過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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アヴィニョンの橋の上で

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法王たちの夢のあと
Avignon, France


ヨーロッパをめぐって旅行をした事のある人なら、どこの国のどこの町へ行っても、古代ローマ帝国の足跡を見つけることほど簡単なことはない。 彼らがいかに偉大な文明を持っていたかを実感するのには、イタリアを訪ねるより、その周りの国へ行ってみたほうが話が早いのではないか、と思うぐらいである。
しかし、このアヴィニョンが、そういうどの都市とも違うのは、法王庁 (Palais des Papas) の存在だろう。 厚い城壁に囲まれたこの宮殿に7人のローマ法王と2人のアンチ法王が1309年から1377年まで住んでいた。 重要なのは、ローマに住む法王たちがはるばるこのフランスのアヴィニョンまで遊びに来て、ここを別荘のようにして休暇を楽しんだ、というのではないということだ。 彼らは法王としての宗教のメッカをローマから完全にここに移して、この町から全ヨーロッパに為政をしていたのだ。

僕は歴史学者でもなんでもないが、これは実にすごい事ではないかと思う。
考えてみよう。
もし徳川家康が、松葉ガニとか二十世紀梨とか美保関の白イカだとか、自分の好みの日本海の珍味を、江戸にいたのでは毎日賞味できないのを嫌い、山陰は伯耆国の米子城に一族郎党を引き連れて移って来たとしよう. 米子遷都である。 そうすると、当然各藩の大名たちも参勤交代のために米子に屋敷を構えなければならないし、商人たちもいっせいに米子をめざして日本中から集まって来る。 寺社もこぞって建てられるだろうし、近くの境港など、たちまち日本一の貿易港になっていただろう。 米子の町は現在の100倍以上の巨大都市になっていたのはまず間違いがない。
それと同じようなことを法王クレメンテ五世はやってのけたのだ。 しかしフランス人であったクレメンテ五世は出身地のボルドーのワインが飲みたくてここに来たわけではなかった。 14世紀初頭から犬猿の仲にあったイタリアとフランスの抗争を中和するために彼はここに住むことにしたらしい。 彼のあとの6人の法王たちがすべてフランス人だった、という事実は当時のフランス側からの圧力がいかに強力であったかを思わせる。 第2のローマと呼ばれたアヴィニョンはたちまちヨーロッパでもっとも富と文化の栄える町となる。 そしてここでの法王たちの生活は、豪奢でありながら腐敗と堕落に満ちていたといわれる。

僕の運転するメルセデス・ベンツのヴァンが7名を乗せてアヴィニョンをめざし、やがて遠くにあの有名なアヴィニョンの橋が見えてきた時、車内の誰からということもなく歌が始まった。平均年齢54.8歳の僕らは、まるで6歳の子供のように声をはり上げて拙(つたな)いフランス語で歌った。


Sur le pont d'Avignon
L'on y danse, l'on y danse
Sur le pont d'Avignon
L'on y danse tous en rond
Les beaux messieurs font comm' ça
Et puis encore comm' ça




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コメント:

*

法王庁の中に入りましたが、中はがらんどうで、強者たちも夢の後という感じがなんだか寂しく漂っていました。
その逆に街はカフェなどもお洒落でレトロな感じで可愛かったりして、長閑で活気があった気がします。
2011/06/18 [micio] URL #O/XG6wUc [編集] 

* Re: No title

micioさん、そうですね。暗い回廊のそこここから在りし日の亡霊たちが呼びかけてくるような気が私もしました。
2011/06/18 [September30URL #MAyMKToE [編集] 

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