過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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二月のクイズ

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ある祝祭日の午後


これは昨年のある祝祭日に、一族が集まった午後のパーティでの風景なんだけど
さて、これは何の祝祭日だろう?



正解の中から抽選で1名を選んで、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい




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オリンピックの日々

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我が家のオリンピック


雪と寒さに閉じ込められたこの頃の僕にとって、冬期オリンピックは最高の贈り物となっている。

昨夜のノルディック複合では、長野出身の渡部暁斗(25)がジャンプで2位のあとクロスカントリーを6秒のハンディで発走。 それぞれゼッケン番号1,2のドイツのエリック・フレンツェルと渡部が、途中から残りの一団をはるか後方に引き離したまま、最後まで先になり後になりして、森を抜け坂を登り斜面を滑走しながら二人だけの壮絶な決闘を続けるのをテレビで見ながら、僕は固めた拳(こぶし)を振りながら日本を応援していた。
渡部は最後にゴール前で数メートル引き離されたまま2着となった。 ゴールインのあと、そのまま雪の上に仰向けにぶっ倒れた渡部。 肩で激しく息をしながら彼は頭上に広がる冬の青空をどんな気持ちで眺めていたのだろうか。 でもこれは文句なしに立派な銀メダルだ。 よくやった。 悔いることは何もないぜ。 と僕は彼に語りかけていた。


昨夜の男子フィギュアスケートでは、ロシアのプルシェンコが突然出場を棄権した時に、ああこれは日本の羽生にとっては天の恵みだな、と思ったら結果はその通りになった。 数日前の団体戦での羽生の素晴らしい演技を初めて眼にした時にプルシェンコに迫るのはこの子しかいないな、と僕は思っていたからだ。 今日のフリースケートのプログラムでは羽生を含めて多くの出場者が失敗を繰り返したから、もし健在のプルシェンコが出ていたら羽生の金メダルは無かったのは確かだ。
それにしても、羽生の女の子のような衣装には思わずアッと言ってしまった。 おいおい、キミは若者のアイドルだけじゃなくて日本国民のアイドルなんだぜ、もうちょっとなんとかしてほしいよ、と言いたかった。

ところで高橋大輔の演技には正直に言って失望したと言わなければならない。
演技の難易度よりも何よりも、彼の演技には感情がこもらないというのか、他のスケーターたちが見せていたあの流れるような表現力に欠けていると僕には思えた。 これは音楽の選択や振付の責任だけではなさそうだ。

実を言うと見ていて僕が一番楽しんだのは文句なしに、アメリカのジェイソン・ブラウン。
もし判定基準に 「娯楽度」 のカテゴリーがあったとしたら、そして僕が審査員ならブラウンに最高点、アメリカのジェレミー・アボットとドイツのペーター・リーベルスに次点をつけたに違いない。   


そんなこんなで、テレビを見ながら僕の一日は過ぎて行くのだけれど、四年前のバンクーバーの冬季五輪ではこんなにゆっくりと観戦をした記憶が無い。 なぜだろう、と思って考えてみたら、そうだ、と気がついた。
四年前の僕はまだ仕事の現役だったからそんな時間が無かったのだ。 ああ、時は移る。




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日本女性に惚れてしまった

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秋宵

鏑木清方 (かぶらき きよかた)
(1878~1972)



久しぶりに子供のように興奮してしまった。
今日の冬季五輪の、日本の女子アイスホッケーの対ロシア戦である。 数日前の対スウェーデン戦は見逃した、というよりアメリカでは放映されなかったので僕にとっては日本人のアイスホッケーを見るのは、実はこれが初めてだったのだ。
アグレッシブなスポーツという点ではアイスホッケーはトップにくるだろうけど、おとなしい性格の国民とされる日本人が、しかも女子が、どんな戦いをするのだろうと僕は最初から興味津々だった。

ゲームが開始されてすぐにわかったのは、日本は徹底したディフェンス(防御)のチームだということ。 アグレッシブな攻撃や相手ゾーンでのフォーチェッキングよりも味方ゾーンでの防御のうまさに驚いた。 そしてゴーリー(ゴールキーパー) の藤本那菜、これが目をみはるほど素晴らしかったのだ。 ロシア選手に比べるとまるで子供みたいに小柄で、ネットの前で腰を落として構えるとヘルメットの位置が後ろのネットの横棒よりも低い、なんてゴーリーは今まで見たことがない。 第1ピリオドではその藤本が銃弾のように自分に向かってくるパックをすべて見事にシャットアウトした。 ただ一回を除いて。

こうして第1ピリオドでは、1- 0 でロシアにリードされたあと、例の問題になった誤審が起こった。 ロシアのゴール間近で日本の浮田が無理やり押し込んだショットをロシアのゴーリーが身体で受け止める。 そしてそのままその場に尻餅をついてしまう。 レフリーがその瞬間に両腕を交差させてノースコアの判定を下した。 パックは尻餅をついたゴーリーの巨体の下に隠れていてレフリーには見えない。 そこでレフリーはビデオのチェックを要請するサインをオフィシャルに示す。 ところがリンクの外に陣取るオフィシャル連中は、そのレフリーの要請を見逃したのか故意に無視したのか、ゲームは中断されること無くそのまま続行されたのだ。 これは酷い。 数分後にそのビデオが画面に映される。 スローモーションビデオでゴーリーが身体をずらせると、その下でパックはゴールの青線の内側に入ってるじゃないか! スコアだったんだ! しかしもう後の祭りだった。
僕は憤怒のあまり手に持っていた酒のグラスをテレビの画面にぶち投げたい欲望をかろうじて抑えていた。

第2ピリオド。
ロシアの執拗な攻撃を日本は素晴らしいディフェンスで完璧に防いで両チーム無得点のままで終わった。 ここまでのゴールへのショット数がロシア35、日本12、という数字を見てもロシアの攻撃の凄惨さがわかる。 ピリオドを通してプレイの大半は日本側のゾーンで展開されたから、ゴーリーの藤本の必死の努力はまさに脱帽もので僕は手に汗を握って藤本を応援していた。

第3ピリオド。
藤本の堅固な防御には、まるで最後の誇りと貞節を守る日本人の大和魂が乗り移っているようで、ロシア勢は目に見えてイライラしているのが彼女たちの表情や動作からよくわかった。
そしてゲーム再開33秒後に、床 亜矢可(とこ あやか)のスラップショットが決まって日本が得点。 僕はいきなり思わず大声を挙げて激しく手を叩いた。 そばにいた妻と犬が何事かと驚いて僕を見つめている。 彼らがそんな僕を見たことはついぞ無かったからである。
1-1 となった。
そして半ばを過ぎた11分ごろ、ロシア側のペナルティで日本にパワープレイのチャンスがやってきた。 この日ほとんどペナルティをとられていないロシアだったから、日本にとってはこれが又と無い最後のチャンスと思われた。 それなのにである。 ロシアゾーンで日本が懸命な攻撃を繰り返すパワープレイの最中に、日本はパックをロシアのアレクサンドラ・ヴァフィナに盗まれてしまう。 ヴァフィナは素晴らしい速度でパックを日本ゾーンへ独走で運んでいくと、ゴーリーの藤本の肩の上を狙って打ち込んだ。 パックはそのままネットに吸い込まれた。 珍しいショートハンド・ゴールという逆転劇だった。  身体の小さな藤本は下半身が驚異的に堅固だけど高位置に弱い、と見込んだロシア人の頭脳的なプレイだったと言える。

結局ゲームは2-1 で終了となり、日本は敗れ、準々決勝への進出を諦めなければならなかった。 それにつけても、である。 あの第1ピリオドの醜い誤審がなければ、この試合は2-2 のまま延長戦へと続いていったのにと、僕はファ◯◯の言葉を投げつけて立ち上がると、荒々しくテレビのスイッチを切った。




明治の画家、鏑木清方はヴァイオリンを弾く嫋(たお)やかな明治の女性を描いたけど、洋楽器のかわりにアイスホッケーのスティックを持ってロシア女と堂々と肉弾戦をする日本女性が出てくるなんて夢にも思わなかったに違いない。
次回は対ドイツ戦となるけど、そして日本にメダルのチャンスはもう無いけど、僕にとっては新しいスターの誕生だ。
オーイ、藤本ななチャーン、愛してるぜ~。 俺がついてるからなあ。 がんばってくれ。




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ドゥカティで思い出したこと

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凱旋パレード
Bologna, Italy


最近の読者のコメントにドゥカティの名が出てきて、それで思い出したことがある。

2007年9月24日午前10時頃、僕はイタリアのボローニャの町をうろついていた。
この町は旧市内周辺を歩くとどこからも遠くに双子のような二本の塔が見えているから道に迷うことはない。 その朝はまず、銀行のATM でユーロを引き出す必要があったので、目抜き通りのインディペンデンツァ通りまで出てきた。
その時いきなり物凄い爆音が轟いて、目の前をオートバイの一群が通り過ぎた。 生半可な数ではない。 100台、いやもっとあったかもしれない。 延々と続いて行き過ぎるバイクにも、またがるライダーのヘルメットにも Ducati の名が書かれている。
生半可な数ではないばかりか、生半可な音ではなかった。 その音に負けないような大声で、隣に立っているおじさんの耳に 「ケ コゼ?」 と叫んで訊いたら、おじさんも引きつるように大声をあげて説明してくれた。

昨日、ドゥカティのチームが MOTO GP のワールドレースでチャンピオンを制覇したのだそうだ。
ドゥカティがイタリア産のホットなスポーツバイクだということは前から知っていたが、僕が知らなかったのは、ドゥカティはボローニャで生まれてボローニャを本拠地とするバイクだということ。 道理でこの大騒ぎ・・・・ と合点がいった。 




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主要道路のインディペンデンツァ通りは、旧市内に入ってくると町の心臓部にあたるピアツァ・マジョーレ(マジョーレ広場)で行き止まりになってしまう。 あのネプチューン(海神)の像がそびえる辺りである。 その広場が今朝はバイカーたちとそれを見る観客とで埋め尽くされていた。
この写真中央の白とブルーのバイクは、群衆を規制すべき警官たちのバイクだが(ドゥカティかどうかは不明)、僕の見る限り彼らは仕事そっちのけで若者たちと昨日の勝利を喜び合っていた。





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イタリアの若者たちのファッションは憎いほど決まっている。
とりわけこの男など完璧といってよかった。 磨かれたバイクは一点の泥もホコリもなくまるで神器のように輝き、黒のつなぎのレザースーツにブーツ、それにバイクの色に合わせたヘルメット、洒落た眼鏡や手袋は有名なブランドものに違いない。ヘルメットをとったあとにちゃんと赤いキャップを用意して、何気なくタバコを指に挟んで携帯電話で話しているのは歯切れのよいイタリア語とくれば、もう文句のつけようがない。





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重装備のリュックを背中に背負った男、この得体のしれない器具はいったい何なのだろう?
今月のクイズにしたいくらいだけど、出題者の自分にもわからないからクイズにはならない。
誰か分かる人がいたら教えて下さい。


こうしてドゥカティの凱旋集会は静かに整然と進んでいった。 驚くほど静かだったのはたぶん酒の入った昨夜の狂乱の結果、全員が二日酔いだったせいかもしれない。
僕はこのあと群衆を離れて、インディペンデンツァ通りをゆっくりと下って行った。 時間はもう正午近くになっていて朝食を抜いた僕は空腹感を覚えていた。 そして何気なく入ったリストランテで僕は忘れられない経験をすることになるのだが、そのことはすでに以前にここに書いている。



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思い出はダブルデッカーに乗って (3/3)

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ボストンの春 (1973年頃)
Government Center, Boston


ボストンの冬は長い。
その長い冬に、ある日突然に訪れるという感じで春がやってくる。 樹々にいきなり花が吹き出して、人々は待ちきれなかったように上着を脱いで外へ出てくる。
そしてその春は短くてすぐに灼熱の夏へと移っていくのだが、そうなる前にクララと僕はいつか会うことがなくなってしまっていた。 お互いに傷つくこともわだかまりもなく、悪い思い出の何も無い別れだったという点では、遠くに住む人との一時は頻繁だった文通がいつしか途絶えてしまうのに似ていた。 二人であれほど多くの時間を共有しながら、僕はついに彼女の奥深くに達することが無かった。 ベッドの中で数えきれない回数で肌を合わせながら、僕らは一つになったことが一度も無かったのだ。

ブラジルはもともと厳格なローマンカトリックの国だ。 若い女性は結婚する時にバージンであることを要求される。 どんなに男友達の多い女性でも最後の線だけは超えない、ということがクララの年代の女性では常識になっているらしかった。 だからこそバージンのままで一度結婚してしまったあと、外で他の男とのセックスを楽しむ女性が少なくないのだ、ということはクララがベッドの中で話してくれたことだった。 あれほど可愛がっていたクララとどうしても交わることができないということが、それほど僕の気にならなかったのは、前に書いたように僕は彼女に恋をしていたわけではなかったからだろう。 それに、クララはそれ以外のやり方で男を満足させる方法を十分に知っていた。 アナルセックスまで許してくれようとしたが、経験のなかった僕はその気になれなかった。 あれは男色家同士のものだ、という小学生程度の知識しかその頃の僕にはなかったのだ。

こうして僕らは別れ話を持ち出すこともないままに、お互いに会うことがなくなってしまった。




映画ならここで 『十年後.....』 という字幕が出るところ。


僕はすでに結婚をして、あるフォトラボの暗室技師として働いていた。 生まれた子供はもう2歳になっていた。 僕はサマーヴィルのアパートから毎朝、ヘッドホーンを耳にしてジャズを聴きながらポータースクェアの地下鉄の駅まで15分ほど歩いて、ボストンの仕事場へ通うのが日課になっていた。

そんなある朝、
ポータースクェアの商店街を歩いていて、衣料品屋の前でドアを開けて出てきた女性とぶつかりそうになって、お互いに顔を見てアッと双方で声が出た。 クララだった。
僕らはすぐ隣りのコーヒーショップへ入って話をした。 昔付き合った女性と十年後にいきなり顔を合わせて、複雑な違和感やぎこちなさを覚えること無しに古い友達同士のように話が弾んだ。 それだけ僕らの関係は淡いものだったのだろう。 そこには懐かしさだけがあった。 
彼女の英語はもう僕よりもずっとうまくなっていた。 数年前にアメリカ人と結婚して、今お腹の中に子供がいるという。 最初見た時になんとなく女らしさが加わってぽっちゃりとしたな、という印象を受けたのはそのせいだったのだろう。 あれこれと昔話の中で、僕と乗ったダブルデッカーのことは、アメリカへ来て最初のデートだったからとても特別な思い出になっていて忘れない、と言ってくれた。

別れる時にクララが笑顔で、"See you!" と言った。
僕は "Take care" と答えて彼女の頬にキスをした。
僕らは電話番号を交換しなかった。 

(終)



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思い出はダブルデッカーに乗って (2/3)

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陽だまり (1972年頃)
Christian Science Mother Church, Boston


クララと僕との交際は、最初からお目付け役のマリアの公認という形で始まった。
僕らはあっというまに仲良しになった。 道を挟んで向かい合ったアパートに住んでいるから、お互いにしょちゅう行き来するようになった。 夜のレストランで働いていた僕は昼間は何もすることがなく朝も遅かったが、そんな僕の部屋へ毎朝クララはそっと入ってくると、まだベッドの中でぐずぐずしている僕の眼の前で無言でクルクルと着ているものを脱ぎ捨てて全裸になって、その薄い褐色の身体を僕の横へ滑りこませてきた。

クララと一緒にいるととにかく楽しくて、鬱々とした毎日を送っていた僕の日常が見違えるように明るくなった。 見ているだけでたまらなく可愛いと思い、この子が喜ぶことならなんでもしてやろうという気にさせられた。
しかし彼女に対する僕の愛情は恋と呼ぶようなものではなかったようだ。 歳を経てからの恋は年齢の差がまったく左右しない、ということはずっと後になって学んだことで、30代の僕にとって12歳の年齢の開きは大きかったに違いない。 ところがクララの方ではそうではなかったようで、姉のマリアが 「あの子はあなたに夢中よ」 と云っていた。

マリアのボーイフレンドというのは不動産屋を経営する初老の男で、マリアにとっては恋人というより小金を持つ 「シュガーダディー」 だったのは明らかだった。 シュガーダディーは巨大なキャデラックのコンバーチブルを運転していて、それに乗せられて僕ら4人は隣州のニューハンプシャーの紅葉を見に行ったり、有名なピア・フォーの豪勢なディナーに連れて行かれたりした。 車の中でクララと僕は、幌を開けたキャデラックの一畳もあるような後部座席に陣取っていたが、どんな時でもクララはいつも僕の手を握ったり身体に触れたがり、姉の眼を盗んでは僕の唇にキスをした。



そんなクララと僕との付き合いが長続きしなかったのは、幾つかの理由が重なったようだ。
クララと知り合った頃、僕はまだ妻が出て行ったあとのアパートに住んでいたが、僕一人には大き過ぎて贅沢だったので、リースの契約が切れる時にずっと離れた場所の小さなロフトへ越してしまったこと。 それとクララが英語の学校へ通い始めると、彼女の周りには同年代の友達が次々にできて、僕と会う機会がしだいに少なくなっていったこと。 
しかし一番大きな理由は、僕らの変則的なセックスだったのではないかと思う。

(続)




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