果てのない旅へMartha's Vineyard, Massachusetts USA 愛は永久に続くことはあるかもしれないが、恋には必ず終わりがある。
そして恋が終わったときに、ひとは唄を歌うのだ。 悲恋の唄を。
古今東西の「歌曲」と呼ばれるものはその99.6% が『恋』を主題にしている。
この数字はヤフーの検索の結果でもなければ雑誌 《Psychology Today》 のレポートでもなくて、僕自身のでたらめな推測からきている。 しかしそんなに大きく外れてはいないだろうという自信がある。
ジャズのスタンダード・ソングから日本の演歌、現代のロック・ミュージックからフラメンコ、ロシア民謡からシャンソン、と恋を歌わない唄は聴いた覚えがないような気がする。 あのオペラでさえ「詠唱」と呼ばれる部分はみな恋の唄である。
美味しいパスタを讃える唄だとか、株で失った財産を悲しむ唄などというものは存在するのだろうか?
人間は恋をするようにできているのだろう。
遭ったり別れたり、愛したり憎んだり、憧れたり蔑んだり、怒ったり許したり、その繰りかえしで一つの恋が終わる。 終わったしまうと、われわれはまた新しい恋を探して漂流の旅に出るのだ。 恋という名の、激しくほとばしる滝の向こう側に待っている永遠の静かな愛を求めて。
僕の少ない経験からすると、ひとを棄てるのとひとに棄てられるのとでは、棄てられるほうがずっと、本当にずっとずっと楽である。
棄てられるということは確かに悲しいことには違いない。 悲しいだけではなく、怒りとか、嫉妬とか、自己嫌悪とか、自己憐憫とか、憎しみとか、そんなものがどろどろの大きな塊りになって、その中で自分は今にも溺れそうになって、浮いたり沈んだりする。 傷ついた自分を癒そうとして、酒を飲んだり、スポーツに打ち込んだり、ギャンブルをしたり、旅行をしたりする。 何をしてもますます深い孤独に落ち込んで行くだけなのに。
そしてそんな事をしているうちにいつかその傷は癒えてしまう。 いつもそうだ。 それが長いか短いかの違いはあっても、まちがいなく「時」が解決してくれる。
それにくらべると 「人を棄てる」 ということはそんな生易しいものではない。 ひとを傷つけるという事は、自分が傷つくよりはるかに残酷なことだから。 これがお互いに憎み合って別れたのなら、どんなに救いがあるだろう。
行かないで、と取りすがる女性の両手の指を一本一本と無理やりに引き剥がすようにして、無残に去って行った経験が僕にはあるが、その事を今でもよく思い出す。 思い出すたびに僕は何とも言えない哀しみに襲われて、その時の彼女の心情を思うと、いつも涙が出そうになるのだった。
これは 「時」 が解決してくれることではない。 僕はこの哀しみを死ぬまで引きずって行くことになるのだろう。
In a manner of speaking - Nouvelle Vague
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