
表門
北京市
撮影: 古門吉郎
数葉の写真を付けたそのメールはある日、何の前触れもなく僕に送られてきた。
「これが君の生まれた家なんだよ。 覚えているかい?」
写真を見て僕は呆然としてしまう。
まるで誰かが、自分が見たこともない女性を目の前へ連れてきていきなり、
「これが君のお母さんなんだよ。 覚えているかい?」 と言われたような気がしていた。
覚えているかい、といわれても僕には覚えていようがなかった。
北京の天安門広場に近いこの家で僕が生まれた直後に、父は家族を連れて天津へ引越しをしてしまっているからだ。 天津の家なら僕は四歳ごろまで住んだから頼りない記憶のようなものは微(かす)かに残っている。 それにその家で父が撮った写真も数枚残されていた。 ところが北京の家で僕が生まれたということは、厳然とした事実として戸籍謄本にその住所がそっけなく一行載っているだけであった。
昭和xx年九月参拾日中華民国北京市内六区南月牙胡同十四号で出生
それ以外には自分の出生地に関して、すべての記憶も感傷も、興味でさえもがきれいに僕から抜け落ちていた。 六十年以上も。
写真を送ってくれたのは郷里の友人のKである。 周囲の同年輩の友人たちがもうとっくに現職から退いて それぞれ好きなことをやったり、孫たちの世話を見たり、あるいはまったく何もせずに日々を送っている中で、Kはますます元気に仕事でアジア中を飛び回っていた。 そのKがつい最近北京へ行った時に、わざわざ時間をつくって僕の生家を探し当ててくれたのであった。 探して欲しいと彼に頼んだわけでもなければ、自分の生家を見てみたい、というようなことさえ僕は一言も言ったことはなかった。 ただ以前に一度だけ、戸籍謄本に記載された住所を 「これはどの辺かわかるかい?」 と北京に詳しいKに見せたことがあるだけだった。
Kは北京へ発つ前に、あらかじめ北京の駐在員に頼んで僕の戸籍の住所が現存することを確かめている。 そして天安門広場からそれほど遠くないというこの家を探し当ててくれたのだった。 超近代化が進んだ北京の町でまるで忘れられたようにポツンと残された一画だった、とKは書いていた。
僕は、写真の中の表門に貼られた 《14》 の赤地に白の標識が、戸籍謄本の住所の 《十四号》 と一致するのを確かめた時に、どうしようもなく胸が苦しくなってしまった。 長いあいだ、遠い架空の星の中にしか存在しなかった自分の生家が、今、目の前のモニターに現実の映像としてはっきりと映っていた。
僕の父が母と結婚して新居を構えたのはこの家だったのだ。 そして僕が生まれる時に、終戦前のあの混乱の中を日本の祖母が母のためにひとりではるばる海を渡ってやって来たのもこの家だったのだ。
ここが、この廃墟が、自分の原点だったのだ。

庭
撮影: 古門吉郎
Kはメールの中で書いている。
近所で見つけたホテルに入って尋ねてみると、この一画は1950年ごろに一部の建て直しが施工されたそうで、君の生家も当時のままではないかもしれない。 もう長いあいだ人の住んだ跡はなくて、忘れられたようにひっそりとそこにあった。 中に入ることはできなかったので壊れた塀の隙間からかろうじて内部の庭の写真を撮った。
いつか、いっしょに北京に行こうよ。
友達とはありがたいものだ。 つくづくそう思う。

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