過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

Profile

September30

Author:September30

Visitors Counter

Search form

ジャポニスム

T141206-05-blog.jpg

英語版 猿蟹合戦


我が家に存在する書籍の中で、他のどの本よりも大事に保管されているのは、この 《猿蟹合戦》 だった。
手に入れたのはもう20年以上前になるだろうか。 僕らの家族がボストンからデイトンへ移って来てしばらくの頃、近所にあったガラクタ屋で妻が買ったものだ。家に持ち帰った妻が 「これってかなり古いものじゃないのかなあ」 と見せてくれた。文庫本サイズでわずか15ページほどのこの小冊子を手にとって見ると、まるで布のように柔らかな和紙が袋綴じにされて、木版多色刷りの絵がページごとに載っている。日本語が読めなくて猿蟹合戦の話も知らない妻は、ただその美しい木版画に魅了されて、5ドルの値段が付けられていたこの本を3ドルに値切って自分のものにしたのである。

奥附を見て驚いた。
印刷、発行が明治18年とされていた。1885年だ。
この奥付の記載をもとにして僕は後日いろいろなことを学ぶことになるのだが、アメリカの田舎の町の、骨董店でも古書店でもない小さなジャンクショップの片隅にひっそりと眠っていたこの日本の本を、100年以上経ってアメリカ人の妻が偶然に掘り出して、日本人である僕の所へ巡り巡って帰ってきたことに不思議な因縁のようなものを感じてしまった。



T141206-04-blog.jpg


発行者の長谷川武次郎は調べてみると明治時代の出版人で、《長谷川弘文社》 の創始者だった。
2世紀にわたる鎖国の後に一挙に西洋文化に触れた日本は 「文明開化」 を合言葉に外国文化の摂取に目が回るように忙しかったが、それと同時に日本に滞在した欧米人によって浮世絵や工芸品が高く評価されて海外へと流出した。 いわゆるジャポニスムの誕生である。そんな流れの中でこの翻訳版の日本昔噺集が世に出てきたのは、出版者の長谷川武次郎としては当然の企画であったに違いない。英語を話した彼には外国から来ていた宣教師達との交友があり、彼自身クリスチャンとして洗礼を受けていたが、その中の一人がこの 《猿蟹合戦》 を英訳したアメリカ人、ディビッド・タムソンだった。 後年、ラフカディオ・ハーン (小泉八雲) も翻訳者としてこのシリーズに名を連ねている。



T141206-02-blog.jpg


僕が所有するこの本はいわゆる 「ちりめん本」 と呼ばれる手の掛かる製紙過程で作られ、しなしなとした独特の感触と紙とは思えない強度を持っている。寛政時代に浮世絵などに用いられたこの 「ちりめん」 加工の技法を長谷川武次郎は明治18年に日本昔噺シリーズで我が国初めて製本に使用した。挿絵は日本画家の小林永濯や鈴木華邨を採用し、木版の印刷にも高度な技術を持つ名人級の職人を使用したというが、本の中のどこにも画家の名が見えないのはフェアーじゃない、という気がする。 シリーズの挿絵はほとんどが小林永濯によるものでこの 《猿蟹合戦》 も永濯の絵だと後日わかった。

《翻訳版 日本昔噺》 のシリーズは次々と25冊までが発行されて、英語版、フランス語版、ドイツ語版、オランダ語版、そして大正時代に入るとスペイン語版、ポルトガル語版、ロシア語版、デンマーク語版が加わって、世界中に配布された。シリーズの物語は、桃太郎、かちかち山、花咲爺、分福茶釜、舌切雀、浦島太郎、瘤取り爺さん、因幡の白兎、など日本人なら誰でも知っている民話やお伽話がほとんど網羅されており、シリーズの後期には小泉八雲の 《猫を描いた少年》 やアイヌ民話の 《アイヌ昔噺》 なども加えられている。そして普通の和紙とちりめん本の両方のバージョンがあって、売れ行きのかんばしくなかった和紙本にちりめん本を加えた途端に売れ行きがいきなり伸びたという。



T141206-06-blog.jpg


長谷川武次郎の弘文社はどうなったのか? 弘文社の名では現在幾つかの出版社があるようで、そのなかで古書の 「えちご弘文堂」 が明治大正の長谷川弘文社と関係があるのかどうか、僕にはわからない。ここのサイトを見ると日本昔噺のシリーズは古書として購入できるようだ。 たとえばちりめん本の20巻セットが85,4000円、個々の本はそのタイトルや保存状態によって3,8000円から13,0000円の値が付けられていた。そして同じタイトルでも英語版よりフランス語版やスペイン語版の方に高い値段が付いているのは、それだけ希少な本ということになるのだろうか。
それ以外の言語への翻訳版がこのサイトには見当たらないところを見ると、さらに希少価値があるのはまちがいないようだ。

この本を手に入れたあと、ヨーロッパに出かける度に機会があれば古本屋を覗いてみるという習慣がついて、特にフランスの美術史上ではジャポニスムの影響がいかに強いものであったかを実感することになる。
しかし、《日本昔噺》 に巡り合うことはなかった。

今から130年前に印刷されたこの 《猿蟹合戦》 は、いったいどんな人達の手から手へと渡り続けて来たのだろうと想像するのは楽しいことだった。




ブログランキング にほんブログ村 写真ブログ 一眼レフカメラへ
スポンサーサイト

コメント:

*

こういう巡り合わせもあるのですね。おもわず「へ〜〜」っと声が漏れました。和紙は漉いたものは100年なんて全く問題にしないとは、埼玉の秩父地方にある紙漉の施設で聞いたことがありますが、版画という印刷技術も凄いものがありますね。まさにお宝ですが、それをいろいろ遡って調べることができるのもすごいものです。
2014/12/10 [川越URL #uvrEXygI [編集] 

* book

september さん、こんにちは。
本好きの私には、大変勉強になりました。目下、在籍したことのある
ある出版社の100年史の刊行作業を頼まれてその一員としてやって
いますが、それよりも30年も前のこと、元より興味深いこととて、
ブログに大変感謝しております。
2014/12/10 [pescecrudoURL #- 

* Re: No title

川越さん、

紙も木と同じで燃えさえしなければ半永久的に存在するものなのですね。
とくに「ちりめん本」はその特殊な製造過程のために
指で触ると普通の紙に比てずっと厚くて強度があるので
破れにくく耐久度は普通の和紙よりもはるかに高いように私は感じますが
とくにそのことを記載した資料は見つからず
どれも一様にその感触の良さだけを述べています。

そうそう
こんな古いことを調べるのに
昔なら弁当持ちで図書館へ通ったのでしょうが
今は居ながらして簡単に知識が手に入るのはまるで夢のようです。
2014/12/10 [September30] URL #MAyMKToE [編集] 

* Re: book

ペさん、こんにちは。

昔在籍された出版社とはたぶんあのH社だと思いますが
そうですか
大正の初めに創立されたのですね。

ところでこの『日本昔噺』ですがあれほど多数の多国語に翻訳されながら
なぜかイタリア語版が無い!
私が見た文献の記載漏れかも知れないと他の資料も漁ってみたのですが
やはりイタリア語版という語は見ませんでした。
なぜなのか大いに興味があるのですが
ペさんには何か思い当たることがあればぜひ教えて下さい。
2014/12/10 [September30] URL #MAyMKToE [編集] 

* 数奇な運命

出版史や装幀、素材が好きな私としては(以前は司書兼学芸員)明治の出版物が懐かしくて、しみじみ見てしまいました。和紙に感想は大敵なので、輸出された日本の本はかさかさになって傷んでしまいがちです。適度に湿度のある場所で保管なさってくださいませ。
いちばん下の穴の綴じ糸がはずれているように見えますが大丈夫ですか?綴じ方が和綴じとは違うようですが、糸も当時のままなのでしょうか。糸の質感は新しそうにみえます。どなたかが新しく綴りなおしてくださったのでしょうか。典型的な和綴じでは、本は左開きで、表紙に向かって右側に4つの穴があけられているはずです。本書の装幀は洋書式なんですね。当時の日本人の適応力の高さや発想の柔軟さに驚きます。

そうそう、ホストファミリー(といってもお一人暮らしです)の方がデンバー空港まで迎えにきてくださることになりました(涙)
1月に来るんだったら丁度セールの時期だから、防寒具やあったかいセーターは日本で買うよりこっちで買った方が安いわよ!連れて行ってあげるからすぐに買い物にゆきましょうねと言っていただき、感謝感謝です。
2014/12/11 [nicoURL #- 

* 誤変換が…

「和紙に感想は大敵」って意味がわからないですね。
「乾燥」です…すみません。
2014/12/11 [nicoURL #- 

* Re: 数奇な運命

nico さん、

和紙に乾燥は大敵でしょうが私の皮膚病も和紙に負けないほど乾いた空気を憎みます。
最近購入して部屋に置いている加湿器の具合がとても良くて
私の肌は発疹や痒みもとれて15の乙女の肌のようにすべすべになりました。
ああ、こんなのならずっと前に加湿器を入れればよかった
高価なものでもなんでもないのに、なぜそれを考えなかったのか
自分のうかつな性格にいまさら嫌気がさしました。
猿蟹合戦もこの同じ部屋に置いてやりましょう。

おっしゃるように上下の4つ穴のうち、下の方は1穴だけ本の中頃で糸が外れています。
それでもバラバラになることはなくしっかりととまっているので
下手にいじらないでそのままにしているのですよ。
綴じ糸はオリジナルのままだと思います。
古書のウェブサイトで見る写真とまったく同じ糸のように見えます。


私はその昔ボストンへ到着したのが9月で
初めての冬を迎えた時はびっくり仰天でした。
日本から持っていった冬のオーバーなどまったく何の役にも立たず
フード付きの分厚いコートとブーツをすぐに買いました。
セーターを2枚着た上にコートを着けるとまるでエスキモーのようにぶくぶくと太って
恰好はあまり良くないのですが
東京と違ってそんなことを気にする人は誰もいませんでした。

ところで妙なことがちょっと気に掛かっているのですが
今飼っている猫はどうするの?
2014/12/11 [September30] URL #MAyMKToE [編集] 

* Re: 誤変換が…

nico さん、

上の返信を書いている最中にこの訂正が送られてきたようですが
意味はもちろんちゃんと通じていたし
変換間違いは誰にでもあること。
お互いに気にしないことにしましょう。
2014/12/11 [September30] URL #MAyMKToE [編集] 

* 猫の心配

あら。説明が足りずにすみません。私だけが渡米します。
夫は仕事がありますのでこのまま兵庫に住み続け、猫と一緒に私の帰国を待つはめになっております(笑)
私がゆくのは専門学校で、約2ヶ月のPhase1を修了し試験と面接にパスし、三ヶ月以上の間をあけて課題をしっかりやって初めてPhase2に進めます。Phase2を修了し試験と面接にパスし(以下同文)その後Phase3に進む事ができて、Phase3を修了し、知識と技術および倫理教育がしっかり定着していると認められたらやっと資格を得られる仕組みになっております。
だから私は今後1年半の間はアメリカと日本をいったりきたりになります。
お手すきのときにでも、Rolfing Instituteで検索なさってみてください。
猫を手放すなんてまずありえませんのでご安心ください。猫を手放すぐらいなら猫を連れて逃亡します(笑)
2014/12/12 [nicoURL #- 

* Re: 猫の心配

nico さん、

あっそうか、単身の渡米なんですね。
てっきりお二人一緒だと思った理由は
ずっと前のコメントのどこかでnicoさんが
ご主人がTOEFLの準備で忙しい、というようなことを書かれていたからです。

instituteのサイトを見て納得しました。
行ったり来たりの1年半は私にはむしろ理想的に思えます。
なにしろ20年以上行きっぱなしになってしまった男がここにいますから。(笑)
2014/12/12 [September30] URL #MAyMKToE [編集] 

コメントの投稿

:
:
:
:
:

:
: ブログ管理者以外には非公開コメント

トラックバック:

>>>> http://blog1942.blog132.fc2.com/tb.php/793-ece20241
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)