過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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5月のクイズ

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高知市 牧野植物園


これは日本では何と呼ばれる花でしょう?
今月は易しいクイズです。
といっても、花といえばチューリップとバラと桜とヒマワリと菊ぐらいしか知らない僕にとっては、けっこう大変でした。 本を見たり人に聞いたり・・・

正解者の中から抽選で1名の方に、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい

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南の島から

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2億年目の死
Hilton Head Island, South Carolina USA


アメリカ中西部という海の無い場所に永く住んでいると、「海を見たい」 という衝動に時々襲われる。 その衝動は 「故郷へ帰りたい」 という気持ちに似ているし、「幼馴染みの友に会いたい」 という懐かしさに近い。 日常の生活の中でそんなことをいつも思っているわけではないけれど、時おりふっと胸をかすめるそんな感情は、少しづつ自分の内部に蓄積されていくようで、それがある時強い衝動となって溢れ出てくる。 ちょうど、海の満ち潮が遠くからゆっくりと時間をかけて海岸を満たすように。

そんな時にアメリカ南部に住む友人が2年ぶりに遊びに来ないか、と声をかけてくれたので、僕は一も二も無く車を12時間運転して、大西洋に浮かぶこの島まで来てしまった。
島といっても大西洋のど真ん中にあるわけではなくて、(それだともっと良かったんだけど)本土のサウス・キャロライナ州とのあいだを長い橋でつながれている大きな島である。 夏になると休暇を過ごす夥しい数の人々で埋まってしまうこの島も、5月末の今はどこへ行ってもひっそりとしていた。 1週間の滞在中、僕は毎日自転車に乗って人気の無い海岸へ出ると、泳いだり歩いたり、砂浜に寝ころんで本を読んだり、そのうちにうとうとと眠ってしまったりして半日を過ごした。 本は、日本の友人が送ってくれた中島敦の 『山月記・李陵』 と井上靖の 『楼蘭』。 どちらも古い中国の話だった。

この海岸で、日本ではもうあまり見られなくなったカブトガニをいやというほど見た。 満ち潮の波打ち際を歩いていると、すぐそこの水面下を無数のカブトガニがすいすいと泳いでいる。 この 「生きる化石」 が2億年生存したあと今は絶滅期に近いといわれているのが嘘のようだった。 そしていくつかのカブトガニの死骸が波に洗われながら、夕日の沈む寸前の赤い斜光に照らされているのを見るのは、さっき読んだばかりの中国の古代の物語とあいまって、悠久な「時」の流れをしみじみと感じさせた。


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ヌードに関する極端に私的な考察

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モナとモナ
South End, Boston, Massachusetts USA


最近はあいかわらず膨大な量の古いネガを漁って、今まで見落としていた画像をスキャンする、という作業を続けている。 以前に何度かくり返した作業だが、今回はひょっとしたら最後になるかもしれない、という気がする。 これは、年齢的に自分にはもう先が無いというようなこともあると思うけれど、それよりも、写真というものに対する自分の姿勢がなんとなく固定してきたように感じている最近、今回選ばない画像はもう再びピックアップする事はないだろうという、一種の自信のようなものが自分に備わってきたのかも知れない。

そんな中で一連のモナの写真に行き当たった。
彼女の事は以前に 『モナとその周辺』 に書いている。 30代の一時期、僕に一番近かった女性がモナだった。 彼女は僕の恋人でありモデルでもあった。 モナが衣服を脱いだあとの、あのたぐい稀に美しい黒い肢体を映像に残したい、という強い欲望に僕は逆らうことができなかった。 女性のヌードなるものを撮影したのは、あとにも先にもこの時だけである。 しかしあのころ無数に撮ったモナの裸像は、何十年を経た現在になって見てみると、美術館に飾られたブロンズの裸像のように固い殻をかぶっていて、僕の肌が覚えているあの柔らかい感触や興奮はもうどこにもなかった。 それはまるで夏が過ぎ去ったあとの蝉の脱け殻を見ているような、淡い哀しみを僕にもたらす。

この世で一番美しいものは女性の裸像だと僕はいつも思っていたし、現在でもそう思っている。 しかし女の肉体というものは、絵や写真などにして他人とシェアできる種類のものではなくて、生きものとして現実に自分の手や身体で触れてその不可思議な存在を確認し、賞賛し、耽溺するものではなかろうか。 少なくとも僕にとってはそうだと思う。 それは二人だけの秘密の世界であり、愛する女の美しさは、他人に見せるにはあまりにも私的でありすぎた。

写真にはいろいろな分野があるけれど、どうもヌードだけは僕には向いていない、という事をいつも無意識に知っていたような気がする。




男とはただの精神に過ぎない。
どんな顔をしていようとどんな姿をしていようと、誰が気にしようか?
しかし男にとって女の肉体は女そのものなのだ。
ああ、愛する女よ。そばにいてくれ。そしてどこにも行ってしまわないでくれ。
かの賢人も言っているではないか。
「触れることのできない女は、死んだ女も同然だ」
Ambrose Bierce




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サン・マリノ共和国

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San MarinoⅠ


サン・マリノ共和国へ行こう、と言い出したのは僕だった。
観光者が多勢集まる場所へ行きたいと僕が言うのは珍しいことで、一行の者達は驚いていたようだ。 サン・マリノはヴァティカンと同じくイタリアの国の中の小さな独立国である。 ところがヴァティカン市国がせいぜい80年の歴史しかないのに比べて、この国は独立したのが1631年、世界最古の共和国なのである。
アドリア海のすぐ近く、そびえ立つ山頂に要塞を構えていて、ここへ登ればエミリア・ロマーニャのパノラマを存分に楽しめるに違いない、というわけで麓(ふもと)にあるリミニの町を素通りしてここまでやって来た。 パスポートにもらうスタンプは入国の手続きというより、観光の記念に過ぎなかったが、美しい2枚の切手は殺風景な僕のパスポートに彩(いろど)りを添えた。


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San Marino Ⅱ


山頂の東側、つまりアドリア海に面してたてられた3つの要塞の中で、これが一番古い「グアイタ要塞」で何と11世紀以来ここに立っている。 垂直に切りたつ絶壁の、そのままの延長のように城がそそり立つこの景観を見たとき、僕は言葉もなくそこに立ちすくんだ。
これはどうやって攻めてもちょっとやそっとで落ちそうな城ではない。 実際に歴史を見ても、何百年のあいだ他国からさまざまの脅威にさらされながら、この国は政治的には一貫してニュートラルな姿勢を保ち、ただの一度も敵に犯されなかった。 それどころか第二次世界大戦では、ドイツナチス対連合軍の激烈な戦闘地となったすぐ麓(ふもと)のリミニの町から、避難して来た何千人という市民をここに収容したりしている。

眼の前、石を投げれば届きそうなところに紺碧(こんぺき)のアドリア海があった。 もちろん実際には海岸線までは20キロの距離があるのだけど。


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San Marino Ⅲ


眼下に広がるアドリア海から眼をそらして今度は後ろを振り返る。
そこには深いアペニンの山並みが連なり、孤独で頑(かたく) なこの古城は姿勢を崩すことなく毅然としてそこに立っていた。


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San Marino Ⅳ


狭い通り道の両側にずらりと並んだ小屋はそのほとんどがチャチな土産物屋で、俗悪とまではいかないにしても、品物を手にとって見るとその多くが中国製だった。 産業を持たず、観光で財政をまかなっている国だから仕方がないのだろう。

この写真の建物はサン・マリノ共和国の政庁で、この広場で衛兵の交代やいろいろな国としての儀式も行われる。 さすがにこの周辺にはいくつかのしゃれた店やカフェが並んでいた。 背景の山脈が現在地の高度を示唆している。
僕らはこの Bar Cardeffi で美味しくも不味くもない(そして高い)ピザを食べ、冷えた白ワインを喉に流し込んだ。

山頂からケーブルカーで中腹の駐車場まで下りながら、いつか、このアドリア海の向こうの国々へ行ってみよう、と思った。 クロアチア、ボズニア、セルビア、そしてそのまた向こうにはオーストリア、ハンガリーと続いていて、僕の夢は果てしなく広がっていった。


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水上の音楽

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大運河
Venice, Italy


ヴェネツィアの Canal Grande(大運河)の遠望を水上バスの最後尾に立って眼にしながら、この風景をずっと昔にどこかで何度も見たような気がしてならなかった。 あれは本の表紙でもなくカレンダーでもなく、何だったのだろうと、僕は揺れる船体に捕まってバランスを取りながら、遠い記憶をたどっていって、そしていきなりあっと思い出していた。 そうだ、あれはLPレコードのアルバムの絵だった。 写真ではなくて、印象派風に描かれた 『大運河』 のアルバムはMJQ (Modern Jazz Quartet) がロジェ・ヴァディアムの映画 《No Sun in Venice》 のために演奏した数曲が収まっていて、それが15歳の少年だった僕をクラシック音楽の世界から易々とジャズの世界へと誘惑してしまった。 そしてジャズの持つ不思議なバイタリティに僕は簡単に洗脳されてしまったのだ。 もちろんそれはMJQ だけの責任ではなくて、アート・ブレーキーやバド・パウエルなども共犯者としていたのだけれど。



Vendome




MJQ は4人の黒人のグループで、そのリーダーであるジョン・ルイスは黒人でありながら60年代のバップ全盛期に、ファンキーな臭いをまったく持たない珍しいピアニストだった。 この4人はいつもステージに正装したモーニング姿で登場し、演奏するジョン・ルイスの作品はその雰囲気にふさわしく知的で洗練されていた。
しかしなんといっても僕がぞっこん惚れこんだのはヴァイブのミルト・ジャクソンだった。 あの、時には背骨に細い釘を打ち込むような固く鋭い音や、ある時はまるで女のかすかな溜息のように頬をくすぐる柔らかいマレットに魅せられた。 あの音のおかげで僕はあとを振り返ることも無く、混沌としたジャズの世界へとのめりこんで行ったと言ってもいいだろう。

あれから半世紀が過ぎて、僕は今やっとその大運河へ帰って来た。

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宴のあと

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朝霧のケープ・コッド
Cape Cod, Massachusetts USA


彼女の名がどうしても思い出せない。
僕がボストンで写真の仕事をしていたころ、同じ仕事場にいて、スライドのデュープ(複写)を専門にやっていた女の子だった。 痩せて背が高く、顔にはいつも吹き出物が出ていて、おせじにも綺麗だとはいえなかったが、静かで優しい性格の子だった。 そうだった、時々僕の二人の子供たちのベビーシッターをやってくれたこともある。 いつも寂しそうな表情がまるでそれが彼女の素顔でもあるかのように顔に張り付いていて、親しい友達やボーイフレンドがいるようすもなかった。 どこへ行くにも黒い犬がいつもいっしょで、仕事場にもその犬を毎日連れてきていた。 そして犬といっしょに小さな暗室に閉じこもってしまうと、そのドアは一日のうちに数回以上開くことはなかった。 噂では、子供の時に母親が家出をしてしまい、そのあと実の父親に性的に虐待されながら育った、という。 そんな話を聞くと、友達もボーフレンドも作らず犬だけを愛して寂しく暮らしている彼女の性格が理解できるような気がした。 といって、彼女は決して人嫌いというわけではなく、仕事場の同僚には心を開いていたようだった。 僕らの仕事場はごく少人数だったし、みんな若くて彼女とは同年配のものが多かったからだろう。 そういえば前に書いたスティーブもその中の一人だった。

同僚の中に、実家をケープ・コッドに持っている女の子がいて、ある年の夏に仕事場の全員が1泊どまりでそこへ行ってドンチャン騒ぎのパーティをやったことがあった。 寝室が6つもある大きな屋敷で、すぐ裏は砂浜が海まで続いていてプライベートのビーチになっているような贅沢な地所だった。
その夜のパーティでは牡蠣やロブスターをいやというほど食べながら、全員がまるで魚になったように酒を飲んで (浴びるほど酒を飲むことを、Drink like a fish とアメリカでは言う)、僕も最後にはスティーブを相手に喚き合いの議論をしているうちにそのままわけが分からなくなって、応接間の床で眠ってしまった。

明くる朝眼が覚めるとスティ-ブはいつの間にか部屋から消えていて、屋敷中がまだひっそりと眠りについていた。 僕は割れるように痛む頭をできるだけ動かさないようにしながら起き上がると窓の外を見る。 外は一面の霧だった。 その霧の中、遠い海辺に2つの黒点があって、ひとつの黒点はそこらじゅうを動き回り、もうひとつはゆっくりと動いている。 「彼女」 と犬に違いなかった。 僕はカメラを掴むとサンダルを履いてふらふらとした足取りで外に出た。

カメラを向けている僕を見て、彼女が遠くから叫ぶ。
「おはよう!」   
僕も、「おはよう」 と叫び返したとたんに、頭を鉈で切り裂かれるような痛みが走った。
「今の、とってもいい絵になってたよ」 と言う僕に、近寄って来ながら彼女にしては珍しく笑い声を立てると、
「こんな素敵な風景の中では、何を撮っても絵になってしまうのよ、きっと。 少し歩く?」 
「歩きたいけど、この二日酔いの頭じゃ無理だね。 コーヒーでも飲めばだいじょうぶだと思うけど」
「それじゃあ中に入りましょう。 コーヒーを沸かしてあげるわ」

それから僕らは湿った砂を踏んでゆっくりと屋敷に向かって歩いた。 まだ誰も起き出して来ない屋敷の中は、いたるところに昨夜の狂気の宴(うたげ)の残骸が散らばっていて、胸にむかっとくるような酒の匂いに僕は一瞬、屋敷に帰ってきたことを後悔していた。 



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カマルグの白い馬  (4/4)

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母親と子供たち
Saint Maries de la Mer


そして、昨日とくらべると嘘のような快晴となった。  
僕らはカフェテリアに集まるとクロワッサンとジャムとカフェ・オレとフルーツの朝食をゆっくりと取ったあと、稲田荘を引き払った。 それから昨夜の Stes Maries de la Mer にもう1度帰って町を歩き回ることにした。 この町は古い巡礼のメッカだったらしいが、近代になってからはヘミングェイとピカソの名が浮かんでくる。 二人ともこの町を愛してここに住んだ事があった。 そうだ、それからあの 『銀の手』 もこの近くに生まれ住んだジプシーだった。

今日はわれわれ一行はこのあとさらに西へ移動することになっていた。 目的地は、パチさんが今回希望した唯一の場所、詩人であり偉大な知識人だったあのポール・ヴァレリーの墓がある Sete である。 今日は僕が車のハンドルを握る事になっていたが、カマルグを離れる前に、地中海をまだ見た事がない、というパチクリ夫妻のために町の最南端まで行ってみることにした。




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地中海


ここがヨーロッパ大陸の南の果てだ。 この海のかなたはアフリカなのである。 それにしてもなんというブルー! 空には雲ひとつない。 海の色が遠くではっきりと二色に分かれているのはきっと潮の関係にちがいない。 このあと、これも海沿いの町セッテまではずっと地中海沿いにドライブをすることになるので、海は常に見えつ隠れつしながら視界に入っていたが、この時ほど水に近寄れたことはなった。

われわれは再び車に乗り込むと、行き交う車のまったくない平原の野道を幹線のルートまで引き返した。 気温は快適で紺碧(こんぺき)の空が頭上にあったが風は強く、その風は潮の香りを含んでいた。 その時、ちょっとした事件が持ちあがった。 パチさんが小用を催したというので、僕は車を道端に停めた。 あたりは背の低い潅木類が地面に這っているなだらかな丘の中腹である。 パチさんが車を降りていったあとしばらくして、何気なく外を見たY子さんがいきなり驚愕の表情を露(あら)わにして大声で喚(わめ)いた。
「パチクリ!!  だめ、だめよ。 馬鹿! 向こうを向いて! 向こうを向いてしなさい!」
見ると、車の後方で彼はこちらを向いて気持ち良さそうに悠々と放尿をしている。 その彼のすぐ背後まで1頭の白馬が寄ってきて、首をかしげて彼の姿を眺めていた。 車内が一瞬、悲鳴と爆笑で沸きかえる中で、僕はすかさず証拠写真をばっちりとものにしていた。 
車に帰ってきてY子さんに散々叱られながら、もぐもぐと言い訳をしようとするパチさんに僕は男同士として助け舟を出す。
「Y子。 お前さんは男の身体を知らないな。 この強い風の中で向こうを向けば、パチクリは全身びしょ濡れだよ。 彼としては選択の余地はなかったんだ。 もっとも女性ならその心配はないだろうけどね」

このチン事はいまだに時々話しに上る。 僕の撮った証拠写真はもちろん公開される事はなかった。 (終)



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カマルグの白い馬  (3/4)

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日はまた昇る


まだ暗いうちに目を覚まして耳をすますと、まわりはシ-ンとして何の音も聞こえない。 昨夜の騒ぎが嘘のような静けさだった。 カーテンの隙間から外を覗くと、窓のすぐそばから広がる雑木林の木々は死んだように静止している。 僕は手早く着替えるとカメラを持って外に出る。 そうか、昨夜のミストラルは余りたいしたやつじゃなかったんだ。

湿原の向こうに朝日が昇ろうとしている。 まわりの風景が暗闇の中から少しづつ浮き上がって来るにしたがって、それまで奈落の底に沈んでいた自分に、すこしづつ位置感が戻ってきた。 そうして、果てしなく荒涼と広がる平野の真っただ中に、ポツンと存在している自分の姿を自覚する。 それは自分が、滅びゆく人類の最後のひとりであるような、荘厳な孤独感だった。 (続)


朝日の当たる家



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カマルグの白い馬  (2/4)

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潟のそばの壊れたベンチ


カマルグでの第一夜は、今夜襲ってくるミストラルに備えて、すぐ近くの町 Stes Maries de la Mer のレストランで早めに夕食をとることにした。 大昔に3人のマリアが住んだといわれるこの町は、シーズン・オフで店を閉めているところが多かった。 稲田荘の亭主の教えてくれたレストランへ行ってみると、時間が早すぎて開くまでにまだ1時間以上もあったので、すぐそばの酒屋からワインとビールを買い込んできて、車の中で酒盛りが始まった。 真っ暗な車の中でのワインボトルの回し飲みなんて、誰もが20代のころに返ったようにはしゃいで、レストランが開いた時には全員がすでに酔っ払っていた。

新鮮な魚介類の夕食にさらにワインのグラスを重ねて楽しい時が流れていった。 満足して稲田荘に引き揚げる。 突風というほどではないが重みのある強い風が絶え間なく吹きつけている。 空を見上げると真っ黒な雲が、高速度撮影のフィルムを見ているような速さで地中海に向かって流れ飛んでいて、何とも不気味な空気が広大なカマルグの上空を被っていた。 しかし雨はない。 強い風だけである。
その夜は激しい風の音と、その風に思うままに蹂躙される周りの樹々のざわめきとでなかなか寝付かれなかったのに、疲れていたせいかいつのまにかぐっすりと眠りに落ちてしまった。 (続)



私が何よりも一番好きなのは眠ることだね。
だって、私の人生でろくでもないことが起こるのは
いつも決まって起きているときだからさ。
Ernest Hemingway


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カマルグの白い馬  (1/4)

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カマルグの白い馬
Camrgue, France


カマルグ地方はプロヴァンスの南端、ローヌ河の2つの支流と地中海とで三角形に切りとられた広大なデルタである。 僕らの住んだ Vaison la Romaine からはそんなに気の遠くなるような遠距離ではないのに、ここまで来ると 「ああ、ほんとうに遥々(はるばる)来てしまったなあ」 と思わせるのはその風景のせいだろう。 プロヴァンスでどこへ行っても見慣れた瀟洒な村も古城も葡萄畑もここにはない。 あるのは茫々と果てしのない湿平原だった。 なぜこんな所に僕らが来ているかというと動物好きのわが Green Eyes がアメリカを発つ前から
「カマルグに住むという野生の白馬を見たい」 と言っていたので、それだけの理由でこの、地の果てのような感じがするカマルグまでやって来た。 ふだんはあまり物を欲しがらない人が、時たま何かを望むと、その望みはたいていかなってしまうものなのである。

この旅行でわれわれ一行は、アメリカ人のM夫妻、日本から来たパチクリ夫妻、それに僕らの夫婦に加えて、Mさんの息子と僕の娘という8人だった。 その8人が馬鹿でかいメルセデスのヴァンに、わりとゆったりと席を取って賑やかに旅を続けていた。 
この年の旅行ではわれわれはまだナビゲーターを持っていなかったから、地図を見ながら何度か迷ったりそのたびに喧嘩をしたりしながらも、なんとか目的のホテルまで行き着いた。 その途中で優雅な白馬がそこここに点在する風景を見た。 車から降りて近寄っても、物おじしないで鼻を押しつけてくるのは餌を欲しがっているのだろうか。

ホテル 《Les Rizieres》 に到着したのはまだ午後も早い時刻だったのに、あたりはまるで皆既日食の真っ最中のように不気味な薄闇に包まれていた。 ホテルで聞くと、今日の午後からあのカマルグ名物のミストラル(野分き)がやって来るという。 それでそのミストラルはひとたび襲ってくるとどのくらい続くのか、というわれわれの質問に対しては、「一晩でおさまることもあれば、何週間もぶっ続けに吹き荒れることもある」 と頼りない返事が返ってきた。
《Les Rizieres》 はホテルというよりも、アメリカの小さめのインにうんと古色蒼然の衣装を着せて、その衣装の破れたところはていねいに継(つ)ぎを当てたという感じの、質素だが居心地の悪くない宿だった。 その名前からするとさしずめ 『稲田荘』 とでもいうのだろう。 カマルグのデルタは南欧では最大の米と塩の生産地なのである。 この宿も観光のシーズンなら幾人かの人を使って忙しくきり回しているのだと思うが、季節の終わりにはその使用人たちにも暇を出すのだろう。 われわれ以外には誰も宿泊人のいないその夜は、中年の亭主とおかみさんの夫婦が顔を見せているだけであった。 (続)



馬という生きものは、われわれ人間の夢の投影である。
図太く強健で、しかも美しい。
そして、われわれを俗世から抜け出させてくれる力をもっている。
Pam Brown


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人のいないポートレート

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パチさんの椅子
Vaison la Romaine, France


パチさん、あるいはパチクリと僕とは、僕がまだ紅顔の美少年のころからの付き合いだからもう50年以上になる。
詩人であり恩師であり僕の親友のご主人であり、そして僕がもっとも愛する人のひとりなのだった。 パチさんは長いあいだ高校の国語の教師をしていて、僕もそのころ彼と知り合ったのだが、なぜか僕が彼から学んだのは日本文学ではなくてフランス文学だった。 そのおかげで僕は大学で建築科に行くかわりに、金にも何もならないフランス文学を選んでしまった。 高校生の僕たちに酒を飲むことや夜遊びすることを若い青年の情熱を持って教えてくれたのはパチさんだった。 あげくの果ては、彼は僕が好きだった女の子を略奪してさっさと結婚してしまい、そのあとは俗念に煩(わずら)わされないで教職と文学活動とを長く続けてきた。 そして詩人として著名になってからも、詩への情熱は歳を経てますます激しくなっていくようで、すでに何十冊もの詩集や歌集を出している。

パチさんは若いころの僕にとってはいろいろな面でメンターだったが、それは現在でも変わらない。 彼に会うたびに、周りの俗世間を横目で見ながらコツコツと自分のしたいことをやっている彼の生きる姿勢が、いまだに俗念を捨てられないで苦しんでいる僕に、いつも清々しいエネルギーを注ぎ込んでくれる。

そのパチさん夫妻を同行した2週間のプロヴァンス旅行は、実に楽しいものだった。 僕らは小さな村の古い石造りの一軒屋を借りていて、そこを基点にしてそこらじゅうに遠征したのだが、パチさんは3度に1度は一行について行かないで、ひとり家に残って美しいフランスの田舎の風景の中で、周りを散歩したり静かに書き物をしたり本を読んだりしていた。 そして夕方になって一行が帰還すると、みんなであれこれと相談しながら楽しく夕食の準備にかかる中で、コーヒーを沸かす以外は何もできないパチさんは、独りだけの自分の世界で机に向かっていた。 そして時々本を置くと彼は外に出て、玄関脇の白い椅子に腰かけると煙草をすう。 彼ほど美味しそうに煙草をすう人を僕は見た事がなかった。

この写真を見るたびに、そこに座ってぽつねんと煙草をふかしているパチさんが僕には見えている。 いやこうして本人の不在を見ていることで、逆にその人の存在がさらに強く浮かび上がってくるような気がする。
言葉の無い歌があるように、人のいない肖像画があってもいいと思う。




恐らく
ある種の不健全な心の持主でなければ
詩人にはなれないし
詩を楽しむことさえできない。
Thomas Babington Macaulay



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母の日に男が思うこと

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遠い道程
Hagerstown, West Virginia USA


母親が子供に対する感覚とは何だろう、とよく考えるがどうも今ひとつわからない。
それは「愛情」というような言葉で表せるような種類のものではないような気がする。 女性にとっては子供は自分の胎内から産まれてきた文字通りの分身だから、愛情などと呼ぶより、もっと動物的で生々しい 「繋がり」 というか 「連帯感」 というか 「一体感」 というか、あるいは 「所有感」 というか、そんなものじゃないかな、とわれわれ男性は頼りなく推測するだけである。

ある女性が、自分の赤ん坊を見ていたら、どうしようもないくらいに可愛くて可愛くて、たまらなくなって裸のお尻を噛んでしまった、と告白してくれた事がある。 その切実な表現のなかに、母親の本性、というより女の本性を見たような気がした。
そんな僕でも、母親の子供への感覚は永遠の謎だとしても、子供が母親に対する気持ちはよくわかる。 なぜなら信じてもらえないかもしれないけど、僕だってそんな子供だった時期があったわけだから。

幼い子にとって母親はすべてなのだろう。 母に抱かれて母の匂いに包まれている場所ほど幸せで安全な世界は無い。 時々父親という名の人間が周りをうろうろするけれど、あれはいったい誰なのか、長いあいだ知らないままで育ってゆく。。
僕の息子がようやくヨチヨチと歩き始めるようになったころ、ある日公園を散歩していた。 子供にとっては、向こうで待っている母との距離が絶望的に遠すぎて、泣き出してしまったことがある。 息子のすぐ背後に立っていた父親の僕には何もできなくて、母を求めて一心不乱に歩く子供が転ばないようにと、うしろ姿を見守ってやるだけである。
そう、父親の役割とはそんなものだ。 子供たちが成長して幾つになっても、父親にできるのはうしろから見守ってやるだけ。

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端午の節句

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甍の波
島根県 松江城


3月3日の雛祭り、5月5日は端午の節句といったのが、いつのまにか 「子供の日」 として一つになってしまった。 それでも今だに5月がくると 「いいらあかーのなあみーとー、くうもおのおなーみー」 というあの懐かしい童謡を思い出す。 うちの子供たちが幼いころ、日本の叔母が上の娘に可愛い卓上サイズの雛壇を、下の息子には本物の鯉のぼりを贈ってくれた。 雛壇は我が家のリビング・ルームの本箱の上に現在も1年中飾られている。 鯉のぼりの方は息子が中学に入るころまでは、毎年5月になるとわが家の前庭にアルミ製の支柱を立てて吹流しと3匹の鯉を青空に勢いよく泳がせた。 アメリカの田舎の空に悠々と泳ぐ鯉は、近所だけではなく車で通りすがりの人たちの眼を引かないわけがなく、車を停めてカメラを向けるアメリカ人も多かった。 ある時は、日本人の家族が車から降りてきて、両親と二人の子供が長いあいだ空を見上げて眺めていた事もあった。

矢車のカラカラと回る音がそのまま僕を日本の少年時代に連れ帰ってくれたものだ。

叔母が子供たちに贈ってくれたのはそれだけではなく、ある年の端午の節句に徳川家康の冑(かぶと) のミニチュアを送ってくれた事がある。 ミニチュアといっても幅が30センチもあり、精巧な金物や刺繍が施された豪華なものだった。 残念ながらわが家にはそれを飾る場所がなく、ふだんは地下の物置にしまってある。

今年は、久しぶりに鯉のぼりを立ててみようと思っていたのに、4月の終わりから毎日のように激しい雨が降り、それをしないままに 「子供の日」 が来てしまった。 来年こそはあの3匹の鯉を中空(なかぞら)に泳がせようと思う。

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去年マリエンバードで

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影の記憶
Beaumes de Venice, France


プロヴァンスに滞在中のある日、我々はワインハントに出かけることにした。 我が Green Eyes も同行のM夫人もワインが趣味と自称するだけあってワインの味や銘柄にはなかなかうるさい。 ところが僕とか、これも同行したパチさん(Y子さんの旦那で日本人) は酒なら何でもいい、旨いか旨くないかのかどちらかさえ判別できればいい、という程度の酒飲みだから、この日もあまり興奮することも無くみんなのあとについて行ったわけである。 その僕でさえこの日に回ったシャトヌフ・デゥ・パプとかジコンダの銘柄の名前ぐらいは知っていた。 我々が滞在するヴォクルーズ地方では代表的なワインだった。
いくつかのワイナリーで試飲をしたり数本のボトルを買ったりしたあと、この、丘の上の大きなワイナリーまでやって来た。 僕もパチさんも象の涙ぐらいの少量のワインをクイと何杯か飲んだあとは何となく手持ち無沙汰になって、女性たちを残すと外に出て行った。 気持ちの良い陽射しの中でパチさんはベンチに腰かけると煙草を美味しそうに吹かしながら、いつものように本を開く。 僕は辺りをぶらぶらと歩きまわる。 そこでこの風景に出くわした時にハッとして立ち止まってしまった。 何か遠い遠い記憶の底に引っかかるものがあったのだ。

あれは学生のころだったろうか?  それとももっとあとだったかもしれない。 新宿のアートシアターで見た 『去年マリエンバードで』 というタイトルのアラン・ロブ=グリエのフランス映画だった。 物語というよりも、自分が見たり経験した事が実はほんとうに実在したのか、というようなかなりメタフィジカルなフィルムだったと覚えている。 その中のモノクロの強い 「影」 のイメージが長いあいだ僕の意識下に残っていたようだ。 それが今ここで植木の黒い影がくっきりと地面に映るのを見ているうちに、僕の中でピッタリとひとつに重なってしまっていた。

あの映画はもう1度見なくちゃいけないな、とその時思いながらその事もいつか忘れてしまっていた。 今日のブログを書きながら改めてこの写真をいじっていた時にそれを思いだしたのだ。 すぐ調べてみると簡単に見つかり、しかも簡単に注文をすることができた。 40年前に見た映画を、現在どんな気持ちで自分が見るのだろうと楽しみだし、果たしてこの写真とどこで繋がるのかを解明できることにもスリルを感じる。




我々の眼に映るものはすべて
我々に見えないものの影に過ぎない。
Martin Luther King, Jr.


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ちょっとそこの市場まで

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水曜日のマーケット
Vaison la Romaine, France


ヨーロッパなら、どんな国のどんな町や村に行っても必ずあって、われわれ外来者にとっても大きな楽しみの一つは、野外のマーケットである。 時には衣料品や日常品、アンティークの家具などのマーケットもあるけれど、ふつうは何といっても日常の食料品が圧倒的に多い。 イタリアのモデナのように大きな屋根の下にあって毎日営業しているところもあるけれど、大体一週間に1度か2度、近在から出てくる農民たちが通りの両側に何十というテント並べる。 早朝に立つ市場は正午にはもう終わってしまう。 八百屋あり、肉屋あり、魚屋あり、ケーキ屋あり、ワイン屋あり、スパイス屋あり、乾物屋あり、チーズ屋あり、食べるものならここで手に入らないものは無い、といっていいだろう。
僕らの滞在したフランスのプロヴァンスの Vaison la Romaine という小さな町では、このマーケットが毎週水曜日に町のど真ん中の広場で開かれる。 これがなんと17世紀からそのまま続いていると知ってびっくりした。 当然ながら同じような食料品があちらの店でもこちらの店でも売られているわけだけど、売り物は決して同じではない。 違う地域の違う農家で生産されたものは、それぞれが独特の風味を持っていて、味にうるさいフランス人にとっては決して同じものではないようだ。 たとえば、セギュレのアンドレ爺さんの作るワインは安いうえに味も自分の好みにぴったりだとか、わが家ではお祖父さんの代から、ブソンのアンリさん一家が売るチーズしか食べていない、とかである。 買出しに来る人たちはそれぞれが自分の好みの店に直行する。 だからこそ、これだけたくさんの同業の商売が、何百年もの間つぶれる事も無く共存しているのである。

そういえば思い出すのは、僕が子供のころ、母が毎日のように夕方になると買物かごを下げて近所の市場へ行っていた。 肉でも魚でも野菜でも、その夜の夕餉になるものだけを買ってくる。 仕事を持っていた母が忙しくて時間が無い時には、コロッケでもてんぷらでも揚げたてのものを買ってきて、それがそのまま食卓にのぼった。 米でも何升という量り売りだった。 僕は父の酒を買いによく行かされたが、これも一升壜をぶらぶらと下げて行って何合とかの量り売りだった。 冷蔵庫の無い時代だからそんな生活になっていた、と言ってしまえばそれまでだけど、それだけが理由ではないと思う。

今のアメリカでの生活は、2週間に1度カートに山盛りの食料品をクルマで買い込んで来て、冷蔵庫やパントリーの棚にびっちりと詰め込む。 そのためどこの家庭に行っても、巨大な冷蔵庫が2台(1台はキッチンにもう1台はベースメントに)と冷凍庫1台は必ずある。 それが時々、嵐などの被害で二日も三日も停電になると、冷蔵庫や冷凍庫の中身は全滅してしまう。

ちょっとそこの市場まで、と言っていた時代が懐かしい。

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