過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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五月のクイズの結果は

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歌舞伎座
東京 銀座


解答は『歌舞伎座』で、現在改築中なのでこの正面入り口のディテールも今はう見ることができない。 たぶん新築の歌舞伎座に同じものが使われることはないだろう。
僕がこれを撮ったのは2008年の10月27日午後7時30分32秒だった。
デジタルカメラの良いところはここまで完璧な記録が残ることだ。

今月も投稿者が全員正解だった。
抽選の結果は「Yozakura」さんに決定。

Yozakuraさん、おめでとう。
住所氏名を非公開コメントにして送ってください。
お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のないばあいは棄権として次の方を選びます。

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パリのアメリカ人

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パリのM夫人
Paris, France


ウディ・アレンの 「ミッドナイトイ イン パリ」 が日本で封切られるそうだ。 アメリカに住む僕がこの映画を見たのはもうずいぶん前のことで、そのあとまた一度見ているのでもう新しい映画という感じがなかった。 だから日本ではまだ見た人がいなかったのだと知って驚いた。 いったいこの、日米間の映画の配給システムというのはどうなっているのか僕にはまったくわからない。

"Midnight in Paris" はいかにもウディ・アレンらしい映画といえるだろう。 現在のパリと1920年代の古き良き時代のパリが交錯するというSFめいた設定なのだが、おまけに1890年代のベルエポックのパリやそれよりずっと以前の17世紀(?)のパリまで出てきたりして、ノスタルジアに満ちたフランス風の軽いコメディとなっている。 僕自身もちょっと嗅いだことのあるあのパリの匂いが、場面ごとにぷんぷんとしてくるような映画である。
登場するキャラクターが、スコット・フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、コール・ポーター、ピカソ、ダリ、ガートルード・スタインなど、ここには書ききれないほどの芸術家が出てくるのが楽しい。 そしてウディ・アレンのお気に入りの古いジャズやシャンソンがいつも裏に流れる。 

パリのアメリカ人。
この動画は4人のピアニストが4台のグランドピアノで演奏するという、ちょっと変わったガーシュインである。


An American in Paris
George Gershwin



「ミドナイト イン パリ」では主役のアメリカ人男性が、物質主義的で高慢なアメリカ人の婚約者を離れて、質素で優しいパリジェンヌと最後に結ばれる(ことを示唆している)のだが、このアメリカ人女性と彼女の両親がいかにも典型的なアメリカ人として戯画風に描かれている。 
聞くところによると、パリをはじめヨーロッパを訪れる外国人の中で一番嫌われるのがアメリカ人だそうだ。 なんとなくその理由がわかるような気がする。 アメリカ人のあの人を気にしない陽気なフランクさは、その裏には子供のような無邪気さがあるだけでそれ以上の意味はないのに、古い伝統の中に生きるヨーロッパの人たちには、それが尊大で鼻持ちならないものに映るのかもしれないと思った。 しかし中には、アメリカ以外は国ではない、という嫌な態度をあからさまに表すアメリカ人もいることは確かで、そんな場面を僕は何回か目撃した。 

パリの街を歩いていて、太めの体躯にショーツと野球帽とスニーカー姿の中年の男性を見かけたら、それはまちがいなくアメリカ人だと思っていい。



パリにいると誰もが俳優になりたがる。
観客になって満足するものなんか一人もいない。
Jean Cocteau




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イタリアの旅 フェッラーラ(3)

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碧空
Ferrara, italy


僕の運転する車がフェッラーラの町に入り、迷路のような細い路をぐるぐる廻っているうちに、いつのまにか町の中心部にある広場に出てしまった。 そのまま広場を抜けようとしたところで警官に止められた。 うっかり車両乗入禁止の標識を見落としてしまったらしい。 僕が警官に向かって三歳児のしゃべるようなカタコトのイタリア語で 「ワタシ、ジャポネーゼアルネ。 ヒョーシキ読メナカタアル。 イタリア語トテモトテモムツカシ。 デモコノ町キレイヨ。 スキスキ」 みたいなことを言うと、彼は両腕を広げるとフットボールの審判みたいに大きく上げて 「オオ ジャポネーゼ!」 とそれだけ叫ぶと簡単に許してくれた。



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碧い瞳をもつ少女
Ferrara, Italy


車をちゃんと駐車したあと、ポルティコの下を歩いて広場に戻った。 広場にもどこにも人影がまったくなくて町中がひっそりとしている。 すぐ眼の前に小さなギャラリーがあって何かの写真展を開催中のようだったが、ポスターが出ているわけでもなくて小さなサインが貼ってあるだけだった。 あ、これはいい、と思ってドアを開けて中に入る。 暇そうにしている受付の女の子にパンフレットを渡されて二階の展示会場へと階段を上った。 無料であった。 狭い会場に十数点の写真が並んでいるだけの小さな展示で、訪問者は僕以外には誰もいない。  
いきなり目に飛び込んできたのがこのアフガンの少女。 あっ、と言ってしまった。

絵でも写真でも映画の一シーンでも、最初に見た時はそれほど衝撃的な感動を受けたわけではないのに、その映像がなぜかほとんど永久に脳の中にこびり付いてしまうことがある。 
このポートレート、報道写真家スティーブ・マッカリーが20年以上も前にパキスタンで撮った難民の少女がそうだった。 ナショナル・ジオグラフィック誌(1985年)の表紙になったのをはじめ、出版物やウェブサイトで何度も見ていたが、オリジナルのプリントを眼の前にするのは初めてだった。 少女の怯(おび)えた表情は、まるで銃のように自分に向けられてるカメラへの恐怖かもしれないし、あるいは自分をとりまく世界への恐怖だったのかもしれない。 そしてその異常といっていいほどの碧(あお)さを持つ瞳が、見る者の胸を突き刺す。 

イタリアの小さな町の小さなギャラリーでこの少女に会えるなんて・・・
だから旅は楽しい。
フェッラーラの記事は前にも書いているけど、たぶんこれでおしまいかな。

イタリアの旅 フェッラーラ(1)
イタリアの旅 フェッラーラ(2)



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五月のクイズ

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さて、この建物は何でしょう? (あるいは何だったでしょう? と言うべきか)


正解者の中から1名を抽選で選び、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
8インチX10インチのマット付きのプリントを世界中どこへでも送ります。
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい。



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「そいつ」と僕

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無題
Dayton, Ohio USA


いつのまにか「そいつ」が住みついていた。 
いつ頃から「そいつ」が住みついてしまったのか、思い出せる限りではいつでもそこに居たような気がする。 我々の関係は必ずしも友好的とはいえないが、といってお互いに嫌っている訳でもない。 しかし「そいつ」に関して僕がいちばん閉口しているのは、なにしろ口がうるさいことだった。 それでいつも言い合いになってしまう。 言い合いといっても喧嘩というよりは議論に近かった。 「そいつ」が言うことは大体きちんと筋が通っているから、議論になるとたいていの場合負けるのは僕のほうだった。 どこかに出て行ってくれないかなあ、と思ったことが何度もあるけれど、もし「そいつ」が居なくなれば困るのは自分だということもよくわかっていた。 

その同居人がとくにうるさくなるのは、僕が何かの創作をする時、たとえば写真をやっている時とか家具造りをしている時とか文章を書いている時とかピアノを弾いている時なのである。 ああでもないこうでもない、と僕の耳に囁く。 その声に素直に従うこともあれば、いちおう僕なりに抵抗を試みることもあるのだが、その場合でも最後は「そいつ」のいうなりになってしまうのがふつうだった

この写真の時もそうだった。 
撮ったのはもう6年も前になるけど、僕は最初から何となく気に入っていたのに、「そいつ」の「これはボツだなあ」の一言で何もしないでそのままに放ってしまった。 しかしどうしても気になった僕は、その後何度この写真を取り出して改めて眺めたことか。 その度に「そいつ」に「何度見てもダメなものはダメだよ」とか、「そんなことをしてるからお前さんは上達しないんだ」と叱られた。 ある時など「どこがそんなに好きのか、説明して欲しいね」とまで言われたが、僕には説明のしようが無かったのだ。 ただ、何となく心に引っかかるものがあってどうしても忘れることができないだけだ。 その引っかかるものは言葉に表せる種類のものではなかった。 そんな曖昧な理由では残酷な批評家である「そいつ」を納得させることはできなかった。

それが最近になってまたこの写真を見ていた時、「そいつ」が口を開く前に僕は言った。 
「悪いけどこれは俺の思うようにさせてもらうよ」
彼は僕の顔を見て肩をすくめただけで何も言わなかった。 そして僕はこの写真を撮影後6年目に初めてプリントした。

そのことがあってから、僕は「そいつ」を無視して自分の直感に従うことが少しずつできるようになったようだ。 
そうした目で見る過去の作品群の中に、「そいつ」のおかげで長いあいだ見捨てていた無数の写真を見つけることができたのは、まるで失った自分を取り戻すような喜びだったと言える。
僕は歳を取ったけどそれは「そいつ」も同じで、近頃ではあまりうるさくなくなったので、僕はほっとする。 でも彼はいつもそこに居ることは変わらない。 そして僕が訊いた時にだけ答えてくれるようになった。


もっと自分の直感を信じよう。
すべてのことに・・・
September30


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僕は犬かもしれないよ (インターネットの世界)

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Subway Station
Dorchester, Massachusetts USA


写真を始めてから40年になるが、長いあいだ自分の撮った写真は周りにいるごく少数の人たちに見せるだけで、あとは自分で楽しんでいるだけだった。 時々個展のようなものをやってはいたけど、それとてごく限られたサークルの中で人の目に触れていたにすぎない。 
それがインターネットの到来ですべてが変わってしまった。 僕もかなり遅まきながら見よう見まねでホームページを作成したのはそんなに古い話ではなくて、15年ぐらい前だったろうか。 そして自分の作品を初めてウェブサイトに載せた時のことは忘れない。 数週間のうちに数千人が見てくれた。 数ヶ月たつとその数は数万人にもなった。 それまでの個展では百人以上の人が来てくれたことはなかったから、これは僕には目の玉が飛び出るようなショックだった。 サイトへのアクセス数は作品の価値とは何の関係もない、ということはわかっていたけれど、とにかくそれほどの人が見てくれたということが信じられなかった。 こうして僕はインターネットの凄さを実感したのである。 サイトのアクセス分析機能を見ると、文字通り世界中の国々からのアクセスがあったのがわかるが、アメリカ以外ではなぜかロシアとイタリアが多かったのは今でもその理由がよくわからない。 (日本からは一人もいなかった)
そして思うのは、僕がもし日本でウェブサイトをやっていたら、これほど世界中の人の目に留まることはなかったに違いないということだった。 それは英語という世界共通語のパワーである。

このホームページも数年後に閉じることになったのは、本職の仕事の方が忙しくなってページのメンテナンスが時間的に不可能になったからだ。 そのあとは世界中の写真家で形成されるあるウェブサイトに参加した。 そのサイトは現在も続けているけれど最近の僕はあまり活発に活動しているとはいえない。 というのは、数年前に日本語のブログ(つまりこのブログ)を始めてしまい、慣れない日本語を書くようになって、それだけで精一杯になってしまったからだ。 そのかわり多くの日本人の人たちと出会うことができたのは何物にも代えられない幸運だと思っている。 そして、長いあいだ貝の殻の中に閉じこもっていた僕を優しく外に連れ出して、日本へ連れて帰ってくれたのはその人たちだった。  僕はたぶん、こんな形でゆっくりと日本へ回帰して行くのだろう。

***

一度入ってしまえば二度と出ることのできない世界。 それがインターネットの世界である。 世界中の人々との、顔も見えず声も聞けない繋がりが、もしなくなってしまったとしたら、人はまたもとの孤独な殻の中へ帰って行くしかないから。



インターネットの世界では
たとえ君が犬だったしても
誰にもわからない。
Peter Steiner




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古い写真をみつけた

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マヤの微笑
Hagerstown, Maryland USA


生まれてくる子供がもし女の子なら、マヤと名付けるつもりだ、と言ったら、教祖さんは羨ましそうな表情を隠さないで
「いいなあ、僕は最初からその名前に決めてたのに、生まれた二人の子供は男の子だったんですよ」 と言った。
「教祖さん」はニックネームでそのころボストンの日本人仲間でそう呼ばれていた。 日本の仏教大学を出た後、ハーバード大学で神学の研究に留学している若いお坊さんである。 マヤというのはいうまでもなくお釈迦様を産んだ女性(摩耶夫人)の名だから、教祖さんのような仏教を専門とする人たちにとっては、僕たちが想像する以上に魅力的な名前であるらしかった。 
ところが僕たち夫婦がこのちょっとエキゾチックな響きのする名前に惹かれたのは、お釈迦様が理由でもなければ、古代マヤ文明でもなく、「なぜ籠の鳥が歌うのか私は知っている」を書いたあのマヤ・アンジェロウでもなかった。
そのころテレビでアメリカ中に旋風を巻き起こした"StarTrek"の中の一キャラクターだったのである。 宇宙的な神秘的な名前にしよう、という点で両親の意見が一致した。

生まれてきたマヤは猿の子供のようなくしゃくしゃの顔をしていたので、これはちょっと名前負けするかなと心配したが、数週間経つうちに目鼻立ちが整ってくるとほんとうに可愛い顔になった。 日本人の血が入っているのは誰が見ても明らかで、とくに唇とおでこが僕の母に驚くほどそっくりだった。 

マヤのことは今まであちこちに書いているので、いまさら書くことは何もないと思っていたら、先日古いネガを整理していてこれが出てきた。 これは残しておかなければ、と思って載せることにした。 旅先で撮ったこの写真はマヤの4歳の誕生日である。 そして20歳のマヤはこんな女性になっていたが、これでさえもう10年も前のことになってしまった。


おまえが微笑むのを見る時
そしてそれが私のためではないと知る時
その時だろう
たまらなくおまえが懐かしくなるのは。
作者不詳




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喫煙の戒め

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パルムの草院

Parma, Italy


煙草をやめよう、と何度決心したことだろう。 腕にパッチを貼ったりニコチンガムを噛んだり心理学者のセミナーに出席して催眠術をかけてもらったり、いろいろやったけど結局だめだった。 いずれの場合もやめることはやめるんだけど、しばらくたつと(短いときは一週間、長いときは三年ほど続いた)いつも何かの理由があって、あるいは何かの理由をつけてまた煙草の箱に手を伸ばしてしまう。 告白すると、現在もまた吸っている。 一日に6,7本まで本数を減らしたとはいえ、食事の後やテニスでくたくたに疲れた時の一服はほんとうに旨いと思う。 以前は一日40本以上吸っていたのでそれに比べたら改善だろう、と勝手に自己弁護をしていつも人に笑われる。 酒好きの僕が酒はやめようと思えば(思ったことはないけど)やめられる自信があるのに、煙草はどうしてもだめである。 

煙草をやめる人は例外なく健康上の理由でやめるのだと思うけど、僕の場合は、もちろん健康も心配だけどそれ以外に僕なりの理由があった。 
一口に言うと僕は「習慣の奴隷」になりたくないのである。 たとえば夜中に煙草が切れてしまうと、いてもたってもいられなくなって、わざわざ服を着替えて近所の店まで車を運転して出かける。 情けないことだけどその時の僕の衝動は自分でコントロールができない。 その、自分でコントロールできないというところが嫌なのだ。 まるでデーモンが乗り移ってきて、僕をまったく違う生き物に変えてしまうようだった。 それは恐ろしいことだと思う。 酒が飲みたいときに酒がきれていてもそんな状態になることはないので、ドラッグというものはそれだけ人の理性を蝕むのだろう。
ところでデーモンというのは悪魔とか悪霊とか、とにかく悪いやつだと思っていたら、調べてみるとギリシャ神話では半神半人の守護神だったそうだ。 そういえば上の写真の顔は、喫煙という悪癖を持って煙草屋へ来る人々を守護神が 「やめておきなさい」 と戒(いまし)めているようにも見える。

日本でもアメリカでもスモーカーに対する虐待がどんどん激しくなってきた。 ホテルではスモーカーには明らかに便利が悪くて調度品も古いものを揃えたルームが与えられる。 空港やショッピングモールの喫煙所では、僕と同じく悪魔に乗り移られた人たちが悲しそうな顔をして一点を見つめながら黙々と煙草を吸う。 
しかし僕の印象では、日本では煙草を吸うも吸わないも人それぞれの勝手、「我関せず」と徹底しているように感じる。 それがアメリカだと、周りのノンスモーカーからは犯罪者を見るような白い目で見られるし、それとなく遠巻きにして子供たちを近づけないように気を配る母親がいる。 「あの人達は人生の落伍者なのよ。 あんな風にならないように、ほらよく見ておいて」 と子供の耳に囁くのが聞こえるような気がする。 昔の英国でカトリック教徒がプロテスタントから受けたのと同じような弾圧を、スモーカー達は毎日のように感じているのだ。
 
現在の僕は、煙草の本数を一日に2,3本まで減らすというゴールに向かってがんばっています。


煙草をやめるなんて簡単にできることさ。
僕なんかもう何十回もやめている。
September30



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海の旅 (2/2)

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Nassau, Bahama


ディナーの時間になった。 僕はシャワーを浴びるといやいやながらスーツに着替えてメイン・ダイニングルームへ向かった。 席があらかじめ決まっているようで僕が案内されたのは七人掛けの大きな丸テーブルだった。 僕の右隣にはカレッジの学生らしい若い女の子がいてその隣にはユダヤ人の老夫婦が座っていた。 女の子は彼らの孫娘だと紹介される。 左側に座ったのは三十歳前後に見える女性でこれも両親といっしょに旅をしていた。 
やがて全員が席についてシャンペンが注がれる頃には盛んな会話がテーブルの上を飛び交っていた。 ユダヤ人の老夫婦は僕が日本人だと知るとことさら興味を持ったようで、間にいる孫娘をスキップして盛んに僕に話しかけてきた。 孫娘は孫娘で僕の左に座る女性と話がはずんでいるので、僕の提案で孫娘と僕は席を取り替えることにした。

その夜、どんな料理が出てきたのかまったく覚えがないのはたぶん旨くも不味くもなかったので印象に残っていないのだろう。 食べることよりも、飲みながらの会話が主になったディナーだった。 ユダヤ人夫妻はサウスキャロライナから来ていて、ご主人は今では息子さんに譲ったけど櫛を製造する会社をやっていたらしい。 そのころミチオという名の日本人学生をハウスボーイとして住み込ませていたことがあって、息子同様に扱って面倒をみたそうだ。 ミチオ君のバースディにはプレゼントとして彼の両親を日本から招待したりしたのがきっかけで、夫妻は何度か日本へも行っていた。 ミチオ君が大学を終えて帰国したあと何人ものハウスボーイやメイドを雇ったけど、彼以上に気に入られた者はいなかったようだ。 
70年代に『日本人とユダヤ人』という本が日本とアメリカの両国でベストセラーになったことがあって、僕も彼らもその本を読んでいたので、二つのまったく異質の文化を持つ国民が、ある点で非常に類似している、というようなことが話題になった。

僕が、左にいる孫娘に、船の旅を楽しんでるかと訊いたら 「死ぬほど退屈よ。 でも祖父母は思いきり楽しんでるようだから良かった。 私はお守り役でついてきたの」 と言っていた。 彼女は僕がマテニーにビールをチェーサーにして飲んでいるのを見て、かっこいいと言って自分も同じものを注文していた。 

ディナーがお開きになると、僕はテーブルの皆に「明晩また会いましょう」と挨拶をしてひとりで上のデッキへ上ってみる。 暗闇の中には海も水平線も見えず、頭上にはまるでプラネタリウムのような星空があった。 風はなく、船が相当の速度で進んでいるのが顔にひやりと当たる空気から感じられる。 僕はゆっくりと煙草を一本吸ってから下に降りると船室へ帰って、『パパ、ヘミングウェイ』の世界へと戻っていった。


船の中にいるというのは監獄にいるのと同じだ。
船なら溺れ死ぬかもしれないという違いがあるだけで。
Samuel Johnson




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海の旅 (1/2)

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Miami, Florida USA


豪華客船のクルーズ、というものを一度だけやったことがある。 といってもよく旅行社のパンフレットで見る 『地中海を巡る十日間の旅!』 とか 『ヨーロッパの島巡り、夢の中の二週間!』 とかのわくわくするような贅沢なクルーズというわけではなく、アメリカのマイアミ・ビーチから中米のバハマまでの二泊三日の船旅だった。 それも自分が計画したのではなくて僕の勤める会社が招待してくれた旅行だった。

マイアミで乗船してすぐに非常時の避難訓練というのがあり、船客が全員ライフジャケットを着けさせられて上下二つの甲板に出てきた。 その数はホワイトハウス前に集まった反戦デモの大集会を見るような、うんざりするほどの群衆だった。 それが訓練が終わってそれぞれのキャビンへ引取ると船中がひっそりとしてしまうので、いまさらに船の巨大さを実感してしまう。 こんな巨大な鉄の塊が水に浮かんでいるということを僕はどうしても理解することができない。 理解できないといえば、あの飛行機という乗り物だって鳥のように羽ばたくことなしに空を飛ぶということが不思議でならない僕なのである。

船の中には、まあなんともありとあらゆるものがあった。 無いものといえば(そしてむしょうに懐かしくなったのは)土の地面くらいだろう。 大小無数のレストラン(鮨の屋台まである。不味い!)、カジノ(あっというまに金をすられる)、劇場(二流のダンシングチーム)、チャペル(船が沈まないようにお祈りをした)、エクササイズルーム(見ているだけで痩せる)、ミニゴルフ(ここまで来てなぜゴルフを?)、プール(泳ぎたいのなら船なんかに乗らないでビーチへ行けばいいのに)、等々々・・・
上のデッキに出て雄大な海原を眺めるのは気持ちのよいものだけど、何時間も変わり映えの無い海を眺め続けるわけには行かない。 しかたなくまた下へ降りて金を使うようなシステムになっているようだ。

ディナーの時間までまだずいぶんあるので、結局僕は自分のキャビンへ戻ると最初の寄航地のナッソーの酒屋で驚くほど安く手に入れた英国産の極上のモルト・ウィスキーを開けて、A.E.ホッチナーの『パパ、ヘミングウェイ』を読み続けた。  
ヘミングウェイがスペインの小さな町の裏通りのバーに入ってマテニーを飲んでいたら、となりにいた旅行者が彼を見て
「こんなところであの世界的大作家のヘミングウェイがマテニーを飲んでるなんて、まったく信じられないな」 と連れに言ったら、それを耳にしたヘミングウェイが言った。
「じゃあ、何を飲んだらいいんだね?」

こんな気の利いた言葉がサッと出てくるような人間になりたかったなあ。

(続)


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狼になりそこねた男の話

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Audi Quattro S4
Dayton, Ohio USA


若い頃からクルマが好きだった。 アメリカで暮らすようになってから長い間にいろいろな車を持った。 我が家の二台の車(息子がいた時は三台)はいつもすべて日本車だった。 今思い出してみると、ホンダ、ニッサン、トヨタ、マツダ、スバル、とそれぞれ何台かづつ乗ってきているので、アメリカで僕ほど敬虔な日本車信奉者はあまりいないだろう。 
それが2000年に自分用の車を買い替えなければならなくなった時、それまでの実用本位の車ではなくて少し遊んでみようと思った。 経済的に少し余裕のできた今、昔若い頃に果たせなかった夢を何十年か経ってもう一度取り戻すことは許されてもいいだろうと思ったからだった。
僕は次のような条件で新しい車を探した。
・小型車であること ・4ドアのセダンであること ・スポーツ仕様であること ・6気筒であること ・前進6段のマニュアルシフトであること ・最低250馬力を持つこと ・改造が容易にできること

つまり一口で言うと僕は、『羊の皮を被る狼』を探していたのだ。 そして最終選考に残った二台が「アウディのS4」と「BMWのM3」だった。 この、性能的にはほとんど大差のない二台のドイツ車のあいだで、僕はあまり迷わないでアウディに決定した理由というのは、
1 アウディのほうが価格が安い
2 BMWの後輪駆動にくらべてアウディは四輪駆動
3 両者ともエンジンは直列6気筒だがアウデイはツイン・ターボを装着している
4 スノッブな若者に大人気のBMWはいやというほどどこでも見かけるがアウディはそれほどでもなく、とくにS4はほとんど見ない

とりわけ僕の気に入ったのは、「私って凄く速いのよ」とこれ見よがしに外見を着飾ったM3と違って、S4は善良な市民の乗るA4と見た目はまったく同じだということだった。 違いといえば小さな《S4》のバッジがさりげなく付けられているだけなのが謙虚な僕の性格にぴったりだった。 ところが車体の色の選択になると、僕の気に入った「ハイビスカス・レッド」という渋い赤がどこにもなくて、隣州のインデイアナポリスまではるばると出かけて行って買うことになった。 ようやく手に入れたS4に最初にやったのは、内臓コンピューターのチップをアップグレードしてスピードリミターを取り除き、エグゾーストパイプをスコーピオンに取り替えた。 それでどうにか購入時の250馬力を350馬力まで上げることができた。 僕はさらに、車高を低め、タイヤをブリジストンの245-45-17のロープロファイルのワイドに変え、シフトのスティックをうんと短くした。
 
改造のおかげで、信号で隣に停まったBMWが挑んできて何度もダッシュのレースをしたが負けたことがない。 ことに雨の中では四輪駆動の強みで、スピンして出遅れるポルシェの911やコルヴェットにも易々と勝った。 最高速度も、ある時ひとりでニューオーリンズに旅行の途中、ミシシッピー州の人里離れたハイウェイで、160マイルまで表示のある速度計で140マイル(225キロ)をなんなく出したけれど怖くなって(スピードではなくてポリスが)数分でやめてしまった。 その速度でも四輪がピッタリ路面に貼りついてまったく危なげが無く、アクセルペダルにまだまだ余裕があった。 僕のS4はドライバーにも予測のできない可能性を秘めた恐ろしい狼になっていた。

あれから十二年。僕はいまだに同じ車に乗っている。 走行距離が24万キロになってあちこちに傷(いた)みが見えてきているし性能もかなり落ちてきている。 ふだんの手入れは怠らないというものの、いかにも老兵という感はまぬがれない。 しかし老巧化して性能が落ちてきているのは愛車だけではなくオーナーの僕も同じだから文句は言えない。 街道レースをすることはもうないし、毎月のようにスピード違反で検挙されることもなくなって、僕もアウディもすっかり羊のように大人しくなってしまった。 そろそろ買い換える時期かなあ、とかなり前から思っているけれどとくに興味のある車というのがないし、第一僕たちはこの十二年間を共に闘いながら老いてきたという強い連帯感のようなものがある。  
いや、実は喉から手が出るほど欲しい車が一台あるのだが、今の僕には遥か雲の上に霞む幻(まぼろ)しの存在でしかない。 その車とはニッサンの『GTR』。 545馬力の物凄い車である。 僕が二十代のころ日本で乗り回したスカイラインの『GTB』の末裔だった。

『羊の皮を被った狼』になろうとしたSeptember30さんは、こうして今は歳をとって『狼の皮を被った羊』になってしまいましたとさ。
ちょっぴり哀しい寓話である。


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