過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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12月のクイズの結果

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     私の好きな場所 (1945)
国吉康雄
Dayton Art Institute


やっぱり予想したとおり全員が正解だった。
というより、100%自信がある人だけが応募して来たにちがいない。
11人の正解者を抽選したところ当選が『   』さん。そしてこの人は失格となるのです。
というのは…
この人は最初の解答をうっかり公開コメントのままで送ってきたそのすぐ後に、非公開で再度ちゃんと送ってきたのだが、その両方とも名前の欄が空白になっていた。これでは授賞のしようがない。それでランナーアップだった川越さんが繰り上がって優勝ということになったわけである。
『   』さんにとっては残念なことだった。



川越さん、おめでとう。
住所氏名を非公開コメントにして送ってください。
お好きな写真を指定することを忘れないように。
数日経ってもご返事のない場合は棄権とみなして次の方を選びます。



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メリー・クリスマスを皆さんへ

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雪だるま
By Greren Eyes


雪だるまを見ることがもうほとんど無くなった。
最近の子供はそんなことをするより、温かい室内でコンピューターのゲームでもして遊ぶことを好むのだろう。子供だけじゃなくて動物だって今は屋内の生活に慣れきって、昔なら「ゆーきやこんこん、あられやこんこん」の童謡のように「いーぬは喜び庭駆けまわる」はずの我が家の犬も冬はあまり外に出たがらない。

そして今年は雪のないクリスマスになりそうだ。
冬の寒さは苦手だけど雪を見るのは大好きだなどと言って、数年前のブログに
《雪のない冬なんて、金のない休暇のようなもの、醤油なしで食べる刺身のようなもの、雲のない空のようなもの、あるいはクライマックスのないセックスのようなものだ。》
なんて書いたことがあるけど、つい最近関東から日本一の豪雪地帯と言われる新潟の山奥に住居を移された川越さんのブログで、雪に埋もれたこのご夫妻の生活を見るにつけて、雪が好きだなんて甘っちょろいことを言っていた自分が恥ずかしくなった。



さて
クリスマスの夜に賑やかなパーティに出かける習慣を止めてからずいぶん経つけれど、そんな夜、温かい自分の部屋でひとりで静かに聴く音楽といえばこれはもうバッハの無伴奏チェロ組曲以外にはない。


バッハ 無伴奏チェロ組曲 第6番から (1991)
Mstislav Rostropovich







あれは1970年代始めのボストンのことだった。
町中がクリスマスに沸き立っている中を、シンフォニーホールのクリスマスコンサートにロストロポーヴィチの演奏を、一人で聴きに行ったことを思い出す。プログラムは3部に分かれていて、ボストンシンフォニー(指揮は小澤征爾)との共演の1部と3部は何のコンチェルトだったのかまったく記憶に無いが、そのあいだに挟まれた第2部で、ロストロポーヴィチが広いステージに一人でぽつんと座って、バッハの無伴奏チェロ組曲の中の数曲を弾いた時のことは終生忘れることはない。
彼の弓が弦に触れた瞬間に、3千人の聴衆が僕の周りからふっと消えてしまって、そのあとはロストロポーヴィチと僕との一対一の対話となった。あるいはあれはバッハとの対話だったのだろうか? いやあれは対話ではなくて懺悔であった。訳の分からない激しい感情に襲われていた。あとからあとから涙が溢れて出て、抑えようとしても嗚咽の声が周りに漏れたにちがいない。隣にいた見知らぬ老婦人が心配して僕の顔を覗きこみ、固く握りしめていた僕の拳(こぶし)の甲を何も言わずにそっとさすってくれたことにどれほど慰められたか。

その頃の僕は、そのためにアメリカへやって来た音楽の修行をついに断念したことや、10年間一緒にいた妻が男と一緒にどこかへ消えてしまったことや、学校をやめたあと学生ビザが切れていきなり不法滞在者になったことや、生活に困って周り中に借金をしていたことや、今さら日本には帰れず、といってどこへも行く先が無く、といって死ぬだけの勇気もなく、いろんなことが一挙に重なって僕の心はガラス細工のように脆(もろ)くなっていたのに違いなかった。
そんな自分に、ロストロポーヴィチの重厚なチェロの旋律が時に優しく、時に厳しく染みこんで来て、そのダブルノート(重音)がギリギリと僕の腹わたをえぐった。彼はそれとは知らず一人の日本人青年の壊れかけた魂を救ってくれたのだ。


その数日後、僕がウェイターとして働いていたニューバリー・ストリートの『源氏』に、ロストロポーヴィチと小澤征爾を入れた数人のグループが姿を見せた。自分の担当のテーブルではなかったので、そばを通った時に、顔見知りというより音楽学生だった頃にいろいろとお世話になった小澤さんに挨拶をしたが、小澤さんの隣で鮨を食べていたロストロポーヴィチに、ひとことだけ「ありがとう」と言いたい強い気持ちがあったのに僕は何も言えず、そのあとは遠巻きに彼らのテーブルを眺めているだけだった。もしあの時、僕が「ありがとう」を言えたとしても、この世界的なチェロの巨匠にそれがどんな深い意味をもっていたかをわかってもらえるはずもなかったのに。

この曲にはそんな思い入れがあるのである。



それはともかく

皆さん、メリー・クリスマス!

来年もどうぞよろしく…

September30





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12月のクイズ

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     私の好きな場所 (1945)
Dayton Art Institute


孤独な女が自分の中に閉じこもって何かを思っているメランコリーな雰囲気は、そのハッピーなタイトルとはうらはらにこの絵を見る者さえも拒絶しているように見える。
女性を特に好んで描き、後年はモデルを使うことをやめてすべて自分の追憶から人物を描いたと言われるこの日本人画家は誰だろう?

19世紀と20世紀の境目に生きた日本人のアーチストたちは、その多くがヨーロッパ、とくにフランスへと修行に出かけて行った中で、17歳の彼は単身アメリカへ渡ってシアトルに住んだ。鉄道工夫やホテルの雑役夫をしながら生活を支えて、やがて彼はアートスクールで画学生となる。
その彼が後年、アメリカ美術のモダニズム運動へ大きな貢献をした画家の一人として名を残すことになろうとは誰が予想したろう?

彼は郷里に残した病身の父親を見舞って1度だけ日本へ帰国したが、日本での経験はあまり良いものではなかったようだ。 後年はニューヨークを拠点として創作活動を続け、日本へは2度と帰ること無くニューヨークで死んだ。
64歳だった。

日本を捨てた日本人画家。
彼は誰だろう?


正解の中から抽選で1名を選んで、僕のブログ上のどれでもお好きな写真を差しあげます。 
締め切りは今日から1週間。
答えは非公開コメントにして下さい。





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人の名前について

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クリスマスのころ
Oakwood, Ohio USA


さて人の名前について、と書き出してみたけれどここでいう名前とは姓ではなくて名のほう、つまりファーストネームのことである。
アメリカに暮らすようなってがっかりしたことの一つが人の名前だった。何とまあ同名の人が多いことか!
現在の自分の周りだけに限ってみても、男性なら、ジム、ジョン、ジョー、マイク、ビル、ディビッド、ボブ、トム、なんてそれぞれ5,6人ずついるし、女性なら、メアリー、リンダ、バーバラ、スーザン、エリザベス、リサ、はそれぞれが何人も知人の中にいる。
アメリカ人は子供の命名に関しては最も独創性のない人種だと悟った。いかにも適当に付けたという感じを受けるけれど実際にはもちろんそんなことは無く、さんざん考えたあげくに付けられた名前のはずだ。

そういうわけで、アメリカ人との会話の中に人の名前が出てくる時は、話し手の方でラストネームつまり苗字を加えたり、そうでない時は「隣家のビル」とか「絵描きのビル」だとか「友達のビル」とかの装飾語を付けて、相手にもちゃんと理解ができるような考慮をするのがルールでもあり常識でもある。 ところがそういうことにわりと無頓着なな人がたまにいると、その人との会話は当然ながら混乱の泥沼へとまっしぐらに堕ちてしまう運命にある。我が Green Eyes がそのひとりだった。

「今日リンダと電話で話したんだけどね」 といきなり彼女の会話は始まる。聞いている僕の方はわれわれの周りにいる数人のリンダのうち、一番親しくて話にもよく出る「友達のリンダ」のことだと自動的に解釈して聞いている。
「彼女、フロリダの休暇で私達に美味しいオレンジをお土産に持って帰ってくれたそうよ」
(そうか、リンダはいつも休暇に行くたびに必ず僕らに何かを呉れるなあ)
「それが今回の旅行はご主人のビルがあまり体調が良くなくてつまらなかったと言ってた」
(あれ? 彼女のご主人はたしかビルじゃなくてジョンと言わなかったっけ)
「そして帰ってきたとたんに息子が交通事故で怪我をして入院したりしてこのところ大変だったのよ」
(おいおい、彼女には息子なんかいなかったぜ? 娘がふたりじゃなかったかなあ)

ここまで来て僕は何かがおかしい、と気がつく。それでそのことをおずおずと表明すると、我が Green Eyes は
「何言ってるの? あなたが言ってるのは私の友達のリンダでしょ。私が話してるのは従姉妹のリンダのことよ。そう言わなかった?」
そこで僕は彼女の話を二人のリンダを入れ替えてまた最初から反芻(はんすう)することになる。やれやれ…

そういえば我が Green Eyes の話がこんがらがってしまうのは同名の登場人物の場合だけとは限らない。一つの話の中に女性(男性)が二人以上登場する場合は、これは危険信号である。会話の最初にはもちろんそれぞれの名前をちゃんとあげるのは当然として、そのあと話が進むにつれて名前が省かれていき、会話の最後にはすべてが彼/彼女というあの英語独特の便利な代名詞だけになってしまうというすごい離れ業をするのだ。 これには本当に困る。僕はたちまちまっしぐらに混乱の泥沼へと堕ちてしまうからだ。たとえば登場人物は3人の女性。会話が半ばを過ぎるとこんな感じになる。
「彼女(1)は彼女(2)のお母さんにとても好かれてるのよ。 だから彼女(2)が彼女(1)を家に連れてくると彼女(お母さん)はとても喜んで…」 この調子で延々と話が続くことを考えてごらん。やれやれ…

思うに、
芸術家という人種は多かれ少なかれ自分の世界で自分本位で生きるという傾向があるのではないか。自分の頭の中にキッチリと細密に描かれているものを、常人にいちいち説明することの必要を感じないのかも知れない。しかし芸術家と暮らしている常人の身にもなってごらん。


話が名前のことから横道にそれてしまった。
同名が多いのは何もアメリカ人に限らない。日本人でもそれは同じだけど、日本語の場合は同じ名前でもそれに当てる漢字が違うからまだ助かっている。その上、それぞれの漢字から受ける感触と本人の顔や性格とが、長い間にうまく融合されてユニークな雰囲気を作り上げているようだ。
たとえば「ようこ」という名を僕は好きなんだけど、周りを見渡すと「葉子」「容子」「洋子」「陽子」と何人もいて、メールなどを書く時に漢字変換をした瞬間にそれぞれの「ようこ」が眼の前にハッキリと浮かんでくるからとても楽しい。
「ゆみこ」だってそうだ。「由見子さん」は今度生まれてくる時には絶対恋人にするんだと決めているほど大好きだけど、 「由美子さん」は僕にとってちょっと苦手な存在である。

また、僕には悪い癖があって初対面の人を男性ならちゃんと「中村さん」とか苗字で呼ぶのに、相手が女性だといきなり 「玲子さん」とか「恵子さん」と名前で呼んでしまう。友人の奥さんでも「奥さん」と呼ぶのが嫌でつい「和代さん」と言ってしまう。これは女性本人からすると、それほど親しくない男性からいきなり名前で呼ばれるのは、どんな感じを受けるのかぜひ知りたいものである。もし嫌な感じを受けた人が今までいたとしたら、それはとくに他意があるのではなく、初対面から男性女性に限らずファーストネームで呼ぶアメリカの習慣が身についているからだ、と言い訳をしたい。それじゃあなぜ男性を姓で呼ぶのに女性には名前で呼んでしまうのか、ということになるとこれには自分でもはっきりと答えられない。たぶん、生まれながらの女性崇拝のあらわれかも知れない。
何しろ哀しいことに僕は今では「ヘンな外国人」になってしまっているから、そのへんの日本人の常識に疎くなっているのだろう、と思っている。




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ジャポニスム

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英語版 猿蟹合戦


我が家に存在する書籍の中で、他のどの本よりも大事に保管されているのは、この 《猿蟹合戦》 だった。
手に入れたのはもう20年以上前になるだろうか。 僕らの家族がボストンからデイトンへ移って来てしばらくの頃、近所にあったガラクタ屋で妻が買ったものだ。家に持ち帰った妻が 「これってかなり古いものじゃないのかなあ」 と見せてくれた。文庫本サイズでわずか15ページほどのこの小冊子を手にとって見ると、まるで布のように柔らかな和紙が袋綴じにされて、木版多色刷りの絵がページごとに載っている。日本語が読めなくて猿蟹合戦の話も知らない妻は、ただその美しい木版画に魅了されて、5ドルの値段が付けられていたこの本を3ドルに値切って自分のものにしたのである。

奥附を見て驚いた。
印刷、発行が明治18年とされていた。1885年だ。
この奥付の記載をもとにして僕は後日いろいろなことを学ぶことになるのだが、アメリカの田舎の町の、骨董店でも古書店でもない小さなジャンクショップの片隅にひっそりと眠っていたこの日本の本を、100年以上経ってアメリカ人の妻が偶然に掘り出して、日本人である僕の所へ巡り巡って帰ってきたことに不思議な因縁のようなものを感じてしまった。



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発行者の長谷川武次郎は調べてみると明治時代の出版人で、《長谷川弘文社》 の創始者だった。
2世紀にわたる鎖国の後に一挙に西洋文化に触れた日本は 「文明開化」 を合言葉に外国文化の摂取に目が回るように忙しかったが、それと同時に日本に滞在した欧米人によって浮世絵や工芸品が高く評価されて海外へと流出した。 いわゆるジャポニスムの誕生である。そんな流れの中でこの翻訳版の日本昔噺集が世に出てきたのは、出版者の長谷川武次郎としては当然の企画であったに違いない。英語を話した彼には外国から来ていた宣教師達との交友があり、彼自身クリスチャンとして洗礼を受けていたが、その中の一人がこの 《猿蟹合戦》 を英訳したアメリカ人、ディビッド・タムソンだった。 後年、ラフカディオ・ハーン (小泉八雲) も翻訳者としてこのシリーズに名を連ねている。



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僕が所有するこの本はいわゆる 「ちりめん本」 と呼ばれる手の掛かる製紙過程で作られ、しなしなとした独特の感触と紙とは思えない強度を持っている。寛政時代に浮世絵などに用いられたこの 「ちりめん」 加工の技法を長谷川武次郎は明治18年に日本昔噺シリーズで我が国初めて製本に使用した。挿絵は日本画家の小林永濯や鈴木華邨を採用し、木版の印刷にも高度な技術を持つ名人級の職人を使用したというが、本の中のどこにも画家の名が見えないのはフェアーじゃない、という気がする。 シリーズの挿絵はほとんどが小林永濯によるものでこの 《猿蟹合戦》 も永濯の絵だと後日わかった。

《翻訳版 日本昔噺》 のシリーズは次々と25冊までが発行されて、英語版、フランス語版、ドイツ語版、オランダ語版、そして大正時代に入るとスペイン語版、ポルトガル語版、ロシア語版、デンマーク語版が加わって、世界中に配布された。シリーズの物語は、桃太郎、かちかち山、花咲爺、分福茶釜、舌切雀、浦島太郎、瘤取り爺さん、因幡の白兎、など日本人なら誰でも知っている民話やお伽話がほとんど網羅されており、シリーズの後期には小泉八雲の 《猫を描いた少年》 やアイヌ民話の 《アイヌ昔噺》 なども加えられている。そして普通の和紙とちりめん本の両方のバージョンがあって、売れ行きのかんばしくなかった和紙本にちりめん本を加えた途端に売れ行きがいきなり伸びたという。



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長谷川武次郎の弘文社はどうなったのか? 弘文社の名では現在幾つかの出版社があるようで、そのなかで古書の 「えちご弘文堂」 が明治大正の長谷川弘文社と関係があるのかどうか、僕にはわからない。ここのサイトを見ると日本昔噺のシリーズは古書として購入できるようだ。 たとえばちりめん本の20巻セットが85,4000円、個々の本はそのタイトルや保存状態によって3,8000円から13,0000円の値が付けられていた。そして同じタイトルでも英語版よりフランス語版やスペイン語版の方に高い値段が付いているのは、それだけ希少な本ということになるのだろうか。
それ以外の言語への翻訳版がこのサイトには見当たらないところを見ると、さらに希少価値があるのはまちがいないようだ。

この本を手に入れたあと、ヨーロッパに出かける度に機会があれば古本屋を覗いてみるという習慣がついて、特にフランスの美術史上ではジャポニスムの影響がいかに強いものであったかを実感することになる。
しかし、《日本昔噺》 に巡り合うことはなかった。

今から130年前に印刷されたこの 《猿蟹合戦》 は、いったいどんな人達の手から手へと渡り続けて来たのだろうと想像するのは楽しいことだった。




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一夜だけの別世界ヘ行く

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ビクトリア・シアター
Dayton, Ohio USA


思いがけなく友人夫妻からビクトリア・シアターの切符が2枚回ってきた。
DCDC の愛称で呼ばれる Dayton Contemporary Dance Company の公演だった。最後にこのグループのダンスを見たのはもう何年前だったろう? 友人夫妻のような年間会員でもなければ、なかなか手に入りにくい切符だった。

だいたい僕の住むこのデイトンという町は都市部の人口が70万人(アメリカでは59番目)の典型的な地方の中都市で、広大なアメリカではその名を言っても知らない人が多いに違いない。だが僕に言わせれば同じ中都市の中でもスポーツや文化のレベルではかなり上位に位置するのではないかと思う。スポーツではバスケットボール、ベースボール、アイスホッケーのプロのチームを持っていてどれもマイナーリーグとはいえ地元の市民には大いに親しまれているし、芸術面ではデイトン・オペラやデイトン・フィルハーモニー、デイトン・バレーなどもちゃんとある。ただ、オペラもシンフォニーもバレー団もその団員は給料をもらう事はなくそれぞれ別途に自活しながら活動を続けているのは、これは他の中都市のグループと同じようだ。

その中でこのDCDC は別だった。
実を言うと僕がこの町へ越してきた当時に、このDCDCという黒人を主体としたモダンダンスのグループの存在は知っていたけれどあまり注意を払わなかったのは、ボストンというアメリカでも有数の、いや世界的に有名な芸術グループを幾つも持つ大都市からやって来た僕には、これらの地方都市の小グループを馬鹿にするような傲慢さが無かったと言えば嘘になる。
それがある時、仕事でニューヨークへ出張してタイムズスクェアのホテルに滞在したことがあった。その時ブロードウェイの劇場でDCDCが長期公演をやっているのを知って、僕はあっと思ってしまった。そうか、DCDC は地方都市の小さなダンスグループではなかったんだ、とひょんなことで眼を開かさられた。

DCDC は現在ではDCDC2 と呼ばれる二軍というかジュニアグループが別個に経営されていて、2つのグループがそれぞれアメリカ中を回っているだけではなく、2年前にはダンスグループとしては世界で始めて中国のツアーを達成したりしている。そして時たまホームグラウンドのデイトンに帰ってくるDCDC の公演はその数か月前にあっという間に切符が売り切れてしまうというわけだ。




DCDC







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