過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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若返りの法

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森の中へ
Oakwood, Ohio, USA


久しぶりの雪だった。
日曜の夕方から降り始めた霙(みぞれ)がやがて雪に変わり、夜中過ぎに外を見た時にはまだまだ降っていた。細かな雪なので朝まで降り続いてもそんなに積もることはないだろう、と思いながらベッドに潜り込んだ。
明け方、近所を動き回る除雪車の地面を引っ掻くうるさい音で目を覚まされる。クリスマス前にアウディをウィンタータイヤに履き変えさせておいて良かったと思いながら、ベッドから抜けだして窓から外を覗くと、10センチもないほどの積雪だろうか。それでも日頃見慣れた風景がきれいに雪化粧をして別の世界に変わっていた。よし、今日はアウディを駆って森へ入ってみよう、と思っただけで何となく浮き浮きした気分になったのは、この数日を家の中に閉じこもりっぱなしで過ごしたせいにちがいない。

ウィンタータイヤをといえば苦い経験がある。
アウディを購入したのはあれは1月の初めだったが、それから数日してちょうど今日のような雪が降った。さっそく4輪駆動のアウディを雪道に乗り入れた僕は、1マイルも走らないうちに森の中の緩いカーブで車輪が滑って曲がりきれず、石垣に車の鼻先を簡単に突っ込んで、左側のヘッドライトをグッシャリと潰してしまったのだ。あとでわかったのは、アウディに装着されたタイヤは普通の乗用車に付いてくる全天候タイヤではなくて、サマータイヤだったということ。クルマ好きを自負していながらそんな事を確認もせずに乗り回していた自分が恥ずかしかった。それにしても冬のさなかに車を買った客に、ディーラーの担当者が一言の注意をしてくれても良かったのに、とも思った。

そんなわけで新車のアウディは所有した数日後にまたディーラーの修理工場へと逆戻りしてしまった。その時にちょっと贅沢をしてピレリのウィンタータイヤとそれに合うホイールを着けさせた。返って来た車でさっそく雪道を走ってみたら、全天候タイヤも比較にならないほどのしっかりした雪面のグリップにいたく満足したものだった。
それ以後は毎年11月と4月にタイヤを交換するという面倒な作業を何年も繰り返していたが、怠け者の僕はそのうちサマータイヤを全天候タイヤに変えてしまってからは少々の雪ではそのまま走っていたのだ。大雪が降るとアウディはガラージに寝かせておいて、運転の面白味などまったく無いホンダのSUVでもっぱら用を足していた。

そして今年の冬、久しぶりにウィンタータイヤを装着してもらえた老兵のアウディはいきなり若返って、森の中の雪道を我が意を得たりとばかり自在に駆け回った。
ドライバーももちろん若返って、エンジンブレーキやレブマッチのシフトダウン、コーナーでのヒル・アンド・トウやクラッチを使わないギヤシフトなど、ふだん街中ではすることのない運転を思いきり愉しんだ。

雪よ、もっと降れ。
そうすれば僕ももっと若くなる。




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小は大を兼ねる - 写真のレシピ(17)



フェラーリ フォーミュラⅠ
Maranello, Italy


久しぶりの写真のレシピです。
今日のテーマは 『小は大を兼ねる』 と題を付けたみたけれど、実は言いたかったのは小は大を兼ねるどころか大よりも大きいことがある、という事なんだ。言葉を変えれば 『部分は全体よりも雄弁な時がある』 とも言えるかな。

一つの被写体を撮る時に、立ち位置を変えたり角度を変えたりしていろいろなオプションを何枚も撮るのは誰でもやってることだと思うけど、えっそんなことやってない? 撮る時はいつも1枚だけ? それはちょっと困るなあ。それじゃあせっかく傑作を創造するチャンスを最初から放棄してるのと同じだよ。シャッターチャンスが1度しかなかった、という場合は時にはあるかもしれないけれど、それを別にすればある特定の被写体を撮る時に次の3つは必ずトライをして見るべきじゃないかな。(その時間があればの話だけどね)

① カメラの縦位置と横位置の両方で撮ってみる。 
② 角度を変えてみる。つまりうんと低い位置から撮ったり上から覗き込むような角度で撮ってみる。
③ 被写体との距離を変えてみる。(あるいはズーム度を変えてみる)

この3つをそれぞれを組み合わせていけばそれだけでもう数十ショットの写真を撮ることになる。

そこでだ。
今回のテーマは上の③と関連するんだけど、被写体との距離をあれこれと変えてみる中で、うんと思いっきり近寄って、被写体のほんの一部だけを切り取ってみる、という事なんだ。
部分だけを見せるということは、写真を見る側からすれば全体が見えていないからその見えない部分を想像するという作業を無意識のうちに強いられているわけだ。被写体の全体が見えている写真ならただぼんやりと眺めてしまう人でも、「何か」の一部分だけを見せられると、そこで立ち止まって 「あれ? これ何? どうなってんの?」 と考えることで、好むと好まざるとに関わらず鑑賞者は作者との交信をしているといってもいいだろう。
これって素晴らしいことだと思う。

たとえば上の写真では、F1レースカーを見たことがある人なら、即座に車体を想像してくれることだろうし、車のことを知らない人なら 「車のようでもあるし無いようでもあるし、車としたら一体どんな車なんだろう?」 と最小限の好奇心を呼び起こすかもしれない。
どちらの場合にしろこの写真が鑑賞者に何かを考えさせた、という点で作者と鑑賞者との間で接点が持たれたということだ。もう一度繰り返すけど、これは素晴らしいことなのだと思う。

以前のブログ記事から例を挙げてみよう。





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日曜の午後のゴシップ
Oakwood, Ohio, USA


足には顔と変わらないくらいの表情があるものだ。
もしここに顔や姿が全部写っていたら、どんなつまらないグループ写真になったかは容易に想像がつくでしょう。





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障子と階段
鳥取市


日本家屋の美しさは簡素と直線の芸術だと僕は思っているんだけど、ここまで近寄ってみることで見慣れた被写体を一種のアブストラクトとして捉えてみた。ただし抽象画を嫌う僕のことだから、磨きぬかれた階段の木目を強調することで、これは只の線の遊びじゃないんですよ、ちゃんと木という材質を表現した具象画なんですよ、と主張したつもりなんだけど…

***


今日の話を要約すると、何を撮影する場合でも被写体にうんとぐんと接近した1枚は必ず忘れないように撮っておくように、ということ。
その1枚は単写真として登場する機会は少ないかも知れないけど、もしそれが数枚の組写真となるものなら、これは絶対に欠かせません。

それでは皆さん
ハッピー・シューティング!


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ミステリーが解けた

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待つ男
Boylston Street, Boston ((1973?)


これもまた、撮影後40年以上も眠っていたのが、つい最近になって初めて陽の目を見た写真である。

1970年代の初めに僕がアパートを借りていたボストンのバックベイ地域で、ボイルストンとエグゼターの二つの道路が交差する角にこのドラッグストアはあった。 ボイルストン通りを挟んで真向かいには年代物の小さなレノックスホテルがあり、そこのピアノバーではマダム何とかと呼ばれるちょっと名の知られた高齢の女性がジャズを弾いていた。

ドラッグストアが只の薬局ではないということは日本にいた時から知っていた。アメリカの現代小説にはドラッグストアが必ず出てくる。物語の主人公はそこで包帯や頭痛薬やシャベルやロープや煙草やウィスキーや新聞やクリスマスカードやペイパーバックの本を買ったり、コーヒーを飲んだり、サニーサイドアップの卵を朝食に食べたりする。 (今の日本のコンビニはここにその原型があったのに違いない)。

この写真を見ると、いつもなら車が混雑して人通りの多いこの交差点にほとんど人影がないのは、おそらく日曜日か祭日の夕方なのだろう。ドラッグストアから出てきた僕が、そこに立っていた若い男に「何か」を感じてカメラを向けたに違いない。その「何か」は何だったのか? 撮影した当時は何度考えてもその答えが出ないままに、この写真のことは忘れてしまっていた。

そしてつい最近、40年前のこの写真を掘り出した時にあらためて眺めていて、あっと気がついた。
そうか、この青年(というより少年に近い)はゲイの男娼だったのだと。
童顔の残る顔に髪をきれいに撫で付け、華奢(きゃしゃ) な身体をきちんとしたジャケットで包んでいる。靴も磨かれている。そして細すぎるスラックスの股間の膨らみは偶然ではなくて意図的な顕示だったのだ。人通りのまったくない街角で新聞を読みながら (あるいは読む振りをしながら)、向かいのレノックスホテルから出てくる男が声をかけてくれるのを待っていたのに違いない。
僕がカメラを向けないではいられなかった「何か」とは、何となく普通とは違う異常な空気のようなもの、触角をうごめかして男を誘惑しようとする暗い欲望のようなもの、そんな隠微な雰囲気を僕の感性が敏感に嗅ぎつけたのかも知れなかった。いやそれに違いないという確信のようなものが今の僕にはある。

自分が若かった昔にはどうしても解けなかったミステリーが、歳を取ることで簡単に解けてしまうということがあるものだ。



人やもの事を外見で判断すべきではない
とは思慮の浅い人達の言い分である。
この世の真のミステリーは裏に隠されること無く
必ず外に表れるものだ。

- オスカー・ワイルド -





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またまた古い写真を見つけた

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カフェテリア
Brighton, Massachusetts, USA (1974)


「あなたのお尻の写真を撮らせて欲しいんだけど…」
と僕が云うと、30歳前後と思われるその女性は驚いた表情で僕の顔を見つめ、僕が手にしたカメラに不審そうな目をやると、その視線をまた僕の顔へ返した。 予期した反応だった。 もちろん僕は最初からちゃんと説明をするつもりでいたのだ。
あなたが腰掛けているスツールにまるで魚眼レンズを通して見るように食堂の全体が写っているのに気が付きましたか? 実はその中に自分を置いて一種の自画像を撮りたいんだけど、空のスツールの並列だけではつまらない絵にしかならないと思うんです。 そこで脇役としてあなたのお尻に登場して欲しい、という訳なんです…

彼女の表情から警戒心が消えてそのあとに微笑が現れたので僕はほっとする。
「そういう事なのね。 いいわよ、構わないわ」
僕は彼女のお尻のすぐ下に座り込むと、24ミリの広角を付けたニコンを顔に当てて数枚の写真を撮った。
遅い朝のカフェテリアには僕ら以外には客はなく、ウェイトレスは裏で煙草でも吸っているのかいつの間にか姿が消えていた。 周りに誰もいなくて良かった。 そうでなければ、あの変質者、女性のお尻に顔をくっつけて何をやってるんだ、と思われても仕方のないような図に違いなかった。

「ありがとう」 と床から立ち上がった僕が礼を云う。
「いいえ、私のお尻があなたのアートのお役に立てて嬉しいわ」 と彼女は声を立てて笑った。



あれから40年経ってこの古いネガを見つけた時に、そこには写っていないあの女性の顔や笑い声や、手に持ったコーヒーカップの白さまでが鮮明に記憶に蘇ってきたことに自分でも驚いた。 孤独の底に沈みこんでカメラだけを唯一の友として街から街をさまよい歩き、シャッターを切る時のあのパシャリという音にだけ慰めを感じた日々を忘れることはない。



時には母のない子のように






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冬野真華さんの個展を見る

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冬の華 1




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冬の華 2




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冬の華 3





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冬の華 4





月曜の朝のこと、週末に切れてしまったコーヒーの豆を買いに行こうと外に出た。
うわぉ~、寒い! と一瞬凍りつく。
明るい陽が射して風はまったく無いのに気温はマイナス14℃である。
そうでなければいつもは歩いたり自転車で行ける距離にある店なのに、この寒さではとてもそんな気にはならない。車を出そうとガラージ (そう、アメリカではガレージとは言わない) の前に立った時、ガラージのドアに付けられた8つのガラス窓にびっしりと霜がこびり付いていて、その一枚一枚が面白い模様の絵になっていた。具象と抽象のあいだを行き来するような独特のスタイルで、構図もしっかりと取られている。
最初はまるで寒井一宝(さむいいっぽう) 画伯の作品のように見えたけれど、よく見ると、繊細な白い樹木(?) のブラッシュワークや背景の淡い青色はいかにも女性の情感である。 これはあのシベリア在住の日本人画家、冬野真華(ふゆのさなか) さんが描いたものに違いなかった。 

いったん家の中へ引き返してカメラを持ち出す。
いつのまにか買い物のことはすっかり忘れてしまっていた。




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撮影した冬野さんの作品をコンピューターに取り入れて編集をしているうちに、どうしようもないくらい猛烈にコーヒーが飲みたくなった。僕は再び分厚い長いコートを羽織ると外に出る。その時にも、買い物から帰ってきた時にも、展覧会の絵はちゃんとそこに展示されていた。
そして夕方になってまたガラージへ行ってみる。日中に気温が上がったうえに太陽が直射していたに違いない。
展覧会の絵はすべて消えていた。




展覧会の絵 (ムソルグスキー)
アシュケナージ (ピアノ)







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振り返れば何だ?

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お祖父ちゃんと一緒
Hagerstown, Maryland 1984


古い写真のアルバムを取り出してページをめくるなんて、普通の人なら普段の生活の中でしょっちゅうやる事ではないんじゃないかな。
それが、僕の場合は写真をインターネットで細々と売ったり、写真を載せる私的なブログをやっているという理由で、毎日のようにコンピューターでフォトショップを開いているから、いやでも古い写真が眼に入る事になる。そんな事でもなければとっくに忘れてしまった古い写真に行き当たったりすると、探していたかんじんの写真を忘れてそのまま追憶の世界へと入り込んでしまうことがある。

この写真もそうだ。
息子の太郎がようやく歩き始めたころ、ボストンから家族を連れてメリーランド州に住む義弟の家へ遊びに行った時の写真だった。 同じ時に中西部のデイトンから来ていた妻の両親と落ちあって、皆で数日を過ごした。その時、娘のマヤの誕生祝いをしたことを覚えているからあれは9月だったに違いない。
妻のオヤジさんが孫の太郎と遊んでいるこの写真を僕が好きなのは、長身のオヤジさんの影の中に太郎がすっぽりとはまっていて、二人の影が一つになっているところである。 人の気配がまったく無い広大な風景の中の豆粒のような幼児の存在を、自分の影を孫に重ねて後ろからしっかりと見守るオヤジさんの立ち姿には、屈強な男の持つ頼もしさと優しさが現れている。

このオヤジさんは今はもう無く、自分自身が今ではこの時のオヤジさん以上に歳を取ってしまった。 太郎は今年の5月には32歳になる。
時は確実に移って行く。



孫というものは
否応なしに老いて行かされるあなたへの
神様からのご褒美なんだよ。

-Mary H. Waldrip-




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幸せよこんにちは - 新しい年に

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By Green Eyes


新年明けましておめでとう。

星座は巡り、また一年が過ぎた。今年は平成27年だそうだ。
だそうだ、というのは平成の年号が僕にはいまだにピンとこなくて、いきなり訊かれたりすると自信のない僕は慌てて『西暦・和暦変換表』を見て確かめなければならない。インターネットの日本語のサイトでも今は西暦の方がはるかに多く使われているから、ふだんはまったく気にせずに暮らしているけれど、1年に1度の正月だけは昔ながらの元号を使うのがふさわしい。
アメリカに長く住む自分はそうだとしても、日本に住む人達は日常の生活で西暦と和暦をどうやって使い分けているのだろうか、などと考える。役所などで使う公式の書類は当然ながら和暦で記されると思うが、たとえば履歴書は? 日記は? ふだんの会話は?
日本にいた頃は昭和年号に25を足して西暦に換算したものだが、平成時代の今の人達は同じように12を引いてやってるのかしらん。


今年は羊年だというので、新年にふさわしい羊の絵を探してみた。我が Green Eyes は羊の絵は何枚も描いているけどこれはクニコさんの毛筆が入っていて正月の記事にはぴったりだ。ところが自分の写真となると悲しいかな、羊は1枚しか無い。しかしこの羊たちは自分でもすごく気に入っている1枚である。
というわけで絵も写真も、以前に載せたものになってしまった。

さて今年は皆さんにどんな幸せが待っているか?
ああ、生きていて良かった、と思えるような人やハプニングとの巡りあいがあることを、遠くアメリカから祈っています。




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晩鐘
Greenfield Village, Dearborn, Michigan USA




ヒツジ歳の特徴  

●乙未(きのとひつじ) 昭和30年 平成27年

この生れの人は、白羊または玉羊といいます。羊の中で一番美しい羊です。実用的な面は少なく身体も弱く引込み思案です。臆病で、短気な面と勝気な面があります。外見は優しく見えても意地が強く、活動力はさほどあません。美形の人が多く、諸芸に通じ常識もありますが応用のきかない人です。特に外交的な面に弱く保守的です。こつこつと積み立てて物事を完成させるタイプです。結婚はまとまりにくく、他人に頼むことを嫌います。

●丁未(ひのとひつじ) 明治40年 昭和42年

この生れの人は、病羊といいます。身体が弱く病気がちで遊ぶことが多い。精神的に安定しにくいタイプです。短気で自分の思うようにならないと、すぐ八つ当たりをします。正直者で人の心を見抜く観察力があります。反逆的精神があるので、普通の人と異なった行動が多い。蓄財性が少ないので物質的な成功はしにくい。金銭的なことに欲がある割には金銭上の事にとやかく言うことを好みません。自由な生活にあこがれ家族と離れたり住居をよく変えます。悪気はないが言葉にトゲが多い。

●己未(つちのとひつじ) 大正8年 昭和54年

この生れの人は、山羊または物言羊といいます。人によく慣れた羊で、人の言葉をよく理解する羊です。聡明で温順で非常に役立つ羊です。子供の頃から能力を発揮し出世する人が多い。賢くて長生きをします。家庭的にも恵まれます。出しゃばる事が多いが、若い内は人の引き立てによって、かなりの活動ができます。老後は家族と別居することがあります。子供は多く、また子供から大切にされ孤独なようで案外幸福な余生を送れます。

●辛未(かのとひつじ) 昭和6年 平成3年  

この生れの人は、野羊といいます。野性的に育った壮健な羊です。野性的なため荒々しく、時には血をみるような事もあります。身体、反抗力、忍耐心ともに強く、堅実な人生を歩む人です。人からの信頼も厚く人情もたくさん持ち合わせた人です。しかし交際はあまり円満にはいきません。普段は虫も殺さぬ優しさと穏やかさを持っていますが、突発的なことがらに対して衝動的に逆上することがあります。夫婦間は親密です。嫉妬心が強いので注意が必要です。

●癸未(みずのとひつじ) 昭和18年 平成15年

この生れの人は、綿羊または毛羊といいます。羊毛を提供する羊らしい羊です。正直で真面目です。大金持ちなる可能性を十分に持っています。ただし、つまらぬ所で大損をする傾向にあります。異性関係に多欲でだらしのないところがあります。協同精神の少ない人で、独立独歩をしたがります。我意が強く負けず嫌いで、人の忠告をあまり聞きません。小心なため人から聞きづらい事を言われるのがとても嫌いです。そのため親身になる相談相手を得にくく、迷い事が多くなります。

- 陰陽道の世界 -




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