過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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珊瑚の耳飾り (2/2)

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少女
Isle sur la Sorgue, France


連れを失った僕がひとりで気ままに歩き回っているうちにこの美しい少女に出会った。 飾り気の無い素朴な胸像である。 はっと胸を打たれた僕が遠くからまじまじと見つめたり近づいて手で触れたりしていると、店主のオヤジがそばにきて、「この子を連れて帰ってやってよ。 きっとあんたの人生を豊かにしてくれるよ」 なんてポン引きまがいのことを言うので、半分その気になって試しに両手で持ち上げてみると、クレーで作られたその彫刻は簡単に持ち上がらないほど重い。
「アメリカまでは無理だよ。 残念だ」 と僕は言うと少女の額にさよならのキスをしてそこを離れた。

公園のベンチに腰掛けて、子供たちが犬と遊んでいるのを眺めながら、僕が考えていたのは先ほどの珊瑚の耳飾りだった。 Y子さんは目に入るものをなんでも気軽に買ってしまうような性格ではないことを僕はよく知っている。 あれはほんとうに気に入ったのではなかったのだろうか。 そう思うと僕はいきなり立ち上がって最初の店へ向かって急ぎ足で歩いていた。 そしてあれからもう二時間以上が過ぎていたのに、その耳飾りはちゃんとまだそこにあったのである。
店主のお兄さんと英語で二.三度ネゴシエーションをくり返した結果、25ユーロで話がついた。 それから僕が彼に頼んだのは、先ほどの日本女性が戻ってきたら、それを買ったのは僕だということを言わないでほしい、ということだった。 彼は笑って僕にウィンクをすると 「了解だよ」 と答えた。


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約束の待ち合わせ場所はソーグ川に架かる橋の上ということになっていた。 やがて次々とみんなが現れる。 かんじんのY子さんも幾つかの包みを両手に下げて姿を見せると、僕の顔を見るなりすかさず言った。
「やっぱり売れちゃってたわ。 あ~ん、あの時買えばよかったなあ」 としょげている。
「ほんとに惚れたのなら迷わないで自分のものにしろ、という教訓かもしれないよ。 物でも男でも」 と傷口に塩をすり込む僕。
「あんな変わった細工のは見たことがなかったのよ。 長過ぎず短か過ぎずで私にぴったりだったのに」 と彼女は後悔に苛(さいな)まれていた。
「珊瑚の耳飾りは珊瑚礁のかなたに儚(はかな)くも消えてしまったというわけか」 と僕が追い討ちをかける。
「もういい。 きっと縁がなかったのよ」 と彼女はすこし悲しそうだった。
「こういうのを縁というんだろう」 と言って僕がポケットからじゃらじゃらと裸の耳飾りを取り出して彼女の顔の前に吊り下げた。
彼女は言う言葉もなく目を丸くしてその耳飾りを手に取る。 それから嬉しそうな笑いを顔中に広げて言った。
「あなたって、もう・・・。 五十年もつきあってるのに優しいのか意地悪なのかいまだにわからないんだから」。

その珊瑚の耳飾りは、こんな男と五十年もつきあってくれている彼女へ、僕からの数少ない贈り物のひとつとなった。


***

この楽しい旅の話は以前に何度か書いている。

人のいないポートレート
カマルグの白い馬
プロヴァンスの旅


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珊瑚の耳飾り (1/2)

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蚤の市
Isle sur la Sorgue, France


プロヴァンスの南部に位置したこの小さな町はアンティークの店が多いことで知られている。 そのうえ毎週日曜日には近隣から業者がなだれ込んで町中の路上に何百という店を出す。 蚤の市の規模としてはフランスでも一.二を争うそうだ。
その日曜日の朝早めに我々の一行が到着した時間には、すでにかなりの人が出ていた。 今日のヴォクルーズ地方はすばらしい天気となり、この町を抜けるソーグ川にはきれいな水が流れていた。 川といっても小川を少しだけ大きくしたような、ちょうど掘割といった感じである。 その川に沿って、洒落たガラクタから高級アンティークに至るまでありとあらゆる物が延々と並べられていた。
いつものように集合する場所と時間を決めると、皆はそれぞれの方角に散って行った。 女房と娘は二人でつるんであっというまにどこかへ消えてしまうし、パチクリはこの町出身のレジスタンス詩人、ルネ・シャールの足跡を辿るべくこれもいなくなる。 アメリカ人のM夫妻はといえば、骨董に目のないM夫人が必死に掘り出し物を探索するうしろから、ご主人が忠実な護衛犬のようについて回るのはいつもと同じ。 そして今日はそのまたあとを彼らの息子のJ君がついていくのだろう。 というわけでなんとなくあとに残されたY子さんと僕の二人はいっしょに連れ立って歩くことになった。




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歩き始めてすぐの数店目で、Y子さんは立ち止まるとテーブルの上から何かをつまみ上げた。 珊瑚の耳飾り。 鮮やかな紅色の、耳につけると長くてぶらぶらと揺れるやつだ。 35ユーロの値札が下がっていた。 今すぐにも買いたそうな彼女の様子を見て僕は
「おいおい、早すぎるんじゃないの。 今始まったばかりだよ。 もっと安くてもっといいのが他にあるかもしれないのに」 とブレーキをかける。
「だってもしほかに無かったらどうすんのよ。 それまでにこっちは売れちゃうだろうし」 とY子さんは口をとがらせていちおう反抗の気配を示したが、僕の言うことに一理あると思ったらしくて、その耳飾りをテーブルに返した。

それからしばらくするうちに、ゆっくりと丹念に見ていくY子さんと、あれこれ動き回りながら写真を撮る僕とのあいだがしだいに離れていって、しかもどんどんと数を増していく群集の中で僕はY子さんを見失ってしまったのである。

(続)



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サンタは来るか?

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サンタは来るか?
Beavercreak, Ohio USA


12月24日、クリスマス・イヴの日。 世界中の子供たちが朝からわくわくとしてなんとなくおちつかない一日を過ごしているにちがいない。 今年はサンタが何を運んできてくれるのか。 ウィッシュリストに載せた品目の中から、サンタが何を選ぶのだろうか。
そういえば僕もそうだった。 あくる朝眼を覚まして、枕元に置かれた幾つかのプレゼントを見るときの興奮はいまでも覚えている。 プレゼントはいつも母のストッキングにぎゅうぎゅうに詰められていたものだ。 小学生の僕がサンタの存在を無邪気に信じるような子供だったかどうか疑問だけど、といってプレゼントは両親が買ってくれるのだというはっきりとした意識もなかったような気がする。 つまり、そのへんのところをなんとなく曖昧にしておくべきだろう、と子供心に理解していたようだ。 しかし小学校に入る前の僕はたしかにサンタの存在を信じていた。 我が家にはサンタが空から降りてくるような煙突もないし、いったいどこから入ってくるのだろう。 今年こそは寝ないでそれを見届けようと、必死の思いで起きていても、そのうちいつも必ず眠ってしまう。 それが悔しくて悔しくてしようがなかった。

どんなプレゼントが母のストッキングに詰められていたのかはほとんど記憶がないが、いつも必ず何冊かの本が入っていたのは確かだった。 「フランダースの犬」 だとか 「岩窟王」 だとか 「小公女」 だとか 「三銃士」 だとか。 本以外で覚えているのは、ある年にサンタがハーモニカをくれたことがある。 そのころすでにピアノのレッスンにつかされていた僕だったが、このハーモニカにはすっかりハマってしまって (すぐハマってしまうのだけは今でも変わらない) 毎日ブカブカと吹いていた。 そしてすぐに気がついたのは、ハーモニカという楽器はピアノとちがって半音がないという重大なそして致命的な欠陥だった。 それで母は半音高いハーモニカをもう一本買ってくれて、その二本を重ねて吹いたり、メロディを吹きながら舌を使ってジャッジャッジャッと伴奏を入れるというハイテクニックを学んだ。

そんな思い出のあるクリスマスだった。 サンタが本やハーモニカといっしょに僕にくれたのは 『夢』 以外の何ものでもなかった。

日本の、ドイツの、イタリアの、アメリカの、ロンドンの、モロッコの、スイスの、カナダの、リトアニアの、パリの、中国の、オーストラリアの、ニュージーランドの、ポーランドの、バルセロナの、シンガポールの、スェーデンの、ロシアの、そのほか世界中に散らばっていつも僕のつたないブログを訪ねてくれている日本人の皆さん。 ありがとう、と心の底から言いたい。

メリー・クリスマス!

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トイレとお手洗いの違いについて

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川の見える部屋
三朝温泉 『旅館 大橋』


「トイレ」という日本語が僕はどういうわけかあまり好きではない。 時々しか帰らない日本だけど、その日本に滞在するあいだこの言葉を自分が口にすることはあまりないことに気がついた。 あまりない、ということは時には口にしているわけだけれど、それは会話の中でのトイレ、たとえば 「洗面所はトイレの横だよ」 とか 「M君は今トイレにいってる」 とか。
そうではなくてあらたまって 「トイレはどちらですか?」 のように人に訊く時のことを僕は言っているのである。 「トイレ」が嫌いならじゃあ何て呼んでるのか、というとそんなに選択肢があるわけではない。 「便所」はあまりにも肉感的でストレートだし、「雪隠」(せっちん)や「厠」(かわや)や「手水」(ちょうず)などは美しいけれど何しろ古くて話にならない。 というと後に残るのは「お手洗い」ぐらいしかないのだ。 だから僕はほとんどの場合、「お手洗い」といっているのである。

「トイレ」の日本語の響きを僕がなぜ嫌うのかと考えてみるとそれにはどうも二つの理由があるようだ。
ひとつは、両親が幼い子供に自分たちを「パパ、ママ」と呼ばせるのを聞いた時に感じるものに似ている。 「お父さん、お母さん」という決定的に優秀な名称があるのにもかかわらず、なぜそんな事をするのか?

「トイレ」が嫌いなもう一つの理由は (そしてこちらの理由のほうが大きい) どうも無意識のうちに自分が英語との関連にこだわっているかららしい。 英語の "toilet" はもちろ常用語なんだけど、それが使われる時にはどちらかというと「便所」とか「便器」という意味あいが強いようだ。 だからアメリカ人が 「トイレはどちらですか?」 と訊く場合 "Where is the toilet?" と言うことはまずない。 たいていは "Where is the bathroom?" (これが一番多い) とか、"Where is the men's room?" 女性なら "Where is the lady's room?" となる。
アメリカに長く住む僕はどうも洗脳されてしまったようで、トイレという言葉から化粧室や浴室を連想しないで、そのものズバリのトーヨートーキを思い浮かべてしまうのである。

三朝温泉で泊まった「旅館 大橋」の手洗いは外から見ると「厠」(かわや)と呼ぶのがぴったりの風情だった。 母屋から裏の三朝川に突き出していて、用を足しながら窓の外の季節の移り変わりを眺められるようになっていた。
ちなみに、「厠」を大辞泉で見ると、

《川の上に設けた川屋の意とも、家の外側に設けた側屋の意ともいう》 便所

となっている。 まさにここの厠そのもじゃないか。

三朝の記事は前に書いているので興味のある方は『三朝にて』をチェックしてみてください。


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「イエス」 と 「ノー」 のあいだで

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おしどり夫婦
松江市 フォーゲルパーク


先日、シンシナティのイミグレーションのオフィスまで出向いた。 十年ぶりのグリーンカードの更新手続きのためだ。 アプリケーションの書類は今では自宅にいてインターネットですべてできるようになっていて、それが無事に承認されると今度は写真を撮ったり指紋採取のために最寄りのオフィスまで呼び出されるわけだ。 指定された日時にシンシナティのダウンタウンにある厳(いか)めしい連邦ビルディングまで行って、入り口で携帯電話を取り上げられたあとX線のゲートをくぐって中に入る。 僕の出頭すべき室が1524号室なので15階の24号室だろうと見当をつけてエレベーターに乗った。 乗ってから15階のボタンを押そうとしたら、なんとこのビルには15階が無いのである。 ギョッとしてホールでまごまごしていると警備員が近づいてきた。 それでわかったのは、僕が行くのは1階の524号室だった。

1524号室では受付の窓口に中年の女性がいて、ビジネスマンらしい日本人と対応していた。 聞くともなしに彼らの対話が聞こえてくる。
「アポイントメントの手紙を持参するようにと言ってあるんだけど、それは持ってこなかったんですね?」
「はい」
「じゃあそれを見せてください」
「だから、それは持ってこなかったんです」
「????」 と受付の女性は不思議そうな顔で彼を見つめる。

そうか、と僕は考える。 最初の質問に彼は 「いいえ」 と答えるべきだったのだ。 日本にいれば 「はい、持ってきませんでした」 で何の支障も無く通じるのだけど、英語はそうはいかない。 まったく逆になるのである。 「いいえ、持ってきませんでした」 と答えるべきだった。 決定的なトラブルになることはないだろうけど、そこで会話がちょっとだけつまずいて双方がいらいらしてしまうことになる。 いや、もしこれが法廷での証人尋問かなんかだったら、本人の証人としてのクレディビリティ(信憑性) を疑われてしまうというようなことは考えられる。

それではそういう僕自身はどうだろう。 同じ間違いを (というか逆の間違いを) 英語に慣れた僕が日本でやっているか、と考えてみる。
「日本での住所はお持ちにならないんですか?」 と関西空港内で携帯電話のレンタルの窓口で訊かれたときには、ちゃんと 「はい、持っていません」 と答えたと思う。 同じ質問を英語で訊かれたとしたら即座に "No, I don't" と言うところだ。
ということは僕は無意識のうちに二つの言語を使い分けているということになる、と思って少し安心をした。 そうでなくても普段おかしな日本語を口にしたりして、友人たちから 「お前さんはアメリカ人だからなあ」 と笑われる度に、ちょっぴりとだけ気分を害したり哀しくなったり、すこしづつ自信を失いつつある自分だったから。


* この記事と今日の写真とどんな関係があるかって?
う~ん。 こんなのはどうだろう。

「私は化粧っけもなくなって薄汚くしてるのに、あなたってますます妖艶ね。 近所のメス鳥たちが盛んに色目を使ってくるし。 あなた、お隣の奥さんのこと嫌いじゃないんでしょう?」
うん、嫌いじゃないよ。 きみみたいなおしゃべりで焼きもち焼きじゃないしね」

ちょっと苦しかったかなあ。


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12月のクイズは思わぬ結果に・・・

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もっともっと
Puerto Vallarta, Mexico


実はちょっと困ったことになってしまった。 寄せられた幾つものタイトルを読むと、ユーモラスなもの、空想に富んだもの、説明を読んではじめてその意味がわかったものなどある。 そして投稿してくれた人のほとんどがタイトルだけではなくて、そこへ行き着くまでの過程を丁寧に説明してくださったので、それを読んでいるとどれも 「なるほどなあ」 と思えるのである。
同じオブジェクトを見ても人によっての感じ方がちがう、ということは十分に予想していたつもりだけれど、ここまで多様だとは思っていなかった。 写真の作者である僕の情感にすごく近いものもあれば、あっと思うほどかけ離れているものもあった。 そして僕は思った。 そのなかのどれが正しくて、どれが適当でないなどと、作者にも誰にも言う権利などないのだと。
この中に僕が好きだと言えるものはある。 でもそれをもし僕が選択してしまえば、選択されなかった人たちがこの写真に持ったフィーリングはどうなるのだろう、と考える。 何よりも大切なのはその個々のフィーリングであって、それに比べれば僕の好き嫌いなどどうでもいいのだ。 僕の写真を見て、誰かが何かを感じてくれる。 それがいちばん大事なことなんだ。
  
芸術作品は (というのも恥ずかしいんだけど) 完成して一たび作者の手を離れると、そこから作品の一人歩きが始まる。 作者が表現しようとしたものを、もし見る人や読む人や聴く人に感じてもらえないとすれば、その作品は未完成なものか、あるいは完成した失敗作かのどちらかにちがいない。
そういう意味で、今回のクイズは僕にとってとても良い勉強になりました。

というような理由で、今回のクイズは正解者なし、というよりも全員が正解、ということにしたい。
そして抽選で二名を選ぶことにしよう。 その結果は、『ハリネズミ』 さんと 『アンリ』 さん。

皆さんが創作したタイトルは・・・

* 『空を護る』
* 『ホームランボール取れるかなあ』
* 『たーすーけーてー』
* 『さあ、イカロスをうけとめるんだ!』
* 『神父様、転職訓練中』
* 『いかないで』
* 『蜘蛛の糸』
* 『神よ、雨を降らせたまへ』
* 『空の遊具へ』
* 『ヤシの木の精』


最後に、この写真を撮ったときの僕は何を感じていたかを書いておきたいと思う。 
 
この写真に 『もっともっと』 という原題をつけたのは、この奇妙な衣服を着た生き物が自分に与えられたささやかな幸福に満足せず、飽くこともなくさらに何かを掴みとろうとしている。 そこに人間の「浅ましさ」というか「哀しさ」のようなもの、そして醜い「欲望」のようなものを僕は感じた。 ハシゴの先端まで登りきってしまったあとは、その先はどこにも行きようがないのに、それでも貪欲に諦めない。 そこに僕は自分自身の姿を見たような気がした。



『ハリネズミ』 さん、『アンリ』 さん、おめでとう。
住所氏名を非公開コメントにして送ってください。
お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のないばあいは棄権として次の方を選びます。

 
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人生いろいろ - 二人の男

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決闘
紀伊白浜


この二人の男たちは大学時代からの同級生であるばかりではなくて、共に青春をすごした仲間同士だった。 二人とも大学の付属高校から上がってきているから、そのつきあいはもう五十年になるのである。 この二人は長いあいだお互いに密かな確執のようなものを持ちながら今まで生きてきた、ということは仲間内で知らない者はいなかった。 確執といってもお互いに口をきかないとか口をきくと喧嘩になるとか陰で悪口を吐くとかそんな陰湿なものではなかった。 むしろ彼らは普段から親しくしていて、東京に住む二人は時々は会っていたし、それぞれが結婚して家庭を持ったあとは家族同士のつきあいもあった。 それにもかかわらず、彼らの内部のどこかに一種の 「わだかまり」 のようなものが常に存在していた。

話の便宜上、この二人を男A、男B、と名づけよう。
ことの起こりは・・・

大学の頃この二人は同じサークルに属していたのだが、そのサークルの中でA(写真手前) がとくに親しくしていた女の子がいた。 恋人同士と呼ぶほど真剣なつきあいではなかったようだが、あの子となら将来いっしょになってもいいな、とAが僕に洩らしたこともあった。 そのAは大学を卒業したときに、他の誰もがしたように就職をするかわりに、好きな音楽の道に進むことにしたのである。 楽な道ではないらしくて、僕は彼と会うたびにどこか落ち込んでいるAをひっぱって酒を飲みに行っては元気付けようとしたものだ。 そんな状態の中でAがまごまごしているうちに、その女の子は一流商社に就職していたBに求婚されてBと結婚してしまう。

話を25年後に早送りしよう。
二人の男たちは共に年齢も五十代になっていた。 それまでにAは同じ音楽業界にいた女性と結婚したあと、二人の娘さんが生まれた。 しかしその子供たちがまだ幼い頃、Aの奥さんは子供たちを連れて家を出ている。 活発な音楽活動を続けるAは、離婚後の独り暮らしのなかで、ある女性を好きになって深い関係におちいる。 25歳も年下のその女性というのがこともあろうに、Bの娘さんだったのである。

B夫妻が眉をひそめたのは言うまでもない。 我が子の恋の相手が、母親であるB夫人の昔の恋人だったからということもあったろうし、その親子ほども離れたふたりの年齢差のこともあったにちがいなかった。 なにしろAは自分の娘よりも若い女性と恋をしたのだから。 それは両親としては当然の心配だと思う一方、昔の恋人が生んだ女性に強く惹かれたAの気持ちも、僕にはわかるような気がした。
二人の男たちのあいだでどんな話があったのか、仲間内の誰も知らない。 我々が知っているのはこの恋はAの側から一方的に終わりにしたということだけだった。 それ以後はAは一度も結婚をしていない。

ここで話が現在に戻る。
仲間同士が12年ぶりに集まって来た紀伊の海岸で、長いあいだ、ほんとうに長いあいだお互いに確執を抱えて生きてきた二人の男たちは、雌雄を決する目的で決闘をすることに決めたのだ。 長年のわだかまりをきれいに洗い流して、残り少ない人生をお互い楽しくやろうよ、ということらしかった。 武器はカメラ、介錯は僕がふたりの写真を見て解釈をする。 勝負の結果はわれわれ三人以外には誰も知らせない。 という取り決めがなされる。 そこである日の夕方、血のような色をした夕焼け空のもと、紀伊白浜の海岸で両者が対決することになった。

***


一枚の写真からこんな途方もない物語をでっちあげるのは、ブログの作者とはなかなかたいへんなものなんだ。


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恐怖映画への恐怖ということ

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音楽のない舞踏会
Boston, Massachusetts USA


最近では劇場に行って映画を見る、ということが極端に減ってしまった。 一年を通して五回もあるだろうか。 その理由はもちろんレンタルのDVDで好きな映画が好きなときに好きなペースで見ることができるようになったからである。 「大画面で見る迫力とは比べものにならないよ」 という意見には僕は100%同意するんだけど、それよりもつい便利さのほうを取っているようだ。 それともう一つの理由は、日本映画に関してはアメリカの劇場で封切りになるものや古い日本映画が上映されることがほとんどないので、僕としては選択の余地はないといえる。

そのDVDのレンタルのサイトを見ていたら、リストに日本映画の数がすごく増えているのに気がついた。 つい最近までは200本もなかった日本映画が600本以上に増えている。 レンタル会社と日本の映画業界とのあいだで商売上の契約とかが変わったのかもしれなかった。 僕にとってはこれは実に喜ばしいことにちがいないので、さっそくチェックしてみた。 最初はゆっくりと時間をかけて丹念に見ていくうちに、僕の内部で失望がだんだん膨らんでいく。 それにつれてチェックする速度が速くなり、途中からはタイトルと表紙のグラビアを見ただけで内容を読むことなしにパスするものがほとんどだった。
600本もの日本映画のうち、その80%が、①ホラーもの (その数は信じられないほど多い) ②暴力・アクションもの (この中にはアニメもずいぶんとある) ③セクシーもの (安っぽい色気の押し売り) だった。
なかでもホラー映画の繁栄振りに僕は愕然としてしまう。 サスペンスの効いた物語性のあるスリラーは僕は嫌いではないが、見る者に恐怖を与えるだけのために乱造されたと思われる映画ばかりが、まるでガラクタ市の捨て売りのようにそこに並んでいた。 見る人がいるから作られるのだろうけど、そこまでして日本人が恐怖映画を好むその理由は何なのだろう、とそのほうに僕はうっすらとした恐怖を覚えてしまった。

600以上の新旧の日本映画のリストを見ていった結果、僕が探していたもの、たとえば昭和期の古い映画とか2000年代に封切られて話題になったものとか、アート的なもの、ドキュメンタリー(日本人の作るドキュメンタリーは秀逸なものが多い) など、そのほとんどを僕はすでに見ていた。
逆に日本の友人の話では、見たい洋画が日本のレンタルに入っていないものがけっこう多いということだ。



子供の頃、母がホラー映画のことを私に言ってくれたのと同じことを
「男」に関しても教えてくれてたらよかったのに。
「怖がることは何もないのよ。みんな嘘っぱちのフェイクなんだから」
作者不詳


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12月のクイズ

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Puerto Ballarta, Mexico


写真にタイトル(題名)を付けるというのは易しいようでいて決してそうではない。 僕は写真集に載せるものには、タイトルといってもその写真の撮られた場所と年代を添えるだけにしているし、個展などでギャラリーの希望によってタイトルを付ける場合でも、できるだけおとなしいニュートラルな題を選ぶようにしている。 個性的に過ぎる題名をイメージに付けることによって、見る人をある特定な方向へ引っぱっていくことを避けたい、と思うからだった。

それがブログに載せる写真となると話はまったく違う。 ブログというもの自体が極端に個人的な伝達方式で、写真はその重要な一部と考えれば、タイトルもかなり自由でリラックスしたものを付けることが多い。 それでタイトルに凝り過ぎて失敗することもあるし、読む人が 「?」 と思うようなものを付けてしまうこともあるようだ。

今日の写真は数年前にメキシコの西海岸にあるプエルト・バラルタという有名なヴァケーション都市に行ったときのものである。 海岸沿いに変わった不思議な彫刻がいくつも並んでいて、これはその中の一つ。 以前に古いブログにこの写真を載せたときには 『もっともっと』 というタイトルを付けたが、あとになってみるとそれがほんとうに自分がこの彫刻から感じたものとは違うような気がしてきた。
そこでようやく今月のクイズに入ります。
読者がこの写真から感じるものは何だろうか?
どうか適切なタイトルを考えてほしい。 ちょっと気が利いていてユニークで、僕が 「うーん、なるほどなあ」 と感心するようなタイトルを考えてくださったひとを当選としたい。 もしかしたら一名以上を選ぶ可能性もある。


当選の方に、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
8インチX10インチのマット付きのプリントを世界中どこへでも送ります。
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい

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酒、女、旅

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パリは燃えているか
Montparnasse, Paris


ひとの嗜好というものは時の移りにつれて変わるものらしい。 たとえば食べ物。 若い頃はとにかく味の濃いスパイスの効いたものでなければ満足しなかった。 インド料理、タイ料理、中華なら四川料理、というぐあいだ。 和食でさえも薄味の関西料理よりもこってりとした関東料理のほうが好きだったようだ。 それがいつのまにか変わってしまった。 今はどちらかというとずっとおとなしい味というか深みのある味というか、一口食べたとたんに 「旨い!」 というのではなくて、口に含んでしばらくするとじわじわと素材の美味しさが舌に沁み込むような食べ物に感激するようになってきている。
食べるほうだけではなくて飲むほうも同じで、昔はバーボンが大好きだったけど今はあの独特の匂いが鼻についてほとんど飲まなくなってしまった。 日本酒は辛口以外は飲まないのは今も変わらないが、最近はいつも冷や酒で飲むので昔みたいに燗をすることなどまずなくなってしまった。 冷や酒といっても冷やした酒ではなくて室温で飲む酒のことである。

それから嗜好が変わるといえばちょっと書くのは照れくさいけど、女性に対する好みも変わってきた。 若い頃は好きなタイプの女性といえば、面長で身体もほっそり、というひとに憧れていたようなのに、いつごろからかまったく逆のタイプの、顔は丸顔でどちらかというとぽっちゃりとした体つきの女性に魅力を感じるようになってしまった。 もっとも人に対する好みというのはあてにならなくて、惚れるというのは容姿ではなくて中身に惚れるわけだから、「好きなタイプ」 なんてのはまったく意味がないと思っているけど。

好みが変わってきたのは食べ物や女性だけではなくて、旅行もそうだといえる。
長いあいだ僕はヨーロッパにぞっこん入れ込んでいたから、年に一度の休暇がくると待ちきれないようにヨーロッパに飛んでいってしまう。 日本に帰りたいという気持ちが決してないわけではないのに、どちらをとるかとなると、どうしても日本を後回しにしてしまっていた。 日本の友人たちもそれでよくぶつぶつと嫌味を言っていたものだ。 それがどうしたわけか、この四,五年はよく日本に行くようになって、ある年などは三度も祖国の土を踏んでいる。

何が変わったのだろう、と考える。
いくつかの理由を考えつくけれど、その一つは、祖国日本に対してじわじわと押し寄せる危機感みたいなもの、あるいは壊れかけている風土に対する危なっかしさのようなものを感じているということ。 ヨーロッパは放っておいてもだいじょうぶ、いつでも僕を待っていてくれるという安心感がある。 ところが日本は 「帰れるときに帰っておかないと」 みたいな焦燥感のようなものがあるのは否定できないようだ。
それ以外の理由といえば、自分の身内のこと、友人たちのこと、再認識した日本文化や日本人、などいろいろである。
そこまで考えたときに、ふと前に書いた記事を思い出していた。 読み返してみてああそうかな、と思う。 『自分の中への旅』 というタイトルでちゃんと自分なりの答えを出していた。


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パーティの天才、アメリカ人

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宴たけなわ
Pittsburgh, Pennsylvania USA


アメリカで暮らしていると、アメリカ人というのは実にパーティの好きな人種だということがよくわかる。 たとえば、主人の誕生日だとか息子の卒業だとか就職だとか仕事の昇進だとか定年退職だとかフットボールの決勝戦だとか新居の紹介だとか奥さんの絵が入選したとか猫の病気が全快したとか、まあなんであれ理由があればすぐ人を招いてパーティをする。 いや理由など何もなくても、「久しぶりに集まろうや」 とかといってメールや電話で誘いが来るのはしょっちゅうである。 パーティ好きなのは何も家庭を持つ社会人とは限っていなくて、親の金で大学へ来ている学生たちもそうだ。 僕は二十代の後半にアメリカに渡ってもう一度学生生活を繰り返したのだけれど、毎週金曜日になると今夜は誰のパーティがどこであるという噂の二つや三つは必ず耳に入る。 パーティのハシゴなんてのは当りまえで、次に行ったパーティでさっき見たばかりの顔にまたそこで会うことは珍しくなかった。

アメリカ人は高校や大学の頃からそうやってパーティ術というか社交術の基礎を固めるから、社会人になってからはその成果が花を開く。 われわれ日本人がとてもじゃないけど敵(かな)うわけはないのである。 そんな場所に日本人が数人姿を見せると、たいていの場合は日本人同士でかたまってしまう。 果敢にもアメリカ人の群れの中に入っていって 「やあやあ」 と話しかけるというような場面はまず絶対といっていいほど見たことがない。

そんなことを言っている僕自身だって、実はパーティは苦手なほうだった。 いやほんとうはどうしようもないほど苦手なのだ。 といって、僕の場合は群れを作るような日本人も周りにいないから、いつもなるべく目立たない会場の隅のテーブルにひとりで席を取って、眼の前のパーティが進行する様をまるで芝居の舞台を眺めるように観覧しているだけであった。
そんな僕を放っておかないのが親切で礼儀正しくてパーティ上手なアメリカ人たちだった。 わざわざ僕のテーブルまでやって来て、ていねいに挨拶を交わしたあと軽い会話がしばらくのあいだ続く。 それがけっこう次から次へとやってくる。 顔見知りの人もいればまったくの初対面の人もいた。 なかにはすぐそばに立って、前の人の会話が終わるのをじっと待っている人さえいた。

そんな光景を見ていたアメリカ人の友人に皮肉られたことがある。
「まるで映画を見ているようだったよ。 シカゴやニューヨークから来たマフィアのファミリーが、ジャポネ・マフィアのゴッドファーザーに、入れかわり立ちかわり次々と伺いを立てる場面さ」



"Godfather"
Music by Nino Rota




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亭主失格、父親失格、人間失格

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ちょっとふしあわせな日のマヤ
Hagerstown, Maryland USA 1985


あれは娘のマヤがこの写真よりももう少し幼くて、まだ息子が生まれる前だったから、たぶん3歳のころに違いない。 そのころの僕らの生活はあまり楽ではなかった。 僕は昼間は(あまり儲からない)写真の仕事をする一方、夜は近くの日本レストランで週に数日働き、女房は女房でそれ以外の夜を、市の準高校教育のアシスタントとして勤めていた。 つまり、ふだんの日の夜は我が家は片親だけの家庭になっていたのである。 だから親子3人が揃ってゆっくりと過ごせるのは日曜日ぐらいのものであった。

そういうある日曜日の夕方。
僕はリビングルームのソファにくつろいで、うんとドライに作ったウォッカマテニーを啜(すす)りながらテレビジョンのアイスホッケー (当時の僕が観る唯一のスポーツ) の試合を見ていた。 女房はキッチンで夕食の支度に忙しいし、マヤは僕のすぐそばのテーブルに、以前に海岸から集めてきた様々な色をした綺麗なシーグラスを並べて一人でおとなしく遊んでいる。 テレビでは地元のボストン・ブルーインズと宿敵のモントリオール・カナディアンズがプレイオフの第3戦を賭けて、凄惨な肉弾戦をくり広げていた。 僕の崇拝するブルーインズのリック・ミドルトンが、神業のようなスティックさばきでパックをゴール間際に運ぶと、いきなり自分の真後ろに来ているブラッド・パークにパスをした。 それはスピードを殺して、まるで女性的ともいえるような繊細で、惚れ惚れするような美しいパスだった。 太っちょのパークがスティックを空(くう)に高々と上げた次の瞬間、満身の力を込めてそれを叩き込む。 パックは電光のようなすばらしい速度でゴーリーの股の下を抜けてネットを打っていた。
スコア!!

その時、そばにいたマヤがいきなり泣き出した。 ふだんでもあまり泣くことのない子なのに普通の泣き方ではなかった。 驚いて女房がキッチンから現れる。 なだめすかしながら推測するところでは、どうもシーグラスを鼻の中に押し込んでしまい、それが出てこなくなってしまったらしかった。 僕は立ち上がるといきなり狼狽してしまい、どうしたらいいのか完全に自分を失ってしまう。 マヤの体を揺すぶって 「だいじょうぶか?」 を繰り返してもマヤは激しく泣くばかり。 ああ困った。 どうしたらいいのだ。 窒息? 救急車? 切開手術? 僕は部屋の中をオロオロ歩き回りながら911に電話をすることを考える。
ところが女房は信じられないくらいに冷静だった。 ちり紙をマヤの鼻に当てて、「鼻をかむのよ。 さあ鼻をかみなさい」 と辛抱強く何度も鼻をかませようとしている。 僕は僕で今度は女房の肩を揺さぶって、早くなんとかしなければ、とうしろからせっつく。
そうしているうちに、いきなりポロリとシーグラスが床に落ちた。 僕は安堵のあまりへなへなとソファに座り込んでしまう。

***


この出来事を境にして、僕の中にあった男としての自信というか、家族の長としての自負心のようなものが完全に失われてしまうことになる。
だいたい僕は昔から自分はどちらかというと冷静で沈着な人間だと思っていた。 この歳(30歳後半)になるまで人並か人並以上の苦労をしてきたし、幸せなことよりもそうでないことの方がずっと多かったのに、それなりにちゃんと対処してきたつもりだった。 海で溺れたこともあったし交通事故に遭って死にそうな危ない目にあったことも2度ばかしある。 でもどんなせっぱつまった局面でも自分を失ったことはなかった、という密かな自信を持っていたようだ。 実際周りの人達からは頼りにされることがけっこうあって、よくいろいろな相談を持ちかけられたものだ。

それが...
このマヤの親指の先より小さなシーグラスのおかげで、僕の中にあった 「自信」 なんてものは自分で勝手にそう思っていただけで、ほんとうはただの 「うぬぼれ」 にしか過ぎなかったことがはっきりと曝け出されてしまった。
このことがあってから30年経つ現在、仕事でも芸術でも日常生活でも、真実に自信なんて存在するものなのだろうか、と思っている。 確固とした自信があると自分で思うのは、いつかそれが試される日を待っているだけなのである。


「自信」 と 「うぬぼれ」 は一卵性双生児のようなものだ。
似ていない部分より、同じである部分のほうがはるかに多い。

September30




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庭は荒れ庭、秋は落ち葉

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かさこそ
Dayton, Ohio USA



寒くなった。 今朝などは零下1℃から一日が始まった。 僕が仕事場にしている部屋の窓のすぐ外に隣家の柳の木があるので、窓のそばに机を置いている僕はその柳を眺めながら毎日を過ごしていることになる。 持ち主である隣人よりも僕のほうが、一年中を通してずっとこの柳とは親しいに違いなかった。 今朝見るとその柳がもう完全に裸になったまま、枯れ木のように震えていた。 この柳はけっこう大きな樹だからずいぶんの量の葉を落としたに違いないが、それはもうきれいに搔かれて地面には一枚も残っていなかった。

この隣人夫婦はまだ若くてふたりともそれぞれ外に仕事を持ちながら、ふだんから庭の手入れは生半可ではない。 冬以外の季節なら芝の手入れとか木々の剪定とか花の育成とかで、その姿を見ない日はほとんどなかった。 なかでも芝刈りはまるで日課のように毎日とか一日おきにやっている (ちなみに我が家では、芝刈りは一週間に一度やればいいほうである)。 ご主人は仕事から帰宅すると何よりも先にまず庭に出てきて芝刈りを始めるのは、僕が家の中のどこにいても芝刈り機のあのおどろおどろしい音ですぐにわかる。
そしてタンポポのような雑草を一本でも見つけるともう大変である。 まるで自分の腸にしこりが発見されたかのように、家族をあげての大騒ぎだった。 僕などは庭じゅうにタンポポの黄色い花がいっぱいに咲き乱れるさまを想像すると、なかなかいいものだと思ってしまうんだけど、あの可憐な花をあそこまで憎むことができるのは不思議だった。

夏が終わり秋に入り、それから冬が近づいて来ると、もう芝刈りの必要がなくなるので僕はほっとする。 ほっとするというのは、僕自身がその労働から開放されるということと、それから隣家の芝刈り機の音を毎日聞かなくてすむという、その両方である。
秋が深まってきた頃の、地面に敷き積もる厚い落ち葉の絨毯が僕は好きだ。 歩く時に足の下で鳴るかさこそという音が好きだ。 しかしそれはここでは許されない。 この季節になると隣人の仕事は芝刈りから落ち葉搔きへと移る。 電動ブロウアー(芝刈り機ほどうるさくない) や熊手を使って丁寧に一箇所に集められた落ち葉は、幾つものビニールの袋に詰められて町の焼却場まで運ばれる。 落ち葉の絨毯が取り去られたあとの冬の芝生は、疲れたように色が褪せて魅力を失っていた。 この町では焚火は禁じられているから、あの懐かしい落ち葉の焼ける匂いを嗅いだり、立ち昇る蒼い煙を見ることはもうなかった。

庭は荒れ庭、という僕の夢はこの国に住む限り実現することはないようだ。


雑草とは?
その美しさをいまだに見出されることがない植物である。

Ralph Waldo Emerson



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ボストン奇譚抄 - 沖縄から来た男

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駆け抜ける夏
Frog Pond of Boston Common



ボストンのダウンタウンには、二つの公園がチャールス・ストリートをはさんで向かい合っている。 Boston Common と Public Garden である。 この二つを合わせても、ニューヨークのセントラルパークにはその規模ではとてもかなわないが、ボストニアンにとってはこの二つの公園はもう何百年も前からの憩いの場所となっていた。

ボストン・コモンはその敷地の真ん中にフロッグ・ポンド(蛙の池)と呼ばれる大きな池と噴水があって、夏には子供たちの恰好の遊び場となる。 寒い季節でなければ正午になると周りのオフィスから人がどっと吐き出されてきて、芝生に座ってランチを食べたり昼寝をしたり本を読んだり、(男性なら)女性を物色したりしている。 デモの大集会だとか、アートのショーなどが開かれるのもここだった。 まだ元気な時のローマ法王のジョン・ポールⅡ世がここで講説をした時には、史上最多数といわれる群集が集まった。

そのボストン・コモンに較べると、隣のパブリック・ガーデンの方はサイズもずっと小さめで、起伏のある芝生に小径が縦横に走り、華やかな花壇があったりして、その名の通り庭園と呼ぶにふさわしい美しい一画だった。 このパブリック・ガーデンの西の端がアーリントン・ストリートに面していて、古い鉄の柵が道と庭園を仕切っている。

このアーリントン・ストリートに、もうとっくの昔に無くなってその名さえ忘れてしまった映画館があった。 僕はこの映画館でいつでも好きな時にタダで映画が見ることができた。 貧乏学生だった僕にとっては夢のような話だが、実は、ここで映写技師として勤めていた日本人のTさんと僕は知り合いだったのである。

Tさんは僕よりもずっと年上で、沖縄出身だった。 なぜボストンで暮らすことになったのかは確かに訊いたことがあると思うけど思い出せない。 彼と知り合いになったのは、僕がそのころパートで働いていた日本レストランに彼も以前にいたことがあり、それで時々レストランに顔を出す彼と話しをするようになったからだった。 スイス人の奥さんとの間に生まれたばかりの赤ちゃんがいた。 僕たちはおたがいにすぐ近所に住んでいた、ということもあったのだろうけど、どういうわけかTさんは僕のことを気に入ってくれて、よく家庭での夕食に呼んでくれたり、バーで酒を奢ってくれたりした。 と言っても決して彼は裕福ではなく、次から次にいろんな仕事を変っていたようだった。

Tさんのおかげで、おそらく僕は何十本もの映画をこの映画館で見た。 始めのうちは映写室にいるTさんをいちいち呼び出してもらって中に入れてもらっていたが、そのうち入り口のモギリのおばさんとも顔見知りになると、Tさんを呼んでもらわなくても、あるいはTさんの休みの日でも、いつでも僕は顔で入れるようになっていた。

Tさんの奥さんが、彼の仕事がいつも長続きしないと言って僕にこぼしたことがあった。 太くて黒い眉毛がいかにも沖縄人らしい顔をしたTさんは短気な上に、物事を考えるよりも先に行動してしまうようなところがあって、周りの誰とでもうまくやっていけるというタイプではなかったようだ。 そのせいで、たいていの仕事は上司や同僚とうまくいかなくなって辞めてしまっていた。 この映画館の仕事も一年足らずで終わってしまい、そのあとは僕自身もボストンを離れてずっと遠くの州で何年も暮らしたり、それからまたボストンに戻ってきたり、結婚したり、子供ができたりして、Tさんには長いあいだ会わないままに時が流れていった。

それからずっとあとになって、僕の子供たちがボストン地区の日本語補習校に行くようになった頃のこと。 僕が学校の理事をやらされていたその理事会で、ある生徒のお父さんが交通事故で亡くなったので、補習校の父兄から義捐金を募るという提案が出ていた。 僕が思わず声に出してあっと言ってしまったのは、その亡くなったお父さんというのがTさんだったのである。 タクシーの運転手をやっていたそうだ。 あのころ生まれたばかりの赤ちゃんだった女の子が、もう中学生になっていた。 ということは十何年ものあいだ、僕らは会うことがなかったのである。
会議の進行からぽつんと取り残された僕は、あのTさんの黒くて濃い眉や、まるでアメリカ人がするように、大きな手でギュッと僕の手に握手をしたことなどを、まるで昨日のように思い出していた。

彼が勤めていたアーリントン・ストリートの映画館で見たフィルムは今でもほとんど覚えている。 つい先日もジーナ・ローランドとピーター・フォークが主演する "A Woman Under the influence" (壊れゆく女) をまた何度目かに見た時に、僕の思考はいつのまにか映画を離れてあのボストンのパブリック・ガーデンをさまよっていた。

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