過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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思い出はダブルデッカーに乗って (1/3)

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ファニエル・ホール前のダブルデッカー (1975年頃)
Boston, USA


昨年のこと、古いネガをスキャンしていてこの1970年代に撮った写真に遭遇した。
その粒子の荒れた傷だらけの画像を、フォトショップで時間を掛けて修復していると、しきりと何やら心を掠(かす)めるものがある。 思い出せ思い出せ、と突(つつ)いてくるのにそれが何なのかどうしても思い出せないままに修復を終えて、それからもう半年も経っていた。 今回改めてこの画像を取り出して見たらいきなりハッと蘇ってきた。
そうだ! クララのことだった。

あの頃、というのは30代初めの僕がボストンで暮らしていた頃のこと、クララという名のブラジルから来た女の子としばらく付き合ったことがあった。 クララとそうなったのはまったく予期していないきさつからである。


僕のエジェリー ロードのアパートのすぐ向かいのアパートに住んでいて、よく顔を見る女性がいた。 たぶん僕よりは4,5歳は年上だろう。 美人とはいえないがよく陽に焼いたような肌の色をした大柄の女性で、道ですれ違って挨拶を交わす時などその胸の大きさや腰のくびれや長い脚にいつも圧倒された。 少し親しくなってから知ったのは、彼女の名はマリアといってサンパウロから来たという。 ボストンのアダルトスクールでポルトガル語を教えていた。
それである時、偶然いっしょに地下鉄の駅まで歩くチャンスがあった時に思い切ってデートに誘ってみた。
「ごめんなさい。 私、ボーイフレンドがいるのよ」 と済まなそうな表情を見せてマリアが言った。 そして
「でも、あなたは素敵な人だと思うわ。 ぜひ紹介したい子がいるから今度うちでディナーをするから来てちょうだい」 と言った。

しばらくしてマリアからディナーの招待があって、そこで紹介されたのが彼女のボーイイフレンドというかなり年配の黒人の男と、マリアの妹のクララだった。 クララはサンパウロから数日前に着いたばかりだという。 素晴らしい英語を話す姉さんとちがってクララはカタコトの英語しか話せなかった。
あとになって気がついたのは、仕事を持つ忙しいマリアが、クララのボストンでの案内役を僕に押し付けたというところがあったようだ。 それに僕なら食事や観光などのデートの費用をクララに分担させることはないだろう、とちゃっかりと計算をしたのかどうかは知らないが、もともとマリアに惹かれていた僕にとってはあまり嬉しい話とはいえなかった。 ところが当のクララは、女の匂いがぷんぷんする姉のマリアの横では、まるで少女のように見えたほど小柄で、その愛くるしい顔を思わず見直してしてしまったほど可愛いかった。 それに性格も素直そうな子だったので、ディナーが終わる頃には僕は、「よし、この子に楽しい思いをさせてやろう」 という気になっていた。 それで僕はクララの子守役を承諾したというわけだった。

予期しないことからボストンの町で人を案内するはめになって、 車を持たない僕が最初にしたのが、観光バスの一日のツアーだった。 すでにボストンに数年住んでいながら僕自身はこのニューイングランド地方のどこへも行ったことがなかったから、これは楽しかった。 クララと僕はダブルデッカーの観光バスの二階席に肩をくっつけあって座り、行く先々で下車して名所を訪ねる時には、グループに混じってまるで十代の恋人同士のように仲良く手をつないで歩いた。 お互いに言葉があまり通じないからこれといって難しい話をすることもなく、クララにはガイドの説明もよく分からなかったと思うのに、それでも彼女が楽しそうに始終ニコニコとしているのを見ると、僕もついニコニコしてしまった。

(続)



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ふるさとは遠きにありて思うもの

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ふるさとの道
米子市 旗ヶ崎


昨年の10月に郷里の町で中学の同窓会があった。
例によってコータローが全面的に世話をした催しで、この歳になって初めて、そしてたぶん最後になるだろうと思われる画期的な同窓会だったが、ちょうどその頃身辺がゴタゴタしていた僕は、帰国をすることができず涙をのんで見送った。
三年ほど前にこれもコータローが音頭を取った高校の50年の同窓会に僕は初めて出席していて、その時に何十年ぶりに見た顔ぶれと今回の中学の同級生とは重なる顔が多いのでまあいいだろう、と自分で自分を慰めた。 

そのあとしばらくして、コータローが親切にも中学の同級生の名簿といっしょに送ってくれた会当日の記念写真を、虫眼鏡でその60余人の一人一人の顔を丹念に見ていたら、懐かしい顔があとからあとから出てくる。
布団屋のよしこちゃん、うどん屋のミチ、日本海新聞のみっちゃん、琴のはるみちゃん、タンス屋のリっちゃん、時計屋のキヨちゃん、アッパのヨーコちゃん、とすぐに分かったのはなぜか全部女性で、男性陣はほとんど識別できなかった。 添付の人名を見てようやく、はーっとため息をついて思い出していた。

堪らない懐かしさが込み上げてきてコータローに国際電話を入れた。 彼が云うには、会うなりいきなりちゃん付けで呼んだりして、やはり高校の同窓会とはかなり雰囲気が違うものだったらしい。 なにしろ、市の内外から汽車通学などで集まってきていた高校と違って、中学の友達はそのほとんどが小学校からそのままいっしょに進学した仲で、しかも幼稚園以来ずっと一緒、というのが多い。 いわば近所同士の幼なじみだから学校が退けたあと日が暮れるまで毎日いっしょに遊んだり喧嘩をしたり、懐かしい思い出がいっぱいに詰まっている。
そして中学卒業後に高校へ進まなかった人達はそのままばらばらに分かれてしまったので、今回の同窓会では初めての顔合わせが多かったという。
そんな話を聞いていたら、ああ無理をしてでも行けばよかったとつくづく後悔した。

それで思い出したのは、僕が50歳を過ぎた頃、アメリカへ渡って以来初めて24年ぶりに郷里へ帰った時のことだった。
ちょうど高校の同窓会がその数カ月前にあったのにもかかわらず、数十人がまた集まってくれた。 それだけではなくて、健在だったE子先生を囲んで幼稚園の同級生が数人会いに来てくれた。
そうだった。 あの時は郷里へ帰る前に、僕はアメリカからまず東京へ着いて24年ぶりで見る日本に、異邦の地へ帰ってきた浦島太郎のような違和感と孤独感を感じて途方に暮れてしまっていた。
「俺は帰るべきじゃなかったのではないか」 と思い始めていた。 そんな中で目の回るような東京での一週間のあとこの山陰の郷里へ帰ってきた時に、僕はどんなに心からほっとしたことか!
そこにもここにも、いたる所に子供の頃の思い出が隠れていた。 お前よく帰ってきたな、と優しく語りかけてくれるのを感じると、僕は年甲斐もなく涙ぐんだ。

そのふるさとへ、今年はどんなことがあっても帰りたい、と思っている。



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うさぎちゃん、こんにちは

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不思議の国から来たウサギ



1月21日(火) 快晴 気温 零下18°C

厳しい寒さが続いている。
昼間は雲ひとつ無い真っ青な空があるのに、冷たい風が吹いていて寒がりの僕はどうしても外に出る気が削がれてしまう。 もし外に仕事を持っていればそんなことは云っていられないので、家で仕事をすることの贅沢さを今更のように実感する。 その代わり、完全に運動不足になっているのを脳も身体も感じていて、毎日ぶくぶくと肥ってきているようないやな錯覚に襲われる。 
それで今日は夕方近くになって何日かぶりで犬を散歩に連れて行くことにした。 このところ犬のことは妻に任せきりだったのだ。 勇敢にも零下18度の世界へ出て行くことは僕にとっては大決断だった。 ジーンズの下に友人が日本から送ってくれたスパッツをはいて(Mさん、ありがとう)、厚手のセーターをしっかりと着込んで(義妹のジュリー、ありがとう)、毛糸の帽子をかぶり(妻よ、ありがとう)、去年のクリスマスに娘が呉れた冬のコートを着て、マフラーを首に巻いて(J君、ありがとう)、英国から来た皮にカシミヤの内張りの手袋をして(息子よ、ありがとう)、玄関脇の姿見の前に立つと、そこには丸々と膨れた東洋系の魁偉(かいい)な顔をしたエスキモーがいた。

昨夜は雪が降って数センチ地面に積もっていたのが、今日の陽光で完全に溶けて道は汚く濡れていた。 角を曲がって図書館の方へ行く横道を歩いていたら、数メートル先の路上に何かキラリと小さく光るものがある。 陽が落ちたあとの夕暮れに頭上の街灯の光を反射して  何かがホタルのように光っていた。 近づいてよく見ると、それがこのブローチだった。 手に取って汚れを拭ってやるとそれは3センチほどの小さな兎だった。 誰かが冬のコートの襟に付けていたのが落ちてしまったに違いない。
僕はそれをポケットに入れてまた犬と一緒に歩き続けながら、そういえばいつか、やはりこうして犬と歩いていた時に、ひらひらと風に吹かれて20ドル札が飛んで来たことがあったのを思い出していた。 (僕はもちろんそれに飛びついた)

帰宅してそのブローチをよく見ると、金の兎がギターを弾いている。 さっき拾った時には気が付かなかったが兎の頭の部分は真珠でできていた。 裏側には14Kと彫ってある。 妻に見せると、これはけっこう古いものよ、と云っていた。 落とした女性はきっと沈んでいるに違いない。 どうしようか、という話になった。 警察に届けてもしょうがないし、あの近所の電柱に張り紙をするしかないだろう、という結論に達した。

とにかくこの金の兎は今夜は僕の所有となった。
ひょっとしたら、つい先日ブログにギター弾きのアシャのことを書いたばかりだから、これは遠くロシアの彼女から僕へのプレゼントかな。
それとも、僕の周りには兎年の女性が数人いるから、その中の一人からの愛のギフトかも知れない。
寒い寒い冬の夕暮れに拾った金の兎は、指先に沁み、心に沁みた。


 

月夜の浜辺


月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
月に向かってそれは抛(はふ)れず
浪に向かってそれは抛(はふ)れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

                 ――― 中原中也





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寒い国から来たギター弾きを見ませんか?


二つのギター
ロンド (J. S. バッハ)

最近、実はぞっこん惚れ込んでしまった女性がいて、このところ長い冬の夜を毎晩のように彼女といっしょに過ごしている。
彼女の名はアシャという。 アシャはロシア生まれのギター弾きである。
そのアシャが今夜は珍しく友達のギタリストのオルガを連れてきて二人で僕のために弾いてくれた。 僕は床に腰を下ろすと膝を抱えてウォッカを飲みながらそれを聴いている。 この二人がバッハの小品で見せるコラボーレーションは絶妙で、聴きながら僕はどんどん彼女たちの世界ヘ引きこまれていった。 向かって左がアシャで、右手に座る左利きの(ややこしいな)、女の子がオルガだ。
演奏の合間に僕が二人のショットグラスにウォッカを注いでやると、彼女たちはそれをぐいっと一息に飲み干す。 ロシア人だけにできる飲み方だった。 そして二人はまたギターを取り上げる。 今夜はずっとそれの繰り返しだった。 部屋の中は暖かく、 零下15度の外界とを隔てる窓ガラスが凍りついて、そこに中世のフラスコ画のような模様が表れていた。 アシャが立ち上がって窓のそばへ行くと、凍ったガラスにその美しい指先の、蜥蜴(トカゲ)のように尖った爪でカリカリと音を立てながら、LOVE と書いた。



現代クラシックギターの大御所というと、ニキタ・コシュキン(Nikita Koshkin) というロシアのギタリストで作曲家の名がまちがいなく挙がると思うけど、僕のアシャ (Asya Selyutina) はそのコシュキンの作品をほとんど演奏している。 中でもコシュキンの代表作と云われる 『アッシャー家のワルツ』 はあのエドガー・アラン・ポーの 『アッシャー家の崩壊』 の陰鬱な物語に鼓舞されたアシュキンが書いた大曲で、技術的にも大変な難曲だということはギターを彈かない僕にさえ容易にわかる。
このアシャのギターを聴いていると、いつの間にかそれが日本の野性的な津軽三味線のように聞こえたり、そうかと思うと平家物語を語る琵琶法師の琵琶の音とピッタリ重なってしまったのは、これは飲み過ぎたウォッカのせいに違いない。

祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり......



アッシャー家のワルツ





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一月のクイズの結果は・・・

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フェッラーラの斜塔
Ferrara, Italy


予想したより難しかったようで、正解はたったの二人。 僕としては、十分なヒントを与えてあげたつもりだったのでちょっと驚いた。
僕が斜塔を見たのはイタリアのボローニャとフェッラーラの二ケ所だけで、ボローニャの方はちゃんと写真を載せているのでここじゃないのは明らかだけど、フェッラーラの方はほんの一言の言及だったから、見落とした人がほとんどだったのだろうと思う。 先月クリスマスの頃に再登場させている この記事の冒頭の二行目を見てください。

それで正解のお二人、ogui さんとわにさんとの間で(文字通り)雌雄を決することになった。
慎重を期するために今回はサイコロの三度振りをした結果、運命の女神は ogui さんに微笑んだようです。
わにさん、残念でしたね。


ogui さん、おめでとう。
住所氏名を非公開コメントにして送ってください。
お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のないばあいは棄権とみなして次の方を選びます。



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コプレースクェアーのこと

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炭焼きバーガー、ジャンボフライ付きで $1.75 (1974年ごろ)
Copley Square, Boylston Street, Boston


ボストンの町をほぼ東西に走っているボイルストン・ストリートは市内で一番の大通りで、両側にぎっしりと会社や商店が並び、昼も夜もなくいつも雑多な群衆に満ちていていた。 そしてそのボイルストン大通りと正確に90度に交差する無数の小通りは、東端のダウンタウン側からきちんとアルファベット順に通りの名前が付けられていて、ここもまた小さなレストランやバーや店屋が軒並みに並んでいる。 Arlington、Berkley、Clarendon、Dartmouth、Exeter...などの道の名前がそれだった。 洒落たことをしたものだと感心したけど、われわれ外国人にとってはニューヨークのように42番街とか76番街のように数字の方が便利なことは確かだ。

そのボイルストン・ストリートを歩いていると、途中でいきなり大きな空間へ来てしまう。 そこには大きな広場があって、群衆に揉まれながら緊張感を持って歩いていた人達が、この区域へ来掛かると何となくほっとする。 そこがコプレースクェアーだった。
写真の背景に見えているのが由緒あるコプレースクェアーホテルで、広場の右手にはボストン図書館、左手は巨大なトリニティ教会があった。 広場には大きな円形の噴水があり、夏には子供たちが服を着たままずぶ濡れになって遊んでいた。 そしてこの広場は現在はボストン・マラソンのゴール地点でもある。 僕が住んでいた頃はゴール地点がボイスルトンストリートのずっと東のプラデンシャル・センターだったのがいつのまにかここに移されたので、ランナーたちはさらに2キロほど余分に走ることになった。 (このホテルは後年取り壊されたあと、超近代的なコプレースクェアーホテルとして2009年に再建されている)。

広場の角には地下鉄の出入口があって、ギシギシと音をたてる櫛の歯のような形をした木製のエスカレータで地上まで上がってきた人は、通りを渡ればもうそこは広場の中だった。 便利だから、僕はもう思い出せないほどの数多くの人達と、会う約束をこの広場でしたものだ。 天気の良い日なら噴水の端に腰掛けて来る人を待ったし、雨や雪の日にはトリニティ教会のファサードで会うことにしていた。 僕の住んだアパートはボイルストンの東端にあったから歩いて20分、地下鉄に乗ればひと駅の距離だった。

今この写真を見ていると、さまざまな記憶がどっと蘇る。
バーガーがこんな値段で食べられた時代。 煙草が50セントで買えた時代。 アパートの家賃が150ドルだった時代。
そして僕が、
 怒りと悲しみに挟まれて生きていた時代、のことだった。




千年生きた人よりも多くの思い出を、私は持っている。
ボードレール




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一月のクイズ

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斜塔のある町


日本人は斜塔といえばピサ、と条件反射的に出てくるらしくて日本語で 「斜塔」 で検索をしてみると、延々と出てくるのはピサの斜塔だけだった。 それが英語で "Leaning Tower" と検索をするとさすがにいろいろなものが出てきた。 中でもウィキペディアには世界中の斜塔のリストの記載がある。 これを見るとヨーロッパはもちろん、アジア(日本には無い)にもカナダにもアメリカにも斜塔が存在することがわかる。 カナダやアメリカのものは最初から傾けて設計された現代建築で、その一つは何度も行ったことのあるラスベガスにあるというのを僕は知らなかった。

世界中の斜塔

僕はピサには行ったことがないが、それ以外の幾つかの町で斜塔を見たことがあって、そのことは以前のブログの記事にも書いている。
この写真の斜塔はその一つだけど、これはどこなのだろう?

これが今月のクイズ。


正解の中から抽選で1名を選んで、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい。





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生き延びるものたち

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キッチンのドアから


アメリカの中西部はこのところ厳しい寒波に襲われている。
今日も朝起きた時の外の気温が -25℃ でラジオのニュースでは体感温度は -60℃ だと報じていた。ゴミを出す日だったので一歩外に出たとたん、ごめんなさいと言ってそのまま中に帰ってきた。手袋の大嫌いな僕が手袋なしで外に出れない、それほどの寒さだった。
暖かいリビングルームでは、テレビで共和党のバカ政治家たちが 「それ見たことか、グローバル温暖化なんて嘘っぱちもいいところだ」 なんてオバマ大統領を嘲笑しているのを見て、目先しか見ていない浅薄な人間に腹がたった。

そんなことより僕が心配したのは、この冷酷な寒さの中でホームレスの人々はどうしているのだろうか、いや人間だけではなくて、動物や鳥達はどうやって生き延びているのだろうか、ということだった。 そう思いながら仕事部屋へ入って灯りをつけると、驚いたのは机のそばの窓ガラスの外、僕の眼から20センチくらいのところの雪の積もった桟(さん)に、体をボールのように膨らませた小鳥たちがぎっしりと並んでいた。そうか、窓のすぐ内側の天井に暖房の温風が吹き出るレジスターがあるから、それで窓のガラスが暖かいのだろう、とわかった。これは写真に撮らなくちゃ、とカメラを構えてシェードをほんの少し上げたら、その気配に驚いて小鳥たちはいっせいに飛び立ってしまった。
ごめんごめん、

そこでいつもは庭のバードフィーダーに入れてやる小鳥の餌を、窓の外の桟にばらまいてやったけど、中で動く人の気配を察してか、小鳥たちは戻ってこなかった。
許せよ。俺だって生き延びるために机に向かわなくちゃいけないんだからな、と謝りながらPCのスイッチを入れた。


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マリワナはいいか悪いか?

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ビジネスマンのランチタイム (1973年)
Boston, USA


昨夜のテレビのニュースで大きく報じられたのは、コロラド州でマリワナの喫煙がとうとう合法になった、という。
正月の二日に専門の販売店が開店すると人々が朝から長い行列を作って、アメリカの歴史で初めての合法的大麻を手に入れようとしている風景がテレビに映っていた。 上の写真の70年代のボストンでは、マリワナはもちろん合法ではなかったがまるで合法のように至るところで吸われていた。公園の芝生に座って数人が回し飲みをしている所へ近づくと、だれでも気軽に参加ができたようなヒッピーの時代だった。 若いヒッピーたちだけではなくてちゃんと仕事を持つ大人たちのパーティでも、マリワナ(草)やハシシ(マリワナの樹脂を凝縮した固形物)は、酒や煙草と同じく皆に楽しまれたものだ。
それが長い間にどんどん厳しくなっていって、今では他の薬物と同じくこっそりと隠れて犯罪意識を抱きながら使用するだけで、公共の場所で吸うことはできなくなった。 それどころか、就職する時にはドラッグテストを実施する会社がほとんどになったから、最近薬物を摂取した事実は尿検査に確実に示されるし、尿検査よりさらに厳しい頭髪の検査だと一年前に薬物をやった形跡でもはっきりと出てくる。 その上、僕のいた会社のように不定期に無差別に社員を選んで検査を実施するところなら、いったん入社しても安心はできない。 もし見つかればその場で解雇されるからだ。

僕自身もボストン時代にはタバコを吸うような感覚でマリワナをやったものだった。 2オンスが30ドルするマリワナをいつも買えるというわけではなかった僕は、鉢に種を植えてアパートの室内で根気よく栽培したこともあったが、ようやく出てきた葉っぱを試してみたら香りも何もなく、まるで雑草を吸っているように不味かった。 やはりそれなりの気候条件や土壌がないとちゃんとしたものは育たないというのは、他の野菜や果物と同じなのだなあ、と悟った。
今でもマリワナが時々恋しくなることがある。 あの身体中を陶然とさせて気分をリラックスさせるところは酒と似ているけど、酒のように直接内蔵に流し込んでいるという感覚がなくて、けだるい空気が皮膚の毛穴から忍び込んできて身体中にまんべんなく行き渡るような、やわらかな優しい感覚だった。 落ち込んでいる時に飲む酒はますます落ち込んでしまう事があるのに比べると、マリワナは人をハッピーにしてくれた。 とにかく何でも可笑しくてしょうがなくなり、それこそ日本語でいう、箸が転んでも可笑しくて笑いが止まらないのである。 ハイになるに従って感覚が異常に研ぎ澄まされてくるところが酒とは逆で、音楽を聴いていると、怒涛のように大脳に音が溢れてそれはそのまま無限の世界への飛翔だった。 トリップというやつだ。 そして、身体中のすべての神経が剥き出されたように敏感になっている中でのセックスは、ふだんの何十倍もすばらしかった。



オランダのアムステルダムには世界的に有名になったマリワナのカフェが町中にあって、メニューを見ながらお気に入りの草を注文できるそうだけど、僕はまだオランダに行ったことがない。 最近アムステルダムの旅行から帰ってきた知人が、カフェの前を何度も通ったけど中には入らなかった、というのを聞いて 「じゃあ、いったい何しにアムステルダムに行ったんだい?」 と思わず言ってしまった。
アメリカにもそのうちにあちこちにアムステルダムが出現するようになるかもしれない。 (マリワナは数ヶ月以内にはワシントン州でも合法化される)。 そうなることで、ヘロインやコケインなどハードなドラッグの常用者たちが、無害で中毒性のないマリワナへと移行してくれるとしたら、マリワナの合法化はちゃんと意味がある、ということになる。 その上、誰かさんのように酒に浸る人にとっては酒量も減るだろうし、ヘビースモーカーの喫煙量も減るかもしれない。 しかも夜は睡眠薬を飲んだようによく眠れる。 「百利あって一害なし」 と言いたいところだが、そうは言えないところが難しい。 何事によらずやり過ぎは害があるに決まっているし、やり過ぎるやつが出るのはこれはもうまちがいないだろう。 

マリワナの合法化は、どうなることかアメリカ中が固唾を呑んで見守ることになるようだ。
僕といえば、コロラドにぜひ行ってみたいものだ、と思っている。 アムステルダムに行くよりずっと近いから.....

 


アムステルダムのマリワナカフェ




遠い昔のボストン時代のことは今まで散々書いたが、何よりも一番記憶に残っているのは、30歳前後の僕がマリワナに明け暮れていたこの「どん底」 の時期のことだ。

古い日記から





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年の初めに

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恋をする馬
By Green Eyes



新年おめでとう。

ブログの読者の方たちとの対話が日課になってしまったこの数年は、僕の心の中の暦はすっかり日本時間になってしまった。
それで、こちらアメリカはまだ大晦日の正午にもなっていない時間なのに、年賀状のつもりでこの記事を載せたわけです。

今年もよろしくお願いします。
皆さんにいいことがいっぱい待っているような気がする。



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