過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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新宿駅東口二幸裏 (2/3)

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Parma, Italy


『アカシア』 の客層は、僕らのように金の無い学生から、勤め人、何の職なのかわからない自由業の連中やプロのミュージシャン、とまちまちで年齢層も幅が広かったが、みんなジャズが好きだという点で共通していた。 夜遅く女性がひとりで何の抵抗も感じないで入れるような、そんな店だった。
『アカシア』 に隣接して同名のレストランがあった。 これは婆さんの弟夫婦がやっていて、新宿界隈ではけっこう評判の良い小さなレストランだった。 この二つの店を内部で仕切る壁には四角い穴がひとつ開いていて、バーに座って注文すると僕らの好物だったキャベツロールや豚の生姜焼きやスパゲッティがその穴から出てきて、カウンターで飲みながら食事をすることができた。

僕らは 『アカシア』 に連日連夜入りびたりという訳ではなかった。 酒を飲むために行くというよりも、ここへ来れば知っている顔にほとんどいつでも会えるからだった。 東京という巨大なジャングルの片隅で、それぞれ懸命に生きようとしている孤独な若者たちが、仲間を求めてここにやって来る。 その僕らをニコリともしないで迎えてくれる婆さんは、実はとても心の暖かい人だ、ということを誰もが感じていたと思う。
金をあまり持たない僕らの仲間うちでは、持っている者が払うという暗黙の了解があったが、決して上客とはいえない僕らを、婆さんも高山さんもちっとも気にしていなかったようだ。
「いいのよ、取れる客からちゃんと取ってるんだから」 と婆さんはそっけなく言っていた。
そのころの僕がここで飲むものは、たいていのばあいアブサンのオンザロックかスコッチのお湯割りかに決まっていて、それを時間をかけて啜(すす)りながらうるさ過ぎない音量のジャズが鳴っている中で、僕は仲間と話をしたり、本を読んだり、桜材のカウンターで郷里の父母へ手紙を書いたりした。

夜中を過ぎて閉店の時間になると、婆さんの兄さんという丸坊主でゴッホの自画像にそっくりのおじさんが顔をあらわす。 婆さんもこのおじさんもそれぞれの家族は無く、ふたりだけで同じ家に住んでいたが、それがたまたま僕の戸山町の下宿から近かったので、ふたりのタクシーに僕を乗せてくれて、いつも下宿まで回ってくれた。
ある時郷里の父から連絡が来て、乳癌で長いあいだ入院をしていた僕の母の様態が悪いのですぐに帰って来い、と言ってきた時、僕はすぐに翌日の『出雲』の切符をとった。 そのあと夜遅くなってアカシアに顔を出してしばらく東京に帰らないかもしれないと告げる僕に、すぐに帰省するだけの金があるかどうかを心配してくれて、「お金、必要だったら遠慮しないで言わなくちゃだめよ」 と言ってくれたのも、この「アカシアの婆さん」だった。

後年、仲間がみんなそれぞれの方向に自分の人生を歩き始め、僕自身も結婚をしたり、音楽の仕事でステージやテレビやレコーディング・スタジオでで多忙な毎日を送っていた。 しかし僕だけではなくみんなが、時間を見つけていつも 『アカシア』 に帰って来た。 帰ってくるたびに、婆さんの無愛想な 「あら、いらっしゃい」 を聞き、太った三毛猫の腹を指でつつき、奥のバーで高山さんの前に席を取ると、僕はその日の気分でアブサンかスコッチのどちらかに決めるのだった。

(続く)


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コメント:

* アカシア

september さん、続きです。
あなたがママの家の近くに住んでいたのは、記憶にあります。
あそこは不思議な出会いの場所でした。例えば、加藤登紀子さんと喋ったのは、彼女が日比谷でのシャンソン・コンクールで優勝した直後のことでしたし、伊丹一三の奥さんになる前、宮本信子さんと話す機会があったのもここでした。ここで知り合った舞台俳優の演劇を今でも見に行きます。縁とは不思議なものです。
アカシアの上にあった「ディッグ」や「木馬」ではお喋りすると強圧的に私語を抹殺されました。
2010/11/02 [pescecrudo] URL #j9tLw1Y2 [編集] 

* Re: アカシア

ペッシェクルードさん、
アカシアの階上にあった『ディグ』は今も健在だそうですね。 昨年私の息子が行ったと言っていました。
私にとって『ディグ』はアカシアが夕方に開店するのを待つための場所でした。

私もペさんのようにあそこでは数限りない有名無名の人たちに会ったはずですが、今は記憶から完全にこぼれ落ちています。
今日の記事の写真はバーではなくてパルマの食料品屋ですが、カウンターがなんとなくアカシアを思いださせたので載せました。
2010/11/02 [September30URL #MAyMKToE [編集] 

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