過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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賛美歌を聴きながら思ったことは

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河を渡って木立の中へ
Camp David, Catoctin Mountain Park, Maryland USA


今日は葬式に行ってきた。
たとえどんな葬式でも残された家族や友人や知り合いにとっては悲しいイベントには違いがない。 でもそうは言うものの、長い年月を精一杯に生きて高齢で亡くなった人の葬式には、「人生を全うした」 という思いが誰にもあるのだろう、遺族の表情や動作にも何となく余裕のようなものが感じられる。 悲しみの中にも故人を諦めることへの納得みたいなものがあるから、葬式もあまり湿っぽくなることはない。
だけど今日の葬式は違った。

知人の息子さんはオートバイに乗っていて事故に巻き込まれたそうだ。 その息子さんには僕は一度も会った事はなかったが、なにしろ25歳という若さである。 親としては納得もできなければ諦められるはずがないだろう。 両親である知人夫妻は、この苦痛を自分たちが死ぬまで引きずって行くに違いないと思うと、僕の胸はきりきりと痛んだ。 重い悲しみに包まれたミサが始まり、教会のベンチに腰掛けて聖歌隊の歌う賛美歌を聴きながら、僕はずっと昔に自分に起こったことを思い出していた。

オートバイは昔は単車と呼ばれていた。 (今でもそうなのかな?) 高校生の頃の仲間のひとりに、両親が商売をやっているのがいて、その家では数台の単車を業務に使っていた。 その単車をこっそり借り出して、僕ら数人の仲間は、登校する前の朝早い時間に近くの国道をすっ飛ばしていた。 もちろん免許なんて持っているやつは誰もいなかった。
僕らは早朝の冷たい空気の中で、畑中を抜ける国道の白いコンクリートの上を疾走する。 耳を裂くような排気音、全身を震わす激しい振動、そしてまるで空を翔(かけ)ているかのような錯覚を起こさせるすばらしいスピードが、それまで自転車にしか乗ったことのなかった16歳の僕らを、毒のように麻痺して麻薬のように恍惚とさせる。 僕らは500CCの重厚なメグロのボディに、あたかも凛々しい中世の騎士のように跨(またが)ると、恐れることを知らず未知の次元へとトリップして行った。

恍惚のあとには必ず破壊が訪れる。
ある朝、無謀な速度でカーブに進入して行った僕は、あっけなく転倒して意識を失ってしまう。
目が覚めたとき、自分はどこかの病院のベッドに横たわっている、という事だけは理解できたけれど、それ以外のことは何一つとして覚えていなかった。 僕の脳の中は、まるでリフォマットされたハードディスクみたいに、すべての情報がきれいに消失していた。 なぜ自分がそこにいるのか、いや自分が何者なのかさえも判らない。 すると、ベッドの横に一人の見知らぬ女が立っていて、その女は意識を取り返した僕の顔を覗き込むと 「わかる? 私がわかる?」 と訊いた。 僕がかすかに首を横に振ると、その女の眼にどっと涙が溢れてきた。

その女が自分の母だと思い出せるまでに、僕はまる二日間をその病院のベッドで過ごさねばならなかった。 事故にいあわせた仲間の話では、転倒する瞬間に僕の身体が前に勢いよく飛び出し、飛び出したときにオートバイのバックミラーに僕の革ジャンが引っかかって、そのまま僕は目の前のコンクリートにすとんと落ちて頭を打ったのだそうだ。 ヘルメット無しであった。 運が良かったのは、あとになって全身に打撲のすごい痛みを感じるだけで、どこも折れていなかったし脳内出血などもなくて強度の脳震盪だけで済んだ。 あとで見せられた革ジャンは、胸部が30センチほど斜めにザックリと裂けていた。 もし、バックミラーに引っ掛からないでそのまま前方にすっ飛んでいたら、と思うことがある。 不世出の September30 は存在しなかったかも知れない。
そして僕は人の子として考えられる最大の不幸を、自分の両親へ突きつけていたに違いない。 今日の葬式のように・・・

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川は流れる

僕のふるさとは海と山に挟まれた、山陰の美しい町だった。 昔は城下町だったその町にはあちこちに掘割や水路が散らばり、子供たちはそこでフナやザリガニを捕って遊んだ。 ハシゴほどの大きさの木の橋が無数に架かっていて、それを渡ったところにその家の裏木戸があった。 (掘割は現在ではすべて埋め立てられて跡形もない)。
この町の東側を南北にゆったりと大きな川が流れていて、それが日野川である。 そしてこの日野川は僕の少年時代の思い出に強く結びついている。

子供の頃は父がよく魚釣りに連れて行ってくれた。 釣ったばかりの鮎(あゆ)や鮠(はえ)を、父は小さな俎(まないた)の上で手際よく捌(さば)いたあと、コップ酒を飲みながらおいしそうに刺身をつついた。 そんな時の父は小学生の僕にはとても幸せそうに見えた。 僕は河原の真ん中に突き出た岩に腰掛けて、裸足の両足を水に浸したまま母の作ってくれたおにぎりを食べた。 時々は母も僕らについてくることがあって、日傘をさしながら糸を投げる母に餌をつけてやるのは父や僕の役目だった。 そしてその母の糸に魚がかかると、母は少女のような甲高い大声を上げて喜んだ。
よくいっしょに遊んだ近所のガキ友達のひとりが、ある夏の午後溺れ死んだのもこの川だったし、父のタバコを1本抜き取って、岩の陰に隠れて初めての喫煙に死にそうにむせたのも、この河畔だった。

高校に行くころになると、ひとつ年下の女の子と恋のまね事をしていた僕は、ふたりでよくクラスを抜け出して、校門前からバスに乗って日野川までやって来た。 学校から日野川までは真っ直ぐな道でバスで15分くらいの距離である。 小石だらけで歩きにくい河原を僕らはあてどなく歩き、ある時、自分たちの背よりも高いススキに囲まれて初めてのキスをした。 その時の冷たくて柔らかい唇と、かすかに石鹸の匂いのする肌の感触を、僕は今でも昨日の事のように鮮やかにはっきりと思い出すことができる。

またある時は、神田神社の夏祭りの夜、白い浴衣を着て団扇(うちわ)を持ったたその子と日野川の土手に腰をおろして、遠い夜空に打ちあがる花火を見ていた記憶もある。 下くちびるの真ん中に、ポツンと筆で突いたような、小さなほくろのある可愛い子だった。

遠い遠い記憶である。


川は流れる
仲宗根美樹

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写真のブログなのに、写真のない記事を書いたのは今日が初めてだ。 懐かしいふるさとの川の映像をここに載せることができないのがどんなに歯がゆい事か分かってもらえるだろうか。 そのふるさとへ僕はもうすぐ帰ろうとしている。 その時は、きっと僕はこの川の河原にもう一度立っているだろう。 そしてその時に撮るだろう写真を、いつかそっと、このページの冒頭に付け加えよう。

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8月のクイズの結果は・・・

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つちぶた Aadvark
『動物の絵本』 より


今月のクイズは16人の解答者がありながら正解をくださったのは6人、と思ったより少なかった。 我が Green Eyes の絵にも責任があるかのも知れない。 抽選の結果は “kentilford” さんです。

それから正解者の1人であったOさんが、実に的確で詳細な説明を書いておらるので、それをそのままここに借用させて頂くことにした。 (Oさんは残念ながら抽選には洩れてしまったけれど)


和名:ツチブタ
英語名:Aardvark
動物界 脊索動物門 哺乳綱 管歯目(ツチブタ目) ツチブタ科 ツチブタ属

和名ツチブタは、アフリカーンス語またはオランダ語の「aardvark(aarde:土、vark:ブタ)」からの訳語とされる。
名前は「ブタ」ですが、ブタとは何の関係もない動物です。
生息地ではムハンガと呼ばれ、食用や薬用にされている。また歯や爪をお守りとして利用する民族もいる。

その他の名称
Deutsch: Erdferkel
Hrvatski: Afrički mravojed
Norsk (bokmål)‬: Jordsvin
Português: Aardvark


kentilford さん、おめでとう。
住所氏名を非公開コメントにして送ってください。
お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のないばあいは棄権として次の方を選びます。

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よく働く日本人

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東京首都圏


「あなたの生活で一番大切なことは何ですか? そして二番目は?」
という質問を平均的なアメリカ人に訊ねたとしよう。
どのくらいの割合になるのかは分からないけど (たぶん圧倒的な多数で) 次のような答えになるのは間違いない。
1.家族 2.仕事
それじゃあ同じ質問を平均的な日本人に投げてみよう。 すると、
1.仕事 2.家族
となるのは、皆さん異論は無いんじゃないかと思うんだけど。

日本人の働くありさまを見ていると 「命がけで」 という副詞を付けてもけっしてオーバーではないという気がする。 頭が良いうえに制度や伝統に従順な日本人が命がけで働いたから、日本は世界有数の経済大国になることができた。 その日本人に仕事の話をあれこれと聞くたびに、アメリカに長く住んで日本でサラリ-マンをやった経験の無い僕にとっては、びっくりしてしまうことが実にたくさんある。
仕事に命をかける日本人と、仕事には命をかけたりしないアメリカ人・・・
それでは、平均的なアメリカ人の職場では当たり前のことなのに、平均的な日本人の職場ではほとんどありえないことを、思いつくままに書き出してみよう。
  • 終業時間がくればたとえ仕事の途中でも帰宅をする。
  • 朝起きて気分が悪ければ会社に電話を入れて仕事を休む。
  • 有給休暇は最初の年は年に1週間、数年たてば2週間、10年以上勤めれば年に3週間から4週間の有給休暇をもらう事ができる。(一度に全部を取るのは無理としても)
  • 週40時間が基本勤務となっていて、それ以上働いた場合はオーバータイム(超過勤務手当)がつく。 超過勤務手当は週日なら時間給の5割り増し、土日に仕事に出た場合は10割増し、というのは法律で定められている。 時間給ではなくてサラリーで給与を受ける人にはこれがふつうは適用されないが、最近ではサラリー雇用者でもたとえば50時間以上働くと、時間給に換算してオーバータイムを支払う会社が増えてきている。 (その場合は割り増しなしでフラットの時間給となることが多い)
  • 履歴書にはいっさいの個人情報を記入する必要がない。年齢、未婚・既婚、家族構成、国籍、などは履歴書には記載されないばかりか、たとえ面接でも雇用者が質問をするのは違法となる。
  • 求人の広告に男女・年齢の差別が指定されることは絶対にありえない。
  • セクシャルハラスメントに関しては極端に厳しく、たとえば男性社員が女性社員の容姿や服装を褒める事さえ問題になる場合がある。(批判する場合はもちろんのことだ)
  • たとえパートタイムでも、週に30時間以上の労働であれば正社員と同様の福利厚生 (生命・健康保険、有給休暇、ボーナス、年金など) を受ける。 (これは州法だから、州によっては少し違うかも)
  • リタイア(定年) は65歳というのが (一応) 常識になっているけれど、日本と違って65になれば自動的に定年ということは無い。 本人が希望すれば会社に残ることができる。 仕事を続けたいという高齢者のクビをきるのは不当解雇と見なされる。 65歳でリタイアする人が多いのは、国民年金の支給が65歳から始まるというのが大きな理由なのだ。 またさらに、国民年金の支給を受けながら仕事を続けることも、もちろん構わない。


こうやって書き出してみると実にキリがない。 あとからあとから出てくる。 アメリカと日本の比較をもし仕事に限らず、日常生活での習慣や人々の気質まで含めるとしたら、それこそ一冊の本が書けそうなぐらいにいろいろな事がいっぱいにある。


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8月のクイズ

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『動物の絵本』 から
By Green Eyes


2年ほど前に我が Green Eyes が作成した子供のための 『動物の絵本』 にこの生きものが出てくる。
アフリカ産の珍しい動物なんだけれど、日本の動物園でも見ることができるそうだ。 これはいったい何と呼ばれる動物なのだろう?
というのが今月のクイズです。
答えは英名でも和名でもかまいませんが (両方だと完璧)和名での呼び名は動物学的には必ずしも正しくない、というのがヒントになるかも知れないね。


正解者の中から抽選で1名の方に、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい

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自分の中への旅

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船遊び
松江市


僕のブログにも人並みに 「カテゴリー」 と呼ばれるものがあって、書かれた記事の内容によって(一応は)分類をするようになっている。 (この記事のすぐ右端を見ていただくとそこにカテゴリーの欄がある)。 この機能がどの程度読者に貢献しているかは僕には分からない。 でも記事の作者である僕自身にとっては、以前に書いた記事を検索する時などに便利なこともある。 ひとつの記事を書いたあとで、さてどのカテゴリーに加えるかは当然ながら記事の内容によるわけだけど、時には複数の分野にわたる文章もあるので、そういう時にはちょっと考えてしまうことがある。

ところで、数のあまり多くない僕のカテゴリーの中に 「旅」 というのがある。 言うまでもなく、書かれた記事が旅行に関することならこの分野に入ってしまうわけだけど、最近ちょっと気がついた事がある。 というのは、アメリカ国内やヨーロッパでの旅行の記事を書く時はまったくそんなことはないのに、日本に行った時の記事を書く時に限って、「旅」 のカテゴリーを指定するときにいつも少しだけ迷ってしまう自分がいるのだった。 僕が単純に日本国内での旅の経験を書いているのか、それともその旅をしている自分について書いているのか、と考えてしまうのである。 もし後者なら他のカテゴリーに入れるの適当だろうから。

なぜだろう、と考えてみるがどうも判然としないのだ。

僕にとっては日本へ旅をすることは、ただの旅行以外の 「何か」 であるのだ、としか言いようがない。 そしてその 「何か」 とは通常の旅行で僕が感じる、興味、好奇心、冒険心などよりも何かしらもっと深いものであるようだ。 強いて言えば、過去に僕が失ってしまった(と思っていた)ものへの回帰、僕という人間をかたち造っているものへの当ての無い探究、とでも言えば近いかも知れないと思う。 日本へ帰って旅をする事は僕にとっては、自分の心の中への旅路なのだろう。

以前 僕をめぐる三人の女 で僕の心を占める三人の女性を書いたのだけれど、その時の気持ちは今もまったく変わらない。 母に会うために僕は日本へ帰り続けるのだと思っている。

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糸のつながり

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タイムマシーンから降りたところは・・・
米子市


僕が日本を離れてからもう41年が過ぎてしまった。
その最初の24年間、僕は一度も日本に帰らなかった。 帰らなかったばかりか、電話も手紙も、あらゆる形のコミュニケーションをまったく遮断していた。
そう。 僕は日本を棄てていたのだ。 なぜそんな事になったのかは前にも書いたのでここではくり返さないでおこう。 今日書きたいと思っているのは、その僕が24年ぶりに母国日本の地を踏んだ時のことなんだ。

もう帰ることはないかも知れないと思っていた日本へ帰るのは、もの凄い勇気を僕に強いていた。 インターネットなどのグローバルな情報網はまだ無い頃だったから、変わり果てた日本がどうなっているのかは、僕の想像の領域をはるかに超えていた。 それに日本には僕の家族はすでに存在しないとはいっても、あちこちに散らばっている親類たちには、僕は合わす顔がなかった。 そんな中で昔と変わらず 「よう!」 と言って迎えてくれたのは古い友人たちだった。

タイムマシーンに乗って日本に降り立った僕の心は、新宿の雑踏を歩いて夥しい数の日本人に囲まれながら異様に混乱していた。 群衆のあの顔もこの顔も、男も女も、老人も若者も、自分のよく知っている顔のように見える。 思わず目が会うと 「やあ! 久しぶり!」 と声が出てしまいそうだ。 それでいながら彼らの目は僕を見ていながら僕を見ていない。 「おい、俺だよ。 帰ってきたんだよ、同胞たち」 と言っているのに、その声はもちろん彼らには届かないでそのまま自分の胸に返って行く。 電車に乗ってもデパートへ行っても居酒屋に座っても、自分を取り巻く見知らぬ日本人たちと自分との間に、目に見えない糸のような繋がりが存在するのを、僕ははっきりと感じることができた。 アメリカに長く暮らしていながら、そんな不思議な感覚はただの一度も持ったことが無かった。 告白をしよう。 それはけっして嫌な感覚とは言えず、むしろ僕にほっとさせるような安心感を与えていた。 そうか、これが 「種族」(ホモジーニアス) ということなんだな、と僕は生まれて初めて悟っていたようだ。
そういう蜘蛛の巣のように張りめぐらされた人間関係から逃げ出したくて、24年前に日本を離れたのに・・・



そうだ。 僕らはある意味では孤独であるけれど、ある意味では孤独ではないのだ。
村上春樹


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祖国はありや?

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朝食 99セント
Boston, Massachusetts USA


このサンドイッチ屋はボストンのニューバリー・ストリートにあって、その頃しょちゅう足を運んだと思うのになぜか記憶にまったく残っていない。 写真を見ても懐かしいという感慨も湧かなければ、自分がそこに居た、という実感が皆無なのだ。 あるいは僕が常連になっていたのはここではなくて、これはただ通りすがりに写真を撮っただけなのかもしれない。 なにしろ35年も前のことだ。
このメニューで見ると、3エッグにベーコン/ハム/ソーセージのチョイスがあり、それにホームフライとティーかコーヒーが付いて99セントということだ。 こんな朝食のスペシャルはどこのレストランでもやっていたし、いまでももちろんやっている。 現在なら同じ朝食を食べて、おそらく3ドル前後じゃないだろうか。 その下の ‘ホットドッグ 45セント’ が今では1ドル50セントから2ドル、その横の85セントのローストビーフをロールに乗っけたのが今ではやっぱり3ドルくらいかなあ、と思う。 とするとこの35年で物価が3倍になっているわけだ。 たしか僕の安アパートのレントが150ドルだったような気がする。 あのてのアパートは今なら600ドル以上するだろうから、これは4倍。 また、あの頃はタバコ1箱が50セントだったのを覚えてるけど、今は5ドルもする。 10倍になっているわけだけど、これは国民に禁煙を促すために税金をうんと引き上げたので特殊な例といっていいだろう。

話は少し変わるけど、昨日ニュースを聞いていて驚いたのは日本円の相場が高騰し続けてとうとう75円になったという。 株式や相場などの経済事情にはまったく疎い僕にも、これは大変な事だと理解ができた。
ドルと日本円のレートで覚えているのは、1ドルが360円という固定レートが20年以上も続いたあと、僕がアメリカに渡って来た1970年代にはそれが300円に変わっていた。 それからあとは誰もが知るように円は騰がる事はあっても下がる事はなく、とうとう昨日には75円という史上で記録になる数字になった。 そしてそんな時期に僕は日本帰国を予定している。 これはあんまり賢明ではないということはよく分かる。 あくせく稼いだ金の何分の一かを棄てているようなものだろう。 それにもかかわらずあの優しい懐かしい祖国へ帰ろうとしている自分に、外国に暮らす日本人としての宿命のようなものを感じる。


自分にも祖国があったと気づくのは、いつもそれを失おうとしている時のようだ。
Albert Camus





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フィラデルフィア物語 (3/3)

101212

帽子
Boston Common



僕は、ある日突然仕事をクビになってしまった。
ここで自分の名誉のために記しておくと、僕は決して、会社の金を使い込むとか、社長夫人と不倫の関係を持つとか、出入りの業者から賄賂を取るとか、クビになっても仕方のないような事をやらかしてクビになった訳ではない。 真相は、社内の派閥争いの犠牲になっただけだったんだ。 何の派閥なのか、また何のための争いなのか新顔の僕は全く知らなかったし、もともとそういう政治的な事にはまったく無関心な自分だった。 ただホテル内部に二派の対立があるという事は、来た時からうすうす耳に入っていた。 僕にとって不運だったのは、自分の直接の上司である重役が、抗争に敗れた一派のリーダーだったというだけで、何の責任も無い自分にも、とばっちりが来たのである。

僕の上司はあっという間にどこかに姿を消してしまい、僕はある日、勝利派の重役に彼の室へ呼び出された。 この男は50代半ばの痩せて背の高いチェコスロバキア人だった。 その彼が訛りの強い英語で説明する。 今回僕の上司は訳あって職を退いたこと、それに続いてかなりの人事の異動や経営の見直しが予定される事。 たとえば給与の高い日本レストランのマネージャー(僕のことだ)はアメリカ人と入れ替えて、シェフ達の給料も見直しをすること、レストランのスタッフに無料で支給されているアパートも、今後はレントを課すことなどだった。 僕は何も言うことがなかったので黙ってふんふんと聞いていたが、最後に彼は面白いことを言った。
どこで調べたのか、この男は僕の前身を知っていて、レストランの仕事が終了しだい、2ヵ月間だけ2階のラウンジでピアノを弾け、と言うのだ。 そしてその間は今まで通りアパートもタダで、給料も今まで通りに呉れると言う。 僕はこれもふんふんと言って聞いていた。 たしかに僕は給料をもらい過ぎている、とは自分でも思っていたから、減給をされても文句は言わないつもりだったのに、解雇されてしまったことには少し驚いた。 あとで分かったのは僕のあとに日本レストランのマネージャーになった男というのは、かれの子分の一人だった。 僕に2ヵ月のピアノの仕事をくれたのは、彼なりの温情だったのだろう。

それで最後の二ヵ月間は、毎晩7時から夜中の1時までピアノを弾くことになった。 これがまた馬鹿みたいに楽な仕事で、外から来るショーとショーの合い間に、30分ずつ数回にわたってピアノの前に座って、何か音を出していればよいという仕事だった。 このラウンジには毎夜いろいろなショーが入っていて、バンドだけではなくコメディアンとか奇術師が出ていた。 時折 “The Carpenters” や "Sonny and Sher” のような名の売れたグループが入ることもあった。 そんなショーがステージで進行している間、僕はバーの片端でスコッチを飲みながら、ショウを見たり聴いたりしていれば良かった。 僕にこの仕事をくれたチェコスロバキア人の重役は毎晩のようにちょっとだけ顔を見せて、その度に決まって、映画 『ドクトルジバゴ』 の主題曲を僕にリクエストするのには閉口した。

そうやって2ヵ月が過ぎるとピアノの仕事も終わりが来た。 僕は 「プロシャの王様」 における唯一の戦利品ともいえる中古のマスタングに写真の機材を詰め込んで、またボストンに戻って来た。

見切りをつけて出て行ったボストンだったはずなのに、久し振りに帰ってみるとやはり懐かしかった。 別れた妻はすでに日本に帰国したあとで、道でばったり会うようなことも無く、季節は春からに夏に移ろうとしていて、ボストンでは一年を通してもっとも気持ちの良いシーズンだった。 暗い気持ちを引きずって都落ちをした時と違って、僕には今では銀行の口座に幾らかの貯えもあったし、車を所有したり、写真の機材なども以前欲しかったものをほとんど手に入れていた。 そして何よりも、僕は精神的にずっとリラックスしていた。
眼に眩(まぶ)しい初夏の陽射しを浴びて、ボストンコモンの雑踏をぶらつきながら、今度こそ何か良いことが起こりそうな、そんな予感がしていた。 

(終)


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フィラデルフィア物語 (2/3)

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鉄道員
King of Prussia, Pennsylvania USA



僕はレストランの仕事にすっかり慣れてきていた。
予約の客しか受け付けない週末の夜など、目のまわるように忙しい時間が数時間あっても、それもあっという間にピークを過ぎてしまうので、仕事は決してきついとは言えなかった。 ここのホテルには僕がマネージャーとして勤務する日本レストラン以外に、大小3つのレストラン、ショーの入る広いラウンジ、それにバーやディスコなどもあって、フィラデルフィアの都市の喧騒を嫌う若者たちの格好の遊び場になっていたようだった。 階下のディスコで女の子をつかまえた男達が、予約無しで僕のレストランに上がって来ると、決まって僕の手に20ドル札を握らせて席を買おうとした。 そのためにどんなに混んでいてもいつも幾つかの空席を確保しておく、などというマネージャーとしてのテクニックも覚えた。

時が経つにつれて僕の生活はずっと楽になってきていた。 レストランで働いているから食費はまったくかからない。 住んでいるアパートもタダだし、ホテル内のレストランやバーならどこで食べたり飲んだりしても、サインひとつで済んでしまう。 僕のようなレストランのマネージャーはホテルでは課長扱いなので、すべて業務上の経費として落とせるのである。
そのうえ僕のレストランはランチが無くディナーだけの開店なので、週に6日の勤務といっても毎日ゆっくりと午後の3時か4時に仕事に出て行けばよかった。 夜中過ぎに仕事を上がったあとは階下のバーで飲んだり、シェフ仲間と麻雀をしたり、暗室代わりのベッドルームで写真の焼付けをしたりして、退屈だと思ったことはなかった。 そして週に1度の休みの日には、僕は写真を撮りに出かけたり、女の子を誘ってフィラデルフィアの街に遊びに行ったりした。

それがある日、僕は突然仕事をクビになってしまったのである。

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