過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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マグショット 3 - マーサ

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名前 マーサ
生年 1927
職業 主婦
撮影者との関係 義母
撮影年月日 2015年2月21日



義母がリハビリテーションの施設に入ってからひと月が経つ。
今日訪ねてみるとすでに先客があった。彼女の長男とその嫁さん、次男とその息子の4人が車椅子に座る義母を取り巻いて狭い個室はいっぱいだった。義母は僕の顔を見ても表情を変えず何も言わない。いつもなら笑って僕の名を呼ぶのに、今日は調子の良くない日らしいというのがすぐにわかる。
彼女の一族は、フロリダに住む三男の家族以外は全員がこの市内に家を持っていて、こうやって気軽に訪ねてくるのでいつ行っても誰かとぶつかることが多かった。医者に言わせるとそれも良し悪しで、独りで静養する時間がもう少しあった方が認知症の進んでいる本人を混乱させないためには良いそうだ。それで少し訪問を控えようという話が一族間ですでに出ていた。

「お母さん、おはよう」 と僕が身をかがめて義母にキスをすると、その時初めて彼女のこわばった顔が緩んで、太くむくれた指で僕の手をぎゅっと握った。
義母の息子や娘たちは彼女を当然ながら 「お母さん」 と呼び、それぞれの配偶者達は 「マーサ」 と名前で呼ぶのが習わしになっている中で、僕一人いつも義母を 「お母さん」 と呼んでいる。とっくの昔に両親を亡くしていた僕に深く同情した義母が 「あなたは自分の息子だと思ってるからね」 と、言ってくれた時以来の長い習慣だった。
ドイツ人を両親に持つ義母は限りない優しさの裏に確固とした頑固さが潜んでいた。その頑固な血はアイルランド系の義父と結婚することによって緩められること無く、次女である僕の女房に他の誰よりもしっかりと受け継がれたようだ。

5年前に義父をなくしたあと一人暮らしを続けていた義母の家は、我が家からは車でほんの10分ほどのところにある。
片方の脚が悪くなって歩行がままならなくなってからは、市内に住む4人の娘たちがかわるがわる行って買い物や食事作りをしていた。それが6週間ほど前に軽い脳卒中を起こして病院に入り、そのあと現在のリハビリの施設へ移された。
住人のいなくなった彼女の家の安全を時々確認するのが僕の役目になっていた。先日行ってみると、暖房が止められた寒々とした家の中はひっそりとしていた。そういえばつい昨年の夏は、義母が友達と旅行へ出かけた留守中に、飼い猫の餌をやりに毎日ここに来たものだった。その猫もつい最近死んだ。
キッチンの壁には大きなカレンダーが掛かっている。そのカレンダーのいたる所に鉛筆の書き込みがあるのは、家族や友人たちの誕生日だった。家族だけでも娘や息子が8人、その配偶者が7人(一人だけ離婚している)、そして17人の孫、合計32人と生半可な数ではなかったが、義母はその誰にも綺麗なバースデーカードを律儀に送ることを忘れたことがない。孫達へのカードにはいつもギフト券や銀行のチェックが挟まれていた。

家の中をひと通り点検したあと玄関に鍵を掛けながら、義母が再びこの家へ帰ってくることがあるのだろうか、と考える。リハビリテーションを終了したあと、そのまま認知症患者の施設へ移ることになる可能性が大きいからだ。

その義母にとっては最初の曾孫(ひまご)が今年の4月に生まれようとしている。




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マグショット 2 - ボー

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名前 ボー
生年 1951
職業 イラストレーター
撮影者との関係 妻
撮影年月日 2015年2月15日



結婚25周年を銀婚式、50周年を金婚式と呼ぶのは知っているけど、35周年は何と呼ぶのだろう?
つい先日の2月4日が僕らにとっては35周年だった。二人ともその事を完全に忘れていて数日過ぎてから思い出した。思い出したのは僕の方である。こんなことは奥さんのほうが覚えているのが普通らしいが、僕の奥さんはいろんな点で普通の人ではない。もともと僕自身あまり普通ではない人間だったのに、女房がそれに輪をかけて普通でないとなると、僕はいやでも普通に成らざるをえない。そうでなければこの複雑な人間社会で共存していくことができないからである。おかげで僕は今では普通以上に普通の人間となってしまった。結婚の当初にいっそのこと自分が彼女以上に普通でなくなってしまえば良かった、と思うことがある。そうすれば彼女はもっとずっと普通の人になっていたかもしれない。

時間の観念がゼロという点では彼女は誰にも負けない。それに関するエピソードはどんどんと片っ端から忘れていかなければ困るほど多数にあって、人とのアポイントメントを忘れたり、たとえ忘れなくても日にちや時間を間違えたりはしょっちゅうなのだ。なにしろ僕との初めてのデートに1時間遅れて来た人だから。

遅れてきた女


彼女は若い頃から腕時計というものを持たない人だった。
いや持ったことはあるのだけれど使ったことがない、というべきだろう。それである年の彼女の誕生日に夫の僕がロンジンの腕時計をプレゼントしたことがある。それで少しは時間のことを気にかけてくれるだろうという切ない望みからだった。ところがその腕時計は同じ年のヨーロッパ旅行で、マルセーユ空港の洗面所に置いてきてしまった。それ以後、彼女は今だに腕時計というものを所有したことがない。

アメリカ人の彼女に 「能天気」 という日本語が当てはまるのかもしれない。この35年のあいだにさまざまの逸話が数知れずあってそのほとんどは笑って済ませられる類のものだったのは幸いだ。それにしても不思議に思うのは、彼女は子供の育児に関する限りその類のエピソードがまったく無いということ。女性という不思議な生き物はどんな性格の持ち主でも、いかに普通ではない人でも、自分の子供に関する限り完璧な母親になれるのに違いない。

亭主失格、父親失格、人間失格


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オムライスの夢

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『食事処日本海』 のランチ
鳥取県境港市


オムライスをぱくついている夢を見た。
夢に見るほどオムライスが大好物というわけでもないから、たぶんゆうべ寝る前に境港の叔母と国際電話で1時間ほど話をしたのが起因かもしれない。88歳のこの叔母はオムライスには目がなくて、外へ食事に連れて出ると必ずオムライスしか注文しないのである。オムライスのないレストランへ行くと、とたんに機嫌が悪くなる。

夢に出てきた場所はどこかの浜辺のレストランで、窓の外には夏の海が広がっていた。僕の向かいには一人の女がいてこれもオムライスを食べている。それが誰だったのかどうしても思い出せなかった。最初はてっきり叔母だと思ったが、そうではなくてもっとずっと若い人に違いないのは、彼女の着ている涼しそうな白いワンピースからわかる。その白さが目が覚めたあとでもくっきりと脳に焼きついていた。
あの女は誰だったのだろう?



オムライスは別として(そして白いワンピースも別として)、今度日本へ帰ったらまた必ずやってみたいのは、大衆酒場や食堂の食べ歩きだ。
僕は洒落たビストロや流行を追うレストランにはまったく興味がない。大きな皿の真ん中にちょこっと鼻くそほどのサイズの料理が乗せられたのが目の前に出てくると、何がグルメだ! と腹が立つ僕なのだ。アメリカで暮らしていて夢にまで見るのはそんな気取った、しかも高価な食べ物ではなくて、日本の家庭で毎日の食卓に出てくるような、素朴な旬の味とか昔から伝わる大衆料理だった。

さいわい、インターネットの世界にはそんな情報は豊富に溢れていて、『日本縦断 食べ歩き』 だとか 『サラリーマンの大衆食堂めぐり』 とか 『安くて旨い郷土料理の店』 とかのブログの類は何百と見ることができる。そういう食堂の料理はアメリカで食材さえ手に入れば自分で作れなくはない。などと思うのは僕の傲慢というもので、競争の激しい日本の飲食街で長年お客をつかんできた店の職人さんに敵(かな)うわけがない。しかも目の玉が飛び出るほど安い。(こんな表現があるのかしらん)。

僕がそんなブログの中から一つだけお気に入りのリンクに入れているのが 『立ち呑み店主の日記』 で、これはいつも欠かさないで見ている。
このブログの著者は大阪のミナミで大衆酒場を営む前新聞記者という経歴の人で、食い倒れと言われる大阪の飲食店を、自店の経営の合間にシラミつぶしに食べ歩いては、メニューや料理の写真と店の印象などを載せている。愛すべき関西弁で書かれているのも嬉しい。彼とはコメント欄で数回話をしただけだけど、いつの日か彼の店へひょっこりと姿を現して 「アメリカから来た September30 です。こんにちは」 と言って驚かしたいと思っている。

昨夜の白いワンピースの夢と、今日の 『立ち呑み店主の日記』 の両方に触発されて、今夜はレシピと首っ引きで見よう見まねで初めてのオムライスを作ってみた。
ご飯のケチャップ味がちょっと強すぎたけど、うん、なかなかの出来でした。(自画自賛とはこのこと)
今度米子へ帰ったらオムライスが大好物の叔母に作ってあげよう。


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マグショット 1 - ディック

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名前 ディック
生年 1933
職業 アンティークのギャラリー経営
撮影者との関係 友人
撮影年月日 2015年2月13日



新しいプロジェクトの始まりだ。
自分の周りの人達の顔を遅くならないうちに残しておきたいと思う。家族や友人、知り合いなどの、ポートレートというよりはむしろマグショットのようなものだ。気取りやポーズや表情をすべて殺した、あるがままの顔の記録である。


ディックは若いころは金融界の巨大企業メリルリンチ社に勤めて、ニューヨークに住みながらアメリカだけではなく世界中を飛び回った。面白いのはその彼は美術学校の出身だったことだ。絵を描いていたがアートでは食えなくて(仕方なく)会社勤めを始めたというところが、僕の経歴と似ている。そして20年前にリタイアしたあとまた美術の世界に帰ってきた。アンティークギャラリーを始めたり、地元の美術館でガイドや絵画の修復をしたりしたのがそうだった。自分で絵を描くことはもう無いようで、彼が愛用したイーゼルをはじめ膨大な数の絵の具やキャンバスが我が Green Eyes に贈られた。

ディックのギャラリーでは2009年に僕は写真の個展を開いている。そのオープニングのことは古いブログに書いた。
この記事の中のS夫人とはディックの愛妻のリンダのことである。

『異邦人』 オープニング







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撮影者



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動物好きの絵描きさん 23 ペンギン

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ペンギンたちの行進
By Green Eyes


昨年の我が家のクリスマスカードに使われたこの絵は、皆さんにはなかなか評判が良かったようだ。
あらためてカードではなくてプリントで欲しいという注文がいくつも来て、プリントはもちろん僕の役目である。仕上がったものを眺めていたら、10年ほど前に見た映画を思い出した。

フランス人のリュック・ジャケの制作によるドキュメンタリー映画 『ペンギンたちの行進』 が2005年に公開された時、もうほとんど劇場で映画を見なくなった僕が、待ちきれないようにして見に行った。
この映画は南極大陸に住む皇帝ペンギンの生態を撮ったドキュメンタリーだ。

南極大陸の皇帝ペンギンたちは、夏の間は生息地のすぐそばまで海が来ているので食料の確保には問題はないが、いったん冬に入ると話はまるきり違ってくる。近くの海は完全に凍り詰めてしまうから、凍っていない海まで食べ物を探しに遠征しなければならい。そこまでの距離がいきなり100kmも遠くになってしまうのだ。
皇帝ペンギンのメスは他のペンギンと違って卵を生むのが冬と限られているから、食物を得るために、母親のペンギンは産んだばかりの卵を夫に預けると、100km先の海まで一団となって2か月をかける長い過酷な旅に出る。それがペンギンたちの行進である。

卵を預かる父親は-60℃という寒さの中で卵を抱き続ける。やがて卵が孵化して赤ん坊が生まれても、母親が帰ってくるまでの数か月の間は父親に少量の食料が残されているだけで、それが尽きてしまうともう何も食べるものがない。父親は時には4か月も絶食を続けて体重は半分に減ってしまうこともあった。ようやく帰ってきた母親が初めて自分の赤ん坊と対面して、持ち帰った食べ物を与える。それと入れ替えに、父親は今度は自分と子供のための食料探しの旅へとはるばる100kmの旅へ出るのである。
一夫一婦制のペンギンが、外見では区別の付かない自分のパートナーや子供を見分けるのはすべて鳴き声によるそうだ。1匹のメスを2匹のオスのペンギンが取りあいをしたり、嵐で子供をなくした母親が他の家族の子供を盗んだりするドラマは人間の社会そのままで観客の胸を打った。

アメリカでの公開では全編を通して男優のモーガン・フリーマンの声でナレーションが入っていたけれど、オリジナルのフランス版も日本版、ヨーロッパ版にもそれぞれ自国の声優を使って両親や子供の声が入っているらしい。それを見ていない僕は想像するだけしかないけど、むしろ擬人化しないでモーガン・フリーマンが淡々と渋い声で語るアメリカ版の方がより効果的であるような気がする。
映画を見終わったあとこれはすばらしいものを見たと思っていたら、『ペンギンたちの行進』 はその年のオスカー(ドキュメンタリー部門)を獲得した。アメリカでは興行的にも大成功で、同年に公開されたスピールバーグの 『宇宙戦争』 を抜いて興行収入が1位となった。



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死を見つめるひと

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二人の女
Palais des Papes, Avignon, France



ディックが僕に電話をかけてくるのは珍しいことだった。
アンティークのギャラリーを経営するディックとリンダの夫婦は僕の古い友達だった。以前からそのギャラリーに少しだけ関係していた僕は、商売のことでよく話をすることはあっても、そんな時の相手は大抵リンダだったからである。今では80歳をこえるディックはギャラリーは20歳年下のリンダにほとんど任せていた。

「ブライアンのことはリンダから聞いただろう?」 とそのディックが云う。
「つい最近、リハビリの施設に入ったんだ。しかし身体の方のリハビリが効いても効かなくてもその先は長くないらしい。俺とは何しろ30年以上の付き合いだからね、もう何度か様子を見に行ってるんだけど、今日行ったら、その彼がお前さんの顔が見たいと云ってるんだよ」
それを聞いてちょっと驚いた。ブライアンにALS(ルーゲーリック病)の症状が現れたという話は去年の春に聞いていて、今年になって施設に入ったということも知っていたが、彼と僕とは前にたった1度会っただけの間柄(あいだがら)だったからである。

ブライアンと会ったのは数年前、僕がディックとリンダのギャラリーで写真の個展をやった時、そのオープニングのパーティで紹介されたのが初めてだった。その時の彼の印象はかなり強烈だったといっていい。50歳を過ぎたばかりらしいブライアンは、一次大戦の戦闘パイロットが使ったすり切れの皮ジャンを着て、精悍な髭面に若者のような黒い目が光っていた。日本の浮世絵の蒐集をしているという彼が、北斎や広重の浮世絵の構図と僕の写真のコンポジションとの類似点を明確な言葉で論じるのを、非常に興味をそそられて聽いた。それだけではなく、僕が若い時代を過ごしたボストンに彼も同じ頃住んでいたことがわかったりして、話は次から次へと発展しそうな中で、オープニングの当事者である僕は彼だけに独占される時間を許されなかったのは残念だった。
いつかゆっくりと話そうよ、とその時は云いながら機会が無いままに数年が過ぎてしまっていた。



そのリハビリの施設は昔の州立精神病院を改築して建てられた大きな建物だった。明らかに人工とわかる池と林を挟んですぐ隣りの敷地にはこれも大きなビルがあって、そこは僕の義父が亡くなる前の最後の数か月を過ごしたホスピスだったから、僕は何度か来たことがある。この一画を車で通るたびに条件反射的に「死」のことを考える、そんな年齢に自分も近づいていた。

施設の玄関に車を停めた時、入り口の脇にある喫煙場所にディックとブライアンの姿を見た。車椅子に座って煙草を口にくわえたブライアンの前に、煙草を吸わないディックが立っていた。もっとやつれたブライアンを予想していたから、最後に会った時とほとんど変わらない彼を見て嬉しかった。しかし、握手のつもりで腕を差し出してきた彼の手は大きく膨(ふく)れあがって、指が異様に変形していた。開くことのできないその拳(こぶし)を僕は上からそっと握って挨拶をする。
最初に彼の口から出た言葉は
「そのコート、とってもいいよ。その仕立てはロンドン製じゃないの?」。
その通りだった。10年も前に買ったそのツイードの、膝下まであるトープ色のコートを僕は今だに愛用していたのだ。
「僕は気に入ってるんだけどね、女房はどうもそうじゃないらしくて、一緒に出かける時にこれを着るのを嫌がるんだよ」 と答えた。彼は笑いながら
「たぶん、ギャングの親分か芸能界の大物みたいに見えるからでしょう」 と云ったが、これも女房の云った言葉そのものだった。

そんな他愛無い会話をしているうちに僕の緊張も少しずつ緩んできたようだった。眼の前に死を見ている人にいったい何を話せばよいのか、僕は朝からずっと考えていた。そして怖かった。人の判別もできなくなった高齢の病人を見舞ったことは何度かあるが、死を前にしてここまで明晰な意識を持った人を相手にした経験が僕には無かったからである。
指の使えないブライアンは吸い終わった煙草を口から吸殻入れに落とすと、ディックを向いて 「もう1本いい?」 と訊いた。煙草を吸わないディックがポケットから煙草の箱を取り出すと1本抜いてブライアンの口にくわえさせた。それにライターで火を点けてやった僕も自分のを取り出して吸い始めていた。

死をすぐ目の前にしながら、ブライアンのように落ち着いて生きることなど自分にはできるだろうか、と思う。彼とて一時は人には想像もできない心の葛藤があったに違いないのに、それを乗り越えてこんな静かな心境にたどり着くことができたのか。もし、一日一日と確実に死に向かって近づきながらいまだにその苦しみを抱えてているとしても、絵や写真のことをしゃべり続けるブライアンの口調や表情からそれを読み取ることはできなかった。
人間には例外なく死が待っているという事実を我々は普段の生活の中で考えることはない。若者にとっては死などは存在しないに等しいだろう。それがこの56歳のブライアンのように、鼻先に死という怪物をぶら下げながら生きる人を前にして、僕の口から出るどんな慰めの言葉も健康な人間の傲慢としか響かないだろうと思えた。僕にできるのは、彼の話を聞いてあげること。心を通わせて彼と話をすることーーーそれだけだった。


摂氏0度に近い外気の中に長いあいだ居たので、さすがに3人共寒くなってきた。ブライアンの操る電動の車椅子を先頭にして中へ入る。長い廊下の両側には何十という個室が並んでいて、ランチの時間が終わったばかりの屋内には給食に出た食べ物の臭いがこもっていたが、それはまるで食欲をそそらない、薬品のような臭いがした。
ブライアンの室の壁には彼が持ち込んだ大きな複製の絵が掛けられていた。殺風景で非情な病室を、その絵が人間の息づく温かい空間に変えていた。30年近く前にデイトン美術館で催されたオクトーバーフェストのそのポスターと同じものを、僕もずっとあとになって手に入れていた。そういえば彼はあの美術館で仕事をしたこともあったのだ。
僕は帰宅したあとそのポスターを取り出して改めて眺めながら、死期を前にした一人の男はこの絵に何を見て何を感じているのだろうか、と思いをめぐらせた。


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オクトーバーフェスト
Dayton Art Institute








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