過ぎたこと、過ぎて行くこと  by September30

アメリカに長く暮らしながら日本やヨーロッパを周る著者が、写真と文章と音楽で綴る随筆のようなもの

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娘への手紙

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ふり返るマヤ
Charles de Gaulle Airport, Paris


マヤへ

今年のクリスマスにまた、1年ぶりにマヤが帰ってきてくれて父さんも母さんもとても嬉しい。 遠く離れた町でここ数年のあいだ、おまえにいろいろと起こったことも知っている。 いつも何も言わないおまえのことだから、私たちが知っていると思っているのは、実際におまえに起こったことのほんの何分の一にも過ぎないのだろうが、親である私たちはいつも胸を痛めていた。 とくに母さんは、おまえのことを心配のあまり時には眠れない夜を過ごしているのを、私は知っている。
今回の帰省でも父さんが飛行機の切符を買ってやるというのにおまえはそれを拒否して、バスで十時間かけて帰ってきた。 経済的に苦しいおまえに、母さんが私に内緒で月々何がしかの金を送っているのも知っている。 今度の帰省でも、お土産とかクリスマスのプレゼントなど心配するなと言ってあったのに、おまえは極上のウォッカの大瓶を父さんのために抱えてきてくれた。 混ぜて飲むにはもったいないほど美味しいそのウォッカを、父さんはストレートですすりながら、今この手紙を書いている。

幼い頃からおまえはほかの子供たちとは違っていた。 無口でひと見知りが強く、人前ではいつも母親の後ろに隠れていたね。そのくせ、頑固なうえに妙に図太い神経を持っていて、いつも何かをじっと考えているような子供だった。 子供のことだから当然何かにつけて無理を言ったり泣いたりしたのだろうと思うが、どういうわけか父さんにはそんな記憶がほとんど無い。 第一、おまえはものを欲しがるということをしない子だった。 クリスマスにサンタにあげる 「欲しいものリスト」 は弟のほうがページいっぱいに書かれた長いリストをくれるのに、おまえのリストはいつも寂しいほど短かった。 「鳩時計」 だとか 「鈴のついた鉛筆」 だとか 「鍵のかかる日記帳」 だとか・・・  「鳩時計」 は父さんが町中を走り回って探したけど適当なのが見つからなかった。 現在のようにインターネットが普及するずっと前のことだからね。 それでもがっかりした顔を見せずにケロッとしていたのがマヤだった。

十代になってまわりの早熟な女の子たちが流行の服飾に凝ったり、男の子とデートをしたり、華やかなチアーリーダーになったりするのを、おまえはいつも横目で見ながらひとりで本を読んだりピアノを弾いたりしていた。 エキゾチックな雰囲気をもつ美しいおまえに、いつも同年の男の子たちが寄ってきたけれど、誰ひとりマヤの心を掴むことができず、みな尻尾を巻いて引き下がっていったね。
高校の卒業演奏会でバッハのピアノ・コンチェルトを父さんと二人で毎日毎日練習したのはこの頃のことだった。

ピッツバーグの大学のフランス語科に入ったあと、ずばぬけて良くできたフランス語の才能を教授に認められてパリの大学への留学を薦められ、ソルボンヌに編入が決まった時のおまえほど幸せそうな顔を見たことはなかった。 覚えているかい? パリでのおまえは水に放たれた魚のように生き生きとしていた。 あの時、私たちはパリまででかけて行って家族4人でフランスからスイス、イタリア、スペインと3週間をかけて回った旅行は、父さんや母さんの一生の中で最高の思い出になっている。

パリから帰ってきたおまえを待っていたのは、あの J との出会いだった。 それまで長いあいだ男性には何の興味を持たなかったおまえにとって、おそらく初めての恋だったのだろう。 それもおまえらしい、激しい一途な恋だったようだ。 おまえの住む町を時々親の私たちが訪れるとき、J といっしょにいる時のおまえは、あの大きな黒い瞳を恐ろしいほどキラキラと輝やかせて、親の私たちが見とれてしまうほど美しい、恋する女になっていた。
それから何が起こったのか、何も話してくれない私たちにはついに分からなかったが、分かっていたのは J がおまえを離れて、遠いアフリカへ仕事で行ってしまったということだけだった。 もともと壊れやすく脆(もろ)い神経の持ち主ではなかったおまえの事だから、この傷の痛みもおまえなりにしっかりと受けとめて、ひとりでじっと耐えていたに違いない。 父さんや母さんが感じていたのは、そんな娘に親として何もしてやれないという強い無力感だった。

その頃おまえはとても良い仕事についていて、オーナーである女性に気に入られたおまえは短期間にどんどんと責任の重い役職へと上がっていった。良い給料をもらっていただけではなく、会社の車を与えられたり、毎月の学生ローンの返済も会社で払ってくれるなど、友人たちが羨むような条件で働いていた。 それがいきなりおまえがその仕事を辞めてしまったとき、私たちは何が起こったのか推測することすらできなかった。
数ヵ月後にその会社のオーナーの P さんが直接父さんへ電話をしてきた。 何が起こったのかは彼女も詳しくは話してはくれなかったが、マヤが会社を去ったのはすべて P さんに責任があるというようなことを言っていた。 マヤに謝罪したい、そしてどうしてももう一度仕事に帰ってきて欲しい、何度もマヤに連絡を取ろうとしてもマヤは返事もしてくれない。 それで父親の私から P さんの気持ちをおまえに伝えてもらえないか、そんな内容の会話だった。 父さんも母さんも当然ながら、おまえにぜひもとの仕事に帰って欲しいのが正直な気持ちだった。

そのことをおまえに伝えたのにもかかわらず P さんにはついに一度も連絡を取らなかったようだね。 しばらくして P さんはもう一度私に電話をかけてきて、前と同じことを頼んできた。 そしておまえがその時、とりあえずの生活のためにウエイトレスをしていたレストランの名を、無理やり父さんから聞きだすと (私も彼女の誠意に打たれたのだ) P さんはそこまで出かけていっておまえに会っている。 二人のあいだにどんな会話があったのかは知らないが、おまえはついに P さんの会社へ戻ることはなく、それ以後は P さんからの私へ電話がくることもなかった。
あそこまで誠意を見せてくれた P さんを受け入れなかったおまえの頑固さと誇りの高さを、父さんも母さんも失望するより以上に尊重するということだけは知っておいて欲しい。

それからおまえには K という新しい男友達ができて、二人でアパートをシェアしていた。 おまえの言葉の端々から察しても、以前の J の時とはまったく違った、もっとずっと軽い関係だったようだ。 その関係ももうすぐ終わりになるだろう、とおまえがそれとなく母さんに洩らしていた矢先に、その K があの自動車の轢き逃げの事故に会って、片脚を打ち砕くという大怪我をしてしまった。 おまえはそれから1年以上も、身動きもできなかった K の面倒を見て、係累のない彼の生活をを経済的にもすべてひとりで背負い、仕事を同時に2つも続けていた。 父さんからの援助を頑 (かた) くなに断ったのは、マヤ自身の生活ならともかく、両親とは関係のない男友達のために、それほど豊かでもない私たちの財力に頼ることはできない、というおまえの信条のようなものだったと思う。 それでも母親からのわずかな送金や、衣料品や食料品などは受け入れてくれたようだ。
あの1年どんなに苦しい毎日を送っていただろうと思うとき、父さんも母さんも胸が痛む。 おまえのあの時の自分を捨てた献身は、男への情愛 (もう終わりかかっていた) というような私的なことではなかったと思う。 もっと深い、人間としての責任感のようなもの、博愛というか人類への愛というか、聖書でいう compassion (深い同情) のようなものだったのじゃないだろうか? 
Kが車椅子を使ってようやくひとりで動けるようになって、遠い町の施設に移されるまでおまえの献身は続いた。
誰にでもできることではない。 きっと父さんにだってできなかったと思う。 逃げ出さずに苦難をしっかりと受けとめて生きたおまえを、父さんは心から誇りに思う。

1年ぶりで古巣に帰ってきたおまえを見て、「あの子は幸せじゃないのね」 と母さんが哀しそうに私に漏らした。 それで父さんはこの手紙を書く気になったんだ。
いろいろな事がありながらも、マヤには樹のようにたくましく天に向かって伸びて欲しい。 たとえ曲がりくねったり、瘤々(こぶこぶ) だらけの樹であってもね。

父さんが今書いているのは送り出されることのない手紙だし、おまえが目にすることもない手紙だろうけど、こんな事やいろいろな事を、いつか静かにふたりで話せる日が来ると信じている。 もう若くない父さんだから、遅くなり過ぎないうちにね。
今、壁を隔てたとなりの部屋の昔ながらの自分のベッドで、昔のように眠っているマヤ。 わずか十日間だけど、何もかも忘れてぐっすりと眠るんだよ。子供のように。

寒いと思って窓から外を見ると、いつのまにか雪が降っている。
もう夜中の3時だから、父さんもそろそろ寝るとしよう。

おやすみ、マヤ。

12月28日 深夜
父より

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コメント:

*

September30 さんが父親として少し引いたところから深い愛情を持って
お嬢さまを見つめていらっしゃるのが伝わってきます。
ヴェネツィアのマヤさんの写真を見て私の記憶の中にあるお母さまを思い出すのですが、
ずーっと以前、お母さまもやはりSeptember30 さんを同じように心配し、
そして出されなかったお手紙がどこかにあるのではないかという気がします。 

今年も宜しくお願いします
2011/01/04 [のほほん] URL #- 

*

私の父も同じなのだろうか、、とふっと新年にそう思いました。でもごくたまに電話をすれば照れくさくそそくさと天気と温度と時間(何度いっても時差を覚えてはくれません)を聞いてきては”かわりあらへんでこっちは”と電話を切る父親ももう72歳になったのだと切なく感じています。家族を思い出させて下さってありがとうございます。septemberさんにとってよい年で、まやさんにも幸多かれと祈ります。
2011/01/04 [kaori] URL #- 

* Re: No title

のほほんさん、ありがとう。
実は母が亡くなる少し前に私の二十歳の成人の日(1月15日)に病床で寝ながら書いた鉛筆書きの手紙を東京で受け取ったのを思い出しました。
私が北京で生まれたときのこと。難産で母子とも危なかったあとに無事出産したとき、母は嬉しさのあまり歌を口ずさんだそうです。
その手紙もどこかにいってしまって、手元にもう無いのが残念です。
2011/01/04 [September30URL #MAyMKToE [編集] 

* Re: No title

Kaori さん、私も自分の子供とは何となく照れくさいのですよ。とくに娘とは。
メールならいいけど、電話がいちばん苦手です。面と向かって会うときはそれほどでもないのですが。
ですからマヤともふだんはほとんど話をしません。全部母親まかせです。
そういえばkaoriさんはお母さんをもう失くされたのですね。
今年はさらに良い年であることを祈っています。
がんばってください。
2011/01/04 [September30URL #MAyMKToE [編集] 

* 父の手紙

Septemberさん、あけましておめでとうございます。
マヤさんのお話、母親からの直截的な愛とは違う、父親からの愛情を感じて胸が熱くなりました。
そういえば、年末に、無くしてしまったと思っていた父の書いた文章、私が生まれたときの情景・・・あまりに嬉しくて世界中に父親になった事を知らせるように庭の物干し竿の一番高い所に、真っ白なオムツを誇らしげに干した・・・見つけました。
もう、父はいないですが大切にとっておこうと思います。
今年もよろしくお願いします。
2011/01/05 [みん] URL #6moyDOY6 [編集] 

* Re: 父の手紙

みんさん、明けましておめでとう。今年もよろしくお願いします。

お父上はみんさんの誕生がよっぽど嬉しかったのでしょうね。それにしても子供のように無邪気な気分のお父上の優しさがこの話によく表れています。
これは手紙ではないとすると、日記とか随筆とかなのでしょうね。
2011/01/05 [September30URL #MAyMKToE [編集] 

* 父の戯れ文

父は文章を書くのが好きで、よく戯れ文と称して、社報やら、仲間内の会報などに文章を載せておりました。
ひょっとして、私はSeptemberさんに父を重ねているのかもしれません。でもちがうのは、Septemberさんの異国の薫りや、切ない情景を切り取った映画のワンシーンのような文章と違って、理系の父は、もっとふざけた戯れ文ですが。
2011/01/06 [みん] URL #6moyDOY6 [編集] 

* Re: 父の戯れ文

みんさんのコメントを読んでいて思うのは、私の娘は私がもういなくなってしまったときに、父親のことをどんなふうに思い出すのだろうか、ということです。
子供にとって、とくに私がまだ若くて子供たちが小さかったころは、私は子供たちにいつまでも残る良い思い出を作ってやれる父親ではなかったと思うのです。
それを今でも後悔しています。

これからはその罪ほろぼしです。
2011/01/06 [September30URL #MAyMKToE [編集] 

* 利休外伝

もう父がいなくなって10年以上経ちますが、きっと今生きていてSeptemberさんのブログを見せたら、俺もブログをやるぞときっと言うでしょう(笑)。茶の湯の勝手な解釈やら、面白い文章が沢山残っています。
Septemberさんも、ここで書き綴った事がいつかマヤさんや太郎さんに届きますね。
この素敵なブログが永遠に続くことを祈っています。
2011/01/07 [みん] URL #6moyDOY6 [編集] 

* Re: 利休外伝

みんさん、家族の写真などを残すのはよくあっても、文章にされたものを残すというのはあまりないのではないのでしょうか。
気持ちを直接伝えるのは写真は文章に敵いません。
お父上は貴重な遺産をみんさんに残されたのですね。
2011/01/07 [September30URL #MAyMKToE [編集] 

* 父の言葉

Septemberさん、ありがとうございます。
このすばらしいブログの日本語のニュアンスがマヤさんや太郎さんに伝わるといいですね。
お二人は日本語はいかがなのでしょうか?
いますぐに英語にしてしまうより、ゆっくりゆっくり浸透していくほうがいいのでしょうか?
含蓄のある父の言葉として。
2011/01/08 [みん] URL #6moyDOY6 [編集] 

* Re: 父の言葉

みんさん、娘は日本語はまったくだめです。息子のほうはしゃべるほうはカタコトのレベルですが、人の話はけっこう理解しているようですね。
日本語のニュアンスは英語では絶対に伝わらないと思います。どんな完璧な翻訳を通しても。
2011/01/08 [September30URL #MAyMKToE [編集] 

* 作品

Septemberさん、こんなに豊かな世界をお子さん達に残してあげられないのはもったいないです。
わたしも、父が生きているときに聞いたような話でも、こうやって亡くなってから暫くして文章で読むと、また格別の感慨がありますから。でも、Septemberさんには文章と、もうひとつの表現『写真』という作品がありましたね。写真には言葉の壁なんて存在しないですから。
写真と文章と音楽と三つそろって味わえる私達はなんと贅沢なのでしょう。ここでお知り合いになれたのも、ネットの発達した今だからこそですね。感謝。
2011/01/08 [みん] URL #6moyDOY6 [編集] 

* Re: 作品

みんさん、いつか英語のバージョンを書いてみる気になるかもしれないと思うのですが、いまのところは疑問です。
私にとってもネットをとおしていろいろなひとと会えたことは、かけがえのない幸運だったと感謝しています。
2011/01/09 [September30URL #MAyMKToE [編集] 

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