過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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2016年06月

新しい生活へ向かって

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表玄関



前に 『中庭のある生活』 で書いたあの1階のアパートが僕らのものになった。
僕らより前にすでに手続きをした1組がいたのでほとんど諦めていたのが、ひょんなことからこちらに回ってきたのにはちょっとした経緯(いきさつ)がある。
つい先日このビルの事務所から連絡があって最上階のペントハウスが空くことになったので、見てみないかと言う。 彼らとしてはわれわれと同様に1階のアパートは最初の1組に決まると見ていたので、今回の新しい物件はわれわれを優先して最初に知らせてくれたらしかった。
そこでさっそく行ってみると…

ビルの最上階 (といっても13階建てのわりと小さな建物なんだけど)の このペントハウスは東向きに部屋が並んでいて、そこからの町全体を見下ろす眺めはたしかにすばらしかった。 部屋数が2ベッドルームに2浴室、それにリビングルームとキッチンというのは1階と同じだが、全体のスペースは1階のそれよりも少し広いだろうか。 日当たりが良いというのが大きな魅力だったが、1列に部屋を並べただけの間取りは、L字型に配置された1階とちがってなんとなく趣きのようなものに欠けていた。 ここではいったんドアを閉めてしまえばそこには外界と完全に遮断された密室があって、外の自然に触れたいときには、エレベーターの中に長いあいだ自分を閉じこめなければならない。 1階のアパートのような、窓の外には常に中庭が見えていて地面に近く生活をしているという安堵感のようなものがなく、そのまますぐに自然の中へ出れる便利さもなかった。 しかも家賃は1階よりも3割増しに近い。
僕らのあいだでは議論の余地はほとんどなくて、「No」 を出した。

ここまで書けば頭のいい読者はすでに事情を察したと思う。
そう、1階のアパートに唾を付けていたあの1組が、僕らのあとにここを見せられてその場で気に入ってしまい、即座に決めてしまったそうだ。 そのおかげで1階のアパートがこちらにまわってきた、という僕らにとってはラッキーな展開になったわけである。


事務所では7月18日を入居日にしたいといっている。
われわれとすればそれはもちろん不可能に思えるが、事務所側ではそれを延ばすことはできないという。 いったん借りてしまえばあとはいつ入居するかはこちら次第だから、7月18日から借りることにして、実際の引っ越しは8月1日ということになるだろうな。
あと1か月とちょっと。

さあ、忙しくなりそうだ。


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裏へ出れば…





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長い眠り

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古い帳簿



わが家の地下室の片隅に小さな部屋がある。
物置として使っているその部屋には、昔やっていた木工の工具だとか写真用暗室の器具などがぎっしり詰まっていて、もう何年もそのドアさえ開けたことがなかった。 それが今回、引っ越しという大事件が起こりつつある中で、このドアを開けなければならない状態に追い込まれ、中に入っているものを一々調べ始めた。 リョービ製のテーブルソーや電気カンナ、ルーター、ドリルスタンドなどのパワーツールから、十何本もの大小のクランプやノミ、手鋸など、よくこれだけ揃えたものだ、と自分でも驚くほどの数の工具が出てきた。 それに加えて写真の引伸し機や乾燥機、マウントプレスなどもある。 昔さんざん使いこなしたものばかりでその一つ一つに思い出があり愛着があった。 思わずセンチメンタルになってしまう自分を、いけないいけないと叱りながらも作業はなかなか進まない。 おそらくもう2度と使うことはないだろうと思うと、重ねてきた年月の重さに、つい動作が止まってしまうのだ。

すべてを処分してしまうつもりだった。 捨てるものはほとんどなく、貰い手を見つけるのは難しくないだろうと思われるものばかりである。
そんな中に、見覚えのない小さな段ボールの箱を見つけた。 開けてみると3冊の使い古された帳簿のようなものが入っている。 明らかに僕のものでも家族のものでもなかった。 どこから紛れ込んだのだろう? 20年前にこの家へ越して来た時に、すでにそこにあったものに違いなかった。 手書きの帳簿のようなその本には日付や人の名前、それに金額の数字がぎっしりと書かれていた。
日付を見て驚いた。 1885年から1887年までの3年間となっている。 なんと130年前の記録なのだ!
それにしても何の帳簿だろう? 店のオーナーが金銭の出納をきちんと付けたように見えるが、それにしては売れた品目の名前などいっさいなくて、そこにあるのは人の名前だけ、というのが不思議だった。 と思いながら丹念に1行づつ読んでいくと、あったあった! ところどころに品目が書かれているじゃないか。 「1/4 ポンドのジンジャー … 10セント」 とか 「桃1缶 … 15セント」 とかがそれだった。 そうか、これを書いた人は町の食料品店の店主だったのだ。 その頃は買い物をして一々現金で払う客と(By cash とあるのがそれ)、ツケで買う客との二通りがあったようだ。 左欄がツケの金額、右欄が現金の売上げのようで、月末には左欄を総計してそれぞれのツケの客へ請求をしたのだろう。

上の写真に見える1886年といえば日本は明治19年。
その数年前に日比谷に鹿鳴館が建てられて西洋風の舞踏会が盛んに催され、当時の外務卿であった井上馨は欧化政策に失敗して1887年に辞職している。
そんな頃にこのオハイオ州の一都市で商売を営んでいた人の息子か孫かが、僕らが20年間住んだこの家の持ち主だったのだろうか。 家が建てられたのが1920年代だと聞いているから、それで辻褄は合うことになる。 そのあと、1996年に僕らがこの家へ越してくるまで、どんな持ち主の変遷があったのかは知る由もないが、その長いあいだ、この帳簿はずっとこの地下室に眠っていたに違いなかった。 それが130年ぶりに人の目に触れたことになる。 長い眠りだ。


この3冊の本が郷土史の資料として貴重なものなのか、それとも何の値打ちもないものなのか。
まったくわからない。
さて、どうしよう。

というようなことで、家の整理などまったく進まないこの頃だった。







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中庭のある生活

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石の中庭
Haute-ville, France



アパート探しが続いているこの頃、ようやくこれは、と思う物件に行き当たった。
さっそく申請料と頭金をうったのはいいが、ここに決まる確率は半々というところだろうか。 というのは、われわれの前に一組の借り手がすでに興味を示して同じ手続きをやっているので、彼等がほかのアパートに決めないかぎりこちらの番が回ってこないのである。
このアパートは市の歴史的建築物に指定されているというどっしりとした古いビルの1階にあり、そのビルはデイトンのダウンタウンを抜ける大きな川の畔に建っている。
まず1階というのが気に入った。 ビルの表玄関から重いガラスのドアを開けて守衛室の前を通り、感じの良い画廊を思わせる広いロビーを抜けて、二基のエレベーターの方へ歩いて行き、その横の通路へ入ると突き当りにこのアパートのドアがあった。 エレベーターを使うこと無しに簡単に外への出入りができるのが気に入った。 ビルの裏口から外へ出るとそこには大きな川が流れていてちょっとした公園のようになっている。 川に沿って散歩道とバイクルートがあった。 ビルの表玄関からは劇場やコンサートホールや飲食街までほんの数ブロックで、簡単に歩いて行けるのも、長いあいだ遠ざかっていた都市生活をエンジョイできそうだ。

われわれの見たこの1階のアパートは小さなコートヤードに面していて、L字型に配置されたどの部屋からも窓の外には石畳の中庭が見えて、水の出ていない噴水さえあった。 そこには鉄製の丸いテーブルやチェアーが幾つか置いてあり、部屋の中から見るその光景に、一瞬ヨーロッパのどこかの町にいるような錯覚を覚えた。 担当者の話ではここに降りてくる住民はほとんどいないそうだ。 庭への出口のドアは部屋のすぐそばにあるから僕ら専属の中庭のように使っていいと言う。 ラップトップを持ち出せばここで仕事もできそうだし、女房もイーゼルを組み立ててここで絵を描くという想像さえできた。


ビルの経営者からの連絡を待つあいだ、わが家では家の整理が進んでいる。 といっても気の遠くなるような大作業で、あい変わらずのろのろだ。 でもこのアパートが決まれば一大奮起できるかもしれない。



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歳をとったのかなあ (その2)

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自画像



この骨董屋はふだん余り足を向けることのない地域にあるので、たまに他の用事で近くまで来た時には時間さえあればのぞいて見るようにしている。
先日そこで目にしたのがこの置物だった。 6x9cm の木の台座に、見れば見るほど精巧に作られたミニチュアが乗っていて、ブルー系の色も綺麗だし、何よりも、自画像と題しながら本人とはまったく別の顔がキャンバスに描かれているのがおもしろい。 それをただのユーモアと取るか、もっと深く人間の潜在意識の描写が芸術だ、などと小難しく解釈するかは人しだいだろうが、僕はいっぺんで気に入ってしまった。 よく見るとキャンバスにピカソやレンブラントの自画像が貼り付けてあるのもいい。
そして $15 の札が下がるその置物を持ってレジスターへ立った時、僕はポケットに財布が無いことに気がついた。 家に置いてきたのだ。 ということは免許証も持たないで車を運転してきたことになる。 この骨董屋の女主人は50代のハッとするほど凄い色気のあるいい女で、僕がここへ来るのは売り物を見るためなのか彼女の顔(と身体)を拝むためなのか、自分でもわからない。 その彼女に訳を話して品物をリザーブしてもらい、急いでうちへ帰り、またいそいそと彼女のところへ取って返してようやく自分のものにしたのがこの置物というわけだった。

財布を持たないで外出するなど、以前ならまずなかったことが最近は時々起こるようになった。 それ以外にも 「ボケてきたのかなあ」 と思うことがいくつかあるのに気がついた。
そう言えば 『歳をとったのかなあ』 というタイトルでブログ記事を書いたことがある。
あれを書いたのはかなり以前のことで、今読み返してみて気がついたのはあれからもう5年以上たった今でも、そのほとんどは現在の僕にあいかわらず当てはまる。 ところが当てはまらない部分も出てきているしさらに新しく付け加えなきゃならない事実もある。 それはそうだろう。 なにしろあの時よりさらに5年分だけ墓場に近づいているわけだから。
つまり、『歳をとったのかなあ』 には改訂版が必要なのだ。 いや改訂版ではなくて増補版と呼ぶべきか。

まずあの時の記事をここにもう1度挙げてみると…


歳をとったのかなあ、とこのごろ思うのは、

・ マテニーが昔のように超ドライで飲めなくなったとき
・ 立ったままで靴下をはくときに片足でバランスがとれずよろめくとき
・ 運転中に大胆な追い越しや割り込みをしなくなったとき
・ 心の優しい醜女に魅力を感じたとき
・ 自分ほどテニスのうまくない30代の男性にシングルスで負けたとき (悔しくて夜眠れなかった)
・ 30年前に絶交した友の顔を懐かしく思い出すとき
・ 女性のヌードを見て純粋に芸術的に美しいと思うとき
・ しょうもないメロドラマを見て涙が溢れそうになるとき
・ 起ち上がるときに思わず 「よいしょ」 と声をかけているとき
・ 自分の容貌や服装が以前ほど気にならなくなったとき
・ 雲の流れや月の満ち欠けを時間をかけて眺めているとき
・ 自分の子供たちと電話で話しているときの声が以前よりも優しくなっているのに気がついたとき
・ 英語でファックとかシットとか汚い言葉を発言する回数が減ってきたとき
・ はらわたがちぎれるように怒っているのにニッコリと笑えるとき
・ 医者が次回の健康診断の予約を1年先に取ってくれたときに、それまで生きていたら、と冗談で答えたとき
・ パーティですご~く魅力的な女性が自分に強く関心を示しているのを軽く受け流せたとき
・ 老成した作家の名作が自分の歳より若いときに書かれたことを発見したとき



この中で1つだけ変わったのは、「自分の容貌や服装が以前ほど気にならなくなったとき」 という項だった。
5年後の現在、なぜなのか自分の容貌や服装が急に気になり始めたのである。 髭だって毎日ちゃんと剃る。 別に外出するわけでもないのに。 そして汚れたものを以前ほど平気で着ることができないようになった。 鏡なんてまず覗いたことのなかった僕が、今では1日に1度は鏡で自分の顔を見つめたり、外出前に等身大の鏡で全身をチェックするようになった。 この歳になって人の目を気にするようになったのは進歩なのか退歩なのか自分にもわからない。

というわけで上記のリストにさらに加えなきゃならないものの幾つかは…

・ 買い物をしていて、金を払う時になって財布を持っていないことに気がついたとき (これが今日の記事のこと)
・ 日常の会話やメールの文中で、「…だと思う」 とか 「…かもしれない」 という婉曲な表現が消えて断定的に言い切っている自分に気がついたとき
・ 急に思い出したことがあって急いで階下へ駆け降りたあと、何しに降りてきたのかわからないとき
・ 信号無しの横断歩道で犬を連れて立っている僕を見て、通りがかりの車が止まってくれたとき (サングラスをかけていたのでもしかしたらメクラと盲導犬に見えたのかも)   
・ 店屋の入り口で前にいる若い女性がドアを支えてにっこりと僕を優先してくれたとき
・ 風呂上がりに体重計に乗って体重が減っていないのを見てほっとするとき (増えているともっと嬉しい)。
・ 昔懐かしい映画俳優や有名人をテレビで見て、その加齢ぶりに息を呑んでしまうとき




歳をとったからといって人を愛せなくなるということはないわ。
でも、愛することで歳をとらないということはありえるわね。
ジャンヌ・モロー (1928 -)





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