいして変わらないだろう、という自信のようなものもあった。 僕はあきらめてそこを離れると、橋のたもとのカフェに入って軽い食事をした。

食事を終えてエスプレッソを飲んでいる時に、いきなり空が暗くなり、あっという間に雨になった。 もの凄い雨だった。 それまでほとんど客のいなかったカフェが、駆け込んでくる人々でたちまちに溢れ、席のない人たちはバーや通路に立ったままで飲んだり食べたりしている。 僕のテーブルにも若い東欧のカップルが合い席をして、男がびっしょり濡れた女の子の顔や首筋を、タオルで優しく拭ってやっていた。 彼らの注文を取りに来たウエイターが、「この雨はすぐに止むよ」 と英語で言うのを女が何語かで男に告げている。 そしてウエイターの言った通りになった。 目の前の恋人同士がビールを飲みながらダックの薄切りを食べ終わるころには、雨はずっと細く弱々しくなって、そのうちに止んでしまった。

そのとき僕が思っていたのは、あの橋の上にもう一度戻ってみたら、驟雨のあとのセーヌがいつもとは違う顔を見せてくれるかもしれない、ということだった。 そこにはブレッソンのセーヌでなく、絵葉書のセーヌでなく、自分のセーヌが待っているかもしれない。 僕はあわてて勘定を済ませると橋に向かって歩き始めた。 空の一角がもう明るくなり始めていて、その向こうにはすでに青空さえ見えているのに、セーヌの上空は先ほどの暗雲がそのままどっしりと垂れている。
雨に濡れた橋の上はまだ人影がほとんどなく、そこから見るセーヌは、化粧を洗い落とした女の素顔のように素直で清清しかった。
「あなただけに見せるわたしの素顔よ」
シャッターを切るたびに、その美しい素顔がレンズを通過して、魔法の小箱に吸い込まれてゆくのを、僕ははっきりと感じていた。


"April in Paris"   Count Basie




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祈願

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東京富岡八幡宮


日本の原発の危機に関するアメリカ側のニュースを続けよう。
  • MSNBC が会見したニューヨーク市立大学の物理学者で日本人三世である加来 道雄(Michio Kaku) 氏は述べる。 もし彼が今回の日本の事故で指揮をまかされるとしたら、とる方法は一つだけだと言う。 それはチェルノボイルの事故で当時のゴバチョフ首相が取ったのと同じ手段である。 つまり、破壊された原子炉に上空から砂とコンクリートを混合したものを撒いて放射線を遮断するというやりかただ。
  • 日本からロスアンゼルス、ダラス、ニューヨークに到着した旅客機の機体や、乗客、搭載物から放射能が検出された。 しかし人体に影響のあるレベルではなかった。
  • 日本からの放射能は風によって太平洋を渡るあいだに極端に弱められるため、ハワイを含めるアメリカ全土には影響がないことを再三述べている。
  • アメリカ西海岸の各都市ではアイダインを入手する人々が一挙に増えたため、どこの薬局でも品切れになっている。 政府は、アイダインを摂取する必要はまったくないと強調し、逆にその副作用を恐れるためこの薬品を使用しないようにと警告している。 またかなりの数の人たちは市買の放射能測定器(800ドル) を買い始めている。
  • 今朝ほど、日本政府はアメリカに対して、より直接的な忠告と援助を改めて要請した。  そこでアメリカが提起したのは、まさに加来氏が上で述べている、砂とコンクリートの混合物を上空から撒くという方法だ。  しかしこれにも弱点はある。 混合物が貯蔵プールを完全にブロックすることで、その下にある使い捨て核燃料の温度が極度に上がる事だ。
  • 現時点で日本が取ろうとしている、冷却水を供給するポンプの再作動は理想的とはいえないまでも、現在では最良の方法だろう。 しかし心配なのは、原子炉に水を送るパイプが破損していなければ、という大きな仮説がついている。


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ふるさとの山河

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止まれ!



惨事が起きてから1週間が過ぎた。
地震と津波の対処はまだまだ続いておりNHKでは被災地の詳細なニュースが1日中放映されている。 救援物資の調達が大幅に遅れているらしいが、それに対する対策や今後のプランなど、政府側の説明がほとんど無いのは実に不思議な事だった。 アメリカなら担当長官の記者会見でおびただしい質問が報道陣から浴びせられるのが普通である。 それに対するしどろもどろの回答は許されない。 発展途上の貧乏国ならともかく、富裕な日本がそれができないというのは僕には理解することが難しい。

しかし僕が心配しているのは原発のことである。 異常な緊迫感をもって議論されているアメリカと大きくちがって、NHK の報道はいかにものんびりしているとさえ云える。 アメリカで公表されていながら日本のニュースではまだ1度も聞いていない事実はかなりの数にのぼっている。 その幾つかを書き出してみる。
  • 日本からアメリカに到着する旅客機は空港で乗客や搭載物にガイガー測定器を使ってのチェックが事故直後から始まっている。
  • 中国は日本行きの航空便をすべて止めた。
  • アメリカは日本在住のアメリカ市民にできるだけ早く日本を離れるように指示を出した。
  • 被災地で報道をしていたアメリカの報道陣は全員東京に引き上げている。
  • 被災地の60マイル沖に停泊する航空母艦でかなりの量の放射能を測定した。
  • 3号炉の貯蔵プールの壁は最初の爆発で亀裂が入っているとみている。 そこへ水を入れても漏れるばかりだ。
  • 4号炉の貯蔵プールは水がほとんど無いとみている。 そこへ少量の水を注いでも逆効果でかえって放射能の発散をうながすことになるだろう。
  • 今朝のニュースでは、アメリカ政府は日本在住のアメリカ市民を撤去させるための特別機を日本へ向けて飛ばした。
日本では学者連中がテレビに出てきて通りいっぺんの説明をくり返しているようだが、実経験のない彼らの言及は机上の空論という感じを僕は感じないわけにはいかなかった。 それにくらべると、こちらで議論をする科学者や技術者は原発の専門家であり、その多くが過去にチェルノーボイルやスリーマイルアイランドで実際に関与していた。 かれらの意見にははるかに重みがある。 報道者たちにも同じ経験を持つ連中が多いようだった。

アメリカの懸念が極端過ぎるのかもしれない。 そして日本の自覚の低さも極端過ぎるとすれば、その両極端のあいだのどこに自分を置くかというのは我々個人の問題になるのだろう。
アメリカの過激かもしれない反応が、ただの杞憂だったという結果が出る事を、僕は心の底から祈っている。

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通勤

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自転車と二聖人
Budrio, Italy


今回の地震のあとで東京の友人からメールが来た。
仕事先の事務所でいきなり地震に襲われた友人は机の下にもぐりこんで揺れが収まるのを待ったらしいが、そのあと帰宅することにしても電車もバスも動いていない。 彼が何よりも心配したのは当然ながら家族の安否だった。 地上電話も携帯電話も通じない状況の中で彼は自宅に向かって歩き始めた。 2時間半の距離を必死に歩き続けながら、僕と同年輩の彼は気持ちが高揚していて疲れをまったく感じなかったと云う。 そしてとうとう自宅に辿り着いて家族も家屋も無事だったのを確認ができた時の彼の喜びは、メールを読んでいる僕にもそのまま伝わってきた。
その彼がさらに書いている。

「地震の報道を見ていますと、関西大震災の時のような 「地獄図」 という感じがしません。 津波で人も家も消えてしまった町を映していますので、廃墟を見ているだけで、人がいないので地獄に見えないのです。 まるで終戦後の広島の航空写真を見ているような、シルクロードの砂漠に残された廃墟を見ているような気持ちです」

同じ映像をニュースで見る僕に、彼の言葉が云いようのない虚しさを伝えた。

***

イタリアはボローニャの西にあるブドリオという小さな町で出会ったこの二聖人。 ふだんは雲に乗って出勤するのが、天候に何かの異変でもあったのだろう、今日はふたりとも自転車に乗って仕事場まで駆けつけて来ていた。

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日曜の朝

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救援



悪夢のようなこの二日間、僕は日本からのニュースとアメリカ国内での報道との両方を読み続けてきた。 そしてこの両国のメディアの内容に微妙な (時にはかなりの) 違いがあるのに気がつかないわけにはいかなかった。
地震と津波に関してはそれほどでもなかったが、話が原発におよぶと特にその違いが気になった。 その違いはたぶん、例によって歯に衣を着せないアメリカの発言と、国民への衝撃を考慮しなければならない日本の政府や報道機関との違いからきているのだろうと思った。 対岸の火事として眺めるだけの余裕があるアメリカに比べると、当事者である日本にとっては、時にはすべてを公表することは控えなければならないのだろう。

日曜の朝のニューヨークタイムズ紙に掲載された、その道の専門家による寄稿は、今まだ災厄の真っ只中にいる日本にとっては耳を傾ける時期ではないかもしれないが、いずれは必ず問題にされなければならない幾つかの点を提示していると思われる。
その要点を書き抜いてみると、

  • 日本の原子炉は地震に対する考慮が十分になされているのにかかわらず、津波への対策がほとんどされていなかった。今回の事故は強度の地震に耐えた原子炉が、津波による海水のために発電機やバックアップのシステムを破壊され、原子炉の冷却を不可能にした。
  • 第一原子炉の操作に不手際があったのではないか? メインの冷却水が絶たれた時点で、即座に補助の水源に切り替えられるべきであった。
  • 加熱による原子炉の全面的な溶解を避けるために、少量の放射線を発散させるという手段を取るまでに、時間をかけ過ぎたのではないか? 放射線の発散に対する国民への衝撃を避けたいというのが、その理由かもしれない。
  • 突発的な事故に対する暫定的な最良の処置を取る代わりに、完璧な解決法を求めるために、時間をかけ過ぎたり事実の公表を抑える、という結果になった。
  • 発電所の建設場所やその安全管理を、政府は一方的に電力会社にまかせていた。
  • 土曜日に起きた爆発に関しては、避けることのできた事故だと専門家はみている
  • 日本の原子力発電所は建設後40年を経て老朽化している。その安全対策について最新の技術が導入されていたのか? 

とにかく、
現時点では生存者の救済がプライオリティであることには変わりはない。



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雨のふる暗い金曜日

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祈り


それが起こったのはアメリカの東部時間で夜中過ぎの12時46分だった。
その直前まで、僕は階下のテレビでつまらない番組を見ていたのを諦めると、テレビのスイッチを切り、キッチンで冷たい水をグラスに1杯飲んだ。 それから部屋の明りを消して2階に上がっていくと、歯を磨いてそのままベッドにもぐりこんで寝てしまった。

その時、日本では地震が起こっていた。
もう少し長くテレビの前にいたら、おそらく臨時ニュースで知ったに違いないこの惨事を、僕は何も知らないで朝まで眠ってしまった。 日本中がひっくり返っている時に、何も知らないでぐうぐうと寝ていた、という事はなんとなく自分でも許せないことをしてしまったような、実に妙な気分だった。

明けて金曜日の朝にニュースを聞いたあとは、僕は仕事をする気がまったく無くなって、アメリカのメディアが報道するテレビと、日本のNHKのニュースの読めるコンピューターとのあいだを、行ったり来たりしながら暗い一日が過ぎていった。


まだその数さえも掴めない犠牲者の人たちを思うと、僕の胸は痛む。
日本の同胞たちよ、
がんばって立ち直ってくれ。



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「銀の手」 と呼ばれた男

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フラメンコの女
Barcelona, Spain


フラメンコを聴くとなぜか血が騒ぐ。
楽しいとか好きだとか、そんなありきたりの云いかたではもの足りないもっと激しい感情である。 かき鳴らすギターラのリズムが、僕の魂の深いところにあるものをぐいぐいと掴みとるような気がするのだ。 そして打ち鳴らす手拍子はまさに心臓の鼓動そのものだった。 このジプシーの音楽が、知性のレベルを通り抜けて僕の感性そのものを揺さぶるという点では、他のどんな音楽、あのジャズでさえもそういうことはなかった。

初めて 《銀の手》 のギターラを聴いたのは僕が日本を離れてボストンで学生をしていた時だった。 アルバイトで週に数日働いていた日本レストランに、皿洗いをしていたリカルドという名のペルーから来た学生がいて、僕らはよくいっしょに酒を飲んだ。 その彼が僕の誕生日にくれたのが “Manitas de Plata” (1967年) のLPのアルバムだった。 その時は何の疑いも抱かず、《銀の手》 はスペイン出身だろうと思ったら、じつは南仏の地中海のそばの Sete という港町(後年、僕もそこへ行っている)に住むジプシーの一族だった。 彼は子供のころから学校と名のつくものには行ったことがなく、読み書きができないし楽譜も読めない。 そして40代の半ばに世界が彼を発見するまでは、彼の聴衆というのは身内の者たちや近所のジプシーだけだった。 そばで歌ったり手を打っているのは彼の従兄弟であり息子であり甥っ子たちである。 写真で見る彼は、身体に合わないジャケツを窮屈そうに着て、日曜日に教会へ出かける農夫のような感じがした。

モントヤとかセゴビアに代表される一連のギター奏者が持つ、繊細な知性や洗練されたテクニックのようなものは 《銀の手》 にはない。 僕が感じるのは荒々しい生命力のようなものだ。 従兄弟であるホセの歌うガラガラ声にも、ジプシーの喜びや悲しみが凝縮されているような気がする。(実は僕の声に似ていなくもない)。
同じ南仏に住むピカソは彼の音楽を愛した。 スペイン人の血を共有するこの二人の交友は長く続く事になるのだが、そのピカソがある時そばの者に云ったそうだ。
「この男は俺なんかよりもずっと値打ちがあるアーティストだよ」


マニタス・デ・プラタとブリジッド・バルドー





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夢幻の世界へ

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Chihuly Exhibit at Dayton Art Institute
Dayton, Ohio USA


デール・チフーリ(Dale Chihuly 1941~) のガラス細工を見るたびに、そのユニークな色彩とデザインにいつも魅せられていた。 不勉強だった僕は、その名前からてっきりこの人は、ガラス工芸の本場イタリアのアーチストだと思い込んでいたら、ワシントン州で生まれたれっきとしたアメリカ人であった。 そしてアメリカ人として初めて、この蠱惑的な芸術のメッカである、ヴェネツィアのムラーノ島でヴェニーニ・ファブリカの弟子になってガラスの吹き方を学んだのだ。 長い間、僕はチフーリの作品はその幾つかを、偶然にあちこちで見かけただけだった。 たとえばシンシナティ美術館だとかトレド美術館だとか。 またラスベガスのホテル・ベラジオのメインロビーの天井はチフーリの作品で豪華に覆われていた。
それが2001年に、僕の地元の Dayton Art Institute がチフーリの特別展覧会をやった時に、耳飾のような小さなガラス細工から、天井まで届く巨大な彫刻まで、そのおびただしい数の作品をたっぷりと見る機会があった。 それだけではなくて、この美術館に勤務していた妻のおかげで、この片目のアーチストが実際に人を指図して、彫刻を会場に設置するところを見せてもらうことができた。

ずっと後になって、2007年の10月に娘を訪ねてペンシルヴァニア州のピッツバーグに行った時に、チフーリの名前を町中いたるところで見かけた。 たまたまそこのフィップス植物園でチフーリの作品を展示していたのだ。
びっくりするほど高い入場料を払ってこれを見に行ったが、館内に一歩入ったとたんにその不満はきれいに消えていたようだ。 ただの展覧会ではなかった。 植物園という保存された自然の中で、ガラスの彫刻が、あたかもその自然の一部のようにそこここに存在していた。 それは一種不思議な世界だった。 ガラスという人工の無機物が、現実に息づいている植物群から精気を分け与えられて、そこに棲息していた。



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Phipps Conservatory and Botanical Gardens
Pittsburgh, Pennsylvania USA


この植物園は建物自体がすべてガラス張りである。 つまりこれは巨大な温室なのだ。 照明を落された温室の中を歩いていると、密林を思わせる深い植物群にまじって、淡く光を発するガラスの生きもの達が、妖(あや) しい夢幻の世界をそこにくり広げていた。



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仕事をクビになってカアチャンに逃げられた話

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会話
Oakwood, Ohio USA



先日の記事 拷問 に書いたように、僕は腹が減っている時には、すべてのことに対する許容度というか忍耐度がかなり低くなってしまう。 だからそういう時は周りの者たちも、2匹の犬たちまでもが僕を遠巻きにしてそばに来ないようにしているようだ。 だけどそれは極端な空腹に襲われている時だけのことで、ふだんの自分はむしろ許容度はかなり高い人間の部類に入るのではないかと思っている。
人に対してもそうだった。 僕には顔を見るのも嫌だと毛嫌いするほどの人はいないし、昔を思い出してみてもそんな人がいたことを思い出せない。 逆に、周りの人たちにこぞって嫌われているような人でも、僕にはその人なりの良いところも見えて、なんとなく普通につきあってしまう。 また、その嫌われている本人もなぜか僕には心を開いてくれるから、いつのまにか交遊が続いている人は何人かいる。
そういう僕にとっても、どうも苦手で、できたら避けたいというタイプの人たちがいて、そういう人たちとは自然と疎遠になっていくことに後悔は感じない。
それはどんなタイプかというと、1. 自分の話しかしない人、2. ゴシップの好きな人、だった。

自分のことしか話さない人というのはよくパーティなどで見かけることがあるが、ほかの人の話を聴きながらそれをすぐに引き取って、自分自身の話にすりかえてしまうタイプである。 そしてその話というのは何かの形の自慢話であることが多い。(これはどういうわけか男性が多いようだ) そして聴いている我々から、「へー!」 とか 「ホント?」 とか 「凄いですね~」 とかの羨望の言葉をなかば強制的に引き出そうとする。 そういう時の僕は最後まで無言を通すことで、その人にいささかの満足感を与えることを拒否することにしている。 たとえそれが自慢話ではなくても、自分のことを長々としゃべる人に限ってあまり興味の持てる人はいないようだ。

一方、ゴシップに生き甲斐を感じている人というのはけっこうあちこちにいて、それがどういう訳か女性が圧倒的に多いようである。(これは実に不思議な事だ) そしてそのゴシップの内容というのが、そこにいない人の悪口とか不運とか不幸に関する話題がほとんどなのだった。 もっとも他人を賞賛してもそれはゴシップにはならないのだろうけど。
ゴシップ好きのレッテルを貼られている人と話をする時は、ことさら気をつけてしゃべらないとあとで後悔することになる。 うっかり出してしまった本音が相手を驚かせてしまった時はもう遅いのだ。 その話はメールや電話を通してたちまち千里の道を飛んでゆく。 彼らの午後のお茶の集まりに格好の話題を与えてしまうことにもなってしまう。 しかも、その話がとんでもない脚色と装飾を施されて、ブーメランのように自分の耳に返ってくる時もある。

たとえば・・・
先日、うちの近くのマーケットまで自転車に乗って買い物に行った時に、顔見知りの日本人女性とばったりと顔を合わせてしまった。 その時の僕の状態をすこし説明する必要がある。
僕はしばらく前から仕事場を会社から自宅に移して仕事の量を減らし、外で人に会う回数もずっと少なくして、朝起きて仕事に出かけなくてもいいというのは何という贅沢だろうと、以前よりずっと自由な自分の時間を楽しんでいた。 だから時とすると何日も髭を剃らず、ひどい時は一日中パジャマのままで机に向かっていることもある。 その日も僕は犬の毛がいっぱいくっ付いたセーターにジーンズという服装で、ぶらっと出てきた。 しかもそれに加えて僕はひどい風邪をひいてしまってかなり気分も悪く顔色も冴えなかったに違いない。 要するに、まるで刑務所帰りか、ホームレスのような風体の僕を彼女は見たのである。
「あら、週日のこんな時間にリラックスなさった格好で、今日はお仕事はお休みなんですの?」 で始まった会話は僕にとっては苦痛であり、いいかげんなことをいいかげんに答えて逃げ出すように彼女と別れた。

それから数日して僕は友人からの電話を受けとる。 「どうしたの?」 と親しいその友人は尋ねる。
「巷(ちまた)の噂だとお前さん、仕事をクビになってカアチャンにも逃げられて、ひどく落ち込んでるって聞いたけど・・・」




ゴシップをする人は他人の話しかしない。
つまらない人は自分の話しかしない。
すばらしく会話上手な人は
そこにいる相手の話をする人だ。
Lisa Kirk





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ルームメート

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陽気なジル
Brighton, Massachusetts USA



前にも書いたように、僕は最初の結婚の終わりと、次の結婚との間の約7年間を、ボストンの周辺でかなりめちゃくちゃな生きかたをしていた。 そんな一時期、ボストン市内のブライトンという町にアパートを借りて、S というアメリカ人のルームメートと住んでいたことがある。 あとにも先にもルームメートなるものを持った経験はこのときだけだった。 Sと僕は仕事場での同僚だった。 ボブ・ディランにすごくよく似ていて、ニューヨークのブルックリン出身のユダヤ人だったSは、ルームメートとしては僕とはかなりうまくいっていた。
Sを通して若いユダヤ人たちのグループとも知り合いになったが、彼らの民族同士の緊密なつながりはなかなか興味深いものがあった。 彼らの理屈を超えた同胞愛は、アメリカ人にはともかく、日本人の僕には何となく理解できるような気がした。
ただ、ひとつだけ閉口したのは、S のお母さんが数日に1回はニューヨークから電話をかけてきて、そのたびに1時間以上の会話となり、そのあいだ僕は電話が使えない事だった。 同じひとりっ子でありながら、両親をとっくの昔に失くしていた僕は、Sとお母さんのピッタリと寄り添うような母子関係にいくらか嫉妬を感じていたのかもしれなかった。

Sにはローラという名のガールフレンドがいて、そのローラの仲の良い女友達のひとりがジルだった。 ローラとジルはよく僕らのアパートへいっしょに訪ねてきて、みんなで食事を作ったり、コンサートに出かけたり、映画にいったりしたので、ジルと僕とはいつのまにか自然にカップルになっていたようだ。 ジルは(そういう定義があるとすれば)典型的な 「ヤンキー娘」 で、その底抜けに明るくて優しい性格が、ささくれ立った暗い気持ちを引きずって生きていた僕には、窓の隙間から吹き込む春風のように気持ちが良かった。 いっしょに寝たりしていたにも関わらず、恋人同士と呼べるような緊迫した空気はまったくなくて、居心地がいいからいっしょにいたい、という無邪気とも無責任ともいえるような関係が、ふたりとも気にいっていた。

いつかアイルランドの田舎で暮らすのが彼女の夢だった。 彼女のアパートには、海を背景にした糸杉の並木道だとか、鄙びた村の居酒屋の看板だとか、羊の群れを連れた年老いた農夫だとかの写真やポスターが、壁一面に張ってあった。 ジルはまた、アイリッシュ・ダンスのコンサートに僕を連れて行ってくれたこともあった。 単調な旋律とリズム、足だけの動きを主体にしたこの舞踊を、僕が好きになったとは云えなかった。  
今から思うと、懐かしい思い出がほとんど何も残っていないこの頃の僕の生活の中では、比較的明るくて楽しかった期間だったといえるだろう。

アイリッシュダンス



それも長くは続かなかった。 Sが転職をしてボストンを去ることになり、ふたりでアパートを出てしまうと、僕は無性に海の見える場所に住みたくなり、かなり遠くの海辺の小さな町へ引っ越しをした。 ジルとは時々僕がボストンに出るたびに会ったりしていたが、それもしだいに少なくなってきていた。 そのうちに彼女が学校を終えてコネチカット州の両親の家へ帰って行った時点で、僕らの交信は完全に途絶えてしまった。

今でも時々考える。 ジルはアイルランドの田舎へ行ったのだろうか?

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三人の女

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三人の女


日本海に面する山陰の町の、繁華街に面したとある小さなカフェである。

A
僕のすぐ前のテーブルに座っている女性は日本人ではない。 どこの国から来たのだろう? アメリカ人ではあるまい。 地味でさりげないが行き届いたファッションはパリあたりで見るシックな中年の女性を思いださせる。 こんな田舎の町へ何のために来ているのか? ただの旅行者かもしれない。 
コーヒーを今まさに口に運ぼうとしながら彼女の目は陽光に満ちた戸外に向いているが、実際には何も見ていず、むしろその目は彼女自身の心の中に向けられているようだ。
そばに置かれたショッピングバッグと、持ち上げたコーヒーカップの図柄がマッチしているのは、偶然とはいえこの女性のセンスの良さを暗示しているように見える。

B
カフェの片隅で店内に背を向けて座る人というのは、孤独を好む人である。 僕に見せている左手の指に結婚指輪が無いところを見ると、仕事を持つ独身女性のようだ。 この静かな春の日の午後に、誰にも会いたくないし、誰にも邪魔をされたくない。
今まさに箸をつけようとしているのは肉類の入らない野菜の料理で、食べるものにはことさら気を使うタイプかもしれない。 この時間に気ままに食事ができるというのはフリーで仕事をしている人なのにちがいない。
彼女は目の前の料理に一瞬注意を払うけど、心は膝の上に開かれた建築関係の雑誌に奪われている。

C
このカフェのオーナーに違いない。 一段高くなっている床に今まさに足を踏み出そうとしている。 一日のうちに何百回とこの動作をくり返すのだろう。
長年ひとりでこの商売をやってきた 「したたかさ」 はその厚めの化粧の裏に隠すことができず、僕に職業的な笑顔を向ける時もその目は笑っていなかった。


三人三様。
三人の女たちの描く人生の軌跡がここで交わる。

これだから写真はやめられない。




女に対して嘘をつかない男というのは
女の気持ちへの思いやりがない男である。
Olin Miller





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