過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

Profile

September30

Author:September30

Visitors Counter

Search form

肉食三昧

Image0355-blog.jpg

イタリアン マーケット
North End, Boston


若いころに比べると、毎日の食事の中で肉類の占める割合がずっと少なくなってきている。 当然ながらその分、魚貝類や野菜が増えているわけで、魚なら毎日でも喜んで食べる。 それが一週間に一度は無性に肉が食べたくなるのは、体がタンパク質の補給を自然と求めているのかしらん、と思う。 おもしろいのは長いあいだ豚肉が特に好きだったのに、四十代で胆石の手術をしたら、それ以後まるでスイッチを切り換えるように肉の嗜好が牛肉に変わったことだった。
肉類のリストの中では僕の場合、鶏が最下位にきているけれど、それは鶏が嫌いというのではなくて、久しぶりに肉を食べる時にはつい牛や豚を選んでしまうのが理由のようだ。 アメリカ人の好きなターキー(七面鳥)は僕はあんなまずいものはないと思っているので、リストにさえ入っていない。 ダック(鴨)なら僕の大好物なんだけど、これはマーケットでもなかなか手に入らないし、レストランのメニューにもほとんど載っていない (中華でならあるけど)。 そういえばヨーロッパに行くたびに、僕はよく飽きもせずに毎日のようにダックを食べていた。 (プロヴァンスのオランジという町でランチに食べた切り身のダックほど美味なものは、あとにも先にもなかった)。

ボストン時代によく食べたのは鳩だった。 チャイナタウンに一軒だけそれを食べさせる店があって、高価な料理なので(店は小さくて貧弱なのに)貧乏な僕は金を貯めるとその店へせっせと通った。 唐揚げにされて出てくるその鳩は当然ながら食用鳩だと思っていたけれど、ひょっとしたらその辺の路地裏で捕まえた鳩かも知れなかった。 それにしてもうまかった。

昨年の感謝祭に招待された夕食会では例によってターキーが主役で、テーブルの真ん中にでんと置かれた巨大なターキーを見ただけで僕は食欲を失ってしまった。 ところがその横に判別のできない一皿の肉が置かれていた。 試しに一口食べてみるとそれがなかなかおいしいのである。 歯ごたえは豚肉に似ているけど独特な野生的な味があった。 パーティーの主に訊いてみるとそれは鹿肉だという。 鹿なら僕は前にも何度か食べたことがあるけど、かなり強い臭みがあって好きになれなかった。 今日の料理はその臭みがまったく抜けているのはたぶん料理の仕方によるのだろう。 アメリカでは鹿狩りを趣味にする人が多いから、肉屋の店頭に鹿肉が並ぶことはなくても一般家庭ではけっこう食されているのである。

ところで、ウサギの肉を僕は食べたことがない。 昔ボストンのイタリア人街をうろついていて、肉屋の軒に羊やウサギの毛皮が吊り下がっているのをよく見た。 中ではもちろんその肉を売っている。 またヨーロッパの作家が書いた小説の中には、ウサギの料理を食べる描写がよく出てくる。 それなのに実際にフランスやイタリアやスペインのレストランでウサギの料理をメニューの中で見た記憶が無いのは、たぶんウサギ料理というのはアメリカの鹿肉のように典型的な家庭料理なのだろうかと思う。

ちょっと調べてみたら、ウサギはすべての肉類の中でもっともタンパク質の含有度が高いだけではなく、コレステロール、脂肪、カロリーが最低だそうだ。 まるで健康オタクのための肉といえる。 そしてウサギを食する国民はフランスが世界第一位でイタリアがその次だという。 ヨーロッパからの移民が溢れているアメリカだから、ウサギの肉など当然どこかで手に入るはずだけど、僕の住む町にはイタリア人街もないし、その辺のマーケットで見かけたことはない。 また、夕食に招待された家庭でウサギの料理が出されたことなど今まで四十年のあいだ一度もなかった。 アメリカではウサギは愛玩用のペットと見なされているから(少なくとも都市圏では)、それを食べるというのは、犬や猫を食べるのと同じようなタブーとされているのだと思われる。
それにもかかわらず、もし機会があれば一度は試してみたいと思う食品の一つだ。




健康食品の店に買い物に来ている客を見たことがあるかい?
みんな青白く痩せて、半死人のように見える。
ステーキハウスの客を見てごらん。
壮健で血色の良い人たちばかりだ。
そしてなんと健康そうに見えることか!
もちろん彼らは死にかけてるんだけど。
Bill Cosby



にほんブログ村 写真ブログ モノクロ写真へ
スポンサーサイト

一月のクイズの結果は・・・

T11japan423-blog4.jpg

燕趙園 (えんちょうえん)
鳥取県東伯郡湯梨浜町



今月のクイズは応募してくださった全員が正解だった。
昨年の十月の記事 『中国庭園にて』 と結びつけたのだけれど、そうでなくて写真を見ただけで 『燕趙園』 と判別のできた人もいるのだろうか、と思った。 つまり外国に住む僕には、人とか場所とかの日本国内での知名度というようなことがまったく見当もつかないのである。

というわけで、抽選の結果は「Ogui」さん。 たしか二度目の当選ですよね。
それと、厳正な選考過程に私情をはさむのは他の方たちに申し訳ないんだけど、正解でありながら抽選にもれた「nico」さんが長く入院中だということで、元気付けるためのお見舞いということで、nico さんにも写真を差し上げたい。

Ogui さん、nico さん、おめでとう。
住所氏名を非公開コメントにして送ってください。
お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のないばあいは棄権として次の方を選びます。

にほんブログ村 写真ブログ モノクロ写真へ

未来からかかってきた電話

T05prov071-blog.jpg

丘の上の町
Vaison la Romaine, France


この町もヨーロッパの多くの都市がそうであるように、丘の上の旧市街(アップタウン) とそのふもとに広がる新市街(ダウンタウン) とに分かれていた。 この地域は紀元前後のころには土着のケルト人と外来の古代ローマ帝国とが共存していたから、もう2000年以上も昔から人々の営みが続いているところだった。 だから新市街と呼ばれても決して新しいというわけではなくて、すでに1000年以上の歴史がそこに詰まっている。

今日はその旧市街の丘へ登ってみる。 小高い丘の斜面にびっちりと、しかしかなりメチャメチャな配列で家々が並んでいる。 丘の頂上には小さな城の廃墟が残っていて、そこに立つと眼下に360度のパノラマでヴォクルース地方の平野が見渡せた。 ここまで登ってくるのにも、急勾配の坂道は手入れのまったくされていない砂利道で、ここまでわざわざ足をのばす観光客はほとんどないようであった。



T06pro807-blog.jpg

これがまあ 終(つい)の棲み家か・・・


道端にこんなかわいい家があった。
一人でしか住めないまるで独房のように見えるけれど、崖っぷちの斜面に建てられているその家は中に入れば意外と広い階下があるのかもしれない。 向こう側の壁にもたぶん小さな窓があって、その窓からは一面の葡萄畑や、そのはるか向こうに連なる山並みまでがひと目で眺められるはずである。 まるで日本の座敷牢のような感じを受けたのは窓に付けられた鉄格子からの連想かもしれなかった。
蟄居(ちっきょ) というのは江戸時代の武士に課せられた一種の刑罰らしいが、プロヴァンスの小高い丘の上に、ひっそりと数百年もたたずむこんな家での蟄居なら、牢住まいも悪くはないなあと思う。
「これがまあ 終(つい) の棲み家か・・」 と詠んだ芭蕉だってここなら気に入ることはまちがいない。 ディッシュが屋根の上に取り付けてあり、電線も通じている。 テレビも見れるしPCも使えるのだ。 読みたい本があればアマゾンで注文もできる。 そして独りで居るのに飽きて人が恋しくなれば、15分も歩いて丘を下ると麓(ふもと)には人の生活の匂いのする町があるのだった。

そんな妄想を抱きながら写真を撮っているといきなり腰の携帯電話が鳴った。
かかってきたのはアメリカからで、僕が旅行に出ているのを知らないでかけてきた知人だった。 「今そこから何万マイルも離れたフランスの中世の丘の上にいるんだよ。 2000年も前からここにある石に腰掛けて今話してる」 と僕の現在位置を説明してやると彼は電話の向こうでびっくりしている。 お互いの声がすぐそばで話しているように鮮明に響いているからだ。
僕は僕で、2000年先の未来の国からの声を聴いているケルト人になったような気がしていた。


にほんブログ村 写真ブログ モノクロ写真へ

一月のクイズ

T11japan423-blog4.jpg


ここはどこでしょう?

いつも読んでくださる読者には、ああ、とわかるだろうし(たぶん)、たまに来てくださる読者なら昨年の記事を少し掘り下げなければならないかもしれない。


正解者の中から1名を抽選で選び、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
8インチX10インチのマット付きのプリントを世界中どこへでも送ります。
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい。

にほんブログ村 写真ブログ モノクロ写真へ

覗き見

T01paris18-blognew.jpg

パリの空の下
Paris, France


パリで四日間滞在したのはカルティエ・ラタンのはずれの小さなホテルだった。 メトロの駅がすぐ近くにあり、まわりには雑多な店が立ち並んでいて、いかにもパリの下町という感じのする庶民的な地域だった。 ホテルは明らかに家族経営という感じで、間口の狭い四階建ての建物の中には、部屋数もそんなに多くなかった。 エレベーターはおもちゃのように小さくて、スーツケースを二個も乗せるとあとは人の入る余地が一人ぶんしかなかった。 でもホテルそのものは小さいなりにきちんときれいに維持されていて、しかも値段が安い。 ソルボンヌに行っている娘が探してくれたホテルだった。

僕の部屋は四階にあってホテルの裏側に位置していた。 窓のカーテンを引くとそこから見えるのは一群の古いアパルトマンだ。 フランス映画でお馴染みのよく見るやつである。 パリのアパルトマンは窓を見ているだけで楽しい。 その一つ一つの窓の向こうに、どんな人のどんな生活があるのだろうか、と興味しんしんである。
昼間はぴたりと閉ざされている窓が、夕方になるとどの窓にも明かりが点く。 人々が一日の仕事から帰ってくるのにちがいなかった。 開かれたシェードやカーテンの向こうにちらちらと人影が動くのを見ていて、僕は映画の 『裏窓』 を思い出していた。 そういう僕自身も昼間から夜にかけてほとんど外に出かけているので、ホテルの部屋に帰ってくるのは毎晩深夜に近い時間である。 そしてその時間にはどの窓も明かりが消えていた。

ある遅い朝のこと、起きだして部屋に外光を入れようと開けたカーテンの隙間から、すぐ眼の前の窓に若い女性の姿が見えた。 あちこち歩き回るその女性は全裸だった。 シャワーから出てきた直後なのだろう。 一度姿が消えたと思ったら、その次に現れたとき、彼女は黒い下着をつけている。 そういえば今日は土曜日だった。 その黒い髪のパリジェンヌはデートにでも行くのだろうか。 それとも仲のよい友達とブランチに会うのだろうか。 それともひとりでショッピングにでも出かけるのだろうか。
それから彼女は濃紺色のサマードレスを着て現れる。 おしゃれで可愛らしいドレスだった。 窓のすぐそばに姿見があるのにちがいない。 正面から、後ろから、横から、くるくると身を翻 (ひるがえ) して鏡を見た後で、彼女の姿がまた消える。 そして再び現れた彼女はもうサマードレスではなくて、ジーンズと白いTシャツだった。 それからそばにあったバッグを取り上げるとそれを肩から斜(はす)にかけて、部屋を出て行った。

なぜだろう?
なせあの娘はドレスを着るのをやめたのだろう?
僕はそのことだけをずっと考えていた。


T01paris54-(2)-blognew.jpg

裏窓
Paris, France


* ヴォイヤリズム(voyeurism); 窃視症、のぞき趣味
他人の着替え、性的行為、または純私的な行為に興味を持つこと。


にほんブログ村 写真ブログ モノクロ写真へ

お馬鹿さん

T00cello-blognew.jpg

Jazz in the Tavern
Matt Haimovitz
Dayton, Ohio USA


"I'm a fool to want you" というジャズの古いスタンダードナンバーがある。 僕は60年代の終わりにこの曲をビリー・ホリディが歌うのをレコードで聴いた時にすっかり惚れこんてしまった。 ビリー・ホリディだけではなくて曲にもである。 あまり好きだったので、バークリーにいた時にはオーケストレーション(管弦楽法) のクラスのプロジェクトでこの曲を編曲したくらいだ。
今、You Tube で見ると古今を通して実にたくさんのシンガーが歌っている。 男性もあれば女性もある。 いろいろと聴いてみたけれどやはりビリー・ホリディに敵うシンガーはいないなあと思った中で、ただひとりフランク・シナトラだけは別格だった。 そしてこの曲を書いたのはそのシナトラ自身だったということも初めて知った。 しかしその歌詞から察すると、この唄は切々とした女心を訴えているように思えるのは、男は勝手で気ままなもの、女はいじらしく一途なもの、という先入観に僕が捕らわれすぎているせいかもしれない。
シンガーだけじゃなくてジャズミュジシャンたちもずいぶんレコーディングをしているのは、僕もそうだったようにメロデイーに強く惹かれるものがあるのにちがいない。


Billy Holiday





わたしってお馬鹿さん、あなたを自分のものにしたいなんて。
ほんとにお馬鹿さん、あなたを欲しがるなんて。
ありそうにもない愛
わたしだけへの愛じゃないってわかっていながら。

わたしってお馬鹿さん、あなたに抱かれていたいなんて。
ほんとにお馬鹿さん。
あなたに抱かれてキスをされたいのは
わたしだけじゃないってわかっていながら。

何度も何度もわたしは言った。 「もう、終わりにしましょう」
何度も何度もあなたを離れて行った。
そのたびに、またあなたが必要になる。
そしてまた同じ言葉をくりかえすわたし。

愛してるわ。 わたしを取りかえしてちょうだい。
わたしをかわいそうだと思ってちょうだい。
まちがいだとわかってる。
まちがいに違いないの。
でも、まちがいでもそうでなくても、
わたしは生きてゆけない。

あなたなしでは。

・・・・・(September30 訳)


Frank Sinatra




にほんブログ村 写真ブログ モノクロ写真へ

原点を見つけた

IMG_0094_1-blognew.jpg

表門
北京市
撮影: 古門吉郎


数葉の写真を付けたそのメールはある日、何の前触れもなく僕に送られてきた。
「これが君の生まれた家なんだよ。 覚えているかい?」
写真を見て僕は呆然としてしまう。
まるで誰かが、自分が見たこともない女性を目の前へ連れてきていきなり、
「これが君のお母さんなんだよ。 覚えているかい?」 と言われたような気がしていた。

覚えているかい、といわれても僕には覚えていようがなかった。
北京の天安門広場に近いこの家で僕が生まれた直後に、父は家族を連れて天津へ引越しをしてしまっているからだ。 天津の家なら僕は四歳ごろまで住んだから頼りない記憶のようなものは微(かす)かに残っている。 それにその家で父が撮った写真も数枚残されていた。 ところが北京の家で僕が生まれたということは、厳然とした事実として戸籍謄本にその住所がそっけなく一行載っているだけであった。

昭和xx年九月参拾日中華民国北京市内六区南月牙胡同十四号で出生

それ以外には自分の出生地に関して、すべての記憶も感傷も、興味でさえもがきれいに僕から抜け落ちていた。 六十年以上も。

写真を送ってくれたのは郷里の友人のKである。 周囲の同年輩の友人たちがもうとっくに現職から退いて それぞれ好きなことをやったり、孫たちの世話を見たり、あるいはまったく何もせずに日々を送っている中で、Kはますます元気に仕事でアジア中を飛び回っていた。 そのKがつい最近北京へ行った時に、わざわざ時間をつくって僕の生家を探し当ててくれたのであった。 探して欲しいと彼に頼んだわけでもなければ、自分の生家を見てみたい、というようなことさえ僕は一言も言ったことはなかった。 ただ以前に一度だけ、戸籍謄本に記載された住所を 「これはどの辺かわかるかい?」 と北京に詳しいKに見せたことがあるだけだった。

Kは北京へ発つ前に、あらかじめ北京の駐在員に頼んで僕の戸籍の住所が現存することを確かめている。 そして天安門広場からそれほど遠くないというこの家を探し当ててくれたのだった。 超近代化が進んだ北京の町でまるで忘れられたようにポツンと残された一画だった、とKは書いていた。

僕は、写真の中の表門に貼られた 《14》 の赤地に白の標識が、戸籍謄本の住所の 《十四号》 と一致するのを確かめた時に、どうしようもなく胸が苦しくなってしまった。 長いあいだ、遠い架空の星の中にしか存在しなかった自分の生家が、今、目の前のモニターに現実の映像としてはっきりと映っていた。

僕の父が母と結婚して新居を構えたのはこの家だったのだ。 そして僕が生まれる時に、終戦前のあの混乱の中を日本の祖母が母のためにひとりではるばる海を渡ってやって来たのもこの家だったのだ。

ここが、この廃墟が、自分の原点だったのだ。




IMG_0096_1-blognew.jpg


撮影: 古門吉郎


Kはメールの中で書いている。
近所で見つけたホテルに入って尋ねてみると、この一画は1950年ごろに一部の建て直しが施工されたそうで、君の生家も当時のままではないかもしれない。 もう長いあいだ人の住んだ跡はなくて、忘れられたようにひっそりとそこにあった。 中に入ることはできなかったので壊れた塀の隙間からかろうじて内部の庭の写真を撮った。
いつか、いっしょに北京に行こうよ。

友達とはありがたいものだ。 つくづくそう思う。


にほんブログ村 写真ブログ モノクロ写真へ

スウィングがなけりゃ意味がない

Image0356-blog.jpg

Rollie Rogers
At Berklee College of Music, Boston


ボストンのバークリー音楽院。
僕が在籍した70年代の初めには、まだちっぽけな音楽塾のようなものだった。 今でこそ四千人以上の学生を抱えて、自他ともに認める世界一のジャズ・ロック・モダンミュージックのインスティチュートになり、二十以上の建物をボストンのバックベイ地域に所有しているけど、そのころは買い取った古いホテルの中にこじんまりと収まっていて、学生数も比べものにならないくらいに少なかった。 そしてその学生たちの多くは既にプロとして活躍していた連中がヨーロッパや南米から集まってきていた。
僕は日本を離れる前に、そのバークリーに二年ほど留学して帰ってきたばかりだったピアニストの佐藤允彦さんに会って、学校の様子やボストンでの生活などをいろいろと聞いていたので、大体のことは理解していたようだ。 専攻を器楽科にしないで作曲・編曲にしたのは、自分のピアニストとしての才能の限界が見え始めていた僕は将来はそちらの方へ行きたいと思ったからだった。

ある日、学内の廊下で校長のローレンス・バークとすれ違った時に声をかけられて、ちょっと話があるといって彼の部屋に呼び入れられた。 ローレンス・バークはバークリーの創立者で経営者であったばかりではなく、彼自身もピアニストでバンドリーダーであり、またジャズ理論の教育家でもあった。 もちろん若いころには、ということである。
彼の話というのは、昔のバンド仲間でバリトンサックス奏者のロリー・ロジャースという男がいる。 ボストン界隈でスィング時代に自分のビッグバンド持ったりした古顔だった。 この男、かなり前に音楽のシーンからは引退していたのだけど、最近になって若い者を集めて再びビッグバンドを結成したいと言っている。 そのバンドの人集めをロリーに相談されてるんだけど、僕にそのバンドでピアノと曲のアレンジをやってみないか、ということだった。
僕はしばらく考えたあと、
「アレンジをやるのはすごく興味があります。 でもピアノを弾くほうは大学のクラスと両立はしないと思うのでたぶん無理でしょう。 それでよければぜひやってみたいです」 と答えた。

そんなことがあってからすぐに僕はバークリーのリハーサル室でロリー・ロジャースに紹介された。 彼はすでに七十歳の半ばだったが、年寄りくさいところがまったくなくて、年齢のわりには動作もキビキビとしているし、なによりも精神的に驚くほど若い精力的な男だった。 どのくらい使われたのかわからいようなボコボコだらけのバリトンサックスがそこに置いてあって、時々はステージで自分も吹くつもりだという。
そしてロリーはバンドリーダーとしての彼のプランを話してくれた。 形としては30年代、40年代のスウィングバンドの編成で、おもにベニー・グッドマンやグレン・ミラーやドーシー兄弟などのレパートリーをやりたい。 しかし曲は古くても中身はうんと現代的なサウンドにしたい。 つまり、世界中に親しまれたあの当時のメロディーに、まったく新しい衣装を着せて、若い世代にも受け入れられる音楽を創りたいということなのだった。
面白そうじゃないか、と僕は思った。 そう思うと僕はいきなりもりもりとやる気が湧いてきた。

その時から十ヶ月ほどのあいだに、たぶん僕は30曲以上のスコアを書いたと思う。 リハーサルに頻繁に顔を出したり、クラブやコンサートでの演奏の場にもよく行ったりしたものだ。 メンバーの人選も、バークリーの学生だけではなく、そのころそこで講師をしていたあのチャーリー・マリアノ(アルトサックス)や、ゲーリー・バートン(ヴァイブ)や、アラン・ドウソン(ドラムス) などの有名人も彼らの時間の許す限りバンドに入ってくれた。 コンサートでの聴衆はロリーが最初から意図していたように、懐メロにノスタルジーを求める老年から、スウィングって何? と訊くようなハイスクールの子供までが幅広く混じりあって、ジャズのコンサートには珍しい変わった雰囲気があった。 そして回を重ねるごとにバンドは充実していき、リーダーのロリーと、曲を提供する僕とのあいだにはパートナー同士の友情のようなものさえ生まれていたと思う。


***

良いことは長くは続かない。 そのあとプライベートな面でいろいろなことがあったあと、僕はボストンから逃げるようにして去って行く。 そして何年か経ってまたそのボストンに帰って来るのだけれど、僕はもう二度とあの音楽の世界へ戻っていくことはなかった。
それはまた別の話である。

今回この記事を書くにあたってロリー・ロジャースのことを、インターネットでかなりの時間を費やして、可能な限りの角度から調べてみた。 そして (信じられないことだけど) ほとんど何も見つけることができなかった。 せめて彼の没年だけでも知りたいと思ったのだけど。



"lil' darling", by Count Basie Orchestra



にほんブログ村 写真ブログ モノクロ写真へ

ピクニック

IMG198-blognew.jpg

Picnic
Public Garden, Boston


子供のころ、両親に連れられてピクニックに行ったという記憶がほとんどない。 そういえばピクニックだけではなくて、家族旅行というようなものに出かけたことなど一度もなかったと思う。 汽車に乗って近在の父の実家へ泊りがけで行くことは毎年何回かあったが、それは家族旅行とはいえない。 周りを見回しても、夏休みだからといって家族揃って観光旅行に出かけるような家庭はほとんどなかった。 だから僕の両親にはそんな余裕がなかった、というよりも、たぶんそんな時代だったのだろう。

ピクニックで覚えていることもあまりない。 春の桜の時期に花見に行ったこととか、いつもは父と二人で行く魚釣りに時々母がくっついて来たりしたことぐらいである。 僕の両親はそれぞれに仕事を持っていたから、休みの日などはたぶん外に出る気にならなかったのかもしれない。 あるいは、もっと度々親子三人で出かけたことがありながら、そのことが僕の記憶からきれいに落ちてしまっているのかもしれない。
いや、ひとつだけ覚えていることがあった。 それは隣県の大きな町で催された博覧会に行ったことである。 その時は親類の叔父叔母や従兄弟たちを含めた大人数でぞろぞろと汽車に乗って出かけた。 博覧会そのものに関しては何一つ覚えていないのに、そのあとに寄ったレストランのことが鮮明に記憶に残っている。 テーブルで隣に座った叔父が、小学生の僕に生ビールを一口、二口飲ませてくれたことだ。 薄飴色をして泡の浮いているその冷たい飲み物を口いっぱいに含んだ時、こんな美味いものが世の中にあったのか、と僕は目を丸くして驚嘆した。 いつも飲んでいるジュースやラムネや牛乳とはまったくちがうその不思議な味に、僕は未知の「オトナ」の世界への妖しげな誘惑を感じていた。

僕の長い酒暦がここから始まったのはまちがいない。



友とするに悪きもの七つあり。
一には高くやんごとなき人、
二には若き人、
三には病なく身つよき人、
四には酒をこのむ人、
五には武く勇める人、
六にはそらごとする人、
七には慾ふかき人。

吉田兼好 『徒然草』


にほんブログ村 写真ブログ モノクロ写真へ

ところ変われば女も変わる

P1020805-blognew.jpg

ジェニーのキッチン
Oakwood, Ohio USA


年が明けて三日目。 雪も降ったし今朝は気温が摂氏で零下7度まで下がった。 窓の外には寒そうな冬景色が広がっているけれど、一年中定温に保たれている屋内にいる限りでは気温の変化を感じることはない。
ゆうべ電話でけっこう長く話した相手は、長年オハイオ州に住んでいて、つい一年ほど前に東海岸のコネチカット州へ越していった日本人のOさんだった。
「そちらの生活はどうなの。 オハイオと比べるといろいろと違うことなんてあるの?」 と訊ねたら、Oさんの答えを聞いて僕は思わず笑いだしてしまった。
「なんだか知らないけど、こちらでは女性がやたらと威張ってる」

Oさんとは逆に、僕は東部のボストンからオハイオにやって来たわけなんだけど、彼の言っている意味が理解できるような気がした。 オハイオに越す前から僕が聞いていたのは、アメリカ中西部の女性はすべてに控えめで家庭的で優しい、ということだった。 そんなことを一般的な概念で言い切ってしまうのはもちろん無茶だとはわかっているけど、実際にここに住んでみると、たしかにそうだ、と思わないわけにはいかなかった。 人柄がまるで日本女性のようだと思わせる女性をたくさん見た。 (こんなことを言うと日本女性から異議が出るかな)。
我々外国人が持っている典型的アメリカ女性という概念から(もしそんなものがあるとすればだけど)、ちょっと外(はず)れるような女性が多いのは確かなのである。

僕の友人たち(日本人の)に言わせると、僕の家内など現代の日本女性以上に日本的だそうだが、現代の日本女性をまったく知らない僕には判断のしようがない。
その家内の一番下の妹、ジェニーは我が家のすぐ近所に住んでいる。 若い頃は苦労して医学の道を進みながら、今の旦那に会って結婚したときにあっさりと自分の道をあきらめて専業主婦になった。 それから15年、三人の子供たちが成長して手がかからなくなった最近は、医者のオフィスでフルタイムで働いている。

彼等は郊外に買った古い家を住みやすく改造して、裏庭には花や野菜を植え、(写真の奥に見える)車庫には2台の車が納まっている。 小さなアンティーク類が部屋のあちこちに置いてあったり、地下室には大きなファミリールームを作って、巨大なテレビジョンやエクササイズのマシーンが備わっている。
キッチンはジェニーにとってはもっとも重要な要塞であるのは、ほかの主婦と変わらないだろう。 外に仕事を持ちながら、在宅している時は彼女はこの要塞で大半の時間を過ごす。 小型のテレビジョンで大好きなフットボールを観戦しながら料理をする。 テーブルの上にあるブルーの包みは旦那か子供の弁当箱にちがいないし、画面端のグラスは彼女が料理を作りながら飲んでいるビールだった。

毎年夏になると、ジェニーの家族は一家そろってヴァケーションに出かける。 行く先はたいていの場合はアメリカ国内で、時にはカナダあたりまで足を伸ばすこともある。 しかしそれ以外の外国には彼等はほとんど興味がない。 ヨーロッパや日本には一度は行ってみたいとは思うけど、高い経費を払って英語の通じない国へわざわざ出かけることのメリットが、彼女にも彼女の旦那にもいまひとつ理解できないのだ。 彼らにとってはアメリカが世界であり、それ以外の国々などは、あってもなくても自分たちの日常生活に何の影響も与えることのない 『斜線の国』 に過ぎないのだった。

彼女の家庭はあらゆる意味でアメリカの地方都市におけるミドルクラス(中産階級)の典型だといえるかもしれない。


にほんブログ村 写真ブログ モノクロ写真へ

年の始めに決心したことは・・・

dragon01-blog2.jpg

Dragon
Illustration by Green Eyes, Calligraphy by Kuniko Rabenstein


新しい年の始めにひとつだけ僕が考えていることがある。 実はこのところずっとそのことを考えていた。 そしてついに元旦の朝になって、今年はいよいよそれを決行する時が到来したという確信をもったのである。 それは何かというと・・・
「人のために尽くそう」。
なんてことではない。 「酒をやめて健康に留意しよう」、なんてことでもない。 「女房にもう少し優しくしよう」、 これはいつも考えている。 そんな事ではなくて、「髪を長く伸ばそう」 ということであった。 ポニーテールにするかどうかはまだわからないけど、とにかくオールバックにしてみようと思う。 昔、幾人もの女性に賞賛された美しい富士額(ふじびたい)を、今年は堂々と世界に公表することにしたのである。 それを決心した時に僕は無性に嬉しくなってしまって、元日の朝からひとりで乾杯をしている。

ひとりでつい興奮してしまったけど遅ればせながら、新年明けましておめでとう。
おたがいに身体を大切にして、いつまでもいつまでも仲良くして長生きしましょう。 歳をとるというのも、そんなにすてたもんじゃないんですよ。
シニア割引があちこちで利用できるし。




二十代では、世界が自分をどう思うかなんてまったく気にならなかった。
三十代では、世界が自分をどう思うかだけを気にしていた。
四十代では、世界が自分のことなど何とも思っていないことがわかった。
五十代では、世界なんてあってもなくても自分は生きていくのだとあきらめた。
六十代になって、自分の知らなかった新しい世界があることを発見した。
September 30



にほんブログ村 写真ブログ モノクロ写真へ