過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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南禅寺-京都 (2/3)

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地下鉄 烏丸御池駅


京都の2日目は自由行動という事になっていた。自分はまだ1度も見た事のない南禅寺が、我々のホテルからそう遠くない場所にあるので行ってみたいと言うと、ほかの4人がいっしょにつき合ってくれるという。それで僕としては初めて京都の地下鉄に乗る事になった。同行の東京人たちでさえも改めて賞賛するくらいすばらしい設備だ。プラットホームとレールの間が仕切りで完全に遮断されているのは、アメリカの大空港内のシャトルを思い出させる。
それにしても僕が困ったのは、自分の記憶にある古い雅(みや)びの京都の街と、このスタートレック的な地下の世界がどうしても噛み合わないのである。たとえば駅名がそうだ。御陵(みささぎ)、椥辻(なぎつじ)、太秦天神川(うずまさてんじんがわ)、などと詩的で美しい名前が読めないだけではなく、超近代的なメトロの駅に付ける名前としてはかなり前衛的な感じがする。逆に言えばその対比がユニークで味があるとは言えそうである。まるで源氏物語の世界でミスター光源氏が、ナンパした桐壺さんをポルシェに乗っけてどっかにさらって行くような、あるいは鳥羽僧正というオッサンが、パイプをくわえながら動物の漫画をインクジェット プリンターで印刷をしているような、そんなちぐはぐな面白さを感じてしまう。



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南禅寺 法堂


仏教を講義する場所が禅宗では法堂(ほっとう)、通常の寺院では講堂と呼ばれる。この法堂は一度火災で焼失したあと、明治の終わりに再建された。現存する禅宗の法堂では最大のものだという。
というような史実を僕が学ぶのは、実はずっとあとになって旅から帰った後に写真の整理をする時で、その場に臨んでいる時にはほとんど注意を払った事がない。歴史に興味が無いというのではなくて、そんな説明を丹念に読む時間があれば、それよりも写真を撮りたいからだった。それはヨーロッパでも同じだった。何かしら自分の本能を誘惑するもの、つまり僕に写真を撮られる事を待っているものを求めて、僕は自分を取り巻く世界を貪欲に見回しながら歩き回る。日本最大の法堂だから撮ったのではなくて、何も知らずに撮ったものが、たまたま南禅寺の禅宗法堂だったというわけだ。




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天授庵 西庭


天授庵の門前を過ぎようとした時、僕は急に同行の者たちと別れて、理由もなくまるで呼び込まれるように、観覧料を払って中に入っていた。人の群れている境内と違って、ここはほとんど人影が無く、時が止まってしまったような静かで音のない世界だった。書院を挟んで東と西に2つの庭があり、東庭がすっきりとした典型的な枯山水なのに比べて、西庭はずっと広く、池の周りに鬱蒼(うっそう)と樹木を繁らせた荒れ庭になっている。竹林の中を抜けている時に淡青色の和服姿の若い女性とすれ違う。お互いに会釈をしながらちらと眼を合わせた時の彼女の表情に、見られたくない姿を見られたときの恥ずかしさがあった。
ここは独りで来るための庭に違いなかった。

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