過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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ハービーのこと 3/4

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彫像
Dayton, Ohio USA


ある日わが家に、学校の校長とスポーツ部ディレクターの二人がそろってやってきた。
コーチを断ったハービーを友人の僕からなんとか説得してくれないか、というのが訪問の目的だった。
ディレクターはハービーの大学コーチとしての豊富な經驗と、若い選手たちの技術面と精神面を徹底的に訓練するハービーの方式にすっかり惚れ込んでしまっていた。 というのは前任のコーチはチームを無難無くまとめて生徒間でも父兄にも好かれていたが、かんじんのチームとしてのレベルの向上を厳しく追求するというタイプではなかったのだ。 ところが校長のほうは少しちがった目的でハービーを欲しがっていた。 つまり、人種的に偏りすぎているこの旧弊なコミュニティを変えてゆくのは教育者の任務だ、という政治的な意図を彼は持っていたようだった。

二人の言うことに全面的に賛成をした僕は、なんとかやってみましょう、といって彼等を帰した。

ハービーと僕はある夜、パインクラブで夕食をとりならがらじっくりと話した。 僕は校長とディレクターの意図を正確に伝えることができたと思うし、僕自身はとくに校長の言うことに地域のマイナリティとして強い共感を持つと伝えた。 さらに、ハービーが手塩にかけた太郎も、ぜひ来て欲しいとすごく楽しみにしている、というごく私的なことも付け加えた。
その結果は、夕食が終わってコーヒーになる頃には、ハービーはコーチになることを承諾してくれた。

年度が変わってテニスのシーズンがやってくる。 太郎にとってはハイスクール最後の年だった。
新コーチを迎えた最初の練習日。 フェンダーがボコボコに凹んでポンコツに近いキャデラックをのろのろと運転して来て、ドアを開けてのっそりと現れたヒグマのような体躯のハービーを見た部員たちは、一瞬笑いを噛みしめながら馬鹿にしたようだ。 それが一日が終わるまでには、部員たちの顔から笑いが完全に消えてしまっていた。 と僕に話してくれたのは息子の太郎だった。
新コーチのハービーの訓練は厳しかった。 数週間後には軽い気持ちで在籍していたかなりの生徒たちが部を抜けて行ったが(それでまたその父兄からの批判が来ていた)、トップにいたレギュラーの選手たちは必死でハービーについていったようだ。 実力を持っていても練習に熱心でない選手はレギュラーから降ろされた。 シーズンが進むに連れてチームとしてのレベルは目に見えて上がっていった。 次々と地域の大会を勝ち進み、選手間にはかつてなかったほどの固い結束ができあがっていた。

ところが父兄たちの方はいろいろと問題があったようだ。
練習に時間を取り過ぎて学習がおろそかになっているとか、子供たちがコーチの指示を絶対視して親の言うことを聞かないとかの強い批判が校長の耳まで入ってきた。 父兄に対するハービーの対応が失礼きわまりないとの非難が母親連中から起こっていたし、一日の練習が終わったあと、テニスコートのベンチに腰掛けてうまそうに葉巻をふかすハービーに眉をひそめる父兄もいたらしい。
僕は時間が許す限り出かけて行って練習風景を見たり、器具の後片付けを手伝いながらハービーと話をした。 彼は僕には、練習や選手のこと以外はほとんど何も話してくれなかったが、ある時 「校長とディレクターが後ろで全面的にサポートしてくれてなかったら、俺はとっくに逃げ出してるよ」 と云ったその言葉に、彼の置かれた状況が推測できた。

シーズンの最後に、シングルスの1名とダブルスの1組が州大会に出場した。 (太郎はその中の一人だった)
1回戦と2回戦で敗退したとはいえ、このハイスクールのテニス部の歴史で州大会まで行ったのはこれが最初だった。 地元の新聞が、《コーチ・ハービーの下で、このテニスクラブはこれからその黄金時代を築いていくだろう》 と書いた。

ハービーは翌年の契約を更新しなかった。
「太郎のいないチームを教える気はないよ」 と彼は笑いながら云ってくれたが、本当の理由はごく少数の者だけが知っていた。

(続)


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ハービーのこと 2/4

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白と黒
County Fair, Dayton, Ohio USA



太郎がハイスクールのジュニアの時だった。
(アメリカのハイスクールは4年制で、フレッシュマン、ソフォモア、ジュニア、シニアと上がってゆく)
ある日僕が、その年のシーズン最後のハイスクールのトーナメントを観戦していた時、すぐ隣にいたハイスクールの校長とスポーツ部のディレクターの二人と話をする機会があった。 その話の中で彼らが僕に、テニス部のヘッドコーチになるような人を知らないか、と訊いてきた。 現在のコーチが今年を最後にリタイアすることになるらしかった。 僕が 「心当たりが一人ありますよ」 と答えたのは、即座にハービーのことを考えていたからである。 彼なら地元の大学のヘッドコーチとして長年やってきたし、退職したあとは暇つぶし半分にあれこれと小さな仕事をやっているだけだったから、ハイスクールのテニスのコーチというのは彼にはうってつけのチャレンジであるように僕には思えた。 それに彼のリーダーシップの資質は僕が一番よく知っている。

そのあと話はとんとんと進んで、ハービーはある日学校まで出かけて行って校長とスポーツ部ディレクターの二人に会った。 彼等はいっぺんにハービーを気に入ってしまったようで、長時間の面接の最後にその場で仕事のオファーをしたそうだ。
ところがハービーはそのオファーを断ってしまったのである。
面接の直後に僕に電話をしてきたハービーからその話を聴いた時に、驚いた僕は当然ながら 「えっ、なぜ?」 と訊いてしまった。

僕の住む小さな地域は真っ白な町だった。
黒人が一人もいないといってもいい。 黒人が住宅街を車で通過するだけで理由もなくポリスに停められて尋問されるような町だった。 新聞などで何度も叩かれて、さすがに今はそんなことはなくなったようだが、学校の教師やスポーツ部のコーチなどに黒人を入れることは今までなかったらしい。 そのうえ、住民は代々住み着いた裕福な家庭が多い。 いわゆる 「オールド マネー」 というやつで、それだけにスノッブな気位が高い人たちがけっこういるようだった。 彼らが、長い間にどちらかと言えば閉鎖的なコミュニティを作り上げてしまっていた。
そのかわり、幼稚園からハイスクールまでの一貫した公立学校の教育は優秀で、たとえば1学年にわずか160人しか生徒数を持たないハイスクールの平均 SAT スコアは、オハイオ州内に900 近くあるハイスクール中でトップに近かった。 そのトップのほとんどを私立の学校が占めていることを考えると、これはすばらしいことだといえる。 しかし考えてみれば、財力に余裕を持つこの町は教師の給与も周りのどの町よりも高く払えるから、自然と優秀な教師が集まり教育の質が上がるのは当然だとはいえるだろう。 裕福でもなんでもなく、アメリカ人でさえない僕がここに住むことに決めたのは、それがたった一つの理由だった。

この町のいきさつをハービーが知らないわけはないから、知りながら面接まで出かけていったのは、おそらく推薦をした僕の顔をたててくれたのかもしれないと思った。
学校で生徒を教えるという仕事は、その父兄との対応が大きな部分を占める、ということをハービーはよく知っていた。 しかも特にこの町には口うるさい教育ママやパパが多いということも聞いていたに違いない。
「子供を教えるのはすごい魅力だけど、今更この歳になって差別待遇の餌食にはなりたくないんだ」 という彼の言葉を、僕はよく理解しながらも、やはり大きな失望を感じていた。

(続)




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ハービーのこと 1/4

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ハービーのスマイル


長年暮らしたアメリカとはいえ、友人知人がもともとそれほど多くはいない僕の交友範囲で、ハービーは数少ない黒人の友人のひとりだった。
「だった」 と過去形になるのは、彼はもうこの世にいないからである。 また、「数少ない黒人の友人」 と云ったのは、仕事や生活の環境など僕の選択の自由がきかないところで、周りが自然と白人の社会になってしまったからだった。

ハービーと知り合ったのはもう20年以上も前になる。
地元のわりと大きなコミュニティ大学の夜の学部で、ハービーが教えるテニスのクラスを僕がとった時に、我々のつきあいが始まった。 彼はその頃からもう120キロもある巨体になっていて脚も弱くなり動きは鈍くなったとはいえ、強打を打ってくる若者たちを相手に易々と正確にボールを返す彼のストロークを見ると、昔は相当ななプレーヤーであったことがわかる。
彼をインストラクターとする1年間のクラスが終わったあと、僕は彼を自分の個人コーチとして雇ったので今度は上下関係が逆になった。 しかしインストラクターの時もコーチの時も上下関係には関わりなく我々はすでに友人になってしまっていた。 いっしょに食事をしたり、絵の好きな彼とよく美術館に行ったりした。 また、彼が PC を初めて手に入れた時に、あれこれ設定をしてやってソフトの使い方を教えてやったりしてからは、彼は歳下の僕を逆に 「ビッグブラザー」 と呼んでからかった。

息子の太郎が中学に入ったころ、太郎と僕は毎週日曜の朝6時に起床すると、そのころハービーがマネージャーとして勤めていたアメリカ空軍基地内のテニスクラブまで行って、かなりハードな訓練を受けたものだ。 この特別訓練では彼は僕からコーチ料を一銭も受け取ろうとしなかった。 練習のあと、三人で近くのホテルのレストランへ行って、豪勢な朝食のビュッフェを腹いっぱい食べるのを彼はなによりも楽しみにしていたようで、その勘定を僕が払うことでコーチ料は無し、という暗黙の合意が成立したようだ。 しかしもちろん、これほど不公平なディールはなかったが、彼は僕を友人として扱ってくれていたのである。
太郎がハイスクールへ進んでテニス部に籍を置く頃には、ハービーはすでにテニスクラブの仕事をやめていて、僕等への特訓ももう終わりになっていたので、自然と彼と会う機会も少なくなった。 1年に1度のわが家の年越しパーティに彼が顔を見せる以外は、これといった付き合いもないままに数年が過ぎた。
それが、ひょんなことからまた、彼をしょっちゅう見るようになったのだ。

(続)



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動物好きの絵描きさん 14 コウモリ

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蝙蝠
By Green Eyes


蝙蝠(コウモリ)を見なくなってからどのくらいたつだろう。
数十年? いやそういえばアメリカに来てからコウモリを見たことが一度でもあったろうか。 なかったような気がする。 東京で見たことはあったのかどうかも、もう思い出せないところまできてしまった。
それなのに子供の頃の記憶にはコウモリがハッキリと刻み込まれていた。

毎日のように日が暮れるまで近所のガキ友達と必死になって遊んでいるまわりを、陽が落ちる前の薄暗い空低く、コウモリがいっぱい舞い飛んでいた。 そうなるともう子供たちは遊びを止めてそれぞれの家路につく時間だった。 通りすぎる家々には明かりが灯され、夕餉の匂いが表まで流れた。 子供たちの声に混じって母親の声も聞こえる。 僕は頭上をスイスイと飛ぶコウモリを見ながら、空腹を抱えて家へ向かう。 小学校の角を曲がって小川沿いに歩いてゆくと、やがて夾竹桃の茂みが見えてきて、そこが僕の家だった。

あれから40年経って、この辺りを訪ねてみた。
小学校もその周りの家々も、あの小川も夾竹桃もなくなって、白いコンクリートが敷かれ、ビルと駐車所がそこにあった。
夕暮れにはコウモリは今でも飛んでいるのだろうか?

 
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恋のレジュメ 1

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朝の情事


ふり返ると・・・
ボストンでの30歳から37歳にかけての7年間が、僕にとって一番苦しい時代だったといえる。
それ以後には二度とそんな時代は来なかったし、それ以前のあの若さと混乱の東京時代でさえ一種の華やかさに満ちていたと思う。 それにくらべると、この離婚と再婚という二大イベントにに挟まれたボストンの7年間は、僕が暗鬱な潮流に押し流されながら漂流を続けた時代だった。 その間に僕は音楽 (そのためにアメリカに来た) に見切りをつけたばかりではなく、壊れた結婚の後遺症にかかっていてそれもかなりの重症だった。 いや、それは正確ではない。 妻との醜い離婚に傷つけられた僕が、自暴自棄になってすべてを棄ててしまったその中に音楽も入っていた、というべきだろう。 そのまま日本に帰ればよさそうなものだったけど、僕は日本へ帰るくらいならこのまま地獄へ堕ちてもいいと思っていた。 妻が象徴する日本と日本人に、僕は目を背けたくなるような激しい嫌悪感を感じるようになっていた。

そんなわけで異邦の地でいきなり孤独のどん底へ突き落とされてしまっていた自分。
男が絶望的に寂しい時にやることはだいたい決まっている。 何かに熱中するか酒を呑むか旅に出るか女と寝るか。
僕はそれを全部やった。徹底的に・・・

何かに熱中するといえば、音楽を捨てたあとの僕に残されたものといえば写真しかなかったから、それに一挙にのめり込むことで一日一日をなんとか生きのびる目的にしようとした。 それがすこしずつ仕事にもつながってゆき、細々と生活を支えながら漂流をし続けた。 カメラのシャターがきれる時の、あの、頬を平手打ちされるような小気味良い音ほどあのころの僕を慰めてくれたものはなかった。 僕は毎日浴びるように酒を飲み、そしてカネの許す限りカメラをかかえて旅に出たが、その旅はどす黒い絶望と微かな希望を両肩に支えたセンチメンタル・ジャーニーだった。

そして女といえば、
僕はあの7年間にたぶん数十人の女と寝たと思うけど、その中でちゃんとつきあってその一人一人をはっきりと思い出すことができる女たちが9人いる。 2年以上つきあった女もいれば数ヶ月で終わってしまった関係もあった。 しかしその中で、僕が命をかけて恋をした(ちょっとオーバーだけど当時はまさにそのつもりだった)、といえるのは5人と限られてしまう。 そしてその5人は、一人は僕が捨て、二人は僕を捨て、もう一人は不可抗力ともいえるような状態で訣別することになってしまった。 そしてあとの一人は・・・・

さっきから階下のリビングルームでテレビを見ている。



贈りもの・・わたしが欲しいのは
Gourmet Duo Plus





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3月のクイズの結果は・・・

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ワインの里のドゥシュヴォ(2CV)
Gigondas, France


正解は 「アンドレ・シトロエン」 あるいは 「シトロエン」。
応募数が予想したよりずっと少なくてしかも正解が半数しかいなかったのにはびっくりした。 でも考えてみれば、クルマに興味を持つのはどうしても男性ということになるとしたら、女性読者の多い(なぜか?)僕のブログでは当然の結果かなとも思った。

このシトロエンのドゥシュヴォは僕にはすごく懐かしい。
1960年代にジャズをやっていたころ、茅ヶ崎に新設されたばかりのパシフィックホテル(オーナーは加山雄三)に3週間出演したことがあった。 その時にバンドの仲間のひとりだったギターのM君が乗っていたのがこのドゥシュヴォだった。 僕は当時、日野コンッテッサのクーペに乗っていて、これはその名前のように優雅で洗練されたデザイン(イタリアで何度も賞を取っている) といい性能といい、歴史に残るべき名車だと僕は今でも思っているんだけど、女の子を誘うときにはどうしてもM君のこのフランス生まれの小悪魔のドゥシュヴォには敵わなかった。 それで時々は彼と車を交換したりしたのである。
このパシフィックホテルは海辺に立つ瀟洒な白亜のリゾートホテルで、芸能人たちのサロンみたいな雰囲気があったのを覚えているが、今はもう存在しないそうだ。

そこで、今月の当選者。
5人の正解者から選ばれたのは Ogui さんでした。

Ogui さん、おめでとう。
住所氏名を非公開コメントにして送ってください。
お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のないばあいは棄権とみなして次の方を選びます。



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タイムマシーンに乗って

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《1989年2月6日18時30分ごろの Green Eyes 》
Somervlle, Massachusetts USA



タイムマシーンなるものに初めて乗った。
タイムマシーンの外観はボールのように真ん丸な機体に、小さなイボイボが無数に付いていて、それに三角形の尾翼のようなものがひとつ突き出していて、ちょうど怒って膨らんだフグのような形をしていた。 係員に促がされて乗り込んでみると、中は思ったよりずっと狭苦しくて、座席を調節してシートベルトを絞めるともうほとんど身動きが取れないほどだった。 ジェット機の操縦席のように、眼に入る限りの大小のボタンやスイッチなどの計器に囲まれることを予想していた僕は、目の前に備え付けてあるノートブックPC ほどの大きさのナビゲーターの他には、いくつかのボタンとダイヤルがあるだけの簡素な室内に驚いてしまう。 だけどトイレに行きたくなったらどうするんだろう? 案内してくれた係員にそのことを尋ねると、若い係員は、やれやれこれだから無知な老人は困る、というような顔をして
「乗り込む前に一度行っておけば、氷河時代にでも遡らない限り、お客様の生まれた以後でしたらどんなに遠くまでトリップしてもせいぜい数分で到着してしまいますから・・・」
そうか、それなら安心だ、と僕は納得をする。
「お客様。 あとは先ほどカウンターで説明しましたように、ナビゲーターに年月日と時刻を入力したあとは、〈enter〉のボタンを推すだけです。 大事なのは帰還のときに年月日を入力しないで、かならず〈home〉を押してください。そうしないと 『現在』 に帰れなくなることがあります。 そうやって永久に帰って来れなくなってしまう方が月に一人はあるんですよ」

そう言われて僕は、永久に帰れなくなったら何か都合が悪いことあるかなあ、と一瞬考えてみる。 わが Green Eyes はかわいそうに独りになっちゃうわけだけど、まああれだけ図太くなった今ならもう独りでも心配はないだろう。 子供たちももう大きくなってるし、借金もいちおう片が付いているし…。そこまで考えて、あっ、でも駄目だ。 と突然思い出す。 先週のマージャンで大負けをして、その場で払いきれずに小柳さんに少し借りがあったんだ。 それだけじゃない。日本の斎藤 さんに約束した写真をまだ送り出してないし、ブログの更新もしなきゃならないし、会社のオフィスにも私物がいっぱい残っている。 それに6月の僕の個展はどうなる? いやあれは本人が消えてしまったほうが逆に写真に値打ちがついて良く売れるかも知れない。 しかし下着の替えもなければ第一毎日飲むはずの二種類の薬を持参していない。 これはどうも家には帰ってこないわけにはゆかないみたいだった。

僕は内側からタイムマシーンのドアを固く閉じると、ナビゲータに入力を始める。 《1989年2月6日18時0分》 と打ち込んで〈enter〉 のブルーのボタンを押す。 それだけだった。


キッチリその時間に、僕はボストン郊外のサマーヴィルのアパートに着いて玄関のドアを開けていた。
「お帰りなさい」 と言って出てきたわが Green Eyes に僕は 「Happy Anniversary!」 と言って優しく唇にキスをする。 わがGreen Eyes は微笑んで 「Happy Anniversary! 今夜はシャンペンを開けましょうね」 とキッチンに引き返す。
「子供たちは?」
「二人とも階下で遊んでる。 あ、それからオハイオの両親からカードが来てるわよ。おめでとうって」
そうなんだ。今日は僕らの結婚記念日なのである。 9年前のこの日に僕らはケンップリッジの市役所で、女性の判事の前で結婚を宣言して承認されたのだった。 二人だけの貧しい結婚式だったけれど、そんなことは二人ともちっとも気にならなかった。 過去を忘れ、未来も考えず、花の匂うような現在だけが僕らを取り囲んでいた。
今回の僕のタイムトリップは、最初はここからさらに9年前の結婚の日まで行ってみるつもりだったのが、それじゃ子供たちに会えないというので、ボストンで僕らが最後の年を送ったこの日を選んだのだ。 キッチンで夕食の準備をする Green Eyes の写真を数枚撮ると(上の写真) 空腹にシャンペンが効いて、僕はソファに横になるとついうとうととしてしまった。

**********

誰かに揺り起こされてハッと眼がさめる。目の前に先ほどより20年以上歳をとった Green Eyes がいて、
「そろそろ起きないと。今夜はエリザベスの家で夕食でしょ」
僕はそれには答えないで、
「そうかあ、俺たちは結婚してから今日でもう33年になるのか」
「そうよ。さっきからうなされてるようだったけど、悪い夢でも見ていたの?」
「いや、いい夢だった。 空きっ腹に飲んだシャペンがうまかった」

僕はこの次のタイムトリップは未来に飛んでみよう、と思っている。
一体僕はどうなってるのだろう?




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3月のクイズ

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今月のクイズは易しすぎてもの足らないかもしれないけど、たまにはいいよね。

これは昔からとてもポピュラーな車だけど、この車の創業者の名前は?



正解者の中から抽選で1名の方に、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい。




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青の旅情

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青い窓
Vaison la Romaine, France


南フランスの古い村を歩いていると、青色のドアや窓やブラインドが圧倒的に多いのに気がつく。
何百年の風雨に耐えてきた石造りの村、人影のまったく無いくすんだ色合いの風景の中で、その鮮やかなブルーはそこに住む人々の希望を主張するように眼に沁みた。 とくにそんな規制があるわけではないと思う。 それなのにどの家も、ドアや窓は自然な木材そのものか、そうでなければ碧空を思わせるような深みのあるブルーに塗られていた。



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青いドア
Vaison la Romaine, France


こんなドアを見ると、ノックしてみればどんな人が顔をだすのだろう、と強い誘惑にかられる。
生活の年輪を顔の皺に刻んだ老婆が出てくるのだろうか。
小さな男の子が顔を出して、「ボンジュール」 と澄んだ声で挨拶をしてくれるかもしれない。
それとも
カトリーヌ・ドヌーヴのような豊満なマダムが現れてニッコリと迎えてくれたら、僕はそのまま青いドアに吸い込まれてしまうに違いない。



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青のブラインド
Vaison la Romaine, France


ひっそりと閉ざされた青いブラインドに、南仏の強い午後の陽が当たっている。
郵便受けのメールもそのまま。

遠く海を越えてここまで迷い込んで来た旅人の僕は、青の映像を写真に撮りながら、心に沁みてゆく孤独感と安らかな旅情に浸っていた。


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日本の文化、と大きくでてみたけれど実は・・・

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鳥取県大山町



今度日本に住むことになったら、すぐそばにコンビニのある場所を選ぶんだ、と云ったら、
「あんな不味いもの、一度食べたら嫌になるよ」 と言下に馬鹿にした友人もいれば
「そうだよねえ、味もそんなに悪くないし第一いろいろと便利だよねえ」 と、日本の食文化に長い間飢えている僕の気持ちを察して優しく賛成してくれた友人もいた。
前回の帰国で僕は憧れのコンビニに何度か足を運んで、いろいろなものを食べてみたけど、ちゃんと美味しいと思って食べられたし、もともと食べるものにそれほどうるさくない僕は十分に満足した。
それに友人が云ったように便利という点ではこんなに便利な店はない。 アメリカでいうと、ファーストフード、ドラッグストア(薬局)、リカーストア(酒屋)、ステーショナリーストア(文房具屋)、ハードウェアストア(金物店)、を全部いっしょにしてそのエッセンスだけを抜き取って並べてあるから、日常の生活で急に何かが足りなくなっても、コンビニに来ればまず大体何でも揃う。 そのうえ日曜祭日にも開いていて24時間営業の店が多いから、コンビニさえあれば人間はなんとか生きていけそうな気になってしまう。 こんな店はアメリカ中どこを探してもない。

それに加えて店員のサービスもきちんとしているから、いつも楽しく買い物ができる。 そんなことは日本では当たり前だろうけど、アメリカの不機嫌で無愛想な店員を見慣れている僕にはまるで天国だった。

今度日本に住むことになったら、すぐそばにコンビニのある場所を選ぶんだ。



コンビニが存在する限り
日本という国が滅亡することはない。
September 30


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