過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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日本人と英語 (1/2)

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マクドナルド
高知市


最近の日本の出版物やインターネットを見ていると、外来語、それもとくに英語が日本語の中に幅広く浸透しているのには驚いてしまう。 カナ混じりの文章を書くことが一つのファッションにさえなっているように思われる。 でも時には首を傾げてしまうようなこともある。 そこまでしなくてもいいんじゃないか、と思うことがある。 古来日本人が使い慣れてきたちゃんとした美しい言葉があるのに、そこへことさらカタカナの英語で代用することが、その文章が言おうとしていることにとくに効果があるとは思えないことが多い。

そういう論議は別として、英語が日本語の中に流れ込んでくることにはそれなりのメリットがなくはないと思う。 (なんて僕自身、merit などと英語を使ってしまっている)
そのメリットというのは、日本人が英語圏の国へ旅行などした時にふだん耳慣れた外国語が耳に入ってくるんじゃないか、と思うから。 もしそうだとすると現代の日本人は日常生活の中で自然と英語の勉強をしているようなものだろう。 しかし外来語として日本語になっているからといってそれがそのまま外国で通用するかというと、それがそうでもない。 ことに昔からあった言葉はそうである。 いくつかのグループに分けて書いてみよう。

1.まず、英語が日本語に取り入れられたときに形がまったく変わってしまったもの。
これはもちろんまったく使い物にならない。 たとえば 「タイヤがパンクした」 時のパンクがそうだ。 もともとは 'punctuate' (穴を開ける) から来てるのだけど、日本語ではパンクになってしまった。 当然ながら英語では通じない。アメリカでは punctuate という語さえふだんでは使われることはなく、「タイヤがパンクした」 は "I've got a flat tire." と言ってしまう。 また車の 「ハンドル」 もアメリカでは通じない。 これは 'steering wheel' だ。 英語で 'handle' といえば機械や道具類の取っ手とか柄のことである。 昔の日本の俗語にタクシーの運ちゃんを 「わっぱまわし」 と呼んだ事があるが、これのほうがずっと元の英語に近い表現なのは面白いことだ。
ヨーロッパの地名なども日本語になっているものは英語では通じないことが多い。 フィレンツェはなぜかアメリカでは Florence(フローレンス) だし、ウィーンは Vienna (ヴィエナ) になってしまう。 ミュンヘンは Munich (ミューニック)、ベルギーは Belgium (ベルジャム) となる。 だからアメリカ人がヨーロッパに行ってもこれらの言葉は理解されないのに、そんな地名をヨーロッパから直輸入した日本人のほうはちゃんと通じるわけである。

アメリカのバーに入って日本人がよく経験することがある。 日本ではスコッチとバーボンの総称をウィスキーと呼んでいるようだ。 ところがアメリカでウィスキーと言えばバーボンのことなのである。 ジョニ黒を飲みたければスコッチを頼まなければならない。 ビールはもちろん 'beer'(ビヤ) だ。 日本ではわれわれはビヤ・ガーデン(アメリカから輸入) に行ってビール(ヨーロッパから輸入) を飲んでいる。

こんなわけで 日本語化した英語がアメリカで通じない例にはあと2つのグループがあるんだけど、それは次回に書こう。

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アメリカン スポーツ

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美しき破滅
Dayton, Ohio USA


アメリカにデモリション・ダービー (Demolition Derby) と呼ばれる車のレースがある。夏になるとそこらじゅうの町で催されるあのカウンティフェアのお祭りには、草競馬と並んでこのレースはつき物となっている。これがいかにもアメリカ人らしいメチャクチャなスポーツなのである。
レースといっても車のスピードを競うのではない。10数台のクルマをお互いにぶっつけて合って破壊させ、最後に1台残った運転可能な車のドライバーが優勝となる。レースのルールというようなものはほとんど無くて、出場車はあらかじめ窓のガラス類をすべて除去することと、故意にドライバー側のドアに衝突することは禁じられている。 それがルールのすべてである。
レース車にはナスカー・レースほどではないにしても、ちゃんとそれなりの改造がなされている。レース場となるのはカウンティフェアの草競馬場でさらに丸く仕切られた柵の中で行われる。競馬場だから地面はダート、しかもそのダートの地面に前もって大量の水が撒かれているので、レースが終わる頃にはクルマもドライバーも見事に泥だらけになっている。 前向きに衝突すると自分の車のエンジンが破損する恐れがあるから、ドライバー達はバックの状態で突っ込んでゆく。 そして最後に残った1台が、満身に傷を負った瀕死の闘士という感じでよたよたと、トロフィーと賞金をもらいに表彰台に向かって行く光景は、コミカルであると同時に何となく悲壮感があった。単純で他愛の無いスポーツだけど、最近はアメリカだけではなくヨーロッパにまで広がっているそうだ。

徹底的に破壊されて死んでしまったクルマたちは、どれも前衛彫刻のように見える。美しいと同時に言いようのない哀しみを感じさせた。ものを創り上げることが芸術だというのに、かつて科学の粋を尽くして完成されたものがここまで完璧に滅ばされたあと、今は美しいオブジェとして新しく存在するのは皮肉なことだった。


あらゆる創造の行為において、
まず最初に為されるのは破壊することである。
‐ パブロ・ピカソ ‐



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知らない町を歩いてみたい

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石の町にて
Vaison la Romaine, France


歳月を重ねていくうちに、「忘れられないもの」 が何といっぱいに増えていくことだろう。
ちょうど屋根裏の物置部屋の奥に、一つの大きなトランクの中にありとあらゆる雑多な物がぎっしりと詰まっているようなものだ。 煩雑な日常の生活の中ではそんなトランクなど存在する事さえ忘れているのに、時折り何かのひょうしに連想が働いたり、あるいはまったくなんの関連もなくそのトランクを開けてみることがある。 するとその中からごそごそと出てくるのは、分厚い束になって分けられた古い記憶だった。 その束は忘れられない本であったり音楽であったり映画であったりする。 またある時は忘れられない人々であったりすることもある。 本や音楽や映画などは、もう一度会いたいと思えばわりと容易に手に入れる事ができるのに比べると、「ひと」 の場合はそうはいかない。 そこに入っている人たちの大部分は、すでにこの世から消えてしまっていたり、たとえどこかに生きていても、もう二度と会うだろうことはない人達だから。

そして
僕にとって大切なもう一束の忘れられない物は 「道」 だった。

僕の最も古い記憶として残っているのは、中国の北京郊外の道だった。 3歳のころの僕は母に背負わされて、母の肩越しに、黄土にまみれた埃っぽい道を見た薄い記憶がある。 しかしその記憶は、セピア色の曇りガラスを透(とお)して覗く風景にように、ぼんやりとして現実味に欠けていた。
それからずっとあとになって、日本の郷里の町で少年時代に見た道はこれはハッキリとした現実だった。 その道を僕は毎日のように歩いていた。 近所の子供たちと日が暮れるまで遊んだのもその道である。 24年ぶりに郷里に帰ったときに、その道はすでになくなって、道に沿って流れていた小川も消えていた。 そしてそこには無表情なコンクリートが敷かれて、何倍にも広がった道路を絶え間なく車が疾走していた。

旅先で歩いた道も忘れることがない。 もう再びはそこへ行くことはないかも知れないのに、カメラという魔法の小箱に収められた道は、その映像を見るたびに僕を瞬時にそこへ連れ戻してくれる。
ああ、いつかもう一度この道を歩いていたい・・・



遠くへ行きたい
藤圭子



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6月のクイズの結果は・・・

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素顔のヴェネツィア
Venice, Italy


正解は 『8人』
22人の応募のうち、なんと21人が正解だったのは驚いた。
バールの奥の左端に一部だけ見えている顔は見逃すはずがないとは思ったけど、右端のテーブルで背中を見せているオジサンの対面に座っている人には気がつかないのでは、と思ったのは甘かったようだ。 確かにテーブルの下には足が見えているし、横のガラスには顔も映っているのである。

抽選の結果、当選は 『okko』 さんだった。

okkoさんおめでとう。
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お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のないばあいは棄権とみなして次の方を選びます。

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アヴィニョンの橋の上で

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法王たちの夢のあと
Avignon, France


ヨーロッパをめぐって旅行をした事のある人なら、どこの国のどこの町へ行っても、古代ローマ帝国の足跡を見つけることほど簡単なことはない。 彼らがいかに偉大な文明を持っていたかを実感するのには、イタリアを訪ねるより、その周りの国へ行ってみたほうが話が早いのではないか、と思うぐらいである。
しかし、このアヴィニョンが、そういうどの都市とも違うのは、法王庁 (Palais des Papas) の存在だろう。 厚い城壁に囲まれたこの宮殿に7人のローマ法王と2人のアンチ法王が1309年から1377年まで住んでいた。 重要なのは、ローマに住む法王たちがはるばるこのフランスのアヴィニョンまで遊びに来て、ここを別荘のようにして休暇を楽しんだ、というのではないということだ。 彼らは法王としての宗教のメッカをローマから完全にここに移して、この町から全ヨーロッパに為政をしていたのだ。

僕は歴史学者でもなんでもないが、これは実にすごい事ではないかと思う。
考えてみよう。
もし徳川家康が、松葉ガニとか二十世紀梨とか美保関の白イカだとか、自分の好みの日本海の珍味を、江戸にいたのでは毎日賞味できないのを嫌い、山陰は伯耆国の米子城に一族郎党を引き連れて移って来たとしよう. 米子遷都である。 そうすると、当然各藩の大名たちも参勤交代のために米子に屋敷を構えなければならないし、商人たちもいっせいに米子をめざして日本中から集まって来る。 寺社もこぞって建てられるだろうし、近くの境港など、たちまち日本一の貿易港になっていただろう。 米子の町は現在の100倍以上の巨大都市になっていたのはまず間違いがない。
それと同じようなことを法王クレメンテ五世はやってのけたのだ。 しかしフランス人であったクレメンテ五世は出身地のボルドーのワインが飲みたくてここに来たわけではなかった。 14世紀初頭から犬猿の仲にあったイタリアとフランスの抗争を中和するために彼はここに住むことにしたらしい。 彼のあとの6人の法王たちがすべてフランス人だった、という事実は当時のフランス側からの圧力がいかに強力であったかを思わせる。 第2のローマと呼ばれたアヴィニョンはたちまちヨーロッパでもっとも富と文化の栄える町となる。 そしてここでの法王たちの生活は、豪奢でありながら腐敗と堕落に満ちていたといわれる。

僕の運転するメルセデス・ベンツのヴァンが7名を乗せてアヴィニョンをめざし、やがて遠くにあの有名なアヴィニョンの橋が見えてきた時、車内の誰からということもなく歌が始まった。平均年齢54.8歳の僕らは、まるで6歳の子供のように声をはり上げて拙(つたな)いフランス語で歌った。


Sur le pont d'Avignon
L'on y danse, l'on y danse
Sur le pont d'Avignon
L'on y danse tous en rond
Les beaux messieurs font comm' ça
Et puis encore comm' ça




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きのうは夏、きょうは秋

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朝もや
Oakwood, Ohio USA


先週は33℃の暑い日が続いて、とうとう人々が路上でダリの画のように溶け始めるのを目撃したのに、今週に入ったとたんに気温が16℃まで下がった。 まるで万(よろず)の神様たちの中に、「今年は夏のあとに秋を持っていくのをやめて、1週間づつ交互に変えたらどうだろう?」 と例会の場で斬新なアイデアを出した若い神様がいて、うん、それもおもしろいだろう、となんとなく決議されてしまったようなぐあいだ。
最近の僕は前ほど天候に気分が左右されることがなくなってきている。 東北大震災のような天変地異が世界中で起こるようになって、少々のことではもう驚かなくなってしまったのかもしれない。

昨夜のこと、珍しく息子の方から 「明日、テニスする?」 とテキストメッセ-ジを送ってきた。 それで今日は昼前にちゃんと着替えてラケットを抱えて出かけようとしたら、とたんに空が暗くなり雨が降りだして雷が鳴り始めた。 すぐに息子とメッセージを交換してテニスは取り止めとなった。 僕の耳には 「神々の例会」 での会話が聞こえてきそうだった。

「この男、ふだんから神など存在しないとうそぶいて、ブログなるものに我々の悪口を時々書いている。 すこし懲らしめてやらなくちゃと思うんだ」
「でも、私たち女神のことはすごーく崇拝してくれてるのよ。 せっかく息子さんと楽しい時を持とうとしてるのに。 可哀相だわ」
「女神だけを崇拝するなんてけしからんじゃないか。 我々男神のメンツということもあるし・・・。 彼の無信仰を変えさせる何か良い懸案はないかね?」
「こんなのはどうかしら。 このひと時々宝くじを買うのよ。 一度当選させてやったら?  きっといっぺんに変わると思う。 ほら、この前のクロアチアの乞食みたいに。 今じゃ宮殿に住んで朝晩に礼拝をしてるって、情報局からのレポートも入っているでしょ」
「それは悪くないアイデアだ。 よし、それじゃあとりあえず今日は雷君に雨を降らせてもらおう。 それでいいね?」
「賛成。 そして近いうちに宝くじを当ててしあわせにしてあげましょう」


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ロンリー・ウーマン

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寂しい女
Bologna, Italy

17歳の少年が初めてオーネット・コールマンの 「寂しい女」 を聴いたとき、これはなんと奇妙な音楽だろうと思った。 まるで動物の悲鳴のように喚くサックスの音色が、前衛音楽を嫌っていたはずの彼の心に容赦なく突き刺さったようだ。 少年にとっての 「女」 とは、それまでに清純な少女たちとの恋の真似事(まねごと) をしたことがあったが、この音楽はその時の甘いセンチメンタルな経験を根底から否定するような激しさがあった。 少年がこの音楽から皮膚に感じていたのは 「成熟した女」 の孤独感、いやそれはもう、「孤独」 というよりもっとギリギリの 「弧絶」 と呼ぶべきもののように思えた。 しかもそこに滲み出ている、生き物である 「女」 の生々しい生理的な欲求のようなものをさえ少年はぼんやりと感じ取っていた。

(女ってなんなのだろう?)
17歳の少年はまだ知る由もなかった。


《Lonely Woman》 by Ornette Coleman



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6月のクイズ

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素顔のヴェネツィア
Venice, Italy


旅には人それぞれの目的とか楽しみ方があって、それを周りでとやかく言う権利はまったく無いわけだから、たとえば酒の飲めない人がカリフォルニアのナッパ・ヴァレーに行くのを 「猫に小判」 なんて笑う方が間違っている。 その人なりの目的があるに違いないから。 また美術や歴史にあまり興味のない人でも、パリやローマで他にやることは山ほどあると思う。
それが 「旅先でそれぞれの土地の美味しいものを食べる」 というのは100人の旅行者のうち98人までが旅の目的のひとつに数えているのではないだろうか。 あとの二人というのは、マクドナルドしか食べられないというアメリカのティーンエージャーと、世界中どこへ行くにも自動炊飯器と米を持参する日本のお爺さんぐらいだろう。

そこで、旅先の食事に4通りあるとしよう。
1 高いだけあって文句なしに美味しい。 (懐具合が許せば何度でも行きたいと思う)
2 高いわりには味はそれほどでもない。 (何となく損をしたような気になる)
3 安くて美味しい!  (薔薇色の人生)
4 安くて不味い。 (とにかく飢餓感の解消にはなる) 

ここで 「安い」 というのは 「高くない」 程度の意味で、本当にびっくりするぐらい安い食事なんて、ギリシャとかスペインの田舎にでも行かない限りどこの観光地へ行ってもめぐり会うことはないだろう。

我々がヴェネツィアに滞在した間に、最初に行った2軒のレストランは、旅行ガイドの強く推薦する 《1》 のはずの2軒だった。 それが僕らに言わせると両者とも、「目の玉の飛び出るほど高くてそれほど美味しいとは思えなくて、しかも気の遠くなるほど混んでいた」 のでがっかりしてしまった。 そのあと、行き当たりばったりで入った1軒の店は、前ほど高くなくて前ほど混んではいなかったが、味は前よりもずっと落ちた。
(これは何とかしなくてはならない) と僕らは考えた。 ヴェネツィアは世界で一番美しい都市であると同時に、世界一観光地化された土地でもあるのだ。  (これは何とかしなくてはならない)

こういう非常時にいつも本領を発揮するのが、わが Green Eyes なのだった。 ある日の午後、一人歩きから帰ってきた彼女は、夜明け前の探訪のあと疲れて赤ん坊のように眠っている僕をゆり起こすと、「見つけたわよ」 とひとこと自信ありげに静かに宣言をした。 それがこの写真のバールである。 表通りからちょっと路地に入ったところにあって、観光者につい見過ごされてしまうことを願っているような目立たないたたずまいの店だった。 ガラスのケースの中に豊富なチッケッティ (スペインのタパスのヴェネツィア版、つまり中国のヤムチャのようなもの) の小皿が並べられていて、ワインもそこらのレストラン顔負けの種類を揃えていた。 テーブルが8卓だけの狭いスペースに (戸外にさらに数卓)、兄弟らしい二人の若い衆がクルクルと手際よく動いていて、サービスは細かいところまで行き届いている。 入れかわり立ちかわりに来る客といえば明らかに地元の隣人たちばかりのようだった。 これこそ 安くて美味しい!  理想の場所であった。
僕らはそれからはここに毎日足を運んで、店の兄弟にも客たちにもすっかり顔を覚えられてしまい、みんなニコニコとして "Buon giorno!” と声をかけてくれた。
僕の失敗は、このバールの名前を完全に忘れてしまっていることだった。 でも、もう一度行けと言われたら,まっすぐにここへ行ける自信はあるんだ。

***

さてようやく本題のクイズに入ろう。
この写真の中に何人の人がいるのだろう?
今月もまた易しいクイズになってしまったようだ。

正解者の中から抽選で1名の方に、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい

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人が溶けるのを見た日

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昼下がりのバー
Miamisburg, Ohio USA


とにかく暑い。
夕方の6時だというのに気温は33℃から下がろうとしない。 電話で仕事の話をしていたフロリダの女性に、中西部の猛暑をニュースで見たけどどんなぐあいですか、と訊かれたので 「今日はダウンタウンの路上で人々が溶け始めているのを見ましたよ」 とアメリカ風の冗談で答えた。 すると彼女も
「それじゃあ、私の姑をそちらに送ろうかしら」 とこれもアメリカ風のジョークで答えたので二人で声を揃えて笑った。
朝から用事があって外に出ていた僕は、夕方になって無性に冷たいビールが飲みたくなり、近くのバーに車をとめた。 ビールを飲みたくなるなんて珍しいことだった。 酒なら何でもござれの、アルコール依存症の僕がふだん一番飲まないのはビールだった。 店の中は入ったとたんに鳥肌が立つほど冷房が効いていて、僕は気をそがれてしまった。 冷たいビールは汗をだらだら流しながら、渇いた喉に一気に流し込むべきものだと昔から信じていたからだ。
それでも気をとり直して、ビールといえば黒ビールの好きな僕はギネスを注文する。 そして出てきたギネスのスタウトはこれまた氷のように冷えすぎていて味も何もなかった。

ビールを心から旨いと思って飲んだのは、昔学生のころ荻窪に住んでいた時だった。 銭湯に行った帰り道にいつも寄る蕎麦屋で、熱(ほて)った身体に飲む冷たいキリンほどおいしいと思ったことは、そのあと一度もなかったような気がする。 銭湯に行くのが面倒になって迷っている時にこのビールの爽やさを思うと、それだけの理由で銭湯へ通った記憶があった。

この写真のバーは僕の仕事場の近くにあって、"Cold Beer and Cheeseburger" という長ったらしい名前を持っていた。 バーといっても美味しいチーズバーガーやピザなどを出すのでランチにはよく行ったものだ。 また揃えているビールの種類が実に豊富で、ほかの場所では飲めないようなヨーロッパや南米のビールがここでは飲むことができた。 ことに東欧のビールは僕の気に入っていたけれど、前に書いたように 「ビヤ ドリンカー」 ではない僕は店の常連になるということもなかった。
長く続いたこの店も数年前に閉じてしまい、そのあとはインド料理のレストランに改装されている。 あの、世界中のビールの広告がありとあらゆる空間に飾られていた独特の雰囲気が懐かしい。

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竹、竹、竹が生え

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松江市郊外



光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より纖毛が生え、
かすかにけぶる纖毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。
--------萩原朔太郎


詩集 『月に吠える』 や 『青猫』 を愛読したのは僕がまだ高校生のころだった。 ふだん誰もが使う日本語の言葉が、感性鋭い詩人の手にかかると、とたんに宝石のように光り輝くのはまるで魔術のようだ、と感嘆したのを覚えている。 ちょっぴり 「性」 の匂いが漂う朔太郎の詩を、高校生の僕がどこまで理解したのだろうかと危ぶむが、今読んでもその新鮮さはそのまま残っていた。
最近になって朔太郎の履歴を読んでいて、何となく自分の過去と重なる事実を知ったときに、改めてこの詩人に親近感を覚えた。 たとえば彼は若いときには文学だけではなくて、音楽や写真にも興味があったらしいのも自分に似ている。 マンドリンを本格的に習ったりして、後年には朋友の室生犀星の詩に作曲をしたものが残っているし、子供のころから写真を撮り続けていたらしい。 ミステリーがことに好きだったのは僕もそうだった。 結婚を2度しているところまで自分に似ていて苦笑してしまった。

そして、ああ・・・
似ていないのは才能だけ。

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5月のクイズの結果は・・・

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百日草


この色とりどりの花はヒャクニチソウ (ジニア) です。
11人の解答者の中、9人が正解でした。
そして抽選の結果は 「のほほん」 さんに決まりました。 たしか当選は2度目ですね。

のほほんさん、おめでとう。
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孤独な散歩者の午後

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Avignon, France


アヴィニョンの路地をうろうろしていたらこの一画に出てしまった。
見覚えのある 「騙し絵」 が壁一面に描かれている場所である。 実はこの同じ場所に僕は去年も立っていたのだ。 あの時はこの、精巧にできている騙し絵に魅せられて何枚も写真を撮った。 ところが撮ったものはあとで見ると満足のゆくものが1枚も無かった。 これなら旅行案内書に載っていた写真のほうがよっぽどうまく撮れている、と失望してその一連のショットは何もしないでそのままになっていた。
それから1年後の今日、この同じ場面に出くわした時に、よし、今度は失敗しないぞと、意気込んでカメラを取り出した。 去年の失敗のひとつの理由は、その時の光線のぐあいが悪かったからだ。 快晴の日の真昼間の、容赦の無い直射日光が真上から当たっていたために、壁の絵も石畳の道も汚く白茶けて見え、情景そのものが完全に立体感を失ってしまっていた。
ところが今日はうまいぐあいに、遅い午後の太陽が雲から出たり入ったりしていて、あの時よりずっと弱い光線が斜めに射している。 壁は完全な陰の中にあり、道の一部に横から当たっている光はかえって石畳の質感を強調していた。 僕はたて続けに立場を変えて数枚の写真を撮っていた。 そして思った。 (何かが足りない・・・)

その時である。 ひとりの老人が向こうから歩いて来るのが目に入ったのは。
その老人は手をうしろに組んで、背すじをシャンと伸ばして少しうつむき加減に、一歩一歩をゆっくりと確実に噛みしめるように歩いている。 角ばった肩には長い年月をかけて運んで来た人生の重荷はもう無く、今はその消えた重荷の行方(ゆくえ)を静かに思い返しているように見えた。 それはやるべきことをやり遂げた人だけが持つ、ゆっくりと遅いけれど自信に満ちた歩みだった。 彼の周りには目に見えない透明な膜のようなものが張られていて、外界からの煩らわしさをすべて拒絶しているような、孤独で一徹な空気があった。

僕は老人が近づいて来る前にすでに自分の立つ位置を慎重に選んでいた。 あとは待つだけ。
やがて自分が演出しようとしているこの舞台に、その老俳優はゆっくりと登場して来る。 そしてそこに立つ僕の存在を見事に無視したまま、またゆっくりと時間をかけて舞台の上手へと去って行った。
そのうしろ姿へ僕は声に出さないで呼びかける。
「さようなら、僕もいつかあなたのような老人になりたい」

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心のなかの旋律

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晩鐘
Greenfield Village, Dearborn, Michigan USA


それはまるで僕の心の海に1つの旋律がひっそりと棲んでいるようだった。
ふだんは深い海底にヒトデのように潜んでいて水面に上がってくることはないのに、時おり、何の理由も前触れもなくはっきりとその旋律が耳に聞こえてくることがある。 そんな時僕は無意識のうちのその単純でもの哀しいメロディを 口笛に出して吹いていたりする。 それがいつごろから僕の心に棲みつき始めたのかはわからないのに、昔10代のころにすでに口ずさんでいた記憶のようなものがあった。

ブラームスのハンガリー舞曲 第1番。
あの冒頭の弦楽器とフルートの掛け合いの旋律を聴くたびに、僕は 「何か」 を思い出しているような気がするのだ。 しかしその 「何か」 の正体は言葉で表すことのできないものだった。 そのハンガリーの古い舞踏のリズムに、土に生きる農民たちの足踏みや掛け声を聞き、輪になって踊り狂う彼らの喜びや悲しみを感じることができるのに、それがなぜ自分とこんなに強く結びついているのかは説明のしようがなかった。 強(し)いて言えば、自分が母親の胎内いたころ、あるいは前世とか異星に棲んだころの経験なのかも知れないと思う。

フランス人のGeroges Pretreというおっさんが、ドイツのシュツットガルトで指揮をしている。 指揮棒を使わないで、手と顔の表情でオーケストラを自在に統制しているのがおもしろい。


ハンガリアン・ダンス No.1




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遅れて来た女

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直線と曲線
Boylston Street, Boston, Massachusetts USA 1979


この写真のデリカテッセン "The Cutting Board" は僕の仕事場からすぐのところにあって、最近開けたばかりのちょっと洒落た店だった。 僕はここでその時、ランチデートに誘われた女性を待っていた。 そう、デートに誘ったのではなくて誘われたのである。 その女性というのは、僕の仕事場のすぐ向かいにあったレストランでホステスとして働いていた。 そのころの僕は仕事が終わったあと毎日のようにそのレストランへ顔を出すと、 バーに一人で座って酒を飲んで飯を食べるのを日課にしていて、そうしているうちに彼女と話を交わすようになっていたのである。 聞いてみると、もともと売れないイラストの仕事をしていた時にたまたまこのレストランのメニューをデザインしたのがきっかけとなって、そのままホステスとしてパートで働くことになったらしい。
彼女はアメリカ人の女の子にしては性格がずっとおとなしく、すべてに控えめで口数も少なかった。 その彼女から休みの日にランチに誘われた時にはちょっと驚いた。 気軽に男をデートに誘うようなタイプには見えなかったからである。 しかしかえってそれで僕は彼女の勇気を良しと思って、逆に好意を感じてしまったようだった。

その彼女が待ち合わせの時間が来ても現われない。 15分が過ぎ、30分が過ぎても現われなかった。 それまで店の中で待っていた僕はいったん外に出ると、どうしたものかと考えた。 人を誘っておきながら、と気分を害するよりも、そんな人だったのか、という失望感の方が大きかったようだ。 若い時は気が短くてプライドの高かった僕だから、普通ならさっさと帰ってしまったに違いないのに、なぜか僕はその時入り口の曲がり階段に腰を下ろすと、それからさらに30分も待ってしまったのである。

約束の時間からきっかりと1時間過ぎたところで彼女がその細い姿を現す。 嬉しそうにニッコリと笑う彼女の口からは 「ごめんなさい」 も遅れた言い訳も出てこなかった。 そしてあとになって分かったのは、彼女は約束の時間を1時間まちがえていたのである。

その彼女というのが現在の僕の妻、Green Eyes なのだが、僕があの時待たないであの場所を離れていたら、どうなっていたのだろう、と考える時がある。 二人の子供、マヤと太郎との出合いも無かったし、アメリカに何十年も居ついてしまうことも無かったろう。 (僕はその時ブラジルに渡る準備をそれとなく進めていた)。
今頃僕はいったい地球上の何処で何をしていたのだろう?
それは運命の神様にしか分からない。

ところで、我が Green Eyes は僕との最初のデートの時間を取り違えてしまうぐらいだから、時間というものを完全に超越して生きることのできる稀な種類の人間だということが、あとになって分かった。 彼女は "The Cutting Borad“ で僕に会ってから現在までに、約束の時間をまちがえたり、まちがえなっくても遅れたり、あるいはまったく約束を忘れてしまったりした回数は、3659回にもなる。



あなたの運命を決定するのは
チャンス(機会)ではなくて
チョイス(選択)なんですよ
Jean Nidetch


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