過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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2015年10月

ケネディのこと

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オーバルオフィスのケネディ親子


アメリカでは来年の大統領選挙を控えて、すでに激烈な選挙戦がくり広げられている。
数多くの候補者の演説に、オバマやブッシュを始めニクソン、レーガンなど過去の大統領がよく引用される中で、僕にとっては何といっても1番馴染み深いのはケネディの名だった。
それには幾つかの理由がある。


1963年11月22日の午後1時半、といっても日本時間にすると23日の早朝になるが、ケネディが暗殺された日は僕には忘れられない。
というのはその頃の僕は、大学へあまり顔を出さないで横浜の米軍キャンプで毎夜ジャズを演奏していた。 ゲートを抜けて1歩中へ入るとそこはもうアメリカだったから、自国の大統領暗殺というとてつもない大事件へのアメリカ人の反応を目の当たり目撃してしまった。 僕ら日本人にとってもあの臨時ニュースは大きな衝撃だったが、米軍キャンプ内はその比ではなかった。 その日の夕方いつものように車でキャンプに乗り入れると、ゲートでチェックするアメリカ人警備兵の顔つきからしてすでにいつもとは違っていた。僕らの仕事場であった将校クラブには多勢の高官連中が詰めかけていて、沈痛な面持ちでひそやかに顔をつきあわせているその雰囲気には今まで見たことのない異常なものが感じられた。 彼ら職業軍人にとっては大統領は軍隊の最高責任者、いわば自分たちの大ボスであったから、その突然の死、しかも暗殺というセンセーショナルなニュースは、普通のアメリカ市民とは比較にならないほどの大打撃であったに違いない。
その夜のクラブ演奏はもちろんキャンセルされて、僕らはそのまま、頭上に飜える半旗を見ながらゲートへ引き返した。


それから5年後の1968年の春から夏にかけて、僕は沖縄の米軍キャンプに3か月の仕事で出かけていた。
それまでに僕はすでに結婚していて、幾つかのバンドを転々としながらピアノを弾いていたが、米軍キャンプの仕事を取ったのはあの横浜以来だった。
ケネディ大統領の弟、上院議員のロバート・ケネディの暗殺がこの時に起こったのは、何という偶然だろう。
そしてその2年後に僕は日本を捨ててアメリカへと渡ってしまう。


ケネディの3兄弟のうち一人だけ残された最年少のテッド・ケネディも1962年頃からリベラルな上院議員として政界に乗り出していた。 それがロバート・ケネディの暗殺の翌年、1969年には、マーサズ・ヴィニヤードのチャパキデック島でパーティのあと運転を過って運河に落ち、本人は水に沈む車からの脱出に成功して命をとりとめたものの、同乗の若い女性を死なせてしまう。 あの事故がなければ、テッドは間違いなく大統領の候補になっていたはずだった。


そしてさらに、11年後の1979年。
当時のカーター大統領が、ケネディのホームグラウンドであったボストンの郊外に、JFケネディ記念図書館を設立した時に、僕はボストン市内のある写真ラボで暗室技師として働いていた。 日本を離れてからすでに9年のあいだ、僕はボストン内外で写真を生業としてうろうろと生きていたのである。 そして新しくクライエントとなったこの図書館の依頼で、写真のアーカイブの仕事を受け持つことになったために、僕は何百枚ものケネディの写真をプリントすることになった。 その中にはすでに大新聞やライフ誌などに載せられて有名になった写真もあったが、大部分は未公開のものが多かった。 ケネディの少年時代の家族写真、大学時代のクラス写真、成人して政界に足を踏み入れたばかりの頃の写真、ジャクリーンと婚約した頃の写真、そして大統領となったあとの公的私的を含める膨大な数の写真、それらの有名無名の写真家達が撮ったオリジナルのネガに囲まれて、僕は暗室の中で毎日のようにケネディとケネディ一族に対面していた。


僕が制作した数百枚のプリントはそのまま今もケネディ記念図書館のアーカイブに残されているはずだ。 今、インターネットで検索してみると、出てくる画像の中にはあの時僕が制作したプリントがかなりあるようだ。
冒頭の写真もその1枚。 これはケネディが狙撃される前年に撮られた写真である。

父親の手拍子に合わせて2人の子供、キャロラインとジョンがぴょんぴょんと跳ねているのはケネディ家の源流であるアイリッシュのダンスに違いない。 この時キャロラインは5歳の少女だった。 ずっとあとになってこの子がボストン郊外のコンコルド・アカデミーで10代の学生生活を送っている時に、僕はコンコルドの町のフェスティバルで彼女を1度見かけたことがある。 2人のシークレットサービスに挟まれて雑踏の中を歩いていた。
そして周知の通り、2013年以来キャロラインは女性として初めてのアメリカ大使として日本に住んでいる。

そしてキャロラインの3歳年下の弟ジョンは…
39歳の時に自家用機に妻と義姉を乗せて、家族の結婚式へとマーサズ・ヴィニヤードへ飛行中に、海に墜落して全員が死んだ。
1999年のことである。


ケネディの家族とその周囲を流れる危険な死の影のようなもの、病死でも自然死でもない突然の死の訪れ、それも2009年に脳癌という人並み(?)な死に方をしたテッド・ケネディを最後に終止符をうったようだ。 いや、そう思いたい。







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秋が深まる

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最後の2輪


秋がどんどん深まっていく。
今頃からハロウィーンにかけての数週間が、1年を通してもっとも気持ちの良い季節かもしれないと思う。 そのあとにはあの恐ろしい冬が、手ぐすねひいて待っている。 この時期には、家に居ても冷暖房を完全に切って窓を開け放したままにしておけるから、外の樹々を風がさわさわとわたる音が聞こえて、その風が室内に吹き込んで壁のカレンダーをめくっている。 外に出ても陽射しがずっと弱くなり、ひんやりとした空気が澄んでいるのを感じる。

毎日の犬の散歩にはいつの間にか幾つかのルートが決まっていて、どれを選ぶかはその日の気分しだいということになる。
自分の気分だけではなく犬の気分も尊重することにしているから、家を出たあと犬が引っ張る方へと歩き始めることも多い。
そんな幾つかのルートの一つに、このヒマワリ畑があった。
ヒマワリの花も数本だけならあちこちの庭に見ることができ、わが家の庭にも大輪のヒマワリが毎年1本だけぽつんと咲く。 ところが、この屋敷の庭には、長い柵に沿って数100本のヒマワリが群れをなして並んでいて、それが一斉に花を咲かせている光景は、この近所ではちょっとした見ものだった。

この日、久しぶりにこのルートを通ってみると、あの見事に咲き乱れていたヒマワリの群がすべて枯れて、黒ずんだ茎だけになっている光景を見てがっかりしてしまった。
そうか、夏はもう終わったんだ。 と今更のように季節の移りを感じながら、荒れ野を思わせる枯れた植物群に沿って歩いている時に、この2輪の花が目に留まった。 仲間がすでに逝ってしまったのを知りながらそれでも可憐に、懸命に、咲き誇っている風情に胸を打たれた。
僕はそのまま家に取って返すとカメラを持ちだして来たのは言うまでもない。


その2日後に同じ場所へ帰ってみると…
あの2輪のヒマワリは跡形もなく消えていた。





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性に目覚める頃 3

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結婚式で会った少女、クララ
Apopka, Florida  2015



脇毛

中学生になった頃、僕はぐんぐんと体が成長し始めて1年間で身長が25センチも伸びた。
鼻の下に生えていた産毛が濃くなり、脇の下や下腹部には黒い縮れ毛をうっすらと見るようになる。 男の子同士で見せ合うようなことはなかったが、学校の便所で隣で小便をする子のものを覗いて、感心したり安心したりした。 女の子を見ると自然と胸に視線が行くようになったのは他の男の子たちも同じで、T子のオッパイすげえなあ、などと話し合った。
T子というのは町の畳屋の娘で、幼いころからよく知っていた。 彼女は小学生の時はそうでもなかったのに、中学に入るや急に大人のような体つきに変わっていくのを、男の子たちが見逃すはずはなかった。 T子は僕と同じテニス部に籍を置いていたから、元気よく走る彼女の、丘のような形をした乳房がユサユサと揺れるのを見ていると、僕は妙な気持ちになってしまい練習に身が入らなかった。

体育の時間、2列に向い合って徒手体操をやらされていた時のことだ。
僕の真向かいにT子がいて、そのT子が両腕を上に伸ばした瞬間、半袖の体操服の奥の腋窩に見えたものに、僕は自分の目が信じられず、あっと激しい衝撃を受けていた。そこに見たのは自分のとは比べ物にならないほど豊かな、真っ黒な繁みだった。

そのことがあってから、あの黒い繁みがフラッシュバックとなって長い間僕を悩ませた。 それは、まだろくに脇毛も生えていなかった自分の劣等感のようなものではなく、むしろ女性への純粋な憧憬と賛美であったようだ。
絵でも小説でもなければ妄想でもなく、現実に目の前に生々しい「女」を見てしまったのは、あれが最初だったような気がする。



このT子さんとは、中学を終えて以来1度も会うことはなかったのに、実に50年後に郷里の町で再会することになる。
お互いに結婚して家庭を持ち子供もすでに成人している年代なのに、会うなりいきなりお互いをちゃん付けで呼べるのが、幼馴染みの良い所だ。 二人だけで酒を飲みながら、お互いの50年の空白を埋め合っているうちに、思春期の自分を長い間悩ませたあの脇毛のフラッシュバックを彼女に告白したい、という誘惑に勝つことができなかった。

「そうなのよ」 と、話を聞いた彼女が笑いながら言った。
「自分でも恥ずかしかったから、夏でもノースリーブなんて着ないようにしてたわ。 ふだんは腕を上に上げるなんて絶対しないように気をつけてたけど、体操の時間はそうはいかないでしょ。 剃るなんて思いもよらなかったし、母親は何も教えてくれなかった。 何しろ体だけは早熟で小学生の時にもう生理があったくらいだから。 その時はさすがに母親に相談したけどね。 バストだって他の子達よりよりずーっと大きかったのはほんとに困った。 あの頃はブラジャーなんて大人でもしてる人は少なかったのよ。 そうかあ… 私の脇毛があなたの女性開眼のもとになったなんて嬉しいわ。 なんて言える歳になっちゃったのね。 でもね、告白といえば実は私にもあるな。」 と彼女は悪戯っぽい顔をした。
「あなたとは幼稚園から小学中学を通じてずっと一緒だったじゃない? 家が離れてたから一緒に遊んだなんて無かったけど、素敵だなあ、といつも遠くから憧れてたなんて知らなかったでしょう? つまり初恋の人だったのよ。」

そのT子さんにはつい最近、3人目の孫ができたばかりだ。



(続)



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性に目覚める頃 2

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蛸と海女
葛飾北斎



性の書斎

小学校も上級になると、僕の 「本屋通い」 が始まる。
町には新刊書の本屋が4軒と古本屋が1軒あったが、その頃もっぱら行ったのは古本の 「油屋書店」 だった。 間口の広い大きな古本屋で、その大部分は文学書や実用書、月遅れの娯楽雑誌などが並べられていて、そこを通り抜けて奥の方へ入って行くと、片隅に成人向けの書籍がひっそりと置かれていた。
『夫婦生活』、『あまとりあ』、『奇譚クラブ』 といった怪しげな古雑誌や、『外国ヌード集』、『春画全集』 などの画集や写真集が積んであるその一画が、小学生の僕にとって性を勉強するための書斎となった。 ただし、いつでも好きな時にそこへ入り込めるというわけではなかった。 店主である高齢の親爺が目を光らせている時は書斎へ入ることを諦めて、その辺の棚から白秋や啄木の歌集を取り出して読む振りをした。 それというのは以前、『あまとりあ』 の中の半裸の女性が縛られて脚を大きく広げた多角的な格好で、天井から吊らされた挿絵を、胸をどきどきさせて眺めていた時に、「◯◯君、そういうのを読むのはまだ早いから止しなさい」 と背後からそっとたしなめられたからである。 店主は僕の両親の知り合いでもあった。
幸運なことに、その老人が店に出る時間はごく限られていて、ふだんは若い女性の店員がそこにいた。 彼女なら猥本の立ち読みをする僕を見て見ない振りをしてくれたし (たぶん止めなさと言う勇気がなかったのだろう)、僕は僕で彼女の前で恥ずかしいと思う気持ちがありながら、それよりもはるかに強かった性への好奇心が打ち克ってしまい、それが僕を大胆にした。



『蛸と海女』

油屋書店で見たり読んだりしたものの中で、もっとも衝撃的だった本はというと、性風俗誌の名のもとに出版されていた月刊誌の 『あまとりあ』 だったのにはまったく疑問の余地がない。
それに比べればアンドレ・ド・ディーンズ (この著名な写真家の名は何十年後まで覚えていた) の外国女性のヌード写真集などは、綺麗すぎてつまらなかったし、春画コレクションの、明らかに誇張された性器や不自然な角度で絡み合う体位の描写など、子供心にも現実感が伴わず、ほとんど刺激を感じなかった。
ただ一つの例外が北斎の 『蛸と海女』 で、これを見た時には、ぬめぬめとした蛸の感触には自分にも経験があるだけに、今までにないほどもの凄く興奮した。 ああ、自分が蛸になってあの海女の、柔らかそうなあそこをグイグイと舐めたらきっと海の塩の味がするだろうか、と想像すると、股間がいきなり固くなってズボンの上からでもはっきりわかるくらいに膨らんでいた。
ふと本から目を離して顔を上げると、店番の女性と視線がピッタリと合ってしまった。 彼女は慌てて目を逸らせたが、その顔は赤く染まっていた。 ずっと前から僕のことを見ていたに違いない。 突起したズボンに気付かれたろうか、荒い息づかいまで聴かれてしまったかもしれないと思うと、恥ずかしさのあまり、春画集をそこへ置いて逃げ出すように店を出た。 頭の中で、さっき見た春画の海女の恍惚の顔と、女性店員の顔とが重なったり離れたりした。



『あまとりあ』

今から思うと、この月刊誌はただの猥褻本ではなかった。
洒落た色彩とデザインの表紙をめくると、中はエロチックな絵と文章で埋められていた。 他の同種類の雑誌のように時には汚さや嫌悪を感じさせるようなものはいっさい無くて、そこには僕が想像さえしたことのない美しい世界が広がっていた。 どのページにも性への賛美があり、快楽への誘惑に満ちていただけではなく、芸術の匂いさえ漂っていたと思う。 こんな素晴らしい雑誌を金さえ出せば自分のものにできる大人を、僕はどれだけ羨望したことだろう。

やがて僕は、自分自身の妄想や幻想をノートに書きつけるようになる。
それは一応は物語の体裁をとっていて、その物語の中で僕は美しい音楽教師のD先生にピアノのそばで抱きしめられたままズボンを脱がされたり、級長で美少女のk子が友達の万年筆を盗むところを男教師に見つかり、教室の椅子に縛られて折檻を受けながら小便を漏らしたりした。
そのノートはクラスの男の子たちの間に回されて、自分の手元に帰ってくるまでに何日もかかった。
「すごいよ。 思い出しながらゆうべ何度もしちゃった。 早く次のを読ませてくれよ 」
その言葉に小学5年生の僕は、創作者としての満足と報酬を感じていた。

(続)






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性に目覚める頃 1

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New York City, 1971



早熟

早熟な子供だった。
幼い時から異性への関心が強かった。 遊び仲間の女の子の身体に偶然に触れたりすると、それだけでなぜか心が安らぐのが不思議だった。 それは母に抱かれる時のあの甘い感覚に似ていたが、それよりももっと強烈で、時には、行ったことのない世界へ迷いこんでしまったような危険な匂いさえ感じていたようだ、
好きな女の子に対しては意地悪をせずにはいられない。 好きだという感情をそれ以外の方法で表す術を僕は知らなかった。 そしてその子が泣き出す時、僕は歓喜に全身を満たされた。
男の子一人だけの家庭に育てられた僕は、姉や妹の存在をどれだけ渇望したことか。



白い布

小学校1年生の担任が春田先生だった。 町の古いかまぼこ屋の娘で、色が白く体つきのぽっちゃりとした若い女教師だった。 成績の良かった僕は級長を務めさせられていたこともあって、先生と話をする機会がクラスの誰よりもあったが、彼女のことを特に好きだとか憧れたりしていたというわけではない。 
ある時、クラス中の机や椅子を部屋の両側に寄せて中央に大きな空間を作り、みんなでゲームをしたことがあった。 教壇から降りてきた春田先生が、そこにあった子供用の低い椅子に腰掛ける。 僕の目の前である。 先生のスカートが大きく広がり、両足を無防備に広げた時、スカートの中の肉付きの良い二つの太ももと、その奥に潜む真っ白な布がはっきりと見えていた。 それを見てしまった僕はそのまま眼を逸らすことができないでいる。 見てはならないものを見ているんだという罪悪感と恍惚感。 それと、経験したことのない禁じられた世界へ入って行く時の、めくるめくような興奮とで、息が止まり、喉が乾き、くらくらと眩暈(めまい) がしたが、それでも僕は目を離すことができないでいた。 そして僕の内部に急激に膨らんでいくものがあった。 あれは何だったのだろう? 
あれこそ性欲と呼ばれるものだったのだ、と理解したのは、ずっと後年のことである。 長い長い間、あの光景を思い出すたびに僕は興奮した。 いや、現在でさえ、あの小学生の時の驚嘆を鮮明に再体験することができる。



竹登り

小学校の校庭の端には数本の樹が並んでいた。
何の樹だったろう? すぐそばの民家の屋根よりも高くて太い枝を広げていた。 その下は砂場になっていて、そこここに何本もの孟宗竹が垂直に立てられ、その先端は頭上の樹の枝に結び付けられている。 子供たちはそこで竹登りをしたものだ。
すでに身体に筋肉をつけた年長の子供たちは、その竹をぐいぐいと勢いよく上まで登ると、そのまま落ちるような速さで降りてくる。地上に降り立った子供たちが口々に、「あ~ 気持いい~」 と言った。 そして僕に向かって 「お前もやってみ」 と言うのだが、力のない僕には途中までしか登れない。 それからゆっくりと滑り降りてくる僕に彼らは、「そんなんじゃダメだ。 もっと勢い付けて滑れ」 と教える。 「それにもっと上まで登れよ。降りる時長けりゃ長いほど気持ちよくなる」
「気持ちが良くなる」 という意味が僕にはよくわからない。 たぶん、高いところから落ちるように滑り降りるスピード感で爽快な気分になるのだろうと推測したが、僕にはそれほど爽快なこととは思えなかった。

それから数日間、僕は竹登りを練習し続けた。 慣れてくると次第に上まで登れるようになり、降りるときも両脚の間に竹を挟んで滑り降りることができるようになった。 しかし子供たちが言うような爽快感も別になければ、面白くもなんともない。

そんなある日、いつものように竹登りをしていて、上から降りてくる時に両脚の間に何かの感覚を覚えた。
あれっと思いもう一度登ってみる。 今度の感覚は前よりも少し強い。 もう一度登る。 何度か繰り返していると、その下腹部の感覚はどんどん鋭敏になってきて、なんとも言えない妙な気持ちにさせられた。
そして何度目かの時に、それまで膨らみ続けていたそのくすぐったいような快感がいきなり頂点に達した時に、下腹部に卵の殻が破れるような唐突な感じがあって、僕はあやうく掴んでいた竹を離しそうになってしまう。 それはかつて一度も経験したことのない強烈な快感だった。 ようやく地面に降り立ってぼんやりしているうちに、やがて両脚の震えが止まり、雲のかかっていた頭のなかがはっきりしてきた。 こらえにこらえていた小便を出した時のような放出感があったから、手をそこへ入れて触れてみる。 どこも濡れていないのを確かめて僕はようやく安心した。
小学校3年生の時だった。



(続)




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