過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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動物好きの絵描きさん 21 オオカミ

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By Green Eyes


狼は世界的に絶滅の寸前にあるそうだ。
『狼生きろ豚は死ね』 と言ったのは若い石原慎太郎だったと思うけれど、現状は豚がどんどん増えているのに比べ、狼はほとんど死んでしまった。 アメリカ大では昔からの大がかりなハンティングのせいで狼の数は激減していたのが、1970年代になってハンティングの規制のおかげでその数はまた少しづつ増えているという。
日本では1905年に奈良県東吉野村鷲家で捕獲されたニホンオオカミが記録に残る最後のものとなっていて、今は完全に絶滅したとされている。

僕は狼は見たことが無いと思うけれど、以前に勤めていた会社で僕のアシスタントをやってもらっていたT子さんが飼っていた犬が、狼の血をひいているというのでわざわざ見に行ったことがある。 日本犬によく似た色と体形をもつ中型犬で、そう思ってみると時折りキラッと見せる鋭い眼の光に、犬には無い凄さがあるように思えた。


ルーベンスの絵に、森のなかで赤ん坊の子守をしている狼の絵がある。 いま改めて見てみたらその狼の横顔が我が家のパイ公にあまりにもそっくりなので驚いた。 パイシーはオーストラリアン・キャトルドッグである。




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ロムルスとレムス
Peter Paul Rubens (ca. 1616)



幼い子供と動物の間には、大人になってしまった我々と動物の間には存在しない特殊な情感の相互作用のようなものがある、と僕は前から思っている。

友情のはじまり




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アメリカ人と日本人

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二輪車の男
Dayton, Ohio, USA


このところ僕のブログでは 「アメリカ人気質」 のようなものが話題になっている。
日本人の我々から見るとまるで考えられないようなこと、いやたとえ考えてもそれを実行するなど死んでもできないようなことを、アメリカ人は堂々とやってしまう。 既成の概念に囚われない彼らの発想が自由でユニークなのは、もともと既成の概念などというものをアメリカ人は持ち合わせていないからだ。 そのへんが日本人やヨーロッパ人と大きく違うところだろう。

アメリカ人の発想のユニークさを僕が身を持って経験したのは、僕がボストンの音楽学校へ来てからすぐのことだった。 その頃のバークリー音楽院はまだ大学になる前の小さなジャズ学校のようなもので、日本人は数人しかいなかったけど、ヨーロッパから来たミュージシャンが多かった。
それは作曲のクラスだったが、少人数のそのクラスで毎回違うテーマによる作曲の講義があり、そのあとそのテーマに沿って宿題が出された。 宿題の作曲はピアノ曲の形式で書かれる事になっていて、次週のクラスで全員の作曲が発表される。 ピアノ専攻ではない学生の方が多かったから、その彼らのためにピアノを弾いてやるのは、初見に強いと見なされて教授から指名されていた僕の役目だった。

その中にボブという若いアメリカ人のトロンボーン奏者がいた。 彼が作曲したピアノ曲を僕が最初に演奏した時のことを忘れない。 「なんじゃこれは!」 と一瞬あっけにとられてしまったのである。 メロディとは呼べない音の羅列にルールを無視したメチャクチャな和音が付けられていて、小節ごとに拍子や調子が変わるという、なんとも奇妙キテレツな音楽だった。
弾き終わったあとにはクラス中に沈黙が流れ、しばらくして教授が困ったようにしぼり出すように一言 「うーん、これは実に奇妙な音楽だ・・・」 と僕が思ったと同じことを言った時にクラスには失笑が起こった。 当の本人であるボブは恥ずかしそうに頭をかいている。

そしてその後、この場面はクラスで毎週繰り返されることになったのだけど、そのうちに不思議な現象が僕の中で起こった。 僕は彼の作曲を演奏することをいつの間にか心待ちにするようになっていたのだ。 今日はボブがどんな面白いものを見せてくれるのか楽しみにしている自分がいた。 しかしクラス全体がそうだったとは言えない。 教授は相変わらず難しい顔を見せるし、学生たちからの批評はほとんど無く無視をされたようだ。 それにもかかわらず、僕は彼の曲を弾くのが好きになった。
クラスの学生たちの誰のよりも強烈な印象を与える音楽だと僕は思っていたが、それに比べれば日本人の自分が書く作曲など、ソツがなく無難で優等生の作る音楽にしか過ぎないことを僕ははっきりと分かっていたようだ。

学期末試験の数日後にカフェテリアでボブと同じテーブルに座ったことがある。 ボブは 「あの教授、俺にDを付けやがった。 あはは」 と笑っていた。
優等生の僕はもちろんA+をもらっていた。

ボブはその後どうしたのかなあ。




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泥濘の中の大パーティ

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Mud Volleyball in Dayton

僕の住む町デイトンの恒例の7月のイベントの一つ、「マッド・バレーバール大会」 に10年ぶりに行ってみた。
あとで知ったことだけど、今年は268チームが参加して、設置された35の泥濘コートで試合が行なわれた。 入場者はプレーヤーと観客を合わせると5000人近くになったそうだ。 これはもうスポーツの大会というより、お祭りというか超巨大なパーティ以外の何ものでもなかった。

会場の入り口では、年齢確認のIDを見せると手首にバンドを巻いてくれる。 それがあればビールのチケットを1枚3ドル50セントで買うことができた。 見ているとほとんどの人が3枚、5枚と買っていく。 売上はすべて癲癇(てんかん)に苦しむ人達のための治療団体に寄付されるという。 ビールを飲まない人や、ビールの飲めない未成年者にとっては入場はもちろん無料である。




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試合に勝った直後のプレーヤーたちはギャアギャアと喜んで抱き合っている。 中には抱き合ったまま泥の中に倒れ込む者もいた。
まるで子供だ。
こういうところがアメリカ人のアメリカ人たるところだろう。 半ば感心しながら半ば呆れながらも見ているうちに、ついこちらまで笑い出してしまう。




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泥のコートのすぐ間際まで近寄ってこんな写真などを撮っていたら、飛んできたボールがすぐ足元に落ちて、僕の着ていた白のテニスショーツを見事に泥だらけにされてしまった。 慌ててカメラを手で覆ったので助かったがそうでなければ危ない所だった。
プレーヤーたちは出番を待つ間にビールをさんざん飲んでいるから、試合が終わったとたんに酔いと疲れでそのままそこへ寝転んでしまう者もいた。 それでもカメラを向けると全員が張り切ってポーズを取ってくれた。





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身体中の泥をシャワーで洗い流す時の気持ちよさが、見ている僕まで伝わってくる。
しかし着替室などは無いからそのままの衣服で一日を過ごすことになるのだけど、中には平気で素っ裸になって下着を着替えている女の子もいた。 汚れた靴はそのまま大きな容器の中に捨てる人がほとんどで、そのあとはもちろん裸足で歩きまわる。 捨てられた靴類は廃棄するのではなく、あとで洗浄して貧しい家族やホームレスの人たちへ支給されるそうだった。





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この巨大なドンチャン騒ぎを上から俯瞰して全景をカメラに収めたいものだと思ったけれど、まっ平らなこの公園にはそんな場所などどこにも無かった。 その時、大会本部が設置されているテントの横に昇降用のクレーンが置いてあるのが目にとまった。 たぶんイベントの公式フォトグラファーのための設定に違いなかった。 僕はおそらく断られるのを予想して図々しく頼み込んでみた。 (そう、カメラを手にするとふだん内気な僕は怖いものなしになれるのである)。
驚いたことに、主催者は快く承諾してくれて僕をクレーンに乗せてくれたのである。 「ウェブサイトで世界中の人々が見るのですよ」 と売り込んだのが功を奏したに違いなかった。 それだけではなく、場内スピーカーで 「アテンション! 日本から来たフォトグラファーがこのデイトンのイベントを世界に紹介してくれます。 皆でハローを言いましょう」 などと放送したのには僕もちょっと慌ててしまった。
カメラに向かって手を振っている人達がいるのはそのせいである。
20ミリを家に置いてきたので会場の半分しか撮れなかったのが残念だ。 日本を代表してここに来たフォトグラファーとしては恥ずかしいことだった。

***


アメリカ人のパーティ好きは今まで何度も書いたけど、また改めてそれを実感した一日だった。

パーティの天才、アメリカ人





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7月のクイズの結果は・・

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3個のマネキン、4人の人間、無限大の反射


「4人」 と答えた人が正解。

「2人」 から 「9人」 までといろいろあったけど、ちゃんと 「4人」 と正解を出した人が6人だけいた。
抽選の結果、栄冠は川越さんへ・・・
ランナーアップは inei-reisan さんだった。

川越さん、おめでとう。
住所氏名を非公開コメントにして送ってください。
お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のない場合は棄権とみなして次の方を選びます。



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異星人とカメラ

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Pittsburgh, Pennsylvania, USA


知らない町の知らない雑踏の中で、至るところで恐れげもなくバチバチと写真を撮っている僕を見て同行の娘のマヤが感心したように言った。
「よくそんなに大胆になれるなあ。 私なんか怖くてとてもできない。せいぜい携帯電話でこっそりと撮るのが精一杯よ」
たしかに、普段の僕はかなり人見知りをする方で、人なかで目立つような行為などとてもできない性格だということをマヤはよく知っているから、その僕がカメラを手にしたとたんにまるで人が変わったように怖いものなしになって、見知らぬ人達に気軽に話しかけたり、周囲の注意を引くのをまったく気にしないで写真を撮り続けているのを見て不思議に思ったようだ。

娘にそう言われて気がついた。
僕はどこの国へ行っても、いや母国である日本に居てさえも、常に自分が異星人なのだと強く意識させられてきた。 その異星人の僕が、カメラというツールを使って無意識のうちに周りの世界とのコミュニケーションを取ろうとしているのかも知れないと思う。





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カメラという武器を身に付けている限り 「怖い」 とか 「恥ずかしい」 という普段の感覚が僕の中からきれいに消えてしまうようだ。 どこに居ても周りの世界とうまくやっていけると信じてしまう。 その武器は人を傷つけるためのものではなくて自分を守るためものであったが、それは同時に、ふだんは閉ざしている自分の心を切り裂いて、外へ露出するためのナイフのようなものでもあった。
写真を撮るという行為を通して、僕は人々と言葉を交わすこと無しにテレバシーのようなもので交信をしているのだと考える。





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地球人たちは概して優しい。 僕が開いて見せる心にこんな風にそのまま飛び込んでくれることがある。
しかしお互いに行きずりにすぎない僕らには分け合う時間に限りがあった。 さよならを言う僕の手を握り頬にキスをしてくれた彼女たち。 この彼女たちがやがて年老いていつかこの世からいなくなる時には、僕の存在もとっくに消えてしまっているに違いないのに、この写真は永久に亡くなることはないと考えるのはすばらしいことだった。




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カメラが30分の1秒で刻(きざ)んだ人々の人生の一瞬は、次の瞬間にはもう永久に失われて過去に流れ過ぎて行く。
カメラが切り取る四角の世界が一つの舞台だとすれば、その舞台を創りあげる写真家はさしずめ脚本家であり演出家だ、ということになるのだろう。

『人生は舞台。 男と女とりどりに、すべて役者に過ぎぬのだ』

と言ったのはシェークスピアだったか日本の女優、山岸諒子さんだったか? 


写真を撮るという行為には突き詰めれば二つの要素しかない。
「どこで?」 つまりどの立ち位置に自分を置いて、カメラを構え
「いつ?」 どの瞬間にシャッターを切るか。
この二つが写真の極地なのだと僕は信じる。

「どこで?」 「いつ?」 の二つを自由に選択しながら写真を撮り舞台を創造するという行為は誰にでもできることながら、その選択に千差万別の違いがある、というところが堪らなくおもしろい。




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カメラという魔法の小箱の凄いところは、それを使って交信のできる相手が人間や生き物だけとはかぎらない。 ふと頭上を見上げるとそこには鉄とコンクリートとガラスで造られた地球人たちの砦(とりで)が見えていた。 そんな無機質で一見感情を持たないモノでさえ、時には饒舌に僕に向かって語りかけてくる。

そしてその砦のさらに向こうには、かつて僕が異星から降りてきた空が広がっていた。




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7月のクイズ

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《 幻想の反復 》 
(1996)
草間彌生
Mattress Factory Museum, Pittsburgh, Pennsylvania, USA


マットレスス・ファクトリーはその名の通り以前はマットレスの製造所だった。
ピッツバーグのノースサイドのゴミゴミした一画にあるこの小さなビルが、1975年に内部が改造されてコンテンポラリー・アートの美術館となったが、名前はそのまま残された。 以前に訪れた時には専用の駐車場などなくて、細い路地裏に山積みにされたゴミの横に車を停めたものだ。 それが今回来てみるとちゃんと立派な駐車場ができていたり、館内にもカフェが開いていたりした。

草間彌生さんの作品はこの美術館のパーマネントコレクションとして3階に展示されている。
オープニングのパーティに草間さんは、黄色のドレスに黄色の帽子、黄色のバッグで、そのすべてに大きな黒の斑点が付いているという衣装で現れたそうだ。

そこで今月のクイズに入ろう。
質問は、この写真に合計で幾つの赤の斑点が写っているか?





というのは冗談です。

本当の質問は
この鏡の部屋に、マネキン以外には生身の人間は何人いるのでしょう?


正解の中から抽選で1名を選んで、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい






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美術館と博物館と

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ピッツバーグのカーネギー美術館とカーネギー自然史博物館とは、ユニークにも両者が同じ建物に入っていて訪問者は両方を自由に行き来ができるのは、僕のように両方に興味をも持つ者には便利だった。 お陰で知らない間に4時間もぶっ続けに歩き回ってしまったのには自分でも驚いた。

 



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スコットランド生まれのアンドリュー・カーネギーが貧しい両親と共にアメリカへ移住して、後年には大富豪となったわけだけれど、そのカーネギーが彼の莫大な資産を慈善事業につぎ込んだ意味を、現今のアメリカ生まれの大金持ち達はまったく学んでいないようだ。 ピッツバーグにUSスチールを設立して鉄鋼王となったカーネギーの名は、この町へ来ると至るところで見ることができる。 彼の名を冠した大学(カーネギー・メロン)もあれば、ピッツバーグ南西の郊外にはカーネギーという町まであった。
カーネギーはまた強い反帝国主義者でもあった。 スペイン戦争の末期にアメリカがフィリピンをスペインから2000万ドルで買った時に、彼は自分が2000万ドルを出してフィリピンを買おうとした。 彼は自分の金でフィリピンの国民を解放してアメリカの植民地主義から彼らを守るという意図があったのだが、その計画は実現しなかった。




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小学生の一団が先生に付き添われて美術館を回っていた。 フィールド・トリップ(見学旅行)というやつである。
アートの先生だろう。 そばでこっそり聴いているとなかなか面白い。 ゴッホの風景画の前でその構図や色彩、絵筆の使い方までかなり専門的なことを説明していた。 手を挙げて熱心に質問をする子もいれば、絵よりも僕のカメラの方に興味を持つ子もいた。 この子供たちの中に未来の偉大なアーチストがいるかも知れない

美術館と博物館の両方を4時間歩き続けたあと、僕はさすがに疲れて館内のカフェでワインを飲みながらガラス越しに表通りを眺める。 向かいに見えるのはピッツバーグ大学の学生寮だった。 娘のマヤがそこに1年ほど住んでいたことがある。 美術館と博物館のすぐ真向かいに住むなどという僥倖(ぎょうこう)を、とくにアート志望の学生ではなかった20歳前後の娘がどこまで楽しんだのか?
ここからホテルまではピッツバーグ大学の構内を横切れば歩いても帰れる距離だったが、こうなるのを予想して車を持ってきて良かった。
僕はもう歩けない。




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都会の片隅で

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路上のジャズフェスティバル Ⅰ


ペンシルバニア・アベニューはピッツバーグのダウンタウンの目抜き通りだ。 地元の住人たちにはペンアベニューの愛称で呼ばれている。
そのペンアベニューの3ヶ所にステージを設けて、3日間に渡って昼前から夜中までぶっ続けでジャズを演奏するのが、このピッツバーグ・ジャズフェスティバルだった。 60年代、70年代のジャズがアメリカではちゃんと健在しているのを知るのは嬉しいことだった。 そのうえ、入場料を払って行くお澄ましのコンサートではないから、3つのステージで演奏するそれぞれのグループを、数ブロック歩くだけで自由に行き来して聴くことができる。 ジャズはもともと庶民のものだったんだ、とあらためて感じさせられた。



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今日の聴衆をざっと見たところ、白人30%、黒人70% という感じがした。
ピッツバーグのデモグラフィック(人口動態)を調べたら、白人65%ということだから、今日のようなジャズの演奏会で白人がマイナリティということは、やはりジャズは黒人から生まれて黒人の中に生きていると考えて良いのかどうか。 しかし両者が和気あいあいとこのお祭りを楽しんでいるのを見るのはなかなか気分の良いことだった。 しかも気がついたのは、若い人よりも年配の人々が圧倒的に多かったということである。


《ザ・サイドワインダー》 リー・モーガン



リー・モーガンはペンシルバニア州ではピッツバーグと並ぶフィラデルフィアの出身だった。 若手のトランペッターとして、60年代のバップの旗頭だったアート・ブレーキーのバンドに採用されるという幸運に恵まれていながら、おぞましいヘロインの地獄へと落ちてしまう。 楽器も何もかも質に入れて麻薬を続けていたジャンキー同様のモーガンを救ったのは、のちに内縁の妻となったヘレン・モーアだっだ。 モーガンよりも13歳年上のヘレンは、金銭的にも精神的にも自分のすべてを投げ打ってモーガンを厚生させようとした。 彼にとってヘレンは妻であるばかりではなく、マネージャーでありプロモーターでもあったようだ。 そのヘレンのお陰で1963年にレコーディングをしたこのアルバム、 『サイドワインダー』 は商業的にも大成功を収めて、とっくに消えてしまったと思われていたモーガンが、再びジャズシーンに華々しく帰り咲いた。

そしてその9年後の2月のある日、ニューヨークのイーストビレッジのジャズクラブで演奏をしていたモーガンを、妻のヘレンは訪ねて行く。 出て来たモーガンを見ると、ヘレンはハンドバッグから拳銃を取り出して彼を撃つ。
こうして33歳のモーガンはその短い一生を閉じることになる。 自分がかつて命を救った男の人生を、今自分の手で終えなければならなかった46歳の女の胸中には何があったのだろうか?




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ペンアべニューのステージで若い黒人のグループが演奏する 『サイドワインダー』 を聴きながら、僕の心は40年前のニューヨークのハーレムに飛んでいた。 あれはリー・モーガンが死んだ翌年か2年後だったろうか。
あの頃の僕はジャズを捨ててしまったあと、ビザが切れて不法滞在者となりながら、といって日本には二度と戻るまいと決心をしていたから、自分がいったいどうなるのか希望も何も無かった。 ボストンからグレーハウンドに乗ってニューヨークへやって来た僕は、もうどうでもいい、死んでもいいや、という危険な感情に流されながらハーレムをうろついた。
なぜ死ななかったのだろう?
と今でも時々考えることがある。





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ピッツバーグの夜は訪れるのが遅い。 もう夜の9時を過ぎているというのに頭上の空にはまだ碧(あお)さが残っていた。
そんな残光の下で、周囲の喧騒から忘れられたような一角があって、そこにマグノリアがひっそりと咲いていた。
世界のどこかにこんな一角を見つけるために僕は旅をするのかも知れない。


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