過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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ニューヨーク、ニューヨーク

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群衆の中の孤独
New York City


ボストンには二つのジャズクラブがあって、そのどちらも Boylston Street にあった。
実はこの二つのクラブはオーナーが同じ、所在地も同じだった。つまり、一階が "ジャズワークショップ" でその地下が "ポールズモール" というわけだったのだ。一階と地階では同じジャズクラブでもかなり雰囲気が違っていた。"ポールズモール" はカバーチャージがあり、ドリンクの値段も高めで、店内の装飾もナイトクラブらしく暗くてムードがあり、ジャズ好きでちょっとおすましの大人が軽い食事をしながら酒を飲むのに向いていた。ボサノヴァのアストラッド・ジルベルトだとか、エロール・ガーナー、バディ・リッチなどがここに来ていて、ハードなジャズというよりはどちらかというとエンターテインメントの要素が強かったようだ。
それに比べると一階の "ジャズワークショップ" はガランとした殺風景な室に小さなステージとピアノがあるだけで、あとは無数の小さな丸いテーブルと置けるだけのイスを置いて、人をぎゅうぎゅうに詰めこんだ。こちらは昔ながらの気取らない、生粋のジャズ愛好家のための場所だった。 僕らがバークリーの学生証を見せるとドリンクも安くなるという特典があり、いつもそこではよく知っている教授やクラス仲間の顔があって、学校の教室がそのままナイトクラブに移されたという感じがあった。ここで僕はマイルス・デヴィスやロイ・ヘインズ、ビル・エヴァンスなど、数えきれないほど多数の演奏をここで聴いた。それというのも、ジャズの本場ニューヨークに演奏に来る知名なミュジシャン達が、必ず小遣い稼ぎにボストンに寄るからであった。

そのころ、ニューヨークの著名なジャズクラブのひとつ "ヴィレッジ・ヴァンガード" では毎週月曜の夜、サド・ジョーンズとメル・ルイスのオーケストラが演奏していた。当時アメリカで最も評判の高かったこのビッグバンドは、一応レギュラーのメンバーが決まっていても、その晩ギグの無い仲間のミュジシャン達が気軽に楽器持参で立ち寄って参加するので、行くたびに (今日は誰が来るだろう) という予想のできない楽しみがあった。僕らボストンの音楽学生はいつも数人の仲間を募ると、月曜の午後に、ボストンから車で4時間以上かけて、Greenwich Village にあるこのジャズクラブまでよく遠征をした。 この遠征に参加するために、いかにして月曜の午後の授業を取らないようにするかに学生たちは苦労していた。

僕が初めてこのクラブに行ったのは、実は音楽の仲間とではなく別れる前の妻とだった。予約も無しにいきなり入って、席はもう無いと言うメートルディーに10ドル札を握らせると、クラブの最後尾の柱の陰になるような最悪のテーブルをあてがわれた。そのすぐそばにあるバーでそれまで飲んでいた数人の演奏者たちが、ステージに向かって歩き始めた時に、僕らのテーブルの横を通りかかったその中の一人が、僕の顔を見て「XXX?」と大きく僕の名を叫んだ。ピアニストのローランド・ハナだった。

実は彼が数か月前の2月、ボストンの "ジャズワークショップ" に自分のトリオを引き連れて来たことがあった。僕は友達数人と連れ立って出かけたのだが、あいにくその夜は天候が悪く、外はかなり強い吹雪になっていた。クラブ内の聴衆はわれわれ以外に数人いるだけで、その数人も最初のステージが終わるとさっさと帰ってしまい、悪天候のために、最後のステージをキャンセルして店を早めに閉める、との店内アナウンスがあった。そのあとローランドや他のメンバー達が僕らの席までやって来てしばらく雑談をしていて、僕らが音楽学校の学生だと分ると、とたんに話が弾んでしまい、今度はみんなで座りこんでビールを飲み始めたのだった。やがてローランドが日本食が食べたい、と言い出したので、僕が知り合いのレストランに電話をして、閉めようとしていた店を無理を言って待ってもらうと、みんなで外に飛び出して、降りしきる雪の中をまだ辛うじて走っていたタクシーに分乗してレストランまで駆けつけたのだった。

ローランド・ハナの名前はもちろん日本にいた時から良く知っていた。60年代のジャズピアノ界で、ハンク・ジョーンズやトミー・フラナガンと共にデトロイトの三羽ガラスと呼ばれた彼は、その頃の黒人のピアニストには珍しく、ニューヨークのジュリアード音楽院の優等生だった。しっかりしたクラシックのテクニックの上に展開される、知的で洗練された彼のスタイルは、そのころ全盛だったファンキーとかバップとはひと色もふた色もちがっていて、ずっと前から僕のお気に入りだった。

そのローランドが、ボストンで僕と会ったすぐそのあとに、サド・ジョーンズのオーケストラのレギュラーメンバーになっていた事を僕は知らなかった。
「あの晩のボストンは信じられないくらい寒かったね」と黒い大きな手を伸ばして来たので、それを固く握って握手をすると、僕は自分の妻を紹介した。ローランドはちょっとの間何か考えていたが、人差し指を立てて (ちょっと待て) と合図した後どこかに消えてしまった。と思ったら、店のマネージャーがウェイターに指揮して、ステージの左端、ローランドの演奏するグランドピアノのまん前、手を伸ばすとピアノに触れそうな近くに、丸いテーブルを置いてイスを2個運んでくれた。 "Friends" のための特別席である。
その晩の飛び入りは、頬をカエルのように膨らませてラッパを吹く、あのディジー・ガレスピーだった。

2002年11月13日、ローランド・ハナが70歳で亡くなった。


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コメント:

* ズージャ

september さん、こんにちは。
あなたのblogに出会い、あの頃のアメリカのモダンの話を読むにつけ、青春のシンボルだった音楽が再び帰ってきた感があります。何故モダンを聴くのを止めたのか記憶はありませんが、1991年のモーツァルトの没年月日まで、モーツァルトだけを聴いていました。
その後これも理由が明確ではありませんが、突然バロックを聴きたくなり、NHK-FMで朝6時から何十年もバロック音楽を放送しており、早起きしてそれを何年も聴いていました。特にモンテヴェルディやヴィヴァルディ、マルチェッロ、ヘンデル等が多く、やはりヴェネツィアが頭にあったのでしょうか。
そして再びモダンです。今度は一辺倒にならないようにしています。
2010/11/21 [pescecrudo] URL #j9tLw1Y2 [編集] 

* Re: ズージャ

ペッシェクルードさん、こんにちは。
実は私は今 Domenico Scarlatti にはまっているのです。
バロックのなかでも彼のリリシズムのようなものにすごく新鮮さを感じてしまいました。
何か今まで長いあいだ見落としていたものをひょんなことから見つけ出したような喜びです。
彼はナポリ生まれといっても生涯の大部分をポルトガルやイングランド、スペインで過ごしたようで、ローマにもしばらく滞在しました。そのせいか彼の音楽には他のイタリアン・バロックの臭味が感じられません。

モダンジャズは私もふだんしょっちゅう聴いているわけではありません。
時々無性に懐かしくなる、そんな音楽です。
2010/11/22 [September30URL #MAyMKToE [編集] 

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