過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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三十年目の和解 (2/2)

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記憶 (1972年)
North End, Boston USA


それからYが身体を壊してしまったのだ。
はっきりと記憶にはないけれど、たしか結核だったと思う。 あの病気にとって長い厳しい冬を持つボストンほど最悪の環境はなく、その上ベースを弾くことも医者に止められた。 転地を勧められたYがヒロちゃんと二人でブラジルへ引っ越していったのはそれからしばらくしてからである。 なぜブラジルだったのか、僕は当然知っていたはずなのにそれが思い出せない。 それだけではない。 彼らがボストンを去る時に僕は彼らにさよならさえ言っていないのだ。 というのは、その直前にYと僕は仲違(たが)いをしてしまっていた。 原因になったのは今から思えばそんなに大したことではなかったと思う。 その詳細さえもう覚えていないくらいだから。 一口に言えば、あの頃の僕に残されていた小さな最後の誇りのようなものを、Yによって無残に傷つけられた(と当時は思っていた) ある事件のせいだった。 彼がヒロちゃんや妻を通して謝ってきたのにもかかわらず、僕は彼を許そうとしなかった。 たぶん、そんな風に僕を傷つけた相手が、他の誰でもないYだったということが、どうしても許せなかったのだろうと思っている。

そんなことがあって彼らがボストンを去って行ったあと、それまで太い綱で繋がっていたYと僕との関係はまるで鉈(なた)でぶち切るように終わりになってしまった。
僕は僕でそのあとは、唯一の身内だった日本の父が亡くなったり、妻が家を出て七年間の結婚に完全な終止符が打たれたり、それといっしょに音楽を含めてあらゆることを諦めてしまったり、というようなことが次から次へと重なっていた。 そのあとは僕が長いあいだ思い出すことさえ避けていた無頼の七年間が続くことになるのだが、その時期のことはもう何度も以前に書いているので繰り返すのはよそう。

それから三十年が過ぎて、今から十二年前のことである。
Yがいきなり電話を掛けてきた。 ハワイからだった。
ボストンで別れたあのあと三十年のあいだ、僕らは電話どころか手紙一本、葉書一枚も交換したことはなかったのだ。
電話の話の中で僕が知ったのは、Yはいつのまにか日本では名を知られた心理学者になっていて、かなりの数の翻訳書や著述集が日本で出版されていた。 そしてハワイに住みながら常時日本へ帰っては講演やセミナーに飛び回っているという。 そんないろいろな過去の成功を自慢の匂いを隠そうとしないで話してくれているYに、僕は昔のままのYを見て 「おまえ、昔と変わんないな」 と笑って云った。 そしてその瞬間に長年のあの 「わだかまり」 のようなものがきれいに消えてしまっているのに気がついた。
俺たちはいつか日本で会えるだろう、とお互いに約束をして長い電話を終わりにした。

電話を切ったあと、僕は長い間ぼんやりとしていた。 そうか、と初めてわかったような気がした。
学生だった昔からYが僕に対して抱いていた子供らしい 「甘え」 と 「ライバル意識」 のようなものを、あいつは今まで持ち続けていたのだと。
三十年前、ボストンでの僕は自分自身が置かれていた切羽詰まった状況のために、それを理解してやる余裕がなかったのだ。 Yの悪意のない無邪気な言動や行為をそのまま受け止めてやればよかったのに。
しかしそこに気がつくまでに三十年という歳月を掛けなければならなかったとは・・・

***

その三十年ぶりの邂逅の話を、仕事場で秘書のk子さんにYの名を出さないでちょっと漏らした時に、彼女の顔色が変わった。
「その人ってYさんでしょう? 私よく知っています。 学生の頃バイトでYさんの東京の事務所に一年ほど勤めていました。 だから毎日顔を合わせていたんです」
彼女と僕はもう何年もいっしょに仕事をしながら、僕らのお互いの接点がそんな昔にできていたのだとは今まで知らなかった。 僕は改めて 「因縁」 ということを実感していた。

二年前の秋、大学の仲間が十一年ぶりに集まった時に僕はそのために帰国した。 その時Yもたまたまハワイから日本に来ていたにもかかわらず、彼は同期会に出席しなかった。 東北地方での講演の日程とぶつかってしまったからだ。 Yを抜いた十人が紀伊と京都で数日間遊んだ。
日本を発つ前に僕はYに電話を入れてみたが、忙しい彼を捕まえることができなかった。


そして今年の四月三十日。
Yはいきなり死んでしまった。
肝臓に癌を発見してから三週間しか経っていなかった。

(終)



男たちは友情をまるでフットボールのように蹴リ回すにもかかわらず
壊れることはないようだ。
女たちは友情をまるでガラス細工のように扱うのにもかかわらず
粉々に砕けてしまうことがある。
アン・モロー・リンドバーグ



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三十年目の和解 (1/2)

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プレイボーイクラブ (1971年)
Boston USA


トランク一杯に詰められた膨大な数の古いネガを、根気よく漁っていくという作業を始めてからもう一年が過ぎた。
たぶん僕が生きているあいだにこれが最後になるかも知れないという予感があって始めた大仕事だった。
いざ始めてみるとこれがなかなか大変で遅々として先へ進まない。 ほとんどのネガは当時フィルムを現像したあとにそれぞれコンタクトプルーフを付けていたので、何十年経って黄色く変色したそのコンタクトシートを、ルーペを眼に当てて一コマづつ丹念に辿ってゆき、以前に見落としたり無視したりしたショットに行き当たると、そのネガを引き出してネガ専用のスキャナーでスキャンをしてPCのフォトショップに取り入れるという作業だ。 そして気に入ったものがあるとついその場で拡大して写真処理を始めてしまうから、これではなかなか次に進まないわけだ。 

そういう中に、1971年頃に撮られたこのボストンのプレイボーイクラブのショットがあった。
すぐに思い出していたのは、友人のYのことだった。

***

Yは僕とは東京の大学の同級生で、いっしょにジャズをやった仲間の一人だった。
ベースを弾いたYとピアノの僕とはジャズに対してまったく同質の情熱を持っていたようで、大学のバンド練習室に遅くまで残っていっしょに練習をしたものだ。 年齢の割にませていた僕と、まだ子供のあどけなさを残していたYとは歳は一年しか違わなかったが、まるで兄弟のような関係だったといってもよかった。 そしていつの間にか二人とも学校に行かなくなって、気がついたらプロのミュジシャンになっていたが、僕らが歩いた道はかなり違っていたようだ。 岡山の素封家の長男だったYは生活の心配がなかったから、まっしぐらにジャズの道へと進んで行けたのに比べると、僕はピアノで生活費を稼ぐためにそれこそ何でもやらなければならなかった。あの当時は、少し楽器ができれば面白いように金を稼ぐことができた時代だったから、 いつの間にか僕はジャズから離れて芸能界に入り込んで行った。 しかし、違うとはいえ隣合わせの世界に住んでいたYと僕の交友はずっと変わらずに続いていた。 僕はすでに友人の誰よりも先に結婚していたが、ステージやテレビ局を駆けまわる僕とバレエダンサーであった妻とのライフスタイルはひと目にはこの上なく華やかなものとして映っていたようだ。 一方、ただひたすらにベースに専念していたYは女性などにまったく興味はなかったようだったが、ある時、妻の親友であったヒロちゃんという女の子を紹介したあと、二人はあっという間に結婚してしまった。 そんな経緯(いきさつ)があったから、Yと僕のあいだにはごく親しい家族同士のつきあいもあったのだ。

そのYがボストンのバークリー音楽院に留学してヒロちゃんといっしょに日本を離れたあと、しばらく経ってから僕と妻を呼び寄せてくれたのだった。 「ここまで日本で仕事がうまく行きながらなぜ?」 と反対した周りを無視して行くことに決心した理由は二つあった。 もう二十代の終わりにさしかかっていた僕は、どっぷりと浸かっていた日本の芸能界にうんざりしていて、もう一度ジャズをやり直したいという渇望感のようなものがあったことと、七年のあいだに少しづつ壊れかかってほとんどどうしようもないところまで来ていた僕らの結婚を、まわりの全てを切り離した外国でもう一度やり直すことで救えるかもしれない、という望みを持ったからだった。

僕らは日本を離れてボストンに渡る。
最初の数週間をYのアパートで過ごしたあと、学校が始まる頃には僕らも新しいアパートに移っていた。 Yはその前からすでに大学をやめていてあちこちアメリカのバンドで演奏をしていた。 あとになって思うと、ピアノよりも作曲編曲に興味があった僕にとってバークリーのプログラムは実に目から鱗(うろこ)が落ちるような新鮮さがあったのに比べて、ベース演奏だけに徹していたYにとって机上の音楽理論はつまらないものだったのだろう、と推測できる。

僕らがボストンに移ってきた頃、Yが演奏していたのがこのプレイボーイクラブだった。
ボストンの著名なピアニスト、ボブ・ウィンターがYのベースに惚れ込んで起用したのだが、音楽をやる人間が掃いて捨てるほどいたこの町で誰もが羨む良い仕事だった。 東洋人のYが選ばれたこと自体が、彼のベーシストとしての才能のレベルを語っている。
ダウンタウンにあったこのプレイボールクラブに僕は時々遊びに行ったものだ。 演奏者の友人であったからできたことで、そうでもなければ僕みたいな学生が、この高価な洗練されたメンバー制の大人のクラブに行く機会などまず無かったに違いない。


(続)

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乳房願望

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海神
Bologna, Italy


イタリアはボローニャの旧市街、そのど真ん中に位置するピアツァ・マジョーレは二週間の滞在中何度も訪れることになった。
そのピアツァ・マジョーレに隣接してピアツァ・ネプチューンがあって、この二つの広場は一つの大きな広場のようになっている。 
ピアツァ・ネプチューンには16世紀に建てられたという巨大な噴水があって、その頂点に立って外界を見下ろしているのがこの雄々しいネプチューン(海神) の裸像だった。 近づいていくとその足元には4人の男の子が遊んでいて、さらにその下にこれも4人の女の裸像があったが、その女達を見た時に僕は思わずあっと思ってしまった。



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海神に仕える女たち


あっと思ったのは、乳房から乳を吹き出す噴水を僕は今まで見たことがなかったからだ。
ブリュッセルのあの有名な小便小僧はユーモラスで可愛いという印象を受けるが、両手で支えた豊かな乳房から水を噴き出すこの裸像は少しわけが違う。 エロチシズムを感じるのは僕が男のせいだろうし、若い女なら恥ずかしさを感じるかもしれない。 子供を産んで哺乳を経験した女ならまた違う感慨があるんじゃないか。 いずれにしても、猛々しい海神の足元で乳を吹き出す女の裸像に、母性に対する男の憧憬を感じたのは僕だけだろうか。

男という動物は女の乳房に本能的に惹かれるものだ。 生まれた時に口に含んだ乳房の感覚は一生を通して男についてまわる。 それは、女にとって乳房は性器に次ぐ性感帯だという事実とあいまって、乳房に触れたい、乳首を口に含みたいという衝動はこれも男の本能に違いないと思う。

女の体のどの部分に男は惹かれるかというアンケートはよく見かけるが、そのナンバーワンは文句なしに乳房のようだ。 これは日本でも世界でも共通である。 アメリカでのある調査によると次のような順位を報告している。
1 乳房 2 尻 3 唇 4 眼 5 笑顔 6 髪 7 脚 8 腹 9 背中 10 足

僕自身はどうなのだろうと考えてみたら、これが年齢を経るに従って変わってきたことを発見した。 うんと若い頃は当然ながら 1 だったのが、20代では 7 に変わりそのあとは長いあいだ 2 になっていたのが、現在はまた変わってきているようだ。 何に変わったかというのは次回のクイズにでも出したいくらいだ。(笑)
ヒントは上記の10項目の中には無いもの。 そしてある意味で日本人女性だけに特有といえるもの。

それにしても今の僕に絶対的な自信を持って言えるのは、女の真の魅力は身体ではないということだ。


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9月のクイズの結果は・・

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エミューの瞳は何を見る?
Morrow, Ohio USA


エミュー (Emu) は英語では 「イーミュー」 あるいは 「イームー」 と発音される。
カンガルーとともにオーストラリアのシンボルとして紋章などに顔を見せているが、国鳥の座はコトドリに譲っている。
アフリカのダチョウによく似ているけれどもっと小柄で、全く別の鳥だそうだ。 どちらも 「走る鳥」 として進化するうちにその体型が自然と似てきたのだと動物学者が言っている。
先週のブログ記事 『竹に魅せられた男』 のジェリーの庭で わけがあってその名を公開できない珍しい二匹の動物 とはこのエミューのことだった。 クイズとして出題するつもりがあったから。

2匹の(2羽というべき?)エミューをペットにするジェリーによれば、この鳥はその怖そうな顔に似合わず性格はいたっておとなしいらしい。 ひょうきんなところもあって、人が立っている後ろからそっと近づいてきてクチバシでお尻を軽くつつくので、驚いて振り向くと 「へへ、バレたか」 みたいにあわてて走って逃げるんだそうだ。 顔は恐ろしいのに心は優しく、そしてひょうきんでちょっとだけいやらしい所もあるのは、なんとなくあの september30 に似てると思いませんか?

それはさておき
18人の正解者の中からサイコロの丁半を何度か繰り返して、最後に残った二人が上海狂人さんとバジリコさん。
最終決戦の結果はバジリコさんだった。

非公開の解答の中には愛らしいコメントもあって、そのいくつかを紹介しよう。

『前回から、動物を見ると似ている人を探し、人を見ると似ている動物に重ねています。いけませんね!
今回の答えは「エミュー」です。
クリクリの毛と大きな瞳が私の友人である「太田さん」を思い出させます。アクビをするともっと似ると思います。(笑)』 Oxxx さん。

『あ!このリーゼントはエミューだっ!
今回は正解者が多いんじゃないかナ、仏ごころでクイズ作った?
なーんて自信たっぷりに言って不正解だったりして。 あなたのことだから何か罠を仕掛けてあるんじゃないかと、気が抜けない。(笑)』 bxxxxxx さん。

『Emu エミュー
動物園で見ても、いつ頭をツンツンされるんじゃないかとビクビクです。
それから、エミューの青い卵は美しい。』 fxxxx さん。


***

バジリコさん、おめでとう。
住所氏名を非公開コメントにして送ってください。
お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のないばあいは棄権とみなして次の方を選びます。


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動物好きの絵描きさん 18 イグアナ

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イグアナ
By Green Eyes


イグアナというこのトカゲの王様のような爬虫類の名前を聞くたびに、いつも自動リンクするように僕の頭に浮かんでくる言葉がある。

イグアナの夜

言わずと知れた、あの古い映画だ。(1964年)
テネシー・ウィリアムズ原作の芝居を映画にして、ジョン・ヒューストンが監督をした。 その映画では、リチャード・バートンがデボラ・カーとエヴァ・ガードナーという二人の超美女を相手にしている。 だからその頃バートンがデートの最中だったあのもう一人の超美女エリザベス・テイラーは、気が気ではなくてバートンにくっついて来てロケ地に滞在して目を光らせていた。
そのロケ地というのがこのメキシコの西海岸のプエルト・ヴァラルタだったという事実を知らないで、僕はこの有名なリゾート地へ来たことがある。 僕の会社の慰安会のようなものに招待されたのだけど、そうでなければ自分で来ることはなかっただろう。 そしてある午後、ホテルの部屋の窓の外に、棕櫚(しゅろ) の木に休むイグアナを見つけてこの写真を撮った。 全長50センチほどのこの怠惰な生きものはその保護色のため、うっかりすると見逃してしまうところだった。



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摂氏40度の陽の下で
Puerto Vallarta, Mexico



ずっとあとになって 『イグアナの夜』 がこの町で撮影されたと知って、何も知らないでイグアナの写真を撮っていたその偶然に少し驚いた。 あの映画の成功でこの町の名が一挙に世界中に広まったそうで、監督のジョン・ヒューストンの銅像がどこかに建てられているらしいけど僕は見ていない。
この旅のことは前に 『熱と原色の町から』 に書いている。

全くの余談だけど、上の三人の超美女に僕がもしデートを申し込む機会があったら誰にするか? と訊かれたらさんざんその選定に苦しんだ結果、エヴァ・ガードナーにおちつくかなあ、と思うけど、もちろんそんなことを誰も訊いてくれるわけがない。



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9月のクイズ

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これは何という鳥?


この鳥の種類を当てた解答の中から1名を選んで、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい。




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竹に魅せられた男

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Morrow, Ohio USA


友人のジェリーは変わった男だ。
竹に魅せられた男、とでもいうのか、世間は彼を 「ドクター・バンブー」 と呼ぶ。
ドクターといっても、彼は別に植物学の権威でも何でもなくて、ただ若いころに竹や笹の美しさに惚れてしまって、後半生を竹といっしょに過ごす事になってしまった。 50歳近くまで保険会社の幹部社員として勤めていたのが、ある日突然早期リタイアを宣言すると、人里離れた森の中に地所を買って家を建てた。 鬱蒼と樹木が茂り地面には苔が一面に生えて、水鳥の住む沼もあるような、広大な森だった。  
彼はそこへ日本をはじめアジア、オーストラリアなどから何十種類という竹と笹の苗を買い入れて、原則として竹の生息しないアメリカに竹を持ち込んだ。 自分で設計した彼の家の中も竹だらけだった。 竹製のベッドやソファはもちろんのこと、彼は竹製のパイプをふかし竹で作られたブリーフケースを持ち歩いた。

竹の成長は早い。 数年後には様々な種類の竹や笹の林があちこちに茂り、近辺の人々が物珍しさから彼の庭を訪れるようになる。 竹を所望する人も多く、そういう人たちが苗を分けてもらったり鉢植えにしたものを買っていくようになった。 やがて地元の新聞で紹介されたり、テレビのクルーが撮影に来たりしてドクター・バンブーの名はどんどん広がっていく。 僕が彼を知るきっかけになったのもその頃で、僕の勤める会社の顧客が新工場を建設した時に、そのお祝いに、会社の玄関に置くようなありふれた鉢植えの木ではなくて何か変わったものを贈ろう、と探していた時に人づてに聞いてジェリーの森を訪れたのだった。 それ以後、ジェリーの庭から手に入れた鉢植えの竹は、格好の贈り物としてかなりの数の顧客へ贈られた。 ドクター・バンブーの名はウェブサイトの開設でさらに広がり、西海岸や南部からわざわざ飛行機に乗って竹を見に来る人もいるそうだ。




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孔雀のいる庭


ジェリーが好きなのは竹だけではなかった。 動物もそうなのだ。
2匹の犬、3匹の猫、5羽のニワトリ、数十羽の鳩、2羽の孔雀、沼には白鳥と黒鳥が数羽づつ、野生の鴨。 さらに、わけがあってその名を公開できない珍しい二匹の動物 もいて、昼間はそれらの動物がすべて放し飼いで庭中を歩き回っていた。




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玄関



ジェリーが住む地域にはあちこちに日系の自動車工場が点在していて、そこで働く日本人たちが休日には家族を連れて遊びに来るようになる。 さらに数年前に、沼のほとりに日本風の東屋(あずまや)を建ててテーブルやトイレも設置されてからは、会社のピクニックをここでやったりアメリカ人を招いた会議などが持たれるようになった。 ジェリー自身も日米協会に関係したり、近くの都市の大学で講演を頼まれたり、企業の会報に竹の記事を書いたり、もちろん毎日竹や動物の世話を見ながら忙しい毎日を送っているようだ。




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賢人とドラゴンと蓮


ジェリーの庭は町の公園のようにきれいに管理が行き届いているとはお世辞にもいえない。 なにしろ人を使わずにすべてを奥さんと二人だけで取り仕切っているからだ。 庭園としての一貫したスタイルがあるわけではなく、むしろ自然のままの森という感じが強い。 たとえば日本の石灯籠が置いてあるかと思えば、中国の賢人の彫像が立っていたり、東屋には古い油のランプを灯すのに、その下には最新の冷蔵庫が置いてあるというぐあいだ。 それにもかかわらず次々と人が訪れるのは、ここへ来てジェリーの世界にひと時タイムスリップすることで、ふだん忘れていたもの、遠い記憶の中から呼び起こされるもの、そんなものとの再会ができるからにちがいない。 少なくとも、僕にとってはそうだった。

今度いつか、冬のさなかに深い雪に覆われたジェリーの庭を訪れたいと思いながら、それはまだ果たせないままになっている。



樹は硬ければ硬いほど裂けやすい
そこへいくと
竹や柳は風になびいて動くから
いつまでも生き残るんだ。
ブルース・リー



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ある椅子の話

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楓の木の下で


この椅子は、むかし僕が家具作りにうつつを抜かしていた頃の名残(なごり)の一つだ。
肘掛け付きのものを2脚、肘掛け無しを2脚作って我が家のダイニングテーブルに置いていたのが、この1脚をのぞいて全部壊れてしまった。 作ったのはもう30年近く前である。
家具の中で椅子ほどめちゃめちゃに酷使されるものはない。 何十キロという人間の体重を常に上に乗せるだけではなく、中には後ろに反り返って前脚を浮かせるなんて残酷なことをする人もいるから、たまったものではない。 3脚の椅子は作ってから数年で駄目になってしまった。 設計者としての僕の失敗は、この椅子をビジュアル的な面を強調するあまり、華奢に作りすぎてしまったことだった。 一つだけ生き残ったこの椅子は、今では背もたれの布は無くなり桜材の塗りも汚く剥げてしまったのに、グラグラすることもなく腰掛けのフォームもまだちゃんとしている。 僕は一日に数回この椅子に腰掛けて、ゆっくりと煙草をふかす。 愛用のスモーキングチェアーというわけだ。




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肘掛け部分のディテール



木材というのはなんと堅固なものだろうといまさらに驚く。 あの頃作った他の家具たちは30年たった今でもちっとも変わらずにちゃんと機能している。 椅子だけが壊れてしまったのだ。 僕がこの世からいなくなってしまったあとも、あの家具たちはきっと永久に存在するだろう、という思いは何かしら強い勇気のようなものを僕に与えてくれる。 それは、消滅する自分の一部が何かのかたちで残る、という満足感のようなものでもあった。

あの頃作った他の家具のことは、以前ここに書いている。




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回転木馬

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家なき子のように
Mt.Dora, Florida USA


僕は回転木馬には目がない。
旅先でどこにいても回転木馬を見ると写真を撮らずにはいられない。 あのけばけばしい程の色合いや、回り始めると鳴り出す仰々しい音楽や、乗っている子どもたちの幸せそうな顔などに、古き良き時代への郷愁を感じてしまう。
といっても子供の頃にそんなものは周りになかったから、郷愁というのは日本ではなくて、憧れていた西欧への郷愁のようなものだろう。

まず木馬とか回転木馬という言葉が好きである。 昭和のノスタルジアのようなものがそこにある。 メリーゴーランド (merry-go-round) も悪くはないが、アメリカで呼ばれるカルーセル(carousel) にはどうもなじめない。 それのちょうど逆なのが、最近のブログで話しに出た観覧車だ。 回転木馬と観覧車といえば、これからアメリカでもその季節が始まるカウンティフェアの二大呼び物だが、僕は観覧車という日本語になぜかどうも馴染めない。 これは英語でフェリス・ホイール (ferris wheel) と言ったほうがずっと感覚にピッタリとくるのだ。 観覧車という日本語は昔からあったのかしらん。




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サクレ・クールの回転木馬
Montmartre, Paris


僕の子どもたちが幼なかった頃メリーランド州へ旅行をした時に、どこか名も知らぬ小さな町のカウンティフェアで回転木馬に乗っている写真が我が家の壁にかかっている。 とてもいい写真で好きなのだが、そのネガがどうしても見つからなかった。   
イタリアでボローニャからサン・マリノへ車で行く途中、フォーリというこれも小さな町を通り過ぎた時に回転木馬を見た。 わざわざ車を停めて写真を撮ったけど、人気のない季節外れの公園に打ち捨てられたような木馬たちはなんとなくもの悲しかった。

フランスのアヴィニョンの回転木馬は、すぐそばのカフェでパチさんと二人でスコッチを飲みながら、一行の者たちが古城から出てくるのを待った。 あの旅でワイン以外のものを飲んだのはあの時だけだったなあ。

日本ではといういと、子供の頃に遊園地へ行った記憶がまったくない僕は、回転木馬にもたぶん乗ったことはないのだろう。
東京の豊島園にあるメリーゴーランドは、世界でも最古のものの一つだそうだ。 調べたら、1907年にドイツで制作されたものが1911年にニューヨークの著名な遊園地、コニーアイランドに据えられ、60年後の1971年にはるばる日本までやって来ている。 今ではもうたっぷり100年以上経ったことになる。 今度日本へ帰ったらぜひ見てみたい。 誰かいっしょに行きませんか? もちろん見るだけじゃなくて、いっしょに乗るのですよ。(笑)

あと、忘れられないのはパリで見たもの。
上の写真は、モンマルトルの長い階段を登ってサクレ・クール寺院に辿り着く前に見た。
もう一つ、以前にここに載せたのがセーヌ河畔の Hotel de Ville の広場で撮ったもの。 



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