過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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ハロウィーンのころ

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冬がすぐそこまできている気配がする。 あの寒くて長い冬が。
テニスショーツにポロシャツというのが僕にとっては夏のユニホームでつい夏中をそんな格好で過ごしてしまったのが、秋もたけなわとなった今はジーンズに長袖のシャツという季節となり、おしゃれにはまったく縁のない僕でさえ、今日はジーンズにするかカーキのパンツにするかとか、シャツの色合いや柄などにも数秒間だけ思案をしたりする。 以前なら手当たりしだいにそばにあるものを何でも着て、女房に言われるまで何日でも同じものを着用していたのを思うと、年をとって少し洒落っ気が出てきたというか、色気づいたというか、これは何なのだろう?

そんな僕だけどなぜかコート類にはけっこう選択肢を持っていて、ブルーの薄手のゴルフジャケットからフード付きの厚い冬用のもの、黒のレインコートもあれば消防車のような真っ赤な色をしたウィンドブレーカーやぞろりと長いウールのツイードの外套もある。 なかでも一番気に入っていたのはバイカー用の黒皮のジャンパーだったのが長年愛用したあと、一時自分がぶくぶく太ってしまって合わなくなった時に息子の太郎に譲ってしまった。 今ではまた体重がずっと減りむしろあの頃よりも痩せ気味になったので、息子から取り戻したいと思いながら彼がいつもそれを着ているのを見るとちょっと言い出せないでいる。
あ、それから忘れてはならないのが、チャコールブラウンのスエードのコート。 薄くて軽くて暖かく、1年を通して着用する頻度からいえばこれが一番かもしれない。


そんなわけで、コートを着る季節が到来している。
外に出かける前に、その日の気温によってどれにするかの選択に5秒間ほど考える。 さらにマフラーをするかしないかに3秒。 それから帽子はどうする? 白のベースボールキャップにするか、厚い毛糸のスキー帽にするか、それとも焦げ茶のボルサリーノ、あるいは無帽? それを決めるのにやはり5秒かかる。
問題は履物である。
僕は靴というものは3足しかもっていない。 黒の正装用、茶色のスリッポン、テニスシューズの3足で、それに夏はもっぱらサンダルで通した。 というのは、10足ほど持っていた靴を今回の引っ越しでまず絶対に履かないと自信のあるものを処分したら、結局のところ3足だけが残ったのだ。 それがつい先日、あれほどブーツを嫌っていた僕が何を思ったか、ブーツを1足手に入れた。 ブーツといってもくるぶしを隠すほどの短さで、これがあれば今年の冬は雪の中を自由に歩けそうだ。 早く冬が来ないかと今から楽しみだ。

考えてみると、十月に入ってからハロウィーンまでのひと月が、1年を通して僕のもっとも好きな季節だといってよい。
川辺りの並木道には地面も見えないほどに落ち葉が散乱して、川面を渡って顔に当たる微風にはしっとりとした冷たさがあり、風景の中の空気は透明で清々しい。

煙草が美味しい。





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大統領選挙

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11月8日の大統領選挙がすぐ目と鼻の先へ迫っている。
連日のテレビのニュースはどのチャンネルに回しても、ヒラリー・クリントンとドナルド・トランプの対決に絞られていて、世界中で起こっているほかのニュースは影を潜めたような感がある。
今回は、トランプというめちゃくちゃな候補者がメディアに格好の話題を提供しているおかげで、過去の大統領選挙とは比べものにならないほどの大騒ぎになった。

それにしてもまあ、トランプという男は次から次へといい加減な嘘八百を堂々と吐き続けて、その嘘がバレても絶対に謝ろうとしないで逆に開き直っているのには、立派なものだと感心さえしてしまう。 選挙運動中の候補者の演説の内容をファクトチェッキング(事実確認)をするのはメディアの役目なんだけど、クリントンでさえ演説の中で数字や人名や地名などのエラーが13%もあるという。 ところがトランプにいたってはその数字が80%以上となっていて、しかもその大半は単なるエラーじゃなくてまったくの事実無根だというから呆れる。
このところ話題になっているのは、彼に性的なハラスメントを過去に受けたという女性が次々に出てきて、きのうは11人目の被害者がテレビでインタビューをしていた。それに対してトランプは11件の事実を完全に否定して、すべてが彼を陥(おとしい)れるための政治的な陰謀だと断言している。

こんな書き方をすれば、今回の選挙でアメリカ国民から圧倒的に支持されるのはクリントンに間違いないような印象をうけるのに、事実は必ずしもそうではないところが実に不思議なことだと思う。 この二人の支持率がかなり接近していて、テキサスやフロリダなどの州では逆にトランプがクリントンを抜いているというのが、僕にはどうしても理解できなかった。
つまり国民の半分近くがトランプを支持していて、その中核をなしているのは労働者階級で大学教育を受けたことのない白人の男性だそうだが、中には女性や黒人やラテン系の人たちも多いという事実には驚いてしまう。 女性や黒人やラテン系の層に対して、トランプは偏見の姿勢を示唆しているにもかかわらずである。

メディアによると、従来の政治や政治家に飽き飽きした国民がトランプというエンターテイナーに新鮮な魅力を見出したと解説しているが、トランプの演説を聞いているとその内容や口調や動作についアドルフ・ヒトラーを思い出してしまうのは僕だけではないだろう。 ヒトラーが持っていたカリスマをトランプも確かに備えているようだ。

アメリカ市民じゃないから選挙権を持たない僕は黙って事の成り行きを眺めるしかない訳だけで、いやもし選挙権があっても必ずしもクリントンの政策を全面的に支持はしないだろうけれど、トランプが大統領になればアメリカは危険な状態になるのは確実だと思っている。 これは日本にとっても危険なことだ。
もともと僕は民主党の予選で頭からバーニー・サンダース候補にすっかり惚れ込んでしまい、彼のキャンペーンに少額の寄付を数回にわたってしたほどだった。 クリントンを抜いて民主党代表となってほしく、自分に選挙権が無いことをこれほど残念に思ったことは、8年前のあのオバマの選挙でさえ感じたことがなかった。 思えばサンダースの出現は現在のアメリカの状態では10年早すぎたのかもしれない。
あとは、クリントンの勝利を願うばかりである。


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タイの国王が亡くなられたこと

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タイのプミポン国王死去のニュースをテレビで見た.。
一瞬のうちに僕の思いは50数年前のあの夜へ翔(と)んでいた。

昔々、赤坂の迎賓館で催されたタイ国王夫妻のレセプションで、大学生の僕らのジャズオーケストラが演奏をしたことがあって、その頃まだ30代半ばだった若い国王が気軽に僕らに混じってサックスを吹いた、あの夜のことである。
おそらく厳選されただろう100人以上もの招待客はそのほとんどが在日タイ人で、日本人の招待客といえば駐タイの日本大使ほか数人しかいなかった。 そんな特別なレセプションで、大学バンドをやっていた日本人の僕ら十数人がジャズを演奏することになったのにはちょっとした経緯(いきさつ)があって、長くなるけどそこから話を始めよう。


高校を卒業したあと、僕は大学受験に失敗してしまった。
東京外語大一本と決めていて(たぶん自信満々だったから)、他のどこも受験しなかった僕はその結果として東京で浪人生活を送ることになる。 山陰の田舎からいきなりポッと東京に出てきて、めくるめく大都会の生活に浮き沈みしながら溺れそうになっている僕を心配して、いろいろと面倒を見てくれたのが郷里の先輩であった I さんだった。 その I さんとはほかでもない、今のペッシェクルードさんのことである。
そのペッシェクルードさんが、青山や上智や東大の学生6人で組んでいたジャズコンボに僕を誘ってくれてそこで僕はピアノを弾くことになるのだが、そこでクラリネットを吹いていたのが東大の留学生だったタイ人のブンサム・ウンパコーンだった。 1年後に僕が早稲田に入ったあとは、大学のジャズオーケストラに入部した僕がこのコンボを自然と抜けてしまい、そのあとバンド自体がいつまで続きいつ解散してしまったのかは記憶が定かではない。 確かなのはこのブンサムとペッシェクルードさんの交友はそれ以後もずっと長く続いていたということだ。

僕が2年生のとき、そのブンサムがペッシェクルードさんを通して僕に連絡を取ってきた。 タイ国王夫妻の来日があるのでそのレセプションで僕らの大学バンド、ハイソサエティ・オーケストラ(ハイソと呼ばれていた)に演奏してほしいと言ってきたのだ。 あとでわかったのは、ブンサムから相談を受けたペッシェクルードさんが僕が在籍するハイソを強く推薦してくれたらしい。
このブンサム・ウンパコーンのことをちょっと書いておくと、あの頃の日本に留学生としてきていたタイの若者たちは、例外なく上流階級や富裕な家庭の子女が多く、ブンサムもその例にもれず、ウンパコーン家といえば名家で代々タイ政府や皇室関係の仕事をしている。 このブンサムも後年になって国務大臣だか長官だかの要職についたと聞いている。 ひょうきんでいつもニコニコしていたブンサムの丸顔が今も目にある。

こういうわけで、ブンサム → ペッシェクルード → 僕 → ハイソ、のリンクを通してハイソとタイ留学生間に絆(きずな)が生まれ、今回の国王夫妻のレセプションのあとも、毎年ホテルオークラで催される彼らの盛大な新年パーティにはハイソが招待されることになる。



さて話をあの迎賓館でのパーティに戻そう。

タイ国王夫妻が会場の入口に姿を現したとたんに、参列者の全員が床にひれ伏して、前に伸ばした両腕のあいだに頭を埋める。 そのまま突っ立って無遠慮に国王夫妻を眺めているのは僕ら日本人だけである。 その時僕は、お二人の顔や動作から滲み出る常人には無い独特の雰囲気 (それがたぶん王室の気品とか尊厳と呼ばれるものなのだろう) に強く打たれたのを覚えている。

そのあとどんな順序で何があったのかは僕の記憶からまったく落ちているが、忘れられないのは最後にバンドの演奏になった時のこと。
国王がアルト・サックスを抱えてステージの真ん中に席を取り、譜面が渡される。 周りでハイソのメンバー達があれこれと演奏上の打ち合わせをする中で日本語の判らない国王が謹厳な顔つきでじっと座っているのを見て、バンドのマネージャーをやっていた4年生のUさんがグランドピアノの前の僕のそばへ来ると
「おい、サマオー(王様のこと) はかわいそうにツンボ桟敷じゃないかよ。 お前行って説明してやれよ」 と日本語のわかるタイ人が聞いたら卒倒しそうな言い方をするので。 少しだけ英語ができた僕がそこへ行って譜面の説明をするのを、国王はニコリともしないで頷いていた。 気難しい人というよりも、感情をあまり外に表さない人なのだろう、と僕は思った。

演奏が始まるとあとはダンスとなった。
最初にフロアに出てきて踊り始めたのはシリキット王妃と日本大使で、そのあとに正装した幾組かの男女が続く。 僕の眼は優雅にワルツを踊る王妃の姿を自然と追っていたが、こちら向きになった王妃と眼が合ったとき、彼女がはっきりと僕に微笑を送ったのに驚いた。 それから何度か眼が合い、眼が合うたびに王妃が優しく微笑(ほほえ)むのを見て、すぐそばでボンゴを叩いていた同級生のSが、「おい、シリキット王妃、お前の方ばかり見てるぜ」 とからかった。
曲が終わった時に王妃は、相手の身体から腕を解くと振り返って真っすぐにピアノに向かって歩いてくる。 あわてて椅子から立ち上がってそれを迎える僕に向かって、王妃が英語で言った。
「あなたのピアノ、とても素敵でした」。
僕は慌てて 「ありがとうございます」 と答えて頭を下げる。


その対面シーンが報道陣に写真を撮られ、某女性週刊誌のグラビアに大きく載ったものを僕は長いあいだ大切に持っていたが、これも後年アメリカに渡った時に日本に残したままいつの間にか失ってしまった。
形のあるものはいつか失われることがあっても、心に残るものは誰もどんなにしても取り去ることができない。 永遠に自分のものとして残っている。

プミポン国王の生前の写真を見ると昔の面影が紛れもなくそのまま残っているのに比べて、50数年ぶりに対面したシリキット王妃は見分けがつかないほど変わっていた。 昔の清楚さや優しさが消えて、強靭なたくましさのようなものがそこに見えるのは、長いあいだ病臥していた夫のことや、その間の王室家族の統制、しかも自身の病気などを乗り越えて、タイ国の母として君臨してきた結果なのかもしれない。
しかし、あの迎賓館の夜の、プミポン国王の若々しい謹厳な顔とシリキット王妃の笑顔と言葉を、僕は忘れることはないだろう。

(終)



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トシオとコータロー (追記)

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米子幼稚園



この写真を探し当てるのにまる2日かかった。
本来なら前回の記事にいっしょに載せたかったのに、どうしても見つからないので諦めて 「トシオとコータロー」 を公開してしまったあと、やっぱりあの写真は載せたい、と思い直して大々的に捜索を始める。
引っ越しのドサクサでどこかに紛れてしまったらしい。 ようやく片付いたばかりの新居なのに、またまた僕が家中の戸棚や本箱をひっくり返して何十冊というアルバムを取り出したり、整理されていない写真の束を床にばらまいたりするのを見て、女房は口の中で言葉にならない小言をつぶやきながら、それでも表立った抗議がこないのは、コータローの写真を探しているのを知っているからだった。 そうでなくともこの数日間は、友人の死で沈んでいる僕をまるで腫れ物に触るように扱っている。

「おまえどこに隠れてんだ。 いい加減で出てこいよ」 などとぶつぶつ言いながら、まるで、紛失した宝くじの当たり券を探すような勢いであちこちを引っかき回していたら、この、手札版よりもずっと小さな色褪せた写真は分厚いプリントの束の中からひっそりと出てきた。



さてそこで…

子供達の1番前で頭に大きな絆創膏を貼って、指をくわえているのがコータローである。
そういえば、幼稚園から小学校へかけてのコータローはどの写真を見てもなぜか必ず指をくわえている。 くわえる指が1本の時もあれば2本の時もある。 中には両手の指を1本づつ口の中へ入れている写真もある。 あの習性がいつ無くなったのかを訊こうと思いながら、ついいつも忘れて訊かないままに時が経ってしまった。 もう訊けない。
そして、コータローのうしろで T の野球帽をかぶった、まるで皇太子のように気品のある少年がトシオだとは、説明するまでもなくすでにお分かりでしょう。

さらに付け加えると
先生たちの中で向かって左から二人目に顔を見せているのが僕の母である。







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トシオとコータロー

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米子市 渡部邸にて 2002年 
撮影 古門吉郎



コータローが死んでしまった。
これには参った。

僕の引っ越しで住所や電話番号が変わったり、インターネットの接続がオフになったりしたために、しばらく彼との交信が途絶えたあと、ようやく連絡が取れるようになったのは9月に入ってからだった。
つい2週間前の彼からのこのメールはふだんより饒舌で、そこには忍び寄る死の影などまったく見られない。


トシオの近況がわかってホッとしてる。

我が家は父も母も妹も癌で亡くなっており、「わしも死ぬ時は癌だ!」 とカバチをたれていたら
案の定、癌に取り付かれてしまった。
3月の始めに、ホームドクターの紹介で労災病院に不整脈の検査に行ったら
「あなた不整脈どころでありませんよ」 と即刻入院させられた。
自覚症状全く無し。 その後検査するうちに内臓障害も見つかり色々治療を受けているが
一番参ったのは最初の1ヶ月半続いた水耕栽培 (24時間の点滴)で
その結果全身の贅肉、筋肉が落ちガリガリになってしまった。 70キロあったのが 55キロまで落ちた。

病気の話を書くと延々と続くのでこのくらいにして今日は引っ越しの話をしよう。
トシオの引っ越しが大変だったのはブログで読んで知っていた。
それに前回のメールで、コータローなんかこんな大きな引越はやったことがないだろう、とトシオが書いていたけど
実は大きな引越は所帯を持ってから2回経験している。
最初のは大阪から東京。 2度目は東京からUターンして米子だったが、この2度目の引っ越しが大変だったんだ。
夕方荷物を送り出したあと、家族は新幹線で京都へ、そこから夜行で米子に朝着いて荷物を受け入れる、という予定でいたのが
台風の接近でJRのダイヤはズタズタ、東名、名神の高速道路も海岸に近い所は波をかぶっていた。
そこで予定を変えて明け方に岡山まで汽車で行き、岡山駅でタクシー運転手とさんざん交渉して
切符の払い戻し金でやっと米子にたどり着いたと思ったら、トラックはまだ着いて無いし、やっと着いたと思ったら
荷物がビショビショに濡れていたり、と大変だったよ。

トシオの引っ越し話でこんな事を何十年振りに思いだしている。
何はともあれまず病気を治します。

9月16日
コータロー

このメールが届く前に僕はコータローの奥さんと電話で話しをしている。
久しぶりに聞く彼女の声が、思ったよりずっと明るいのにほっとする。
コータローは身体の痛みがまったく無く (それを聞いて嬉しくなる) 食欲もあって、なんでも好きなものを食べて良いと医者が言っているそうだ。 あまりにも痩せすぎたので人に会うのを嫌って面会はしないけれど、電話と携帯メールはやっているという。 そういえば同じ郷里仲間のY子さんの話では、コータローは電話の声も元気でひょっとしたら治るかも、と言っていたくらいだったのに。
上記のコータローのメールに僕は返事を書いたが、何日経ってもコータローからは何も言ってこなかった。



この数年間に僕は大学時代の仲間を二人失っている。
長い人生の中のもっとも華やかだった青春時代を共有した連中が、相次いで消えてしまった時、僕は身体中が寒々とするような寂しさを感じた。
しかし、コータローと僕が共有したのは青春だけではない。
物心ついた子供の時以来、事実上の全人生を分け合ってきた。 70年にわたるつき合いだった。



9月30日の未明に僕は、まるで墓場から蘇った死者のようにポッカリと目を覚ます。 こんなことは珍しい。 時計を見ると午前4時半である。
どうしても眠りに戻ることができないままに、僕は起きだしてキッチンへ入るとコーヒーの豆を挽く。 フレンチプレスのコーヒーができるあいだに仕事部屋の PC のスイッチをオンにする。
メールが1通入っている。 郷里のY子さんからだ。

            トシオ、さっき、午後5時半にコータローが死んでしまった。 悲しい…


その文字を凝視しながら、深いため息をつく。
あいつ、俺の誕生日に死にやがった。
そうか、日本時間の午後5時半といえばこちらの午前4時半だ。
コータローは俺を呼んだんだ。
「トシオ、起きれや。 わしゃ先に行くで」。


***





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