過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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2014年10月

麻雀の薦め

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この中で2対の同じ牌を判別できますか?



「ねえ、久しぶりに麻雀やろうよ。 日本からカモがネギしょって来てるのよ」
と久しぶりに電話をしてきたのは以前の小料理屋の店主、アイコさんだった。
10年ほど前まではアイコさんの周りに麻雀の常連が常に数人はいて毎週のように卓を囲んでいたのが、彼女が店を人に譲ってリタイアしたあと隣町に家を建てて引っ越してしまってからは、「中国文化研究会」 と'呼んでいたこの集まりは自然解消してしまった。電話で話をするたびに、やりたいね、やろうよ、と言いながらそれがもう長い間実現しなかったのは、古いメンバーがみんな帰国してしまって、最近日本から駐在でこちらに来る若い人たちは麻雀をやらない人がほとんどだったからだ。

アイコさんを取り囲んでいた 「中国文化研究会」 の会員たちはこの地域に会社を持つ日系企業の幹部連中だったから年配の人が多かったが、アイコさんはその男たちよりもずっと歳上でさしずめサロンのマダムの風格があった。そのアイコさんが 「私が麻雀をやるのはボケ防止のためよ」 とよく言っていたが、最近になってその意味がわかってきたような気がする。自分も数年前に仕事をリタイアしてからはあれほど長年にわたって酷使してきた頭脳を使うということがほとんどなくなって、それに連れて日常生活の中で物忘れが少しづつ加速度を増してきたようだ。確実にボケて来ているのに違いない。これはヤバイと思った。体の筋肉は使わないでいるとどんどん衰えていくのと同じで、脳も常に刺激を与えてやらないと退化して機能しなくなるのだろうか。 これは恐ろしいことだ。

アイコさんじゃないけど脳のエクササイズには麻雀は最適のゲームだと思っている。
まずその複雑さの点では、麻雀は世界に類を見ないゲームだといっても異論を唱(とな)える人はいないだろう。52枚のカードでプレイするポーカーやブラックジャックに比べて、麻雀の136牌の組み合わせの可能性はまさに天文学的な数字になる。 一生に同じ手牌は二度とできない、と言われるのはそのせいだった。
しかもその上、麻雀はスピードを要求する。 碁や将棋やチェスと違って長考は許されない。あらゆる可能性を脳が瞬時に計算して判断をくだす訳だから、脳にとってはこれほど恰好のスポーツは無いわけである。
僕もアイコさんに習ってボケ防止のためのエクササイズとして麻雀をせめて1週間に1度はやりたいと思うけれど、それがかないそうにないのは4人揃わなければできないゲームの悲しさである。


***


麻雀で思い出したことがある。
その昔、1960年代の半ばごろ僕が所属していた 「ミュージック・メーカーズ」 が、テレビの 「11PM」 にレギュラー出演していた時のこと。 「麻雀コーナー」 とか呼ばれるスポットがあって、当時のプロ麻雀界の大親分であった小島武夫さんを招いてイカサマ麻雀についてのデモンステレーションをやってもらったことがあった。その時テレビカメラの前で実際に卓を囲んだのは、ゲストの小島武夫に司会の大橋巨泉、それにバンドから選ばれた僕ともう一人だった。 そこで小島さんが牌の詰め込みだとか、入れ替えだとか幾つかのイカサマ師の秘技を実践して見せてくれたあと、大橋巨泉が最後に質問をした。
「小島さんはこの20年、それこそ明けても暮れても麻雀を打つことだけで生きてこられたわけだけど、その年月は無駄なものだったと思いますか?」 (いかにも巨泉らしい質問だ)。
それに対して小島さんの口から出た言葉には考え深いものがあった
「まったく無駄なものだったと思いますよ。」



ギャンブルをしないということが最良のギャンブルだ。
ドイツの古い諺





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10月のクイズの結果

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凱旋門から


あははは、今月のクイズは易しすぎたよね。
写真の画面の遠くに見えるひときわ高いビルは、トゥール・モンパルナス(モンパルナス・タワー)
予想したように全員が正解だった。
これだけ正解者が多いとサイコロを何度も振ることになるので、ギャンブル好きの僕はそのスリルを十分に楽しませていただいた。

さて、抽選の結果は 「のさ」 さんが長い下積みの数年を経て初当選、そしてランナーアップは 「どくとるくまさん」 だった。

モンパルナス・タワーは美しいパリの町の景観を損なうとして、激しい論争のあと建設に踏み切って1972年に完成したが、当時は全ヨーロッパでもっとも高いビルだった。 その後あちこちの国でこれよりも高いビルがいくつも建設されたので、今ではフランスで一番高いビルというタイトルに甘んじている。
僕らがモンパルナス・タワーに登ったのは上の写真を撮ってから4年後になる。 このタワーのふもとにあるあの広大なモンパルナス墓地のすぐそばに僕らはアパートを借りていた。 タワーの屋上からすぐ真下に見下ろすモンパルナスの町並みは、パリならではの景観だろう。



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モンパルナス・タワーから



「のさ」 さん、おめでとう。
住所氏名を非公開コメントにして送ってください。
お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のない場合は棄権とみなして次の方を選びます。


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パリの本屋さん

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シェイクスピア・アンド・カンパニー書店
Paris, France


旅先で訪ねる名所旧跡が、自分が子供の頃からよく聞かされていていつかは行ってみたいと思っていたものだと、それを実際に目にした時に 「へーっ、これが!」 と感激するのは誰でも経験がある。
15年ほど前にパリを初めて訪れた時、エッフェル塔にはなんの関心もなかった僕だったが、あのノートルダム寺院を見た時はヴィクトル・ユーゴーの 『せむし男』 を思い出しながら、重厚なゴシック建築が持つ歴史の重みに、「へーっ、これが!」 と圧倒されてしまった。

だがそれよりも僕を感激させたのは、そのノートルダム寺院からセーヌ川を挟んだ対岸にあるシェイクスピア・アンド・カンパニー書店だった。実はこの有名な書店がそこにあるなどとは知らず、雑多な観光客に混じって歩いていた僕はいきなりその書店の前に立った時に 「へーっ、これが!」 と声に出して驚いた。

現在のこの書店はシェイクスピア・アンド・カンパニー書店としては2代目にあたり、初代の書店はあるアメリカ人女性によってこことは違う場所に開かれた。1919年のことである。 華麗だったベル・エポックの時代が終わったフランスはいわゆる 「狂乱の時代」 に入っていた時だった。それから20年以上、1941年にナチスドイツ占領下の政府から閉店を強制されるまでこの書店は当時の作家や知識人の溜まり場のような感があったらしい。スコット・フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ガートルート・スタイン、マン・レイ、ジェイムズ・ジョイス、など常連の名を幾つか挙げるだけで、この書店がただの本屋さんではなかったことがわかる。本屋と行っても書籍を売るだけではなく、本が買えない貧乏な作家に貸出をする図書館みたいなものでもあった。

2代目のシェイクスピア・アンド・カンパニーが現在のこの場所に再開したのが1951年だった。
初代と変わらず有名無名の作家たちがここに頻繁に出入りしたそうで、アレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズなどのビート作家やアメリカから流れてきたヘンリー・ミラーもここの常連だった。社会主義を信奉する店主の意向を反映して、階上には幾つかのベッドがあり誰でも泊まれるようになっていた。貧乏作家たちはここで宿泊とワインとパンをあてがわれる代わりに、書店の店員として少しだけ働けばよかったそうだ。

こうして100年近くにわたってパリに集まる世界中のボヘミアンたちの巣であったこの書店も、今の若者達や観光客にとっては、パリで英語の本が手に入るユニークな本屋としか認識されていないようだった。

時代は移る・・・



人は今でも 「考える」 ことをするという数少ない証拠の一つが本屋だ。
Jerry Seinfeld




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10月のクイズ

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凱旋門から


パリの凱旋門は下から見るとそんなに高くは見えないのに、その上まで登ってみるとパリ全市が見渡せてなかなかの絶景だった。 他の大都市圏と大きく違って周りに高層建築がまったく無いせいだろう。
右手のエッフェル塔はまあ知らない人はいないとして、画面中央のずっと遠くに見えているひときわ高いビルは何だろう、と思いながらこの写真を撮っていた。

何だか分かりますか?
というのが今月のクイズです。

正解の中から抽選で1名を選んで、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい。






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ゲットーに住んで 2/2

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ゲットーのオブジェ
Dorchester, Massachusetts USA


知らない町で新しい生活を始めてみてしばらくすると、いろいろなことがわかってくる。
とくに、ゲットーと呼ばれる一種の封鎖社会の内側に入ってみると、外部の人間にはわからなかったいろいろな事を体験することになった。たとえば黒人間にも一種の階級組織のようなものが存在していて、貧富の差だけではなく肌の色の濃淡による偏見があることを知った。つまり、肌の褐色が薄いほど良しとされる事など、僕はそれまで夢にも考えたことがなかった。
ゲットーは更に幾つかのセクションに分かれていて、それぞれの階級に属する家族が一団となって住んでいたが、セクション間の交流はほとんど見られない。ブレンダの持ち家があった通りはどの家にもきちんとした家族が住んでいて、それは我が家に遊びに来る近所の子供たちのしつけを見るとわかるし、両親たちと話をしてもちゃんとした仕事を持つ知的な人が多かった。
そしてその人達から、ある特定の地域には間違っても足を踏み入れることがないように、と警告を受けた。

アパートから歩いて15分のところに電車の駅があって、そこは僕が毎日仕事の行き帰りに乗り降りする駅でもあった。車を持っていたけれど、車は妻のために家に残しておく必要があった。 (彼女に幼児連れであまりその辺りを歩いてほしくなかったからである)。 駅の周りはどこの町でも同じようにちょっとした繁華街になっていて、そこには見事に黒人ばかりの雑踏があり、雑多な店屋やマーケットやレストランやバーが並んでいた。僕は時々仕事の帰り道にそんなバーに一人で入ってみたことがある。この地域で東洋人を見るのは珍しいのだろう。中に入ったとたんにちょっと居心地が悪くなるくらいの視線が周りから僕に注がれたが、その眼には敵愾心は感じられなく、ただの好奇心だけのようだったので何となくホッとする。それでも恐る恐るバーのスツールに腰掛けて慣れてしまうと、バーテンダーも周囲の客たちも、すぐにフレンドリーになるのはどこのバーも同じである。最近ここに越してきたんだと僕が言うと、そうかそうかと言って周りの黒人たちから僕が飲んでいたスコッチのおかわりが次々と出て来た。

そんな事があったりして、僕は何となくこのゲットーに受け入れられていくような気がしていたが、妻はそうではなかったようだ。白人の彼女はマーケットに買い物に行っても他の客に意地悪されたり、なかには面と向かって 「ホワイティ(Whitey、白んぼ)がこんなところで何してるの?」 などと言われたこともあった。
そんな話を聞いて僕が思ったのは、ゲットーの黒人たちにとって東洋人はOKだけれど、白人はやはり外部の人間なのだろうということだった。妻のためにもここには長くとどまるべきじゃない、と思いながら1年近くも住んでしまったのは、当の妻自身がそれほど気にしなかったことと、何よりもブレンダ夫妻を始めとするアパートの周辺の人達が皆すごく良い人達だったからだった。そこには白人の社会には無い強い連帯感のようなもの、あるいは人情と言っても良いようなものがあるのを僕らは感じていた。

そして1年後に息子の太郎が生まれた時に、僕らの家族はゲットーを抜けだして白人の社会へと戻って行く。
僕の仕事場への通勤に時間がかかりすぎるということもあったけど、その最大の理由というのは、子供たちの将来を考えた時にこの町の学校制度があまりにも貧弱で満足のいくものではなかったからだった。
それ以後この町を訪ねたことは一度もない。

それにしても、息子の太郎は自分がゲットーで生まれたという事実をどこまで自覚しているのだろうか?

(終)




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ゲットーに住んで 1/2

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ゲットーのフォルクスワーゲン
Dayton, Ohio 1982


ゲットーとは、19世紀以前のヨーロッパの都市で、迫害されたユダヤ人の強制居住区域がそう呼ばれていたのが、20世紀になってゲットーが消滅したあとでもその名がそのまま残ってしまい、アメリカでは貧困階級の黒人たちが住む地域を指すようになった。俗語として使われるだけだから公式にゲットーという場所があるわけではない。ただ何となく、われわれ一般人が足を踏み入れる地域ではない、という感覚がその言葉の裏には潜んでいるようだ。

そんなゲットーに僕らの家族が1年ほど住んだことがある。
ボストン郊外のMという小さな町だった。それまで住んでいたケンブリッジの1ベッドルームのアパートが、娘のマヤが生まれてくるといかにも手狭(てぜま)になり、せめて2ベッドルームのアパートへ越したいと思っていた。しかもちょうどアパートのリースを更新する時期が迫っていて、それを機会にどこか他へ移ることに決めたのだった。といっても経済的に余裕のなかった僕らにとって、これはと思うアパートはボストンやケンブリッジ界隈ではレントが高すぎてとても手が出なかった。共稼ぎで働いていた僕ら夫婦だったが、子供ができて妻が仕事をやめて家で子育てをすることになり、一家の収入が僕一人の肩にかかってきたからである。グズグズしているうちにリースの期限が迫ってきていて、早急に次に住む場所を探す必要があったので僕はかなり焦ってきていた。

そんな僕を見ていた仕事場の同僚の黒人女性のブレンダが、「うちの2階は2ベッドルームのアパートで人に貸していたのが今ちょうど空いてるんだけど、来る? 地域としてはあなた達には理想的といえないかもしれないけど、とにかくそこへ入ったあとでゆっくりと良いところを探せばいいじゃない?」 と親切に言ってくれたのである。彼女が 「理想的とはいえない」 と言った理由は、それがゲットーと呼ばれる地域で、外からここに移って来たいという白人や日本人はまずいないだろうからだった。
「とにかく一度見にいらっしゃい」 とブレンダが言うので、妻と2歳になる娘を連れて、仕事場からはかなり遠くにあるこのMの町まで行ってみた。

行ってみるとそれは思ったよりもずっと大きなアパートで、家そのものは古いけど大家のブレンダとご主人がきれいに手入れをしてきたらしく、大小2つの寝室、広いリビングルーム、ウォークインのパントリーが付いたキッチンなど、なかなか快適そうな住まいになっていた。 すぐ階下にブレンダの夫婦が住んでいるのは何よりも心強いし、それに家賃がボストンの町中に比べると信じられないくらいに安かった。

僕らはその場でこのアパートを借りることに決めたのだった。

(続) 




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