過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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死せる蝶たちへのレクイエム

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華麗なる死
Dayton Art Institute


子供のころ僕が育った所は昔の城下町だった。 町のはずれに小さな山があって、そこへ登ると眼下に弓なりの半島に囲まれた中海が見渡せて、その向こうには日本海があった。 城山(しろやま)と呼ばれるのは昔は頂上に城があったからだったが、今では跡形もなく消えて、わずかに城壁の一部が残っているだけだった。 昔はきちんとついていただろう石段も、ほとんどの部分が崩れ落ちてしまって、その跡が獣道(けものみち)のように草が茂って残っていた。 長いあいだ山全体が荒れ放題のままにうち捨てられていたから、子供たちにとっては格好の遊び場になった。 僕はその城山の、あらゆる小道、枝道、抜け道に仲間の誰よりも精通していた。 だから、僕が小学生のある夏に昆虫採集を始めた時には、当然この城山が僕の科学プロジェクトの現場となったのだった。

その年の夏休みは、毎朝起きると半ズボンにズックを履いて野球帽をかぶり、殺虫管を肩から下げ三角缶を腰につけると、捕虫網を抱えて城山に登るのが日課であった。 雨の日以外は、僕は一日も欠かさず城山に登り、時には一日に二度も出かけることもあった。 しばらくして気がついたのは、昆虫採集といってもカブトムシやカマキリなどの虫類には僕はあまり興味が無く、いつも蝶類だけを追っていた。 蝶に似ていても、厚い大きな羽を持った蛾の類には僕は理由のない嫌悪感を感じるだけだった。

毎日のように城山に通ううちに、蝶には種類によって独特の習性があることが分かってきた。 たとえば、ミヤマカラスアゲハは毎日決まって午後の一時ごろ、そのカラスのように真っ黒な羽をゆっくりと羽ばたいて、崖下の神社の裏手に一面に咲いている白い花に群れを成して飛んで来ることを発見した。 その訪問の正確さはまるで時計仕掛けのようだった。 午後の一時にそこで待っていると、子供たちが夢にまで見るこの巨大なアゲハ蝶が面白いように捕れるのだ。 ところが晴天の日が続くとこの蝶はぱったりと現れなくなる。 そしてそのあと、ひさしぶりに雨の降った日の午後になると、この蝶が信じられないほどの大群をなしてこの花に群がるのである。 その数は本当に凄い。 一面の白い花をうごめく黒い蝶たちが完全に被い隠してしまうほどだった。 僕はこの自分だけの秘密の発見を昆虫採集仲間の誰にも話さなかった。 そしていつか誰かがそれに気がつくのではないかと、常にヒヤヒヤしていた。

しかし何といっても、僕がいつも密かに、そして執拗に追っていたのは 「アサギマダラ」 というタテハ蝶科の美しい蝶だった。 この蝶は 〈幻の蝶〉 と呼ぶほどの珍種というわけではなくて、日本の中部地方ではどこでも見られるという。 ところが僕の住む地方には極端に数が少なく、仲間の誰かがアサギマダラを捕まえたという噂は、すぐに少年たちのあいだに羨望と嫉妬をもって伝えられた。 僕自身も、タテハ蝶特有の、あの翅を広げたままの、グライダーのような優雅な滑空を何度か目撃したことがある。 いつも捕虫網の届かない、はるかに高い空間を悠々と飛んでいた。

一度だけ、国立公園大山の山奥でその蝶と面と向かったことがある。 暗い森の中でいきなり眼の前に、まるでキラリと光る妖精のように現れてすれちがった。 僕がアッと目をむいて振り返ると、彼女は高く舞い上がることもなしに低空をゆっくりと木々のあいだを抜けている。 僕は腰までもある熊笹を掻き分けて追った。 やがて森が切れたところが、ほとんど崖といってもいいほどの急勾配になっていて、そこを二十メートルほど滑り降りながら追いかけて、やっとのことでこの淫靡(いんび)な誘惑者を網のなかに捕らえた。
捕らえてみると、そのアサギマダラはかわいそうにも羽が無残に破れていて、標本として展翅できる状態ではなかったのでそのまま放してやった。

その夏が過ぎて次の夏が来たときに、僕はあいかわらず毎日蝶を追った。 それから僕の中に何が起こったのだろう?
捕虫網に捕らえれたばかりの美しい蝶たちが羽をばたつかせるのを手の中に入れて、その柔らかくかぼそい胸を自分の指で挟んで殺すことが、しだいに苦痛になってきていた。 そして僕はいつのまにか蝶の採集を止めてしまった。


アサギマダラ

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時を五十年以上早送りして、つい昨年の話。
初めて訪れた高知市の牧野植物園の展示室で、そのあたりに生息する蝶類の標本を見ていたら、その中に例のアサギマダラがいたのである。 瞬間、あの少年の日に大山の山奥で一度だけ僕の手の中にあった、翅の破れた蝶を思い出していた。
しかし、その何百という蝶たちの華麗な死骸の群れを見ていると、言いようもない悲しみが湧いてくる。
自然から生まれて、自然の中で滅んでゆくべき生き物なのに・・・・・

***

そしてここにもう一羽の蝶がいる。 ある日僕の胸に迷い込んできた美しい緋色のアゲハ蝶である。
アンジェラ・ゲオギュウが歌う歌劇「トスカ」のアリアは、殺戮された蝶たちへの鎮魂歌のように僕の耳に響いた。


歌に生き愛に生き
Angela Gheorghiu




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マーブルヘッドの朝

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朝日の当たるフェンス
Marblehead, Massachusetts USA


ボストンから海岸線に沿ってどこまでも北上して行く車の旅は、あのころの僕のお気に入りのドライブコースだった。 適当なところで車をUターンさせれば日帰りの遠足になるし、その日の気分しだいで通りすがりの鄙びたインにでも一泊すれば、隣州のニューハンプシャー、さらにはメイン州あたりまで足を伸ばすちょっとした小旅行になった。 次から次へと車で走り抜ける無数の町々はいずれも1600年ごろから人が住みついたらしい。 それぞれの町の歴史や伝説を、建物やメインストリートやお祭りや蚤の市に窺うことができた。
マーブルヘッドという町もそんな中の一つだった。 以前は活発な漁村だったのだろう。 湾に面して、今はもうあまり使われなくなった小さな港が残っている。 時折そこへボートと呼んだほうがいいような小型の漁船が着くと、漁師たちが網をあげたり魚やエビなどを粗末な木造の埠頭へ下ろすのが見られた。 そしてそこで働く男たちは例外なく年老いていた。 彼らは日焼けした肌に静脈のように老齢の皺を貼りつけて、少年のころから何千回も繰りかえしてきたにちがいないその作業を続けていた。 その姿には、落ちてゆく砦を護(まも)る老兵のような哀しさがあった。

海岸に沿って並ぶかつての漁師たちの家々は、今はほとんどがボストンなど都会に住む人たちのサマーハウスになっていた。 夏には避暑客で賑わう表通りも季節はずれの今はひっそりとして、レストランやカフェやアイスクリーム・パーラーも、商店もマーケットもほとんど閉められている。
そんな中で、軒に吊り下がった店の看板が海から吹く風にカラカラと音をたて、住人のない家の白いフェンスに、弱い朝日が当たって沁みるように光っていた。


『朝日のようにさわやかに』
原題は "Softly as in a Morning Sunrise"。
有名なジャズのスタンダードナンバーで、僕も若いころさんざん演奏した。 いまだに理解できないのは、誰が最初に訳したのか 'softly' を 「さわやかに」 と言っていることだ。 かなり苦しい。 長いあいだ英語圏で暮らしていて思うんだけど、'softly' に 日本語の 「さわやか」 という感じはどうしても重ならない。 ここはやはり素直に 「優しく」 とか 「やわらかに」 と解釈したい。 しかしMJQの演奏、特にミルト・ジャクソンのヴァイブは心に強く残る名演で、爽やかといえば実に爽やかなんだけどね。
例によってピアノとヴァイブがクラシックの対位法的に絡むイントロから始まって、ミルト・ジャクソンのヴァイブが印象的な主旋律を提示したあとは彼の独り舞台となる。 奔放で饒舌でファンキーなミルト・ジャクソンのヴァイブラホンは、リーダーのジョン・ルイスの極めて内省的なピアノの抑制がなければ、朝日の中を大空に向けて羽ばたくカモメのように、果てしなくどこまでもどこまでも舞い上がって行って視界の外へと消えてしまいそうな、そんなすばらしい演奏である。


Softly as in a Morning Sunrise
Modern Jazz Quartet




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二月のクイズ

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これっていったい何?


正解者の中から1名を抽選で選び、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
8インチX10インチのマット付きのプリントを世界中どこへでも送ります。
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい。


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孤独な人間たち

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最後の朝
Rocky Fork, Ohio USA

みずうみのそばの山小屋で過ごす、最後の朝だった。 誰もが、ちょっぴり、疲労感と哀しみを味わっていた。 なぜならこれが楽しかった家族のヴァカンスの終わりであり、夏の終わりだったから。
写真の中の人たちはあんなにも仲の良い緊密な家族でありながら、それぞれの人生の250分の1秒をカメラに切り取られたこの瞬間、おたがいに何の繋(つな)がりも無く存在する孤独な生きものように僕には見えた。

ニコンF ニッコール24ミリ コダック トライX 絞りF8 シャッター250分の1


26年も前に撮られたこの写真を見ていると一つの家族にもいろいろな変遷があったのだなあ、とあらためて実感が湧いてくる。 あの年の夏、アメリカの中西部の小さな村で、身内の数家族とともに忘れられない一週間を過ごした。 その当時は僕らはまだボストンに住んでいたころで、三年後にこの中西部へ引っ越してくるなんて予想もしていなかった。
黒い眼帯をかけたオヤジさんは今ではもうこの世の人ではない (この時のオヤジさんは現在の僕よりもずっと若かった)。 幼かった僕の二人の子供たちと姪っ子はすでに三十歳前後に成人している。 左端に背中を見せている女性は義弟の奥さんなのだが、数年前に離婚をした。 右端のお義母(かあ)さんもオヤジさんが亡くなったあとは急に老け込んで、最近は健康状態もあまり良くない。 前景のもうひとりの義弟は、この時には独身だったのが、今はフロリダ州で結婚して三人の子持ちになっている。 そして、奥のキッチンでミルクを注いでいるのは、まだ若々しい我が Green Eyes である。

みんなみんな変わってしまった。 しかしそんなことを言う僕だって・・・。

上の写真とその下のキャプションは、いまから26年前の1986年10月12日のボストン・グローブの日曜版に載せられた僕の作品で、その年の写真コンテストに6400人の中から一席に選ばれた。 そのころラボの暗室技師として働いていた僕は、フォトグラファーとしてはアマチュアだったのでこのコンテストへの参加資格がもらえたのだった。 一席に選ばれても僕は別に有名にも何にもならなかったし、それで仕事があちこちからくるようになったわけでもなかった。 その代わりに、賞金にもらった2000ドルの一部でずっと前から欲しかったのに買えなかったニコンの20ミリのレンズを手に入れることができた。


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ボストンのこと、小澤征爾さんのこと

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クリスチャン・サイエンス教会
Boston, Massachusetts USA


ボストンにあるクリスチャン・サイエンスのマザーチャーチは、毎年一回のコンベンションに何万人という信徒が世界中から集まって来て、ボストン内外の主なホテルを完全に借りきってしまう。 古都ボストン周辺には大小の美しい教会が数え切れないほどあるなかで、この教会の建物は巨大な灰色のコンクリートの塊という感じがした。 古い教会の持つあの荘厳さのようなものは感じられないが、その仰々しさに圧倒されることは確かだ。

この教会からマサチュセッツ・アベニューをはさんだ向いにあるのがシンフォニーホールだった。 アムステルダム、ウィーンのそれと並んで、世界の三大コンサートホールといわれるらしいが、ここのホールは開かれたのが1900年だから、何世紀もの歴史を持つヨーロッパのそれとは比較にならないほど新しいわけだ。 このあたりはボストンのバックベイと呼ばれる地域で、シンフォニーホールのすぐ裏手には著名な音楽学校のニューイングランド・コンサーヴァトリ-があるし、近くにはボストン・コンサーヴァトリー、バークリー音楽院、などもある。 それ以外にもボストン内外には大きな大学の音楽部やプライベ-トの音楽アカデミーなどをいれれば、音楽家になるための教育機関が実に多い。

このシンフォニーホールをホームグランドとして世界中に知られているのがあのボストン・シンフォニーとボストン・ポップス・オーケストラ、それにヘンデル・アンド・ハイドン・ソサイエティである。 ここでのコンサートはクラシックと限られておらず、それほど多くはないけれどジャズのコンサートもあって、僕はオスカー・ピーターソンのトリオをバックにエラ・フィッツジェラルドが歌うという豪華版の演奏を聴きに行ったことがある。

ちょうど僕がボストンに来たばかりの1970年代のはじめに、小澤征爾さんが新しくボストン・シンフォニーの常任指揮者として着任して来た。 その頃はボストンでもまだ日本人の音楽留学生は数が少なかったから、あちこちのサークルに顔を出しているうちに自然と小澤さんとも知り合いになった。 一介の音楽学生であった我々からみれば小沢さんはそれこそ雲の上のスーパースターであったが、ふだんの小澤さんはまったく気取らない優しい人だった。 ボストン・シンフォニーのオープンリハーサルは切符を買えば誰でも聴くことができたが、経済的に余裕のある留学生が多かった中で、小澤さんは貧乏学生の僕をいつも楽屋口から入れてくれて、美しい入江美樹さん(小澤さんの奥さん)の横で演奏を聴いた。
それより十年ほど前に日本に帰った小澤さんが、N響を指揮して団員からボイコットされるという事件が起きた時に僕はまだ東京で大学に行っていた。 その真相は忘れてしまったけど、自分のワイフを気軽にリハーサルに連れていくというような風習を持たない旧弊な日本の音楽界で、小澤さんは異端者扱いをされたようなところがあったようだ。 その事件のあと、彼は 「石をもて追わるるごとく」 アメリカに帰ってきた。
小澤さんはボストン・シンフォニーの常任指揮者であるばかりでなく、タングルウッドの音楽祭のディレクターも兼ねていたから、ボストンの市民はこの若い日本のマエストロを熱狂的に愛した。 彼はボストン・シンフォニーを三十年ちかくも指揮したが、そんな例は世界の音楽の歴史にも珍しい。

数年前に健康を害した小澤さんは日本に帰って養生されていたが、最近はまた元気を取り戻して日本で活躍されていると聞くのは嬉しいことだった。 しかし僕の記憶に住む小澤さんはやはりボストン時代の小澤さんだった。 冬になると、踵(かかと)に届くほど長いシープスキンのコートをぞろりと着て、雪の降るニューバリー・ストリートの雑踏の中を歩く世界の「オザワ」を、行き交う人々は皆振り返った。


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男だって泣くことがある

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海辺のキリスト
Marseille, France


ものごとに感動して泣く、ということをしなくなってからもうずいぶんと経つような気がする。 若いころのように小説を読んで泣くことはもうないし、絵や写真を見て息が止まるような感動をおぼえることがあっても、涙が出てくることはない。 映画なら見ていて鼻がグスグスして目頭(めがしら)が熱くなることは時々あるけれど、あれはたいていの場合は劇中の不幸な人たちにに同情して悲しくなるのであって、純粋に感動して泣くのとはちょっとちがうと思う。 映画というものは、筋とか台詞とかカメラワークとかで、よってたかって人を泣かせるようにできている。 そこへ音楽が入るからたまらない。 見ている側では 「だめだ。こんなことで泣かされちゃだめだ」 と反抗をしながら、つい涙が出てくるのは、あれは一種の暴力だといっていい。 そして映画が終わったあとでいつも騙されたような、損をしたような気になる。 そしてすぐ忘れてしまう。 心から感動して泣いたあとでは、そんなことはありえない。

昔から僕が一番泣かされたのはやはり音楽かもしれない。 それだけ音楽はほかの何よりもひとの感性を直接にグイと掴む力をもっているということだ。 でも最近ではそれもほとんどなくなってしまった。
ほとんど、ということはたまには今でも泣くことがあるということになる。 たとえば、 ショパンの 『スケルツォ第二番』。

この曲はいきなり冒頭から激しい怒りの爆発で始まる。 ほとんど暴力的と言っていいくらいの危険な匂いのする始まりだ。 そのあと、情熱的な感情の昂ぶりが続く。 しかし、どんな感情にも必ず波があるものだ。 高いテンションの波長が少しずつ低まっていって、ところどころに優しい旋律が見え隠れするようになると、曲は中間部へと発展する。
中間部は、うって変わって叙情的な「癒し」の部分である。 ここではショパンの他の作品によくみられるような過度の甘ったるさがなく、抑制されて瞑想的で、そして実に美しい。 我々はそれまでの激しさから抜け出てここまで来ると思わずほっとしてしまう。 しかしそれも長くは続かない。 曲は再びもとの激しい感情の高揚へと返ってゆき、そのままぶちきれるように終わってしまう。
全体の構成としてはいくらか散漫なところがあって、他の作品に比べると完成された世界という点では弱いところがある。 これを書いた二十七歳のショパンとしてはもっと推敲する余地があったように思える。
それにもかかわらず、曲が始まってから3分50秒のあたりから中間部に入ったところで、僕は恥ずかしいけど、必ずといっていいほど胸がキューンと絞(し)まって眼に涙がたまるのだった。 この部分を聴くたびに僕はいつもある強い感情に襲われる。 それは、自分自身の人生で失ってしまったもの、手にすることのできなかったもの、犯した様々の過(あやま)ちに向けての悔悟のようなもの、そんなものが、海綿からじわじわと滲みでる水のように、哀しみとなって僕を浸してしまう。
これは至上の音楽だと思う。


若い中国人ピアニスト、ユンディが弾くこの中間部の演奏が、ルビンスタインやポリーニやジマーマンや、以前に聴いた誰よりも僕の心に迫るのは、ショパンの音楽は結局は若者の音楽だからじゃないか。 年を経て熟成して巨匠と呼ばれるピアニストが、どこかで失ってしまったものをユンディの弾くショパンが僕に伝えてくれる。 それは僕自身もずっと昔にどこかへ置いてきてしまったものだった。






青春が、
人生の中でもうすこし遅く訪れてくれれば理想的なんだけどね。

Herbert Asquith




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「魚座」という名の犬

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遠吠え
Oakwood, Ohio USA


我が家に住む二匹の犬のかたわれは本名をパイシーズ(Pisces) という。 メス犬である。 ふだんは我々はパイと呼んでいるが、パイシーズとは西欧のゾディアックの魚座のことだ。 パイは犬種としては 「オーストラリアン・キャトル・ドッグ」 で、オーストラリアでは牧牛犬として牧場にはなくてはならない犬である。 有名なディンゴなどと共に総称して 「ヒーラー」(heeler) と呼ばれるのは、言うことを聞かない牛のヒール(かかと)を軽く噛んで統率するというユニークな習性を持っているからだ。 (それで僕もときどき踵(かかと)を噛まれることがある)。 うちの近所では珍しい種の犬だから、散歩の途中でよく人に話しかけられる。 日本ではどうなのだろうか?

パイは驚くほど利口な犬だった。 飼い主に服従するのは犬としては珍しくないけど、その服従のしかたが徹底しているし、人間同士の会話をそばで聞いている彼女は、その表情や動作から内容がかなりわかっているのじゃないかと思うことがある。 テレビの画面に犬が出てくるとワンと吠えるのは、あれはちゃんと人と同じ知覚をもってテレビを見ているのだ。 パイは我々に散歩を催促する時には、二階の仕事場にいる僕のところまで僕のスニーカーをくわえてきたり、妻のところへは妻のサンダルを持っていく (時々まちがえるけど)。そして散歩に出れば出たでもう一匹の犬、ベラの鎖は自分が口にくわえてリードする。
ゴルフ場で鎖から放してやると、すばらしい速度でメチャメチャな線を描いて走り回る。 遊び仲間の犬たちの中で、彼女のスピードに附いていけるのはグレーハウンドしかいなかった。 どんなに遠くにいても、どんなに遊びの最中でも、僕が口笛を吹くと即座に全速力で戻ってくるのだが、老犬のベラが林の中で迷子になったりして帰ってこないことがあると、あちこち探しに行ってちゃんと連れて帰ってくる。 まるでそれが自分に課せられた仕事だと思っているように。 生まれつきリーダーの資質が備わっているようだった。

数年前に、僕の息子が日本に就職先を見つけて家を出て行ったあとのパイの悲しみようは、見ていても可哀想だった。 終日、窓際に座っていつも息子がクルマを駐車するあたりをカーテンの隙間から覗いて、じっと待っている。 いつまでもいつまでも待っているのである。 そして帰らぬマスターを呼ぶかのように、天に向かって細く悲痛な遠吠えをするのを聞いていると、僕も妻も、哀(あわ)れさに胸が苦しくなった。
そして一年後に、息子が我が家の玄関口に姿を見せた時のパイの歓喜は、無条件の愛とはどういうものなのかを教えてくれる感動的なシーンであった。 そしてパイはそれまで一度もしたことのないことを、この時にした。
絨毯の上でオシッコを洩らしてしまったのである。



うちの犬は私のことをすばらしい人間だと思っている。
そういう人間になりたい、というのが私の人生のゴールだ。
作者不詳


* 犬のことは以前に 『友情のはじまり』 にも書いている。


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銀座の午後の会話

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ヤッコの世界
Lexington, Massachusetts USA


「ヤッコちゃんがこの写真を見るのは初めてだと思うんだけど?」
「ええっ これ私ですか? ああっ、あのころレキシントンにあった彩子おばさまのおうちの庭でしょう。 ええ、この写真は初めて見ます。 わ~懐かしい。 でも、この写真を撮られた時のことを、今いきなり思い出しました」
「あのころはよく彩子さんの家に子供たちがいっぱい集まって遊んでたよね」
「とっても懐かしいです。 今では私のふたりの娘がこの写真の自分よりも大きいなんて・・・。 あれからそんなに経ったのですねえ」
「そう。三十年ちかく経ってるかな。 ヤッコちゃんはお転婆だったお姉さんとちがって、人見知りする内気な子だったよ」
「そうなんです。 だからこの時も太郎君のお父さまが私にカメラを向けた時にたぶん泣き出しそうにしてたのだと思います。 おじさまの顔はしょっちゅう見ていて知らない人ではなかったのに」
「覚えているよ。 この一枚だけ撮ったあとすごいスピードで走って逃げていった」
「ごめんなさい。 あのころのおじさまはいつも首から大きなカメラを提(さ)げていて、何となく怖い感じがしたのを覚えています」

「このあとしばらくしてから僕らの家族は遠くへ引っ越してしまったんだけど、何年も経ってからボストンに遊びに来た時にヤッコちゃんにも会ってるんだよ。 もう高校生になっていた。 あの時はボーイフレンドもいっしょで、もう内気な女の子じゃなかった」
「はい、あのころが家族としては一番幸せな時代だったと思います。 あのあと、私は日本の大学に行くことに決めていた時に父がああいうことになってしまって、私はどうしようかとさんざん迷ったんですけど、母がどうしても予定通りに日本の大学へ行け、というのでひとりで東京の祖母のところへ帰ったのです。 それ以後は姉は結婚してコロラドへ、兄はあちこちを仕事で移ったあげく、結局はドイツに落ちついてしまいました。 ですから家族全員がいっしょに暮らすことは二度とありませんでした」
「そうだったね。 でもヤッコちゃんがもし日本へ帰ってなかったら、今のご主人にはめぐり合っていなかったし二人の娘さんもいないわけだ。 あれからずっと東京で暮らしていたの?」
「はい。 でもボストンには夫や子供たちを連れてもう何度も行っているのですよ。 自分が生まれたところですし、それに母がどうしても日本に帰りたくないといって動かないので」
「お母さんはアメリカに長かったし、お父さんのお墓もあちらにあるし、彩子さんという仲良しのお友達もすぐそばにいるしね」
「日本に帰って私たちといっしょに住めば、というのに、今のところはまだ気が変わらないみたい。 そのくせ孫たちの顔を見にしょっちゅう日本へ飛んでくるんですよ」

「今回の帰国でヤッコちゃんに会えるとは思ってなかった」
「私もです! これからは時々お会いできればいいなあ。 何十年に一度というのではちょと寂しすぎません?」

人生というものは幾何学でいうと直線ではなくて曲線なのだと思う。 それもくねくねと蛇行している曲線である。 そしてひとそれぞれにその湾曲のぐあいが違う。 だから、ある時点で交わって離れて行った二つの軌跡はまちがいなくどこかで再び出会うことになる。 それが五年後、二十年後、五十年後、百年後、千年後になるかどうかの違いがあるだけなのだ。


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なんでもおいしく食べる法、を見つけた


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優雅なディナー
Dayton, Ohio USA


断食をはじめてから一週間が経った。 といっても真正の断食ではなくて、一日に一度だけ食事をするというやつ。 だから断食というよりも食餌療法といったほうが正しい。 日本の友人と電話で話していて、彼女の相談した漢方医が薦めたというのがこの療法だった。 夕食以外はまったく何も口にしないのだけど、その夕食は思う存分食べてかまわないという。 食材のカロリーとかコレステロールなど細かなことにも気を使う必要はないというこの療法は、僕にぴったりのように思えてさっそく始めてみたのである。
その友人は十日で3キロ体重が減ったそうだが、僕は一週間で一キロしか減らないのは、たぶん彼女のようにもっと体を動かさなければいけないのだと思う (彼女はフルタイムの会社勤めである)。 でもこの数日のあいだ気がついたのは体重の変化よりも知覚の変化だった。 何となく自分の動作がキビキビしているような自覚があり、頭脳が常に醒(さ)めたようなアラートの状態にある。 そのうえ味覚や嗅覚だけではなく聴覚までも以前より鋭敏さが増してきているような気がする。
胃腸は第二の脳といわれるらしいから、その脳を良い状態に保ってやれば、精神も健康になるのだ、と自分で勝手に思いこむことにした。

酷使する胃腸を休めるというのが断食の目的であるから、以前には毎週二日間だけはまったくものを食べないという断食をやろうとしたことがあった。 その時は僕はまだ毎日仕事場へ出ていたころだから、二日間、働きながら朝も昼も抜いて、しかも夜も何も食べない、というのはかなり辛かった。 それでこの二日間の断食を週末に実行することにしたのだけれど、これにもまた問題があった。 今度は48時間のあいだ何も食べないということ自体はそれほど苦痛ではなかったけど、酒が一滴も飲めないというのが厳しかった。 なぜならパーティとか家族の集まりとか、ディナーの招待はほとんどが週末にあることが多いからである。 そういう席で何も食べず何も飲まず(水だけは飲める)というのは、これはまるで拷問であったばかりでなく、「いったい自分は何しにここにきてるんだ?」 とやるせなく哀しい気持ちになってくる。 それなら最初からそんな場所へ行くことを断ればいいようなものだけど、それでは僕のソーシャルライフは破壊されてしまう。 というわけで、この断食は止めてしまった。

そこへいくと、この一日一回の食事というのはなかなかよろしい。 まず、毎日夕方近くになるとどうしようもなく腹がへって、猛然と食欲が湧いているから夕食が待ち遠しくてたまらない。 そして空きっ腹に飲む赤ワインがたちまち身体中を駆け巡って陶然となったところへ、口にする食べ物が以前よりもずっとおいしく感じられる。 その上すぐ良い気持ちになってしまうから自然と飲酒量も減った (実は僕はアルコール依存症なのだ)。
これはぜひ続けたいと思っているのだけれど、ひとつだけ困るのは、夕食の残り物をランチに食べることがなくなったので、冷蔵庫があっというまにいっぱいになってしまうことだった。


「健康」とは死に至るまでの時間をもっとも遅くする手段に過ぎない
作者不詳




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雪のない冬なんて

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零下10℃の散歩
Oakwood, Ohio USA


この数日間、僕の住む地域は少し暖かくなって気温が昼間なら摂氏13℃くらいまで上がっている。 ところがその前の一週間が寒かった。 日中でも零下10℃以下の日がずっと続いていて、寒いのが苦手な僕にとっては、実に自殺したくなるほどの寒さだった。 暖かそうな毛皮に包まれた我が家の二匹の犬でさえ、急ぎ足でぐんぐんと僕を引っぱっていつもの散歩ルートの途中まで行って、そこでさっさと用を済ませると、回れ右してもう家に帰りたそうにしていた。
僕は寒いのは苦手なんだけど、雪は嫌いじゃない。 大雪に閉じ込められて外界と遮断された我が家で、暖かい暖炉のそばで酒を飲みながら、長い静かな夜を過ごすなんて、まるでおとぎ話のように素敵だから大好きなのだ。 ところがその雪が、今年はまったく降らないのである。 これではもう何のために生きているのかわからなくなってしまう。 雪のない冬なんて、金のない休暇のようなもの、醤油なしで食べる刺身のようなもの、雲のない空のようなもの、あるいはクライマックスのないセックスのようなものだ。

話はちょっと変わるけど、最近ある人のブログを見ていて、そこに載せられている一連の雪の風景に魅せられてしまった。 ブログの著者は北海道の旭川周辺に住む女性の方である。 毎日のように更新される北国の雄大な雪の平原の有様は、見ているだけでシンとした冷たい空気が、服の隙間から肌に沁みこむような気がする。 零下20℃の世界だそうだ。 冬山の写真などはどこにでもあって、僕なんかには全部同じ山のようにしか見えないのでつまらないけど、こんな雪原の世界が日本にあるなんて今まで気がついたことが無かった。 ゴミゴミした市井の片隅に生きる僕のような人間としては、写真を見るだけでゆったりとしたおおらかな気分になった。 そしていつか行ってみたいと思った。

それから、僕がこんなに北海道の雪の世界に惹かれたのは、このところ偶然にも、村上春樹の 『羊をめぐる冒険』 を読んでいたせいかもしれない。 主人公の「僕」が探し当てて閉じ込められる冬の山頂の屋敷は旭川の近くらしかった。 この長編小説の中で描写されている風景がブログの写真と重なってしまったようだ。

ともかく、キキさんのブログにはすばらしい雪の世界が開けているから、このブログぜひ訪ねてみてください。



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ジョン・アップダイクのこと (2/2)

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酒と薔薇の日々
Boston Common


ミランダがある時仕事中に、忙しいお父さんが珍しくランチに連れていってくれることになって、彼女のボスである僕にもぜひいっしょに、と言っていると言う。僕は喜んでその招待を受けた。僕の仕事場はチャイナタウンのそばにあったから、そこからすぐ近くのボストン・コモンで我々3人が落ち合った。それから秋の日のパブリック・ガーデンを横切って、向かいのリッツ・カールトンのレストランで昼食をとった。

もともと僕は長いあいだ音楽界にいてその世界では知名度の高い人たちともずいぶんと知りあいになった。そのせいかどうか、世間で有名人とみられる人に会うからといってことさら大騒ぎをするようなことはないのだけれど、なにしろ小説家に面と向かって話をするのはこれが初めてだったので、僕ははちきれるような興味でふくらんでいた。
と、ここまで書いて、実は以前にもうひとり小説家と会ったことがあるのを思い出した。昔、三島由紀夫さんが書いた脚本がバレーになって、上野文化会館で公演があった時にダンサーであった前妻が出演していた。その打ち上げのパーティで三島さんと同席したことがあったのである。
そしてその時の出し物のタイトルが 『ミランダ』 だったのはこれは何という偶然だろう!

ところで…
初めて会うアップダイク氏は、一見大学の教授か、そうでなければ教会の牧師のような感じがした。少し早口だけれど口元をいつも微笑するように弛めて、非常にクリアなしゃべり方をする人であった。僕が最初に、恥ずかしながらあなたの作品は 『ラビット』 シリーズの中の一作と、一番最近は 『カップルズ』 しか読んでないんです。なにしろ日本人の僕にとってあなたの文章はかなり難解な部類に入るんです。ヘミングウェイを読むようなわけにはいきません。というと、彼は笑いながら
「実はその "Couples" はしばらく前に日本で出版されたんだけれど、私の作品は日本語に訳しにくいと思いますか?」 と訊いてきた。僕は英語で読んだばかりの 『カップルズ』 の内容を思い浮かべながら、
「多くの節や句で装飾された非常に長いあなたの文章は、日本語にはなかなか変わりにくい文章ではないでしょうか。日本語は関係代名詞を持たない言語ですから」 と答えた。
「そうですか」 と彼は頷いた。
「ミランダにその訳本を持たせますから、よければちょっと目を通してみて下さい」 と言ってそれでその話は終りになった。

数日後にミランダが持ってきたのは、新潮社から数年前に出ていた 『カップルズ』 の上下2冊の文庫本だった。驚いたのは、その奥付に僕の名前が書いてあって、《Warm regards from John Updike》 と手書きの署名がしてあった。
僕はさっそく、ちょっと前に読んだばかりのその長編小説を、こんどは日本語訳で読んでみたが、正直にいうと僕は最後まで読み通す根気を一冊目の途中で放棄してしまった。思わず苦笑してしまうような明らかな誤訳や、何度読み返しても意味の通らない構文などが随所に出てきて、本を閉じた僕はアップダイクさんに済まない気持ちでいっぱいであった。卑近な日常生活が主題になっている彼の小説は、俗語だけではなくて、言い回しなどにも、アメリカに住んだ人でなければピンと来ないような表現に満ちていて、机上の辞書に頼る翻訳者には無理な文学なのかもしれない。だから直訳をしないで、翻訳者が完全に消化して理解したうえで、大胆な意訳を実行するしか、この「意識の流れ」的な小説を翻訳する方法は無いように、僕には思えた。

アップダイクさんが翻訳の内容を訊ねてきたら、何と答えようかと僕は困っていたが、さいわいなことに、アップダイクさんもミランダもそのことに触れないままに月日が経ってしまった。そしてそのうちにミランダは僕との仕事を離れてゆき、そのあとは時々電話で話をするだけで何年も会うことが無かった。ある時突然にそのミランダから結婚式の招待状が来た。ところが挙式の当日は、僕は家族全員を連れて日本に行っていた最中で結婚式には出席することができなった。 しかも日本から帰って来るとすぐに、僕は19年住んだボストンを、家族といっしょに離れていった。 それ以後ミランダには一度も会っていない。

***

昨夜のテレビのニュースで、亡くなる数ヶ月前にインタヴューされているアップダイクさんを見た。 癌に侵(おか)されている人だとは思えないほど、やつれの見えない元気そうな彼がそこにいた。 そして画面に映された数枚の古い写真には、若いアップダイクさんと並んで幼いミランダが笑っていた。
僕は本箱の奥に大事にしまってあった 『カップルズ』 を取り出して、彼の手書きのサインがあるページをいつまでも眺めていた。

*上の写真とこの話とどんな関係があるか、というと、このアル中のおじさんが腰かけている同じベンチで、あの日ジョン・アップダイクとミランダと僕の3人が会って、そこからリッツ・カールトンまで歩いたのだった。

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ジョン・アップダイクのこと (1/2)

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噴水で遊ぶ子供たち
Boston, Massachusetts USA


20世紀のアメリカ文学を代表する作家の一人、ジョン・アップダイクが亡くなったのが3年前の今日、1月27日なので、テレビではその特集をやっていた。そこで、以前の古いブログに僕が書いた記事をもう一度掲載してみようと思ったのは、今日改めて彼のことを思い出していたからです。

***

ジョン・アップダイクが亡くなった。
僕は彼の作品はその幾つかを読んだことがあるだけで、とくに、この著名な小説家の愛読者というわけではなかった。 それなのに、彼の訃報を車の中のラジオで聞いた時に、はっと一瞬息がつまったのは、遠い記憶の中にはっきりと思い出すことがあったからだった。

そのころ、つまり1980年のはじめに、ボストンで写真関係の仕事をしていた僕のまわりには、フォトグラファー志望、イラストレーター志望 (実際には何をやっていたのかまったく不明だったけど) の若い人たちが数人集まっていた。その中にミランダという20代半ばの女の子がいた。なかなかシャープな頭脳の持ち主でしかも性格がとても素直な彼女を僕はかなり気に入っていた。デートというわけではなかったけれど(僕は結婚したばかりだった) いつもいっしょにコーヒーを飲んだり、時々野外のロックコンサートに行ったりしているうちに、ちょうどアシスタントを探していた僕のところへ来ないかということに、なんとなくなってしまった。履歴書も何も見ないで、身元もチェックすることなしに採用してしまったのだから、僕もいいかげんなものであった。しかし、アーティスト間の雇用関係はいつもそんなぐあいにして始まるものだった。

ミランダは、アシスタントとしては仕事をきちんとこなすし責任感が強く、僕にとってはまったく申し分のない片腕となってくれた。しかし何よりも僕が愛したのは、彼女のてきぱきと仕事をこなす能力とはまったく逆の、実にのんびりとして鷹揚な性格だった。いつもくるぶしまで隠すようなロングスカートを着て、数人の女性とシェアするアパートで大きなジャーマン・シェパードと暮らしていた。彼女のライフスタイルは、僕に70年代のヒッピーを思い出させた。
そのミランダの父親というのが、あの世界的に有名な小説家のジョン・アップダイクだと知ったのはしばらく経ってから、それも本人の口からではなくて彼女のボーイフレンドからだった。なぜその事を言わなかったの、と訊くと彼女は肩をすくめて、「別に隠したわけじゃないけど、自分から吹聴することでもないと思ったから」 と答えた。
「父のことを知ったとたんに人の私を見る目が変わるのがいやなんです」
それで僕はますます彼女が気に入ってしまった。もし僕が三島由紀夫の息子だとか村上春樹の兄貴だったりしたら、どこまでそれを人に伏せておけるか。知ってもらいたくて、うずうずしてしまうのではないか、と想像するが、こればかりは分からない。 (続)


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異端者の勲章

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刺青
Dayton, Ohio USA


刺青といえば、1990年代のアメリカでは若者たちのファッションのひとつとして刺青が大流行していた。 とくに女の子のあいだで流行(はや)っていたようで、夏の海岸やプールサイドでビキニ姿の女の子が、腰の後ろや腹や腕に入れた小さなタトゥーを誇らしげに見せていたのを覚えている。 なかでも人気があったのは日本語の漢字やひらかなで、たとえば 『愛』 という彫り物はもっともポピュラーでいたるところで見かけた。 あまり大きくない僕の町にも Tattoo Studio と呼ばれる刺青屋があちこちにあってずいぶん繁盛していたようだ。
そのころ高校生だった娘が、刺青を彫りたいんだけど、と言ってきた時に僕はそれを許さなかった。 その少し前に、耳に幾つかピアスをしたいと言った時には、妻が反対しなかったので、僕はあまり気が進まないままに許していたから、刺青は駄目だと言われた娘もわりと簡単にあきらめたようだった。

ピアスとか刺青に対して僕が生理的な拒否反応を示すのは、自分が古い日本人のせいかも知れないと思う。 (現在の自分はそれほどでもない)。
《身体髪膚(はっぷ)、これ父母に受く、あえて毀傷(きしょう)せざるは孝のはじめなり》 というような孔子をはじめとする儒教の教えが僕の内部に浸透していたかどうかはわからないが、自分の体に傷をつけるのはよくないことだと、という意識が確かにあったようだ。
日本社会では昔から刺青などするのは普通の人ではないとされていた。 だからヤクザと呼ばれた一団の男たちが体に彫り物をいれたのは、俺たち極道はまともな人間ではないんだ、社会の枠の外に生きるアウトローなんだ、というような反逆意識の表れだったのだろうか。 彼らにとって刺青は異端者の勲章のようなものだったのかもしれない。

それで思い出すのは、僕が二十代のころ山陽地方の海辺の小都市に数ヶ月のあいだ住んだことがあった。 その町にはアメリカ軍のキャンプがあって、そこの将校クラブで僕はピアノを弾いていた。 そのキャンプにMさんという日本人の運転手が働いていた。 もう五十を過ぎていると思われるMさんは、軍所属の、滑稽なくらいに馬鹿でかい青いシボレーを運転して毎日アメリカ人の高官たちの送り迎えをやったり、バンドの我々を乗せてクラブと宿舎のあいだを往復したりしてくれた。 Mさんはどちらかというと口数が少なく気難しくて、誰とでもすぐ親しくなるというタイプの人ではなかったのに、そのMさんに対して僕が最初から親しみを感じたのは、彼の顔つきや性格が何となく自分の父親と似ていたからである。 Mさんには二十歳も年下だと思われるきれいな奥さんと中学に行く娘さんがあった。 親しくなるにつれて僕は彼の家庭にも出入りするようになって、夕飯をごちそうになったりするようになっていた。 

ある時、夕飯のあとでMさんに誘われるままに二人で近所の銭湯に行ったことがある。 そしてお互いの背中を流し合っていて、僕は彼の背中一面にケロイド状の大きな傷があるの気がついたのである。 「この傷はどうしたのですか?」 と僕は訊かずにはいられなかった。 
「いやあ、わしは昔若い頃に極道をしてたもんでね、背中に俱利伽羅紋紋をやっとったんですわ」 とMさんは小柄で引き締まった体を洗いながら言った。
「それがひょんなことで今の家内に会って一緒になった時に、わしは組を抜けて堅気になったんですが、背中の刺青のことはあいつは解ってくれていて何も言わんかったのです」 
僕はとっさにあの静かで優しい奥さんを思い浮かべていた。 組を抜けて堅気になるのは容易なことではなかったにちがいない。 彼の短い表現の中に、中年のやくざ者と若い堅気の女性とのあいだの、激しくて一途な恋物語を想像することができた。
それからMさんは何でもないことのようにあっさりと言った。 
「ところが娘が生まれた時に自分で決心して紋々は取ることにしたんです」

なぜ?
というような無神経な質問をするほど僕も馬鹿ではなかった。

***

それ以後長いあいだ、いや実は今でも、刺青をしている人を見るたびにあのMさんを思い出す。 そして僕の記憶の中のMさんの裸の背中にはいつも、目を剝(む)いた巨大な竜が勢いよく躍(おど)っていた。

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