過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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September30

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盂蘭盆会 (うらぼんえ) 3

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おーい コータロー、俺だぜ



8月15日は夕方に送り火をして霊をお墓に送り帰す。
送り帰してしまえばそれでお盆はお開きとなるわけだ。
最後の日だからといって特に忙しいということもない。 仏前を訪れる客も少なくむしろこの3日間では一番暇な日となった。 それで思い立って僕はコータローに会いに行くことにした。 今日の午後ならあいつが送り牛に乗ってゆっくりと墓に帰る前に会って話ができる。 そうすれば墓参りの方を省略できるから日数に余裕のない僕には都合が良いのである。

コータローの血筋は米子では名家だからたとえば仏壇などわれわれ庶民の家にあるものよりずっと大きく立派なものであった。
そこにはコータロー以外に彼のご両親、妹のきぬよちゃん、そして米子市長を何期も勤めたお祖父さんの完治さんの位牌がありその誰もが僕には懐かしい人達だった。
コータローとはなにしろ幼稚園以来70年の付き合いである。 僕がアメリカに姿をくらました20年を別にすれば僕らのあいだには常に親密な接触があった。 あの時、行方不明にしていた20年後にいきなり彼と電話で話した時の彼の喜びようを、まるで昨日のように覚えていると話してくれたのは、今日初めてお目にかかるコータローの上の娘さんだった。 奥方がたててくれた抹茶を頂いたり僕のために作ってくれたというお汁粉を食べながら話は尽きなかったが、その間にも訪問客が絶えない。 名残を惜しみながら退去する。

コータローがいなくなった米子の町はもう僕にとっては前の米子ではなくなってしまった。





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殺生の不殺生



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焼酎



盆の最後の夜。
送り火をして霊を送り出しながらまた作法通りに団子を食べる。
やがて燃えていたオガラが一筋の煙を残して消えてしまうと、それで一応は盆の終了ということになり、あとはすぐ近くの墓へ参るだけとなった。 龍子さん以外の女性連はそれぞれの家での盆の行事がありながら、毎日ここへ来てすべてをやってくれた。 昨夜も近所の小学校の校庭で盆踊りをやっていて覗いてみたい気があったにもかかわらず、彼等がこしらえたバラエティに富んだ精進料理を食べながら酒を飲んでいるうちに出かけるのが億劫になってしまったのだ。
そんな彼女達にお礼を込めて今夜の夕食は外で食べないか、と提案してみた。 予期したようにまず全員に拒否されたあと、それにもめげず再三の勧誘を試みたあとようやく一人を除いてうんと言ってくれた。 その一人は行きたいけれど家族の集まりが予定されていると言う。 それで女性3人と出かけることになる。 調べると盆で休んでいる店があったが開いているところもかなりあった。 そのどれもが鮮魚を食べさせる店である。 盆に殺生の料理はまずだめだろうと思ったら、驚いたのは全員が魚を食べるという。 そうか、なにしろここは日本有数の漁港の町なのだ。 昔から魚は殺生にならないというしきたりでもあるのかもしれない。

魚といえば…
今回この町へ来てから1周間が経つが、来る日も来る日も僕は魚を食べ続けていた。 車で数分の所に魚河岸がありそこでは獲れたばかりの魚介類がなんでも手に入る。 焼いたり煮たりが面倒で、というのは台所を女性たちに占領されていたから、とにかくなんでも刺し身で食べた。 買ってきた幾種類もの新鮮この上もない魚や貝を肴に酒を飲むなんてなんという贅沢! またタダ同然の値段で買ってきた魚のアラを使って味噌汁をさっと作り、豊富な魚貝をどっさりとご飯に乗せればそのまま豪華な海鮮丼の夕食となる。 よくもまあこんなに食べ続けられると皆に呆れられ、自分でも驚くくらい毎日毎日魚を食べた。 アメリカで食欲不振をかこっていたのが嘘みたいにここではどんどん食が進んだ。

レンタカーをしていた今回の滞在では、運転していった先で酒が飲めないのが残念といえば残念だったが、それがあまり苦にならなかったのは、家に帰ればレストランで出す魚介類と同じものがいくらでも食べられからである。

魚に明け魚に暮れた日本旅行が終わってアメリカに帰って来た。
シカゴ行きの全日空の機内でも焼き魚などが食事に出たが冷凍のものを食べる気がしなくて、和食を避けて洋食を選んだのも、今までの僕には無かったことだった。
そして数日後、まだ時差ボケでぼんやりとする頭の中で思っていたのは、ああ魚が食べたい、ということだった。

(終)






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盂蘭盆会 (うらぼんえ) 2

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山門





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天蓋





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本堂





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位牌堂





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地蔵





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水木しげる




さて今日は8月の14日、お盆の2日目である。
朝から女性陣がきのうと同じく仏前の膳をこしらえたり、われわれ自身の朝食を準備する中で、僕はいつものように自分の数少ない仕事の1つであるコーヒーを淹れる。
今回の帰国でアメリカから新しいステンレス製のフレンチプレスをわざわざ持参したのは、うまいコーヒーを自分が飲みたかったからだが、ここに来てみると龍子さんも他の女性達もみんながコーヒー党だとわかった。 いつもは毎朝ドリップコーヒーを飲むという彼女達が、僕の淹れたフレンチプレスのコーヒーを 「わー美味しい!」 と 賞賛してくれたのは嬉しかったが、わずか3杯しか作れないこのフレンチプレスではたて続けに2度淹れなければならなかった。

さて今日は午前中は寺参りをすることになっていた。
この寺は車で5分の所にある。 考えてみれば日本で寺院の門をくぐるのは50年振りになる。 まず庫裏の方の玄関を開けて声を掛けると出てきた若い方丈さんにお布施を預ける。 それから強い香の匂いに満ちた本堂へ上がって参拝したあと、裏手の位牌堂へ回って代々のY家の仏前の水や花を取り替える。 ここについ最近参加したばかりの叔母の真新しい位牌もそこにあった。

そのあと寺院の境内を歩く。
建築物が大きな割に墓の敷地が意外と小さいのは、このあたりは墓を寺にではなくて自宅の近くに持つ檀家が多いからに違いなかった。 叔母の入った墓のように。
驚いたのは水木しげるのこれは墓ではなくて記念碑が境内に建てられていた。 漁業だけに頼っていた古い境港の町は、水木しげる旋風とゲゲゲの鬼太郎政策で様相を一新してしまった。 全国から来る観光客のお陰で町の経済がとたんに潤ってしまったのは良いことには違いないが、明治の昔からある電車の駅など古い名前を、10年ほど前に全部鬼太郎のキャラクターに変えてしまった。 余子(あまりこ)駅が子なきじじい駅に、後藤駅がどろたぼう駅に、三本松口駅がそでひき小僧駅、というぐあいである。 ずっと以前に叔母を訪ねて子なきじじい駅に降り立った僕がこれはやり過ぎだと憤慨したのを覚えているが、今回同じ駅に行ってみたらちゃんと昔の名前に戻されていたので安心した。 何事もやり過ぎはいけない。


寺参りのあとは家に帰って軽い昼食をとり、そのあと女性連は親類の寺や墓を車で6か所も回る予定らしかったが、僕には直接は関係ないということでそれは免除となる。 その代わり留守番という役を仰せつかった。 人が仏を訪ねてくるのに留守ではまずい。 ちゃんと座敷に上げて仏間へ案内すること、来客が線香を上げている時は神妙に後ろに正座していること、ちゃんとお茶とお菓子を出すこと、お帰りの時には仏前返しの引き出物をお渡しすること、引き出物は2種類用意してあって故人と親しかった人にはこのお茶の包、遠い親類や近所など通り一遍の客にはこちらの蕎麦の包、とちゃんと区別がされてある。 客が故人と親しかったかどうか僕なんかに判別できるわけがないのに、と思ったのは余計な心配だとあとでわかった。

玄関のベルが鳴るので出て見た時に、たいていの来客が僕を見てちょっとびっくりしているのがわかる。 この家を訪ねて男性が出てきたことなど長いあいだ無かったからである。 それに葬式の時にも僕の顔を見ていないわけだし。
「私は故人の甥です」 と自己紹介をする。
「ああ、あのアメリカの…」 とすぐに大きく頷く客は生前の叔母が親しくして僕のことを話していたからに違いない。 これはまちがいなくお茶組だ。
「はあ?」 とわからないような顔をするのはこれはもう蕎麦組と決めた。
蕎麦組のある中年の夫婦など
「甥子さんと言いなったけどどこから来なさったです?」 と尋ねたので
「アメリカです」 と答えたら二人で声に出して笑われた。
冗談だと思ったらしい。


夕方になって女性達が帰宅するとそのまま叔母の墓参りをする。
石灯籠に灯をともし花の水を換え砂をきれいに掃いて線香を立てるのはきのうと同じ。 女性達が今日1日の訪問先のことを声に出して叔母に報告するのを聞きながら僕も手を合わせる。
こうして盆の2日めが終わった。

(続)





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盂蘭盆会 (うらぼんえ) 1

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墓参り


田舎の仏事は複雑でしかも厳しい。
それがお盆となるとなにしろ1年を通して仏事の最大イベントだから、その複雑さは頂点を極める。
しかも初盆となるとさらである。

僕は盆といえば子供の頃の記憶が断片的に残っているだけだ。 成人してからはわが家の仏さん達はとっくの昔に永代供養して墓もなくなっているので、お盆に日本に帰るというのは今回が初めてなのだった。
そういう僕には盆という行事に関してはもちろん何の知識もないが、亡くなった叔母の長女で東京に長く住んでいる龍子さんでさえ戸惑うほどいろいろと細かなルールがあった。 だから彼女の従姉妹でこの地域に住む二人の女性の全面的な助けがあってようやく無事に盆を迎えることができたというわけだ。

まず8月13日の朝。
仏壇に供える膳の用意から始まった。
ご飯を炊き味噌汁を作り高野豆腐や野菜を煮付けるなど、女性3人が忙しく立ち働く中で僕に与えられた仕事は、キュウリとナスに足を刺して迎え馬と送り牛を作るとか、仏壇の両側に置く灯籠の設置とか、玄関前の生け垣の伸びすぎた葉の伐採だとか。 それを終えてしまうともう何もやることがなく、あとはテレビでぼんやりと高校野球を見ていた。
午後になると女性連と連れ立って墓掃除に出かける。
墓は寺の境内にあるのではなく、この家からほんの数百メートルのところ、小学校のグランドを横切って近道をするとすぐのところに、叔母が嫁いだ先のY家の本家や分家の墓が幾つかあるだけの小さな場所だった。 草を抜き新しい砂を足し墓石を磨き花を活ける。 そして夕方にもう一度ここを訪れて石灯籠に灯を入れるのだそうだ。

夕方になると庭の敷石の上で迎え火を焚く。 それを囲んでこれもさっき作られたばかりの団子を食べるのがしきたりだという。
その通りにする。
これで祖先の霊がいつでも帰ってこれる用意が整ったわけである。
それからもう一度墓参りに出かける。 「お母さん、早く帰ってきてね」 と龍子さんが墓石に話しかけている。
ここに眠る叔母とそのご主人、そしてご主人の両親と、僕の記憶にある人々の顔を思い浮かべながら手を合わせた。

(続)


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仏間






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